キースの
   お仕事

《中学校教師の4月》


新一年生学級編成

来年度に向けて新一年生学級編成をしなければならない。
この仕事はどこでも大抵一学年の仕事だ。

やり方は二通りあって、4クラスの学級をつくる場合、学区内の小学校にお願いしてそれぞれ生徒を四つに分け、それをこちらで組み合わせて学級とするのがひとつ。もうひとつは生徒の調査カードだけつくってもらい、それに従って中学校側でクラスわけをするケースだ。
この二つはどちらを選択してもかまわないが、今の勤務校では後者のやり方を採用している。正直言って、こちらの方が私の性にあっているし、やり方としてこちらの方が正しいように思える。

というのは、小学校の先生に任せると学級編成がどうしても人間関係中心になり勝ちだからである。
もちろん人間関係は大切だが、小学校の関係などものの二ヶ月もしないうちに大きく変わってしまう。それよりも大切なのは生徒の学業成績とその可能性なのだ・・・中学校の教師はそのように考える。

誤解を受けないように言っておくが、成績が生徒の人格を表しているというのではない。中学校ではそれだけ学習ストレスが高い、ということである。

最終的に高校受験がのしかかってくる中学校では、「教科学習」はいずれおろそかにできない最重要課題となってくる。
そのとき学業成績が極端に落ち込むクラスがあると、そのクラスは生活全般において問題を抱えることが多いのだ。

それはそうだろう。
学校はすべての生徒に、机に座ってまっすぐ前を向き、何らかの学習活動を強いる場所なのだ。
教科学習のさっぱり分からなくなった生徒にとって、それが面白かろうはずがない。

国語や数学ができなくたって生きていくことはできる。
絵が得意な子なら、それで友だちの賞賛を受け、生き生きと学校へ来る。
生徒会などの活動の好きな子は、それが彼らの生きる場となる。
もちろんスポーツの得意な子は、国語や数学の得意な子よりむしろ良く学校に馴染む。
しかし勉強はダメ、委員会活動もダメ、スポーツも芸術もダメ、というような生徒にとって、学校はどのような意味をもつのだろう?

友だちに会うために学校に来る。それもひとつの生き方だし、そうした生徒も少なくない。
しかし小学校なら鬼ごっこをやったり隠れん坊をしたりと、一日過ごす遊びに事欠かなかったが、中学校ではそうは行かない。校内に持ち込める遊びは知れているからだ。

そうなると彼らの一日は、ひたすら忍従するか、非行文化に走るか、二つに一つしかなくなってしまう。


従って中学校の学級編成では次の点が重視される。

まずは学業成績。続いてその可能性の枠として知能指数。
運動能力も各クラス平準化しておかないとクラスマッチのたびに学級が死んでいってしまう。
学級の核となるようなリーダーも平たく置かねばならない。
音楽祭を考えると一定レベル以上のピアノ演奏者も配当して置かねばならない。
いじめなどの決定的な人間関係の解消も最優先事項だ。
早くも非行傾向を示し始めた生徒も分散しておこう。
そろいもそろって低身長では見栄えも悪く、それだけで学級は盛り上がらない、これもできるだけ揃えたい。

・・・・・・かくして条件は揃った。
ここがロードス島だ、ここで飛べ!




終わりのないカルタ取り

で、実際にどう行われるかというと次のようになる。

  1. 各小学校から送られてきたカードを小学校ごとに男女別成績順に並べ、公平に四つに分ける。
  2. 四つの机に男女別、成績別にカードを並べる。
  3. 4グループをそれぞれA・B・C・Dと名づけ、仮学級の基礎ができる。
  4. A〜Dは基本的に成績が平等になっただけであとは全く不平等。そこでまず、知能指数を調整する。
  5. 例えば「A組女子、学業成績『5』に知能偏差70以上がゼロ! ひとりはよこせ!」と仮A組担任が叫ぶ。「C組女子、学業成績『5』に知能偏差70以上、2人いま〜す! ひとり上げるゥ!」
  6. そしてカードのその他の項目をチェックしてからカード交換。黒板に書かれた数字を変更する。
  7. 知能指数(偏差)も揃うと次は「運動能力」。
  8. 「D組男子、運動能力『上上』ゼロ! 全員運痴の可能性あり。ひとりはよこせ!」
  9. 次は「指導性」、その次は「身長」と次々にやっていく。しかしその間にせっかく揃えたはずの学業成績や知能偏差が狂い始める。・・・仕方なく再調整。
  10. もちろんその間、いじめ等で「一緒できない生徒」が同じクラスになっていないか確認。特定の小学校の同一クラスのメンバーが同じクラスにかたまらないことにも配慮。ピアノの弾ける子が分散していることにも気を使う。
  11. 家庭訪問を考えると「地区」もバラバラにしておきたいのだが大抵はそこまで手が回らない。

最初のうちは真剣にやっていた作業も、4〜5時間も続けていると次第に頭がボーッとしてくる。ときおり隣の仮担任のところへ行って様子を見ながらチャチャを入れたり、カード一枚一枚を眺めてはその子に思いを馳せたりと、無駄な時間も長くなってくる。

そんな時妙にいそいそと動き回っている同僚がいるとこれがけっこう要注意で、自分が担任する可能性もないのに、せっせと優秀な子をかき集めていたりする
なんとなく自分のクラスをつくる気持ちに陥っているのだ。
かくして仕事はとまる。

翌日再開。
前夜、「これで行き詰まった」と思いかけたはずなのに、まだまだいくらでも動かす余地が生まれる。

翌日再再開。
まだ考える余地がある。

こうして、終わりのないカルタ取りは、全員が精根尽きて初めて終了するのだ。





私立高校入試開始

私立高校の入試が始まる。
とは言っても都会のようにまなじりを決してというような雰囲気はない。

本県のような高公私低の田舎では、私立はあくまでも滑り止めが中心。とにかく安全第一だから合格して当たり前のレベルでの受験なのだ。

個々バラバラの学校を受けるわけだから、それぞれの過去問を増し刷りしてやる他は、大した受験指導もしない。ただし、公立と違って個人面接があるので、そのための指導だけは欠かさない。
具体的には模擬面接をしたり、話が合わなくなることを避けるため本来は明かさない調査書(内申書)の内容を教えておくというわけだ。


「調査書にはこんなことを書いたよ」
と言って所見欄の記載を読んでやると、大抵の生徒は目を丸くして驚く。首から上の筋肉に緊張感が全くなくなって、なんともだらしないような笑い顔になる。

それはそうだろう。
最低の肉体を最高級のブランド商品とド派手なアクササリーで包んでリボンつきで送り出してるようなものだ。
「ボクって、そんなに良く言われてもいいの?」
といった気持ちになっても不思議はない。

虚飾といったって全くの嘘を書いているわけではなく、一行一行を2割増に書いていった結果、最後には300%増になってしまったわけだから、何となく自分はそういう人間なのだと誤解されても仕方がない。

この調査書開示、本当は1年生くらいのときにやっておきたい。
「ボクってすごいヤツなんだ」
「先生って、ボクのこと本当に大切にしてくれるんだ」
「生きているってすばらしい」・・・・
てなことになって、生徒はどんどん良くなっていく。

もしかしたらそんなこともあるのかもしれない。




敬語

「敬語などというものは強制すべきものではなく、教師が尊敬するにふさわしい人間になれば自然と出てくるものだ」などと賢しらを言う人がいるが、果たしてそうだろうか?
そうなると、尊敬できる教師が極端に少なくなった(らしい)今日の学校では、生徒は敬語をほとんど使わずに卒業していってしまう。

そんなことは授業の中でしっかり教えればいいなどと言ってはいけない。
机上の勉強など無意味だ、体験的な学習こそ意味がある、というのも同種の人々の主張なのだから。

さて、なぜ急に敬語のことを言い出したのかというと、それも面接のためなのだ。

何しろ日ごろ使い慣れていない敬語やら丁寧語やらを即席で身につけ、人生の一大事に向かわなければならないから生徒の方が大変なのである。

日ごろからどこかで丁寧な言葉づかいをしてきた者はいいが、そうでないものは何かしらのミスをしてくる。

「先〜〜生、ヤベエよ、オレ面接でドジ踏んだ〜〜ァ」
「どうしたんだ?」
「名前聞かれて、『亀山勇作ですますと、答えちまった」
「それくらいはいいだろう」
「他にもある」
「何?」
「先生のこと聞かれて『先生はヨ〜』って言っちまった」
『先公』と言わなかっただけまだマシだな」
「それですっかりアガっちまって、帰りに挨拶するの忘れて、思いっきりドア閉めて出てきちまった・・・」
「なるほど」


たまたま面接官を行った私立高校の教員から電話をもらったことがある。
「オイ、オマエんとこ、『侍』育ててるんか? 『中村昌平でござるって名乗ったやつがいるぞ」

きちんとした言葉づかい、強制してでも身につけさせなければ本人が可哀想と思うが・・・。




生徒会役員選挙

3年生の卒業にあわせて、生徒会の役員選挙が行われる。
私の学校の場合、立候補は正副会長・議長の三名、議長選挙の次点が自動的に副議長になるため、この選挙で選ばれる役員は計4名である。
各クラスから3名ずつの候補者を立て、クラス周り(各学級を回って演説をする)、立会演説会を経て投票となる。

うまくするとクラスの団結を図る絶好の機会となるが、悲惨な例もなくはない。
前任校のあるクラスの会長候補は、学級の代表であるにもかかわらず、獲得票がクラスの人数に満たない8票で、その後すっかりひねくれてしまった。
自己を省みない無謀な立候補だったとはいえ、同級生も冷たかった。

本気で会長や議長になりたいと思う生徒など滅多にいないが、本人が飛躍的に伸びる絶好のチャンスである。担任はそれぞれ燃えて会長を送り出そうと秘策を練る。

これもかつての学校の例であるが、あるクラスの会長候補が投票日直前に骨折入院してしまうということがあった。
普通なら担任もクラスの生徒も気落ちしてしてしまうところだが、この人たちはメゲなかった。
推薦責任者は候補代理と突然名を変え、妙にはりきって他の候補の間に入り、
「山崎卓也君は今、病床で痛む足を抱えながら、今日の演説会に参加できなかったことを痛恨の思いで噛み締めていることでしょう。山崎君は・・・」
本人のいないのをいいことに、いかに彼が優れた人間か、どれほど会長に意欲を燃やしているかを、とうとうと述べたのである。
さらに本人の演説草稿に勝手に手を入れ(担任と共謀した)、彼は病床で学校の前途を思いやり、爪を噛んで悔しがる憂国(憂校?)の士に仕立てられてしまったのである。

同じ時刻、当人はひとりで落選をきめこみ、堂々と学校を休める気安さを十分に愉しみテレビゲームに興じていた。

もちろん、彼は抜群の獲得票で当選してしまった。


別のとき、
なんとも冴えない候補者が演説の最初の挨拶でマイクに頭をぶつけてしまい、場内大爆笑になったとたん一気にパニックに陥ってしまったということもあった。それですっかりメロメロになってしまったというならいいが、この候補者、興奮に駆られてヒトラーやムッソリーニですらここまですまいと思われるほどの激しい演説となり、見事当選してしまったのだ。
私のクラスも候補を立てていたが、最初の2秒で負けたと思い、実際にその通りになった。

生徒会役員選挙はまさにドラマである。