シンディー
   ・ワーク

《小学校教師の7月》


5年生キャンプ

この時期(梅雨の真っ最中だというのに)5年生には登山・キャンプという重要な行事が残っている。
聞けばキャンプは夏場しかできない、8月は夏休み中、9月は雷が怖い、ということで7月に組み込まれるのらしい。
しかしそれにしても、梅雨の真っ最中なのだ。

案の定、今年も降られた。
学年主任は恨めしげに空を見つめるが、それで降る雨がやむわけもない。
結局一週間延期し、その日も雨で、わずかな間隙をぬってやむなく出かけた。


5年生のキャンプで行うことといえばまずは登山。そして飯盒炊爨。
それが終わるとキャンプファイヤーというのが定番である。
火の神様(大抵は付添いの校長先生か教頭先生)から火をもらう儀式(愛の火・知の火・健康の火の三つの火をいただきましょう、なんていう趣向もある)が終わると、燃え上がる火を囲んでフォークダンス。
クラスの出しものはそれぞれ歌だの何だので、その後、大花火大会。
最後は火を送る歌(♪ほ〜しかげ、さやか〜に〜などと歌う)。
そして理科の先生がいたりすると、そこから星の観察をして終了ということになる。

こうした手順を一つでも端折るとめっぽう評判が悪い。
一昨年の5年生はキャンプファイヤーの時間を増やすために、
飯盒炊爨をレトルトカレーですませてしまった。

「味の細かな注文まで聞かれた」
と付添いの先生にはすごく評判だったが、校長は表情を曇らせていた。苦労してつくるカレーがおいしいのだそうだ。





通知票を書く

絶対評価の通知票ということで丸一年も検討を重ねた結果、ほぼ従来どおりという妙なところに結論が落ち着き、みんな拍子抜けだった。

テストやノート、授業中の発言や活動を考えながら、あちこちの記録をひっくり返して項目別、名簿順につけて行くのだけれど、どう考えたって△なんかつけられない項目もある。
図工の絵なんてとにかく描き終わったら下手でも△なんてつけられないでしょ? だって描き上げたんだもの。
万一ひとりでも描きあがらなかったとしたら、それは子どもの責任ではなくやらせることのできなかったこちらの責任っていうことだからウカウカ△なんてつけられない。つまり全員〇以上。
体育もよほどふざけていなければ〇以上。
・・・・・・・ということは、これらの項目に△がついたら、本当は震え上がらなくてはいけないのだけれど、親の方は算数や国語ばかりに関心が行っていて、図工や体育なんていっこうに気にならないらしい。




やっと全部に記入が終わって

「項目別に名簿順・・・・・・」と書いたけど、そうやって全項目に◎やら〇やら△やらをつけて、改めて全項目を見なおす、自分ながら凍りつく。
全28項目中、△が18項目、などというとんでもない子どもがいるのだ。
児童虐待が問題になる昨今、そんなもの渡したら子どもは何されるか分からない(という家もある)。
それに「子どもの成績票は教師の成績票。△があるのは担任の教え方が十分でないからだ」などと無茶をおっしゃる方もいるので、おいそれと放置するわけにもいかない。
そこで、そこからまた修正。

△といっても、点数にすれば50点くらいの△もあれば、0点の△もある。△の中でもなんとか無理を承知で〇にできるものを探して〇に書きかえる。

名簿順で50点△の子がすぐ上にいるにも関わらず、40点の〇。
うしろめたさからか、40点〇の子の良いところばかりが目に浮かぶ・・・。




だれがいちばんできるんだっけ?

逆に◎だけで通知票が埋まってしまう子もいる。
絶対評価なので当然そういう子も出るのだけど、それでいいんだろうか?・・・・と、余計なことが頭に浮かぶ。
同じ「到達」でもまったく余裕、「最高100点なので100点しか取れなかっただけで、もしかしたらこの子、十倍難しい問題でも解いてしまうかもしれない」と思うこともあれば、同じその子が90点でやはり◎ということもある。同じ◎でも価値が違うのだ。

「この子、算数も図工も全部◎だけど、図工の方は『良くやってる』だけでまったく才能がなさそう。それに比べると算数は天才かもしれん」・・・・・・そう考えると思わず算数の◎を三重丸や花丸にしたくなるのだけれど、そうもいかない・・・・・・でしょ?

そこで図工の方の◎をいくつか〇に書き換えてみる・・・・・・・するとマア、なんと座りの良いこと!
これでOK! 親にはこの子の感じきっと伝わる、

と思うのだけれど、良く考えてみたら、クラスで1番優秀な子より、4〜5番手の方が◎の数が多いのだ。

こんなことでいいのかしらんと思いながら、他に方法がないのでこのまま行ってるけど・・。




草取り
「先生、畑が大変!」
というので行って見たらイモ畑が雑草園に変わっていた。
わずか二週間前に草取りをしたばかりだというのに・・・。


基本的に子どもは働かない。
トム・ソーヤーはまんまと友だちを騙してペンキ塗りをさせたが、あんなのはお話だけであって、
子どもが働くのは、それが面白そうだと思って手を出し、少しも面白くないと知って手を引くまでのわずかな時間だけ

のことである。
したがって、「怒鳴る、わめく、息巻く」が指導の基本的態度となる。

よく新聞などを読んでいると
「強制ではなく、納得を媒介として・・・」などと書いてあったりするが、納得すればよく働くというのは大人でもエリートに属する人たちだけであって、普通はそうではない。

私なんか、お小遣いのやりくりだって未だにできないのだ。
それは納得していないからではない。
とにかくできないのである。

子どもも同じで、働かなければならないと納得しても、できないことはやはりできないのだ。
かくて、中途半端雑草取りを行った畑は、その中途半端にふさわしい速さであっという間に雑草園に戻ってしまう。