小学校の入学式に何を持って行くか



もちろん小学校の指定通知だのランドセルだのの話をしているわけではない。

子どもを小学校に上がらせるに際して、あなたがどれだけのものを身につけさせて送り出せるか、という問題である。

もしやあなたは、その年度内に7歳になる、日本国籍を持ち心身とも一応健康な子どもであれば誰でも小学校に上がれると思ってはいまいか?
そんなことはない。
小学校で普通の生活を送るためには、それなりの資格と言うものが必要なのだ。

それは当然だ。すべての場において「参加するための資格」というものがある。
医師会の参加資格のひとつは医師であることだろうし、成人式の参加資格は「新成人」または「その保護者」あるいは「成人式の進行スタッフ」といったところであろう。
村の草野球なら「野球が楽しめてやりたいと思っている者」ということになる。

では普通の小学校に上がるための資格とは何なのか?

まず、
字が読めなければならない。文として読めることが暗黙の前提となる。
文は書けなくてもよいが、名前くらいは書けなければならない。

1から100までの数が数えられること(しかしたし算もひき算もできなくてよい)。
そして、「Deep Wonder」がここまで書いてきたこと、

  1. 自然の中でよく遊べること
  2. 睡眠を中心として規則正しい生活習慣を有していること
  3. 好き嫌いなく食べることができること
  4. 価値の高い何かのために別の何かを我慢することができること
それらができなければならない。それが全てだ。
そういう子に育てておきさえすれば、学校は何の問題もない。

そうすればあなたの子は、勉強という(あるいは親を喜ばせるという)高い価値のため、自ら進んで静かに座っているのだろう。
清掃やその他の苦しい活動も、さほど苦しい思いをせずに行うことができるだろう。
言われなくても、宿題をやるだろう。

友だちと相和し、適切に自己主張し、適切に引くことができるだろう。
そしてつまらないことに容易に傷つくことはない。

そして着々と実力を重ね、長く安定した日々を送るだろう。
その先も努力は必要だが、この日まで綿々と怠け暮らした子どもたちよりもずっとよいスタートがきれるはずだ。


一方、呑気者のあなたは、入学式のその日、ボーっと育てられた子の手を引いて学校に向かう。しかしあなたの愛する子の隣にいる何人かは、すでにそうした資質を備えいる。
そのことを忘れてはならない。

そんなふうに丁寧に育て上げられた子どもたちを見れば、入学時にすでにたし算ができたというあなたの子が、いかにつまらないか見て取れる。

たし算なんて、わずか一ヶ月で追いつく数学上の技能に過ぎない。そんなものを身に付けて学校に上がらせても、1年生後半の算数の時間を10時間ほどかせぎ、その時間を遊ばせておく程度の役にしか立たない。

さて、今、子育てで苦労しているあなた、思い出してほしい。
あなたはどんな子として、あなた自身の愛児を小学校に上げたのか・・・・。

例えば
「好き嫌いが多く、あれこれ食べられないものがある」ということが学校でどういう意味を持つか、あなたは考えたことがないかもしれない。
しかし、それは思いもかけず重要なのだ。

学校の最も大切な価値は「平等」である。
どんな場合も、子どもたちは不平等を「えこひいき」として許さない。
時代がどうに変化しようとも、「えこひいきをする先生」が嫌われる教師のベスト3から滑り落ちることはあるまい。

したがって給食においても、Aちゃんに「残していいよ」とサインを送りながらBちゃんに許さないということは絶対にできない。それが可能なのはアレルギーによる除去など、「誰にとっても納得の行く理由」がある場合だけだ。
Aちゃんに許した自由は、その他すべての子どもも享受する権利がある。

(百歩譲れば1〜2種類の食品について、「苦手なもの」としてお互いに認め合い除去しあうのも可能かもしれない。けれどそれとて「1〜2種類」までで、「野菜が食べられない」といった丸ごと除去は不可能である)


一般的に教師は「みんながんばって食べるようにしましょうね」というかたちの指導をする。
なぜなら、一人分を丸ごと食べて必要なカロリーや栄養素が摂れるよう計算され尽くしているのが給食だからだ。
普通の教師は「必要な栄養は摂らせなければならない」と考えている。

そして大半の子どもが教師の指示に従って努力する、がんばる、口に入れたくないものを入れ、嚥下する。

ところがその中にあって、
あなたの子だけは努力する気配さえ見せない。


毎日毎日給食のたびにただ無為に時を過ごし、担任が匙を投げるのを延々と待っている。(というのは夏場など、1時間を越えて食べさせることなど普通の担任にはできないからである。子どもはすぐにそのことに気がつく)

やがて教師は根負けして勝負から引く。
担任は諦める。

しかし諦めない者もあるのだ。
同じクラスの子どもの一部は、自分たちが苦しい思いをしてがんばっているにもかかわらず、アンノンと好きなものだけを食べようとするあなたの子が許せなくなる。
「給食が食べられない」というだけの理由で憎まれるのではない。
「食べるための努力をしない」という理由で憎まれるのだ。