キースの お仕事 《中学校教師の4月》 |
入学式・始業式 |
ブカブカの制服を着た新入生が入ってくる。
心の中で、つい2週間ほど前卒業していった3年生と思わず比べてしまう。
この新1年生の剥きたてのゆで卵みたいなツラが、やがてニキビ痕と髭でぶつぶつになる。
少なくとも半分は男子と体形も雰囲気も変わらない女の子たちも、3年後は全員がすっかり”女”だ。
そう考えると、3年という年月の大きさが実感として捉えられる。
まさに勝負の3年間だ。
国語の大家である大村はまは、その著書(「教えるということ」)の中で次のような言葉を記している。
「入学してきた生徒に、私はまず、こんなことを話します。中学校というところは、これは大人になる学校なのです。小学校は子どもの学校、中学校は、今は子どもですけれど、大人になる学校なのです。何か違いがあるのでなかったら、小学校を卒業して、中学枚に入学し直さなくても、小学校に九年間いればよいわけです。中学校は大人になる学校、したがって、大人になっておかしなことは、全部やめてもらうところです。三年間のうちに一人前の大人としておかしくないことを身につけるのです」
まさに至言である。
諸君、期待していたまえ。私がキミたちを男に仕立ててやろう!
(女子はどうした?)
入場指導 |
なぜ体育館への入場指導が話題になるのか。おそらく、外部の人には分からないだろう。
しかし5年前、当時荒れ狂っていた私の学校を本気で立て直そうとしたとき、最初に行ったことがこれだった。
そのころ私はここにいなかったが、相当にセンスのよい教師が集まっていたと思われる。
おかげで今や市内でも最も落ち着いた学校である。
当時を知る人の話を聞くと、第一回はすさまじいもので、丸半日をかけて何回でもやり直しをさせ、翌日復習を行ってそれでも満足できず、三日目も1時間かけてやったというのだからその意気込みたるや推して知るべしである。
今や安定しきった本校ではあるが、今年も1時間かけて入場練習を行った。
さてその手順だが、以下のようになる。
本校は校舎の構造上、1年生が一番最後に入ってくることになる。
ここがミソだ。
昨年もそうだったが、クラスに2・3人はいるヘラヘラした男子が、体育館に入った瞬間、一気に表情を変える。
何しろ全校一分の隙もないほどビシッと締まって整列しているのだ。
相当にヤバイという雰囲気がその表情からうかがえる。
小学生が一瞬にして中学生になる時である。
本年度の練習は2回だけで済んだ。
評論家の鎌田慧などに言わせれば、まさにこれが「教育工場のこどもたち」なのだろう。
昔勤めていたいわゆる「荒れた学校」に比べると、今の学校の子は妙に生き生きとして明るい。その点が気になるが、こんな厳しい管理教育より自由に子どもの飛び回る学校の方がいいと感じる人は今も多いだろう。
かく言う私もそうだ。
そうでないと私のような武闘派の活躍する場がないではないか。
わが校の規定集には「体育館への入場は5分38秒で行う」と明確に書いてある。
管理教育反対論者が見れば気絶するような文言だが、これには理由がある。
カラヤンがいけないのだ。
本校の入場音楽は1979年、カラヤンがベルリンフィルハーモニーを用いて録音したドボルザークの交響曲8番第三楽章を使っている。それが5分38秒だった。
したがって、文句のある輩は、カラヤンと話をつけてもらわなくてはならない。
修学旅行 |
新3年生はこの時期修学旅行に出かける。
奈良京都の旅、二泊三日。
このクソ忙しい時期になぜ? と思う人もいるかもしれないが、他の人が行かないからこそ行きやすいという面もある。とにかく宿の確保には困らないし、見学地はどこも比較的空いている。そこがミソだ。
私は入学式のわずか三日後、4月の8日に修学旅行を引率したことがあるが、京都はまさに桜の真っ盛り。信じられないほどすばらしい風景を堪能できた。
そういうメリットもある。
修学旅行の計画というのは驚くほど早くから始まる。
1年生の3学期には見積もりをとり、4月には3年生の引率補助をしながら業者の提示した宿舎を見て回ることになる。
今年は5社から見積もりを取り、4月までに3社に絞った。つまり二日6軒の宿屋が候補というわけだ。
引率の手伝いをしながら自腹を切ってタクシーで回るのは容易なことではない。しかしより安くしかもサービスのよい宿を選ぶには、そこまでやるしかない。
今年の3年生は一つの冒険をした。
それは今まで一度も修学旅行を扱ったことがないという中規模の旅行代理店に白羽の矢を立てたことだ。
これには学年内からも不安の声があがったが、最後は係と学年主任で押し切ったという。
その三つが決め手だったと聞くが、背後には「この生徒たちなら、引率に多少の問題が起こっても何とかやってくれるはずだ」という強力な自信があったらしい。
実際不手際はあった。
二日目の夜のイベント「○○寺△△院の法話と茶席(付録に琴と舞のご披露)」に、管長の許可も得ないまま生徒を上げてしまったのだ。
私たちが正座して静かにまっていると遠くから管長が添乗員を大声で叱りながら、ドカドカとこちらに向かってくる音が聞こえた。
そして会場に一歩足を踏み入れ、
156人の全生徒が静かに正座して待つ様子を目にするなり・・・・・・・・フリーズした。
もちろんその後、管長が上機嫌で歓待してくれたことは言うまでもない(それにしてはつまらない話だったが・・・)。
痛快であった。
家庭訪問 |
某県からの転入生があって初めて知ったのだが、家庭訪問を玄関先で済ませてしまう地方もあるそうだ。
「こちらでは家の中にまで入るって本当ですか?」
と、いかにも迷惑そうに言われてこちらも面食らった。
家の中まで覗かれてはかなわんという気持ちがありありと見えたからだ。
しかしそうした気持ちも分からないではない。
日ごろやりつけない掃除はしなければならない、
お茶やお茶菓子の心配もしなければならない、
おまけにウチの子に限ってはいいことも言われそうにない、
そうなれば家庭訪問は本当にうっとうしいものだ。
「文句を言いたい時は言いに行きますから、そっちは来ないで下さい」
しかし家庭訪問を止めてしまうと、マスコミからは教師の手抜きのように言われるからそう簡単にやめるわけにも行かない。
第一、春、「この一年間、この子はこういうことを目標にこんなことを頑張らせましょう」といっ話をしなければ、いつやったらいいのだろう?
これこそ個性を大切にする教育。
12月頃懇談会で突然「この子はここがダメでした」などといわれても、取り返しがつかないと思うのだが・・・。
しかしやはり、ここは親の迷惑の方が重要なのだ。
本校も来年度は家庭訪問を見直す方向だという。
黙祷・・・