キースの
   お仕事

《中学校教師の10月》


文化祭

何が文化なのかという本質的な問題は別にしよう。
とにかく日頃の学習の発表の場、それが文化祭である。
内容としては
文化部の発表
理科・美術・技術家庭科・国語の学習発表、
クラスとしての総合的な学習の発表、
と、まあ普通はそんなところか。

美術部・演劇部にはほとんど唯一の発表の場だし、合唱部・吹奏楽部も校内での正規の演奏会はこれ一回。生徒会役員にとっても、一年でもっとも情熱的に行える仕事である。




開祭式

本校はなぜか開祭式に凝る伝統があり、生徒会役員の気合も一点ここに入る。
吹奏楽部員で生徒会役員の子は才能がなくても毎年ファンファーレを作曲しなければならないし、豆電球で飾られるようになってしまった文化祭テーマのシンボルマークは、30年前の場末のバーみたいな物悲しさでキラキラと輝いている。正面に掲げられるテーマパネルはベニヤ板6枚という巨大さで、これをつくるだけでも十数時間があっという間にたってしまいそうな代物なのだ。

生徒会長の開祭宣言→ファンファーレ→テーマパネルの提示→シンボルマークの提示→文化祭テーマの提示
という一連の流れは毎年変わりないが、それをいかに彩るかが役員の腕の見せ所。

一昨年は風船300個でステージを満たすというアイデアで高価なヘリウムボンベ一本を軽く空にしてしまい、おまけに天井に溜まった風船のために照明が使えなくなるという見通しのなさで顰蹙を買った。

昨年は、ならば安価なドライアイスということで、役員の中から高い所の好きな生徒(どういう子だ?)を募って、天井裏に登らせた。
イメージとしては結婚式の新郎新婦入場とか歌謡ショーのオープニングのそれだったが、あんなものは特殊な装置があって初めてできるもの。素人が洗面器とポットを持って天井裏に上がったところでたいしたことができるわけはない。
結果、ステージ左上からチョロッと煙が流れただけで、気がつかなかった生徒もいた。
悲しい結末である。


今年はついにシャボン玉一万個とかで、扇風機4台、焼き魚用の金網6枚(これ1枚で同時に144個できるはずだった)、シャボン液を満たすプランター4個、子ども用シャボン玉セット40等々と結構なものが用意された。
シャボン玉144個が塊となって飛んで行くというご愛嬌はあったものの、20人でシャボン玉を吹くという人海戦術は効果絶大で、それなりの成果は上げたが、気の毒だったのは生徒会長。

何しろステージ上は石鹸水の水浸し、「挨拶」のためにステージに駆け上がった彼は、中央で停止できず2m以上滑った上に転倒して下手に消えかかったからである。




何を研究してたんだ?

生徒会役員でも文化部でもない生徒でも果たさなければならない仕事がある。
美術作品・技術家庭科作品・習字作品・理科の「一研究」の提出である。
その「作品を出させる」ということが非常に大変なのだ
丁寧な教科担任は文化祭前にその都度提出状況を報告してくれるが、学級担任としては「教科のことは教科担任でやってくれ」という気持ちもあって今一歩熱心になれないでいる。

今年は学級展示で大変だったこともあり、特にチェックが甘かった。「提出しました」という本人の言葉をうっかり信じた理科の一研究が一人出ていないのだ。

そのことに気づいたのが文化祭前日の夜で、さっそく電話すると、
「スミマセン、ウソつきました」
「オイ! 明日親が来てオマエの作品なかったらどう思うと思う?」
「大丈夫です。間に合います」
ところが翌朝、来てみるとあるべきところにやはりない。
「あ、あります。A君との共同研究ですッ!」
見るとA君の作品の名前の下に黒々と大きく、
『共同研究○○○○』と書いてあった。
オマエ、一年かかって3分で「一研究」やり遂げる方法考えたってワケ?




無残な作品

人間の不器用さというものは如何ともし難いと思うときがある。
例えば選択技術の木工作品。釘が突き出ていて本が次々と刺さりそうな本立てはまだしも、「心休まるベンチ」という作品は座るどころか鳥もとまれない。
「作品にさわらないで下さい」という注意書きがなくても、怖くて誰も触れない…。

CDケースはサイズを間違えたらしく、本人に言わせると、
「どうしても入らないときはCDの方を削ってください」
なのだそうである。

絵の方も無残で、今年は「コンクリートの橋の一部」というのがあり、全面ほとんど灰色で終わっていた。さぞや本人は……と思ったが意外なほどあっけらかんとしており、傷ついた様子もない。
ところがこういう子に限って、悲しいことに兄弟が上手過ぎたりもする。

この生徒の場合、1年生の弟が金賞だった。
「いやあホント、すごいや、すごいよねェ」と周囲の生徒に同意を求める彼に、友だちが一言、
「オマエ、兄貴としての誇りないのォ?」
彼は一瞬考え込むが、そういったことはあまり問題でないらしい。
さすが「コンクリートの橋の一部」の作者ではある。