危うい子どもたちは
どのようにして生まれるのか
これには様々な要素があります。しかし一口に言えば文明化と少子化が原因です。
文明社会というのは、苦しいこと辛いことを本人に代わって機械やシステムが行ってくれる世界です。したがって文明人は必然的に依存的・幼児的になっていきます。つらいこと、苦しいことは回避したがりますし、実際に回避する可能性が非常に高くなっているのです。
「苦しいことは我慢しなくていい!」これが文明人のスローガンですし、そのスローガン通りの社会が目の前にあるのですから、文明社会の中で「我慢を教えろ」「精神を鍛えよ」といっても難しい面が出てきます。
子どもは何の苦労もなく、大昔のお坊ちゃんお嬢ちゃんのように育ってくる、そうした認識の上に立たない子育て論は、すべて無意味です。
少子化は地域から子ども社会を奪いました。大都会のベッドタウンで「公園デビュー」に一喜一憂していられる世界はむしろ幸せで、普通の町や村では公園に出かけて行っても子どもはほとんど遊んでいません。日曜日の公園で親子が仲睦まじく遊んでいる姿は微笑ましいものですが、子どもが子どもと遊んでいないという視点から見ると、これは寒々とした光景ともいえます。
昔の子どもは地域子ども社会の中で、大人から自由に放たれ、互いに傷つけ傷つけられながら育ってきました。子どもというものは口さがなく残酷で、時にはひどく乱暴なものです。そしてしばしば容赦のないものですが、しかし傷つけることにも限界があり、傷つき方にも限界があります。
具体的に言えば8歳以下の子どもが友だちを傷つけても、大人が行う虐待のように心の深層に深い傷を残すようなことはありません。また傷つけられる方にしても一つひとつが深い傷にならず、表層はあっけらかんとかわすことができます。子どもを育てた経験のある人なら、小学校の低学年くらいまで、叱られて大泣きした子どもでもわずか5分後にケロケロと笑っていられることに記憶があるはずです。叱られたことが後を引かず、恨みや不貞腐れに繋がらないこの時期までが、本当の人間関係の学び時なのです。
子どもは子ども同士の中で人間関係を学ぶべきです。それはディープ・パープル・洋子が言っている(『ディープ・ワンダー』)ように、「ジャンケンポン、カワリバンコにジュンバンコ」というところからスタートします。どんなことをすれば相手は怒るのか、どんな言い方が相手を喜ばせるのか。どうすれば快く玩具を貸してもらえるか、どんな振る舞いをすれば人の援助を引き出せるのか・・・そうしたことは、すべてこの時期に基礎を学んでおくことです。
もちろん叩かれたり蹴られたり、時には思いもよらぬ反撃にあってびっくりしたりと、様々な不合理や不条理に出会いますが、それも重要な学習です。そしてそれらを通して、剥きたてのゆで卵のように柔らかな子どもの心に薄い傷をつけ、次第に心の表面を堅くしていくのです。
私はこのことを「心にヤスリをかける」と言っています。