シンディー
   ・ワーク

《小学校教師の6月》


全校で遊ぶ会
表題の通り「全校で遊ぶ会」である。
4年生以上の高学年が学校中をブースにして出し物を用意し、低学年は全員、高学年は時間を分けて(というのはブースの管理に半数が必要なので)一日中遊ぶという趣向である。
高学年は企画から運営の期間を通して、集団性や計画性など諸々の力をつけ、低学年は遊びを通して身体性を高めることになる。

そのあたりはキースやフレッドに理解できない。彼らは基本的に「子どもは学校でなぜ遊ばなきゃいけんの?」という発想をする。けれど、小学生にとって学校はいつでもワンダーランド、何が起こるか分からないワクワクドキドキの場所なのだ。

今年のブースはかなり凝っていた。
お化け屋敷が二つもあったのは考え物だが、ストラックアウト(ボールによる的当て)やペットボトルボーリング、障害物レースや工作教室など、どれも楽しく魅力的なものばかりだった。5年生が制作した推理仕立ての学校紹介ビデオはかなりうけていたし、体育館に創られた巨大迷路は、半年も前から集め続けたダンボールの巨大構築物だ(あと、どうするんだろう?)

初めて経験する1年生は終始「目がテン」状態で校内を駆け回り、後日、学校長からも「すばらしい企画だった」とのお褒めの言葉があった。
「高学年の皆さん、頑張りましたね」


けれど高学年の担任たちはそう悠長なことを言っていられない。
とにかく時間がないのだ。


さらに教師主導でガンガンやるうちはいいけど、子どもの自主性を大切にする等と言い出すと完全にアウト。とかく現実性の不足する子どもたちが予算・時間を無視してアイデアを出すのでさっぱり収集がつかない。
実際に作業が始まってもあれがないこれがないで、時間は瞬く間に過ぎていってしまうのだ。

学級活動の時間など瞬く間に消費され、休み時間も潰していく。
やがてそれでも足りなくなり禁断の「総合的な学習の時間」に手をつけ、さらにそれでも足りなければ教科の時間に手を出す。
(例えば、巨大迷路のダンボールは、その後社会の「ゴミの行方」の授業への下準備としてカウントされてしまう。1トンのゴミの量を体感するんだそうな・・・)
えらいこっちゃ。




各種週間
 だいたいナントカ週間というのは児童の意識を喚起する目的でするのだから、それが重複すれば逆効果なことは分かっている。れど、年間暦をみながら何かの強化月間やら週間やらを入れていくとどうしても6月あたりに集中してしまう。

今月あったのは次の三つ。
給食週間
歯の衛生週間
春の読書週間


いずれも大切なものには違いないが、毎週入れ替わり立ち代りで集中を欠いた。




給食週間

@身支度をしっかり
クラスの子全員が給食着を着たまま食べる給食。始めてみた人には異様な光景と映るかもしれない。
昔これに対して
「どこの家庭に給食着を着てご飯を食べるところがあります?」
と噛み付いた人がいたらしいが、担任が優秀な人だったらしく、
「どこの家庭に30数人の6歳児が一斉に食事するところがあります?」
と反撃して事なきを得たという話を聞いたことがある(何となく作り話の匂いはするが)。

給食着を気ながらの食事は奇異ではあるが、これでないと1・2年生の場合、週に一度は午後の授業を裸ン坊で受ける子どもが出てくる。それくらいよくこぼすのである。

給食週間で強く訴えることの一つはこの身支度。
マスクをきちんとすること、髪がしっかり入るように帽子をかぶりなさい、エプロンはいつも清潔なものを・・・まったく煩い限りだがさっぱり全員が揃うというわけにはいかない。

A好き嫌いなく食べましょう
これについては4月に書いた。けれど早くも私の方が根負けしそう。とにかく食べないとなると絶対に食べない。生まれながら頑張って食べるという習慣のない子は絶対に食べられないのだ。

給食の強制は馬鹿げたことだという。人権侵害だともいう。しかし私は2o角に切り取られたニンジンの一欠けらを口に入れてくれたらそれでいいと思っている。その程度の頑張りのできない子でどうするという気持ちもある。しかしなかなか受け入れてもらえない考えでもあるらしい。

B手をしっかり洗いましょう
驚くべきことだが、これだけはできるという子は少なくない。
手が汚いということについては、どこの家庭もほぼ等並に神経質になれるらしい。少し心配なくらいしつこく洗っている子がいる。
石鹸を異常なくらいたくさんつけて、いつまでも洗っている子がいる。




水泳開始

いよいよプール開き。
けれど梅雨の真っ最中なので開いたはいいものの、すぐにプールに入るわけには行かない。
それに一年生の場合、プールに入るまでの手順を覚えるだけでも大変なのだ。
さすがに水着の着れない子はいない。しかし後ろ前や裏返しはしょっちゅうなのである。

「さあ二人ずつ手をつないで。これをバディと言います」
「手をつなぐことは、バディ」
「違います。手をつないだ二人組みのことをバディというのです」
「ナイス、バディ」
「それも違います(私はそうだけど)。でも説明はしません。時間がありませんから」
「その、手をつないだ相手とは絶対に離れてはいけませんよ」

「先生、質問があります」
「ハイどうぞ」

「泳いでいるときもずっと手をつないでいるのですか?」
「よい質問です(ナ、ワキャネーダロ)。泳いでいる最中は手を離します」

「ハイ」
「ハイなんですか?」

「バディの人がおぼれちゃって沈んじゃったらどうすればいいんですか?」
「よい質問です。とりあえず先生に言いなさい」

「先生に言っても聞こえなかったらどうすればいいんですか?」
「大声で言いなさい」

「それでも聞こえなかったらどうするんですか?」

「もっと大きな声で叫びます。それでも聞こえなかったら
もっと

もっと
もっと
も〜〜〜〜〜〜っと

大きな声で叫べばいいのです。分かりましたか?」


子どもというものはどうしてこういった形の仮説が好きなのだろう?

子どもの「もし〜」に真面目に付き合っていくとラチが開かない。