金を押さえる



このサイトの別の箇所で、私はこう書いた。

世間の親御さんたちはどんなふうにして子どもに忍耐力をつけようとするのだろう。
小学生にでもなれば剣道やらサッカーやらもいいが、3歳児・4歳児はそうもいくまい。
しかたないので我が家の場合、徹底的にお金で絞った。

3歳ではじめて神社のお祭りに小遣いを持たせてつれて行ったときには、わずか300円しか渡さなかったのでほとんど買えるものがなく(綿菓子も買えなかった)、とりあえず300円以下の商品をリストアップするだけで2時間もかかってしまい、私たちの方が閉口した。
しかし今更300円を500円にしたりすることは考えなかった。

それでいいのだ。
おもちゃを買うのは原則的に年に1回、誕生日だけだが、その他サンタさんがくれるけっこう高額なプレゼントもあるし、何と言っても私たちの友人が持ちこむ「お下がり」が多すぎて、子ども部屋はあっという間にいっぱいになってしまう。
おもちゃの不足に悩むことはないし、300円をどう使うかと思案することは、子どもの成長にとってマイナスになることはないと思っていた。(「言葉の海」第4巻)

その祭りの夜のことを私は忘れない。

私たち親子はその300円を握り締めて2時間以上も神社の境内の夜店を回り続けた。そのうちの一つで、私は気分の悪い経験をすることになった。

ひとりの小学校4年生くらいの女の子とその母親が、私たち母子を挟んで夜店の両側から大声で話し始めた。
「おかあさ〜ん。これ買っていい?」
「何よ、それ」
「これ〜」
そう言いながら、女の子が商品を振りかざす(それが何だったか忘れてしまったが)。
母親がそれに応える。
「いくらなの、いったい、それ」
「2800円!」
「何でもいいから、早く買って! もう疲れた!」


いくら値の張るものが並ぶとはいえ、田舎の祭りの夜店である。べらぼうに高いものがあるわけではない。その中で2800円は商品のほぼ上限に近いと言える金額だった。。

私は軽い眩暈を感じるようなショックを受けた。
この母親にとって、子どもの欲望を上限まで満たすかどうかは「どうでもいい問題」なのだ。


小学生が欲しがるものの上限などタカが知れている。
最大に見積もってもゲーム機3万円程度が限界だろう。日常的には数千円の買い物がその子の欲望の上限だと見ていい。
それにも関わらず、親たちはいとも簡単にそれを買い与えてしまう。

小学生ならそれも何とかなるだろう。
中学生なら? これも大概10万円以内で済むだろう。
しかし高校生だとそうは行くまい。

80万円のバイクならあなたは応えるかもしれない。
800万円のスポーツカーならどうだろう?

1億円のマンションなら買ってやれるだろうか?
東大へ裏口入学の道を探せ、
どうしても好きな女を俺に振り向かせろ、
とにかく財産収入だけで遊んで暮らせるだけの道筋をみつけろ


・・・・・・・さて、あなたはどこまでそれに応えてやれるのか。

「そんなことはとてもできない」とは言ってはいけない。
あなたは十数年に渡って「望むものは上限まで与える」と教えてきたのだ。
今更、それは違っていたと言っても、子の方では聞くだけの準備がない。。

あなたは要求に応えざるをえないだろう。
しかし要求に応え続けても地獄は続く。
あなたがその無法な要求のために努力すればするほど、
彼の苛立ちは募るのだから。

彼は自分の要求が無法なことを知っている。だからいずれの日にか、こう言う。
「そんな無法な俺の欲望につき合おうというのは、そもそもオマエたちに愛情がないからだ。オレがどんなにダメな人間になってもいいと思うからバカみたいに欲望に付き合おうとする、それがオマエたちのやり方だ」

・・・・え? ウチの子はそこまでは言わないだろうって?

いいだろう、試してごらんなさい。
どうせ私の子ではないのだから。

金を抑えると言っても実際にはどうすればよいのか。

やりかたは簡単だ。

子どもが何かを欲しがったら一月だけ我慢させればいい。
それが本当に欲しいものなら、一ヶ月間、子は他の欲望をすべて我慢することができる。
それが「より高い価値のために別の何かを我慢する」ということだ。

あなたは丸一ヶ月の間、子どもの喜ぶ顔や感謝の言葉を我慢しなければならない。
けれど欲しいという思いが一ヶ月間持続すれば、それを手にしたときの子の喜びは始めに与えられるよりも数倍大きいだろう。
感謝もそれに比例するはずである。

その思いが一ヶ月持たなかったら・・・、
それはそれですばらしいことだ。
一ヶ月前あんなに欲しかったものが今はつまらないものにしか見えない・・・。
子はそこから自分にとっての価値観をつくりあげていく