どういう子を育てたいのか



どういう子を育てたいのか。
教育には目標が必要だ。

「普通でいい。平凡な人生を送ってほしい」
そう願うなら、何が普通で何が平凡であるのかをはっきりさせなければならない。

「自由にのびのびと」
そういうなら、5年後10年後も、その子が「のびのびと自由」でいられるために何が必要なのかを考えなくてはならない。



そもそも人間として「普通」であるためにどれほどの技能を身につけなければならないか、その大変さがあなたには分かっていない。

朝自分で起きること、歯を磨いたり顔を洗うこと。好き嫌いなく何でもおいしく食べること・・・あなたの妻はそのために大変な努力を払っているというのに、あなた自身は「そんなこと、自然に身に付くものだ」と、そんなふうにしか考えていない。いや、そもそも考えてすらいないのかもしれない。

子が18歳のとき、高校で「自由にのびのび」と生きているとしたら、それは相当に実力のある証拠だ。
すべての教科で平均以上の成績がないとのびのびとはいかないだろう。
教師との関係も含め、人間関係についても苦労なく自然に振舞ってそこそこにこなせるだけの才覚がなくてはならない。
よき趣味があり、それに熱中できること。
多少のトラブルにたいしても、高校生らしく対処できること・・・。

そうしたことすべてが揃わないと、子はのびのびと生きることはできない。
それにはに元手がかかるのだ。


「鉄は熱いうちに打て」という言葉があるように、子育てはその子が小さければ小さいほど元手も少なくてすむ。それなのにあなたは「何もしない」ことで子どもを「自由でのびのびとした普通の人間に育てる」という甘い夢を持ってしまった。

それがいかに甘い夢だったのか、
十数年後、あなたはあなた自身とその子の犠牲によって思い知ることになるだろう。
取り返しのつかない時期、取り返しのつかない仕方によって・・・。

昔の子どもたちはそんな育てられ方はしなかった。

「子を育てるには、授乳の時期からだんだん仕込むようにしなくてはだめだ。
まだ小さいからといって、気ままにさせておいて、さあ大きくなったからといって、急に行儀だ言葉だとやかましく言っても、直るものではない。

あの植木を見なさい。小さい時からいつも気をつけて手を入れた木と、生えてきたまま自然にしておいた木と、どのくらい違いがあるかしれない。
大きくなって枝を曲げたり切り込んだりしてみても、木が傷むばかりで、とても小さな時から手を入れた木のようにはならないものだ。

それと同じことで、はいはいをしない前から気をつけて教えていけば、ご本人は少しも難儀ともつらいとも思わずに、自然にいろいろ覚えるけれど、大きくなってしまってから急に行儀を教えると、本人は窮屈で苦しいものだから、人前ばかりで行儀をよくしても、人のいない所ですぐくずしてしまうので、とてもほんとうの躾はできない。
                                                  (和田英「我母之躾」)

大切なことはどんな子に育てたいかだ。
そしてそのために何をするかだ。