自立するということ



自立には三つの側面がある。
「経済的自立」「生活自立」、そして「精神的自立」である。

「経済的自立」というのは説明の必要もないだろう。、自分に必要な収入を自分の力で得るということだから、まだまだずっと先のことでよい。

分かりにくいのは、「生活自立」と「精神的自立」である。
これについて説明しておく。

「生活自立」とは、簡単に言えば生活に役立つ技能を手に入れるということである。
トイレットトレーニングから始まって食事を自分で食べられること、着替えができること、学齢期になれば一人で学校の用意ができること、宿題などを自ら進んでやり終えることなど。
大人になってからは、市役所で住民登録など公的な面でもさほど困難を感じずにやり通すことができること、公的な機関や地域の人々とのちょっとしたトラブルにも対応できること、そうしたことが挙げられる。
早ければ18歳ごろ、遅くとも20代前半までには終えておきたいことである。

しかしそれはさほど難しいことではない。「生活自立」の大半は『言葉で教え、辛抱強く待つ』という姿勢だけでほぼ完全に達成できるからである。年齢相応の目標を持たせればそれで事足りる。


難しいのは「精神的自立」。そしてこれがすべてである。

「精神的自立」というのは、一言でいえば「ある程度社会と調和した『統一的な自分』を持つ」ということである。

『統一的な自分』というのは自分の中に矛盾がないということ、例えば「高校には行きたくないけど、就職もしたくない」といった願いを持たないということ、
我慢はしたくないけどつまらない仕事には就きたくない、金は欲しいが働くことは嫌だといった「矛盾した気持ち」に振り回されないことである。

ただし矛盾がないといっても、「死刑になってもいいから人を殺したい」とった矛盾のなさは認められないから、そこで「ある程度社会と調和した」となる。

精神的に自立できていない人間を見つけ出すのはさほど難しくない。
彼らは 『統一された自分がない』=「自分の中に矛盾がある」から、先ず選択音痴である。何かを選ばなければならないときしばしば迷い、多くの場合選択そのものを回避してしまう。ズルズルと問題を先送りにし、その挙句「何も選択しない」という道を選択し、その結果を突きつけられる。
本人にしてみると「選ばなかったのに責任を迫られる」わけだから非常に不本意で、その責任までも回避しようとする。
つまり責任転嫁をする。

自立できていない人間を見つけ出す目安はそこにある。
彼らはしばしば失敗の責任を他人のせい(特に親のせい)にするのだ。


したがって、もし精神的に自立した子どもを育てたかったら、やったことの責任は常に本人に取らせるよう、小さいときからしつけなければならないだろう。特に親のせいにしてことを済ませようとするなら、厳しくつき返さなければならない。
「誰が悪いの!」
と。

「欲しいおもちゃがあるなら、あなたは店の方にに丁寧に尋ねなければならない。大人とのきちんとした対話が我慢ならないなら、おもちゃの方を我慢しなさい」

「新たに見たいテレビ番組が始まるなら、あなたは今日まで見てきた別の番組を我慢しなければならない。今までの番組が諦められないのなら、新しい番組を諦めるしかない」

「クリスマスだからといって二つのおもちゃを買うことはできない。あなたは一つを選び、もう一つは諦めなければならない。そして何があろうと、(次の誕生日でもこない限り)諦めたもう一つを、あなたは手に入れることはできない」