キースの
   お仕事

《中学校教師の7月》


2年生登山

学校登山で山男になろうと思うような生徒がいるだろうか?

訊ねてみたら果たして「山男」という言葉さえ知らなかった。知っていたのは馬場のぼるの「キツネ森の山男」で、そちらの方は私が知らなかったので現物つきで教えてもらった。

私の住む近くには日本百名山に数えられる有名な山がある。
3000mにもなろうとするこの山が私たちの目指す山である。

かつては麓から10数時間かけて登ったというが今はそこまでできない(生徒も、そして率直に言って私たちも、昔の人ほどには根性がない)。

5合目近くまでバスで引き上げ、そこから登山を開始するのだが、それでも山頂までは9時間もかかる。

午前5時に始まる登山は午後2時に至るまで終了しないのだ。とにかく歩き詰め、本当にウンザリする。

しかしその山を、普通の1.2倍くらいの距離にして歩くツワモノたちがいる。
我が愛するアホな生徒たちである。



とにかくまっすぐ登ればいいものをやたら寄り道する。

山ブドウらしいものがあったといっては道をはずれ、杖にいい手ごろな木があったといっては道をそれる。その杖がやっぱりよくなかったと気づいて元の位置に戻しに来たり(! オイ、教室のもの、一度でも戻したことあったか?)、許可もないのに水筒を出して水を飲もうとし、キャップを落としたといってまた沢を下ろうとする。用もないのに繰り返し友達のところまで下ってはまた登る・・・。

「オーイ! せんせ〜、すごいだろう〜」上の方から声がするので見上げたら何かのツルを引きずり出して、男子4人が電車ごっこをしながら登っていこうとする。アホなことだ。

しかし誉めておかないと機嫌を損ねるので、一応返しておく。

「おお、いいじゃないか! 頭のいい人には思いつかない」

楽しいことを見つけ出して気分が高揚しているので、相手は日本語を解さない。





教員はもちろん、他の子どもたちが皆ぐったりしているときも、我がおバカたちは元気だ。

つい1時間ほど前に20mも滑落したはずの生徒が、山頂でカッパエビセンの投げ食いをしている・・・。私は疲労でぐったりとしながらその様子を眺めていたが、突然気づいて大声を上げる。

「○○! 動くな〜〜〜〜〜〜!」

そのわずか50cm先は100mを越える垂直の崖なのだ。

私は肝を冷やしたが、私より数秒早く気づいた同僚は、反射的に「落ちろ!」と思ったとか。

その気持ちもまた分からないわけではない。






二日目の下りで、一人の女の子が岩から滑って捻挫した。

援助要員の私たちの出番だ。

誤解を恐れずに言えば、こんなとき捻挫するのはたいていが体重の重い子である。軽い子は転んでもまず足を傷めない。

今回は65kgほどとのこと。

その子の荷物を一人が背負い、もう一人がその子自身を背負う、その教員の荷物をさらに別の教員が背負う、3人1チームの編成で生徒を麓に下ろすのだ。

荷物運びの二人は自分のリュックも含めそれぞれ2個のリュックを背負っている。しかし65sはない。

私はこうした経験をするたびに、人間の優しさに限界があるのを感じる。

65sを背負わせて20分も歩かせているのだ。「そろそろ代わりましょうか」の一言が出てもよさそうなものである。なのに言えない。

のどもとまで出かかりながら、ついに言葉に出せないのだ。



神様の 選択誤る 重量級 
   「もうそろそろ」の声ぞ恋しき





通知票を書く@

おそらく絶対評価というものは永遠に理解されない。
呉越同舟、同床異夢、あちらが立てばこちらが立たずでその厄介さゆえにいずれは滅んでいくしかないものと私は思う。
しかしやがて滅びるにしても、今はそうしたやり方で書かねばならないから書く。それが非常にきついのだ。

以下、何しろ面倒くさい表記なので時間のない人は読み飛ばして欲しい。



1、単元の評価の方法
 
単元というのは例えば「正負の数」「文字と式」「方程式」といったようなものである。
評価、つまり成績づけはこの段階から始める。評価項目は以下の四つ。詳しく説明するとキリがないので、分かっても分からなくても一応分かったことにして、先に進めさせていただく。

数学への関心・意欲・態度    
数学的な見方や考え方      
数学的な表現・処理    
数量、図形などについての知識・理解。


この四つについて、それぞれ1〜5の五つの数字がつくよう、授業の中で観察し、テストで評価していくのだ。

もちろん同時に数学を受け持つ複数の教科担任で評価が狂わないよう、予め評価規準をつくっておくのだが、これが恐ろしくきめ細かで非現実的なものになってしまう。しかし保護者に対する説明責任という観点から考えると、毎時間評価が行われ、その結果が正確に蓄積されることがぜひとも必要なのである(とマスコミも、そのマスコミに押された文部科学省も考えるらしい)。


例えば、1年生最初の単元「正負の数」ではこんな具合になる。
章の目標,観点別評価の規準(○:おおむね満足できる状況   ◎:十分満足できる状況)

【目標】
正の数と負の数について,具体的な場面での活動を通して理解し,その四則の計算ができるようにする。

・正の数,負の数の必要性に気づき,正の数,負の数の性質や関係を調べることができるようにする。

・正の数,負の数の四則計算の意味を理解し,簡単な計算ができるようにする。

【数学への関心・意欲・態度】
○身のまわりから,正の数,負の数が使われている事例を見つけようとしたり,身のまわりの事象を,正の数,負の数という見方でとらえようとしたりする。

○たがいに反対の性質をもつ量を表す数として,正の数,負の数を用いようとする。

○正の数,負の数の加減や乗除の計算に関心をもち,その計算をしようとする。

○減法がいつでもできることや,加法と減法を統一的に見ることができることなどに関心をもち,これらを問題の解決に活用しようとする。

○正の数,負の数の計算を利用して,具体的な問題を解決しようとする。

◎正の数,負の数を用いると,より広い範囲の事象が簡潔・明瞭に表せたり,処理したりできることを知り,正の数,負の数を活用しようとする。

◎正の数,負の数の四則計算を工夫して能率的に行おうとする。

【数学的な見方や考え方】
○数の範囲を正の数と負の数にまで拡張し,いろいろな事象を正の数や負の数を用いて考えることができる。

○反対の方向や性質を表す場面で,正の数や負の数を用いて考えることができる。

○これまでの計算方法をもとにして,正の数,負の数の計算を考えることができる。

○減法がいつでもできるようになることを,計算の可能性が拡大したという視点で見ることができる。

○加法と減法,乗法と除法を,それぞれ統一的に見ることができる。

○仮平均など,正の数,負の数の計算を具体的な場面で利用することを通して,そのよさに気づく。

◎いろいろな事象を正の数,負の数を用いて表すことや計算を通して,負の数を用いて考えることのよさを見いだすことができる。

◎正の数,負の数の計算を能率的に行う方法を考えることができる。

以下、
【数学的な表現・処理】
【数量,図形などについての知識・理解】
については略

 

表の中の○とか◎とかはいったい何なのかということが当面の問題である。これは簡単に言うと○がついたものについて達成できていれば「3」以上をあげましょう、達成できていなければ「2」以下ですよ、という意味である。

また◎は、このレベルまできていれば「4」または「5」ですよ、という意味だが、さてどこからが「5」なのかは各学校ごとに決めることになっている(もちろん「1」と「2」を分ける規準も学校ごとつくらなければならない。


2、各時間の評価の方法
もちろん毎時間30数人の生徒についてこの4項目をすべてチェックするわけにはいかない(何しろ一人でやっているのだから)。したがって「正負の数」全25時間について、第1時(一番最初の授業の時間)には「数学への関心・意欲・態度」と数学的な見方考え方についての評価、第2時は「数学的な表現・処理」と「数量、図形などについての知識理解」について評価しましょう、と決めてやっていくことになる。

そんなふうにしながら25時間中に、
数学への関心・意欲・態度    数学的な見方や考え方     数学的な表現・処理    数量,図形などについての知識・理解
をそれぞれ10回程度評価することになる。


3、各項目の統合
さてここで問題。
「数学への関心・意欲・態度」10回分の成績が次のような生徒の成績は総合的にどれくらいとしたらよいのだろうか?
3,4,3,3,4,4,5,5,3,3

実はこれも各校独自の方式によって決めることになる。
(例えば平均を出して3.7、小数以下を四捨五入して「4」と評定してもいいし、もっとも頻度の多い「3」をこの生徒の成績としてもよい。)
これが第一のハードルである。

仮に、この場では「数学への関心・意欲・態度」のハードルを何らかの理由によって「4」でクリアしたことにしよう。同様にして「数学的な見方や考え方」が「3」、「数学的な表現・処理」は「3」。数量,図形などについての知識・理解が「5」だったする。
その場合、四つの項目にそれぞれ

4、総合成績
4,3,3,5となったこの生徒の「正負の数」の総合成績は、どうつけたらよいのだろうか?
これが第2のハードルである。
これも平均を四捨五入するなり、頻度の多いものをとるなり何らかの方法でクリヤしなくてはならない。


5、通知票は?
さらに
「正負の数」が「4」だったとして、その次の「文字と式」が「3」、さらに次の「方程式」が「2」だったとき、この生徒の「数学」の成績はどうつけたらよいのか?
これが三つ目のハードルとなる。
三つの単元の平均値である「3」は一つの答えになりうる。
ところが、
「いやいや、この子は結局一学期を通して『4』『3』『2』と成績を落としてきたのであって、現段階の力は『2』と見るべきだ」ということを言い出す人は必ずいる。

「そうではない、『4』が相当だ」という人もいる。
彼の言い分はこうだ。
「『正負の数』の授業時数は『文字と式』や『方程式』と比べるとほぼ二倍である。したがって成績の平均は(『4』×2+『3』+『2』)÷4=『3.2』でなければならない。もちろん四捨五入してしまえば結局『3』でしかないのだが、中学校に来たばかりの生徒に選択しうる低い方の成績を与えるのはいかがなものであろう? 通知票は冷徹であるより励みとなるものであるべきである。どのように計算しても『3』ならば仕方ないが、そこに小数点以下の可能性でもあるならば、彼には上の成績を与えることこそ教育的ではないか」

そしてついに
「3」「4」「2」という三つの成績での攻防が始まるのである。
 




私たちはこの一学期間、毎日名簿を手に評価し続けた。
「ゆとり教育」の名の下に、あまりにもゆとりのない授業が行われている。それが学校の現実である。

優秀なるマスメディア諸君はこの現実をどう解釈するのだろう?