「絶対評価」「説明責任」「スコアラー」


 2003年、私は新語辞典に「絶対評価」「説明責任」「スコアラー」の3項目を入れ、絶対評価という馬鹿げた評価方法の末路を予言した。しかし私の予言した以上の速さでこれらは死語化し、現在は言葉の端にさえ浮かんでこない。
 
 死語化の最大の理由は、これをやらせた文部科学省自身が、(おそらく最初から)絶対評価の実用性を信じていなかったからである。

 さらにこれに学力問題が追い討ちをかけた。
 「がんばれば何人でも『5』の取れる絶対評価」という絶対評価に対する誤解が最後まで解かれなかったため、「絶対評価では日本人の学力は上がらない」と信じた人々が、息の根を止めたのだ。

2001年から2002年にかけて、私たちは異常な努力を傾けて「評価基準」なるものを作った。それは学校で行う授業のすべての時間について、
「その時間でどういった能力をつけさせるか」
「その能力がついたかどうかをどう判断するか」
「十分つかなかった場合は、どう対応するか」

といった項目で展開する、プログラムの集大成である。したがって各学年電話帳一冊にも匹敵するような膨大な書類となったが、今は書棚の奥でほこりをかぶって眠っている。

私たちが「文科省の言うことを素直に聞いていたら馬鹿を見る」と心底思わされたのが、この「事件」だった。

 全国97万人の教員の努力を思うと本当に涙が出るが、涙を落としながら新語辞典から死語辞典へと移す。

スコアラー

1m跳べば『3』
1m20cmなら『4』
1m30cmならば『5』
というようなランク付けを評価規準といい、2002年度までに全ての学校で、全教科・全ての単元についてこれをつくったはずである(電話帳みたいな厚さになっている)。

教科担任はこの規準にしたがって毎時間、名簿に「A」だの「B」だの「C」だのと書き込み、児童生徒が評価基準に達しているかどうか評価する(その総計が『5』だの『4』だの『3』だのになる)。

かつてのダイナミックな授業は消え、教師は一定の時間ごとに全生徒の間を回り、「A」だの「B」だのを続ける。
その姿を揶揄して行った表現、それがスコアラー。

2008.4.28




絶対評価

「どんなにがんばっても順位が上がらなければ『5』の取れない相対評価から、がんばれば何人でも『5』の取れる絶対評価へ」
と、マスコミ持ち上げられて登場した新評価方式。


「がんばり」という主観的評価によって点数がつけられると誤解され、生徒からはすこぶる不人気であったが、そうではない。

言わば、
走り高跳びで
1m跳べば『3』
1m20cmなら『4』
1m30cmならば『5』

と決められたような評価である。

確かに1m30cm以上跳べば何人でも『5』だが、逆に言えば
「80cmしか跳べなくてもクラスで真ん中程度なら『3』をもらえた」時代から、
「なにが何でも1m跳ばなければ『3』がもらえない時代」に移り変わった

とも言える。


かつては「学習指導要領」に示された1m20cmは目標値と考えられていたから、
「マ、体育の苦手な子だって、ジャンプの下手な子だっているから80cmでもしかたないな」と考えていたものが、その1m20cmが1mに下げられたかと思ったら、マスコミに責め立てられたアホな文部科学省の担当者が、
「1mは最低基準。1m20cmを1mに下げたのだから全員跳べるはず。跳べなければ先生が跳べるようにします」
などと現実性のないことを言い出したから問題がさらに複雑になった(1mはだれでも跳べる高さか?)。

「九九も定かでない生徒に方程式を『先生ができるようにします』もないだろう」という本質的な話はできないので、教師は恐ろしく簡単なテストをつくるなど対策を打って次々と『3』を連発するという暴挙に出(何しろ『3』以上にしないと教師の力量の問題にされてしまうので)、何のために『1』や『2』があるのか分からない状況が出現する。

すると今度は高校から、
「『3』ばかりの内申書では何がなんだか分からないので生徒の成績が平均で『3』になるように割り振って欲しい」
と、絶対評価にあるまじき提案がなされ、中学校現場はさらに混乱する。

息も絶え絶えの教師たちは、しばしば「絶対評価」を「絶体評価」と誤記する。