4歳までに何を育てるか
『三つ子の魂百まで』という。
数え年だから、今流に言えば『4歳児の魂百まで』となろう。
経験的に言っても、確かに3歳までの子と4歳児とでは異なる。
例えば、3歳までの子はほとんど天使だが(女の子は特にそうだ)、4歳の声を聞くととたんに口ごたえをするようになる。
そのことは多くの母親によって、目撃されている。
厳密に4歳というわけではないが、3歳と4歳の間には、何か決定的な違いがある。
したがって、4歳までに何を育てておくかが問題になる。
これについては私が語るより遥かにいい資料があるので、以下それに従う。
三歳児は他の誰にやってもらうのでもない。まさに「自分でする」ことに何よりもこだわる。それが周囲の大人の「いけません」と衝突するとき、「強情」「片意地」「反抗癖」など、いわゆる「反抗現象」が生じる。この時期の獲得目標は小さいながらも主体性(自主性)の達成である。ゆえに、自分で選ばせてやらねばならない。「自分で選んだ」ということが大切なのである。
しかし、まだこの段階では 「自分で」に重点がおかれ、自分しか眼中にない。それはまだ「からの自由」の実現であって、「への自由」の達成ではない。社会的な秩序や要請に自らを合わせてゆくことを学ばねばならない。
自分なりのつもりをもって自分でするという、彼らの意志(自我)が遭遇する、社会的な株序や要請との矛盾、葛藤を解決する力を獲得しなければならない。がむしゃらに自我を主張し、反抗するのでなく、自らの要求や意志と外的な要請との矛盾を調整することを学ばねばならない。
彼らはそれを「早く乗りたいけれども順番だから待つ」「淋しいけれども、お兄ちゃんだからお留守番をする」という、「〜ダケレドモ〜スル」という自制心(自律心)の獲得によって実現してゆく。ほぼ四歳前後のことである。
その自制心の内実は、外からの強制によって「待たされる」のでもなく、「留守番させられる」のでもない、自ら待ち、留守番するつもりになることでなければならない。重要なのは自分なりに納得してするつもりになることである。
そのことは、子どもの内面で自ら価値あるものを選択し、より高次の価値のためにより低次の価値を従属させるという営みが行われることである。そのとき、ある動機(価値) に、他の動機(価値)を従属させるという形で、諸動機を相互に調整し、結合するという最初の「結び目」(レオンチェフ『子どもの発達』明治図書、93ページ)ができる。そこに、人格の自律性の最初の獲得がある。「『ケレドモ』でふみこたえ、『ケレドモ』をテコに起き上る誇り高き四歳児」 (田中昌人「三歳児の精」『発達』第7号、37ページ) の誕生である。(高垣忠一郎「登校拒否・不登校をめぐって」 青木書店 1991)
「『ケレドモ』でふみこたえ、『ケレドモ』をテコに起き上る誇り高き四歳児」
美しい言葉である。
簡単に言ってしまえば、何かの価値ために自己の欲望を我慢し、そのことに誇りを持てる4歳児ということになる。それが目標なのだ。
ふんだんに物を買い与えられ、自由にテレビを見させ、そして好きなものを食べ好きな時間に眠る、そうした生活からは決して生まれない4歳児でもある。
一般に、個人の欲望に対置されるのは社会的ルールである。
したがってまず、子どもらしい社会的ルールを身につけるところから始めなければならない。
私はそれを、
ジャンケンポン、代わり番コに、順番コ
と呼んでいる。
いずれも子ども社会の鉄の掟であり、絶対に守らなければ生きていけないルールである。
私たちはできるだけ多くの機会をとらえて「ジャンケンポン、変わり番コに順番コ」の練習をさせるとともに、これらの習得の際には絶対に容赦してはならないのだ。
しかしそれだけでは不足だ。
何かの仕事を与え、その中で子どもを育てて行くしかない。
もちろん、昔のように家庭の大半が農業従事者であるような時代ではない。
遊びを我慢し、家族労働の一翼を担って働くというわけにも行かない。
お手伝いといっても、普通のサラリーマン家庭ではやることに限りがある。
だったら、どういった場で子どもを鍛えていくか。
これも答えは簡単である。
子どもが一番に望むもの、
遊びとモノとテレビで鍛えていくしかない。