「つ」のつく間は叩いて教えろ



六三制、修養に必要な期間と予算との兼ね合いから9年という義務教育期間が決められた、そう説明していただければそれで納得する。けれどその9年を分かつのになぜ「6」と「3」なのだろう?
「5と4」あるいは「4と5」だって良かったはずだ。それをなぜこんな偏頗な形にしたのか。
明確な答えは誰からも得られない。

キースあたりは「13歳からはティーン・エイジャー(英語でteenがつく13歳以上の子どもたち)だから別の学校にしておけってことじゃないの?」などと言っているが、案外これが答えなのかもしれない。
けれどもう一歩深読みすれば、それなりの合理的な考え方もできるのだ。
フランスの心理学者ピアジェが唱えた「認知発達理論」である。

ピアジェは「子どもは11〜14歳に至って、初めて形式的・抽象的な思考ができるようになる」ことを発見した(これを形式的操作期という)。
つまり平均的な子は13歳にならないと抽象的な学習(算数ではなく数学、図画工作ではなく美術)を学ぶことができない。だから13歳からは別の学校、ということになる。

ところでこれを躾の問題として考えるとどうなるか。
それは、
「11歳未満の子たちに理屈で教えても何も身につかない」
ということである。
子どもは何でもできる。よく言い聞かせ、理解させればいいことと悪いことぐらい自然に身につくものだという言い方がある。しかしそんなことはないのだ。


諺に言う。
『つ』のつくうちは叩いて教えろ。
これは年齢を数えるのに「ひとつ」「ふたつ」・・・と「つ」のつくうちは、いちいち御託を並べず「オシリ、ペン」でかまわない、そうでないと身につかないという意味である。
決して暴力を肯定しているわけではない。

話し合ったり、
自分で考えさせたり、
自由にやらせて失敗から学ばせたり・・・
そうしたことはみんな無駄であり、つけるべき力も一切身につかない。
ただ時間が空回りし、子どもは無駄に時を過ごす。
そういう意味なのである。


丁寧に教え、
やって見せ、
できたら誉め、
できなかったらたしなめ、
それでもできなかったら叱り、
どうしてもダメなら「オシリ、ペン」
そういうことである。