良いものだけを見させる



道徳の授業が批判されている。
偉人や立派な人の話なんか聞いてどうなるのか。
実際の世の中、そんな奇麗事では通らない。
のだそうである。

またある人は、
大学生になって急にお酒なんか飲むから無茶な飲み方をして死んだりする。
そういう危険に遭わせないためにも、ウチでは今から少しづつお酒を飲む練習もさせている。
という。

別な人はまた、
確かに法律ではそうなっているが、結局人間は自己責任で生きていくしかない。
高校生のお兄ちゃんは家でタバコを吸うことも多いが、自分の責任で吸っているのだからそれもしかたない。外で吸うのはさすがにマズイが、家の中だったらと、我が家では許可している。
と得意げに語る。

そんなバカな話はない。

悪いことはいつでも学べるが、
良いこと正しいことは意図的に教えていかないと、学ぶ時期を逸してしまうかもしれないのだ。


優れた鑑賞家はすばらしものだけを見て育つ。
古美術の鑑定士たちも、良いものだけを見て感覚を築く。
けっして良いものと悪いものの双方を見ながら育ってくるのではない。

良いものだけを見続けた目に、まがい物、偽もの、レベルの低いものは簡単に見えてくる。
悪いものばかりを見た目は腐る。

道徳の授業は立派な人の話ばかりで何の役にも立たないと言う人がいるが、私たちが今もそうした話に熱中するのはそのためである。

子どもたちには良いものだけを見る権利がある。
偉大な人々の美しい行いに触れる権利がある。
(その人の醜い面については、大人になってから学んでも遅くはない)
市井の人々のさりげなく美しい姿を、じっとみつめる権利がある。

美しい行いを見、隠された善意を見、正しいものだけを見続ける権利があるのだ。