不登校の原因



 不登校の原因論については、もう決着がついていると私は思っています。言ったところで反発こそあれ、あまり有益なことはないので敢えて口にしないだけで、原因が人間関係不全であることは大体確定しています。

 直接のきっかけがいじめだったり教師の対応だったり長期の入院だったり、様々なケースと場合がありますが、それは引き金を引いただけの話で、弾は別のところで込められています。人間関係不全という重い銃弾が込められていて、その上で引き金が引かれれば、不登校という結果が生じる、そういうことです。

 人間関係の基礎は、カウンセラーの富田富士也が言うとおり「主張し合い、せめぎあい、引き合って、お互い様」というものです。そういうやりとり(あるいはやりくり)について、ある程度の技能がないと生きていくのはつらくなります。

 また、人間というものは大人になればなるほど多様な自己を持つことになります。
 企業人としての自分、地域住民としての自分、家庭人としての自分。テニス仲間の一員としての自分、飲み屋の常連客としての自分。夫としての自分、父親としての自分、そして息子としての自分。それらすべてについてうまく行っている部分もあればそうでもない部分もあり、しかし全体としてなんとかやりおうせている、それが大事です。ある特定の自己がうまく行かない時、別の自己に軸足を移してそこを中心に生きる。あるいはその特定の自己を捨てて、新たによって立つべき別の自己を打ち立てる。そういった複線の生き方がないと、人生はやはり重苦しくなるのです。
 例えば、仕事がうまく行かないときは家庭で安らぐとか、飲み屋の常連としてうまく行かなければ別の店に入り浸ってみるとか、そういったことです。子どもについて言えば、勉強がうまくいかなければ部活で頑張る、こっちの仲間とケンカしたらあっちの仲間としばらく遊んでみる、そういったことです。

 不登校の児童生徒を見ていると、このふたつのいずれか、あるいは両方に問題を抱えているように見受けられます。

 ある不登校の子の内面は、とてもわがままで身勝手です。彼は「引き合って、お互い様」というところがうまく行きません。All or nothingで、すべてが通らなければ何も通らないのと同じです。重大なひとつを通すためにふたつを我慢するといった技能も持っていません。甘えたり、ちょっと脅してみたり、また引いてみたりといった手練手管とはまったく無縁で、ただ主張するか、何も主張しないかふたつに一つの道しかないのです。
 
 別のある子は、そもそも「主張しあって」というところで躓きます。その中には自分の欲望のありかがよく分からない子がいます。失って初めて、それが欲しかったことがわかる、というような迂闊なところもあったりします。そもそも人と争ってまで何かを手に入れようという気持ちがありません。こういう子は、放っておくと何もかも失ってしまいます。

 また別のある子は、生きる道が永遠の単線です。その線がうまく行かなければ隣の線路に乗り換えるなどといった器用なことはできません。
 例えばひとりの子は、人生のすべてを部活に投げ込んでいます。それ自体はよいことなのですが、他に予備の人生がないと部活の限界が人生の限界と重なります。
 また別のある子は「勉強のできるよい子の自分」という単線にずっと乗り放しで今日まで来ています。ダメな自分、だらしない自分、根性なしの自分、そういった別の生き方は彼女にはありません。したがって「勉強のできるよい子の自分」の限界は、人生の限界そのものです。彼女はよい子以外の自分として、他人とどう付き合っていったらいいのか分かりません。ダメな自分を喜んで迎えてくれる世界があるなど、まったく信じていないのです。

 十数年前、当時の文部省は「登校拒否は病気じゃない」という世論に押されて「不登校は誰にも起こりうること」と、認めてしまいました。その日から表向きの不登校の研究は大いに停滞してしまいます。

 不登校は誰にでも起こりうる、したがって個人の性格・成育環境などを検討しても意味がない。誰にでも起こることなのだから、すべての児童生徒に共通なもの、つまり学校や教師、社会的な風潮や制度のあり方について研究すべきだというのが、全体の流れになります。不登校が個人の問題に還元されず、長く学校の責任として語られてきた背景にはこうした事情があったのです。
 
 ただし実際の研究の場では、あいかわらず個人に寄せた研究がいくつも行われていました。学校という非常に保守的な組織、したがってシステムとしては極めて変化に乏しい世界で不登校の増加という変化あり続けるとしたら、それは個人に問題があるのではないか、世の中には不登校になりやすい子となりにくい子がいるのではないか・・・・・・現場教師、教育センター研究員、児童相談所相談員、学校カウンセラーのそうした立場の人々の研究の中から、人間関係不全という見方は生まれてきました。
 
 では、その人間関係不全はどこから生まれてくるのか、それが第二のテーマとなります。