2000.02.04

ときどき私は、マスコミは本気で教師に喧嘩を売ってるんじゃないかと思うことがある。2月3日付の中日新聞の社説「どうつくる『開かれた学校』 」などその典型だ。

 「学級崩壊」や子どもたちの荒れに対処するには、保護者や地域住民との協力関係が欠かせない。「開かれた学校」をつくるため、まず教職員が心を開いてほしい。   石川県で開かれた日本教職員組合、山口県で催された全日本教職員組合のどちらの教育研究全国集会でも、「開かれた学校」「保護者、地域の人たちとの共同」といった言葉が、現状打開のキーワードになっていた。
うん、そうか。

(中略)
 開かれた学校づくりは、学校側が進んで具体的な教育目標や学校経営の方針、伸ばしたい特色、各教科それぞれの到達目標と各教員の指導計画、全般的な到達状況などの情報を明確に示すことから始まる。
毎日それを書いて提出しろということだな。

 「問題を外部に漏らすな。校長や教頭の評価が下がる」というような姿勢でいると、深刻な問題が表面化したとき、保護者からも地域住民からも解決への協力を得るのは難しくなる。まして公立学校は、納税者に支えられているのを忘れてはならない。
私たちが学校の問題を公にしたがらないのは、常に児童生徒の個人情報が、憶測とともに流れ出すからだ。校長や教頭の評価を気にする教師なんてそうはいない。できれば下げてしまいたいと思っている教師はいるかもしれんが

 説明責任を果たすことも大切だ。まず保護者の相談や苦情にきちんと対応すべきだ。
相談や苦情にきちんと対応していないというのは、どういうことだろう? 続く文では、そもそも相談や苦情を学校に持ちこんでいない事実を語っているのに。

教研集会で親から「学校はなんとなく怖い」「PTAの席では建前しか言えない」という発言があったが、教員と本音の話ができる関係をつくってほしい。とくに父親には、積極的に教育への参加を求めたい。

「なんとなく怖い」という気持ちにどう対処したらいいんだろう? おいで、おいで、こわくないよ。さあ、何もしないから、言いたいこと言ってごらんと、一人ひとりの親と話をすればいいのだろうか? それがいっぱしの大人に対して、教師が取るべき態度なのだろうか。

「PTAの席では建前しか言えない」その圧力は、教師がかけているのだろうか?

「父親の参加を求めたい」というのは要するに押しの弱い女親ではダメだから、男にビシバシ言わせろということだろうか? そもそも親が学校に言いたい本音の質がまったく問題にならないのはなぜだろう?

 開かれた学校づくりは、教員をますます忙しくするとの声を聞く。休日や夜間の仕事が増えるのは間違いない。会議の整理と時間短縮、電子メールの活用などを工夫してはどうか。国、自治体も支援してもらいたい。

ここまで来て私は完全にキレてしまいそうになる。
休日や夜間の仕事が増えれば、その分「休日や夜間の仕事」のための会議や計画のための時間が増えるのだ。「会議の整理と時間短縮」なんて論理的にもできるはずがない。その上「電子メール」とは!!

電子メールで会議に参加できるほどネットやキーボードに熟達した教師はそうはいない。そもそもコンピュータを持っていない教師に、とにかく買え、そして勉強しろと言う方が無理なのだ。いまPCに熟達している教師は、全員個人の趣味の上に知識や技能を蓄えたにすぎない。そうした個人の支出と趣味に支えられているだけなのだ。会社から支給されたノートパソコンを持ち、社に戻れば机上に一台ずつのPCがあるあなたたちとは、まったく違う。

 文部省は学校と地域を結ぶため、二〇〇〇年度から自治体の判断で各学校に評議員を置けるようにした。
 評議員は校長が推薦することになっているため、どちらの教研集会でも批判が出た。校長の権威付けのために地元のいわゆる有力者を評議員にするのなら、形式化が著しい現行教育委員制度のミニ版化する不安が大きい。
とはいえ、推薦に当たって教職員、保護者の意見を聞くとか、学者、企業経営者、弁護士、福祉関係者といった多様な専門家を集め、議論には教職員、PTA代表も加わるような運営を図るなら、学校と地域を結ぶパイプ役として期待できるだろう。
おいおい、評議会は学校ごとに置かれるんだろ? 田舎の小規模校(小学校なんか小規模校だらけだが)のそれぞれに、無料で参加してくれる弁護士や学者をどこで調達すればいいんだ?

そもそも推薦にあたって教職員や保護者の意見を求めなくて済むところに、評議員制度の特色があるというのに推薦に当たって教職員、保護者の意見を聞く」など、文部省も各教育委員会も絶対認めるはずはないじゃないか?

白状したまえ、とにかくなにか言わなくちゃ記事にならないから、思いつきを書いているだけなんだと。






2000.02.05


3世帯家族なので誰が買ってきたか分からないのだが、部屋の隅に「サンデー毎日」(2月6日号)が落ちていたのでパラパラとめくり始めたら、
『母親を「ババア」「お前」と呼ぶ。フツーの高校生』
と言う記事が出てたので紹介する。

それによると、
母親を「ババア」「お前」と呼ぶ普通の高校生が急増しており、
3年前のリクルート社の調査
では分からなかったが(他人のフンドシを借りてきたわけだ)、今回首都圏の高校生44人(うち女子4人)に校門の前で「両親を何と呼んでいますか」と尋ねてみたら(安易な取材だ。校門の前で44人ぽっちに聞いてどうすんの?)、母親については6人が「ババア」と呼んでいる(ケンカのときだけえも含む)と答え、さらに「お前」「おばさん」も含むと10人にのぼった。
のだそうだ。
とどめはこの人、昨年プロ野球界の話題を独占した西部ライオンズの若きヒーロー松坂大輔選手(19)だ。
といって松坂が母親を「お前」と言ったとか言わなかったとか、延々と書かれる。
フツーの高校生の話をするのに松坂を持ってくるところがすごい。

私は高校時代の彼も含め、松坂大輔をフツーの人だと思ったことは一度もない。延長18回を一人で投げぬいたり、土壇場で登場して仲間に霊気を与え、完全な負け試合をひっくり返してしまう。おまけに最後はノーヒット・ノーランだ。プロに行ってからは新人の癖にパ・リーグの超一流の打者を相手にまったく引けを取らない稀有の投手が、フツーの人であるわけがない。

この風潮をどう見るか(どう見るんだ?)
「とんでもな話だ!」と一喝したのは、大正生まれの政治評論家、細川隆一郎さん(81)。その通りだ!百喝くらいしてほしい。
毎日新聞生活家庭面で辛口コラム「オバさんの逆襲」を連載しているコラムニストの小林洋子さんは、「不愉快です。ヨソさまの子どもが親に向かって言うのを耳にするだけで気分が悪い。一日が憂うつになります」とやはりバッサリ。当然だ。
「そういう子どもはしつけの悪い犬と同じで、飼い主と犬の問題だからと放っておけないんです」うまい言い方だ、しつけの悪い犬は外に出すな。

それに対して
少し下って昭和12年(1937年)生まれの作家、安部譲二さん(62)
「おばさん」という呼び方については、「ぼくも50歳過ぎてからは母親(玉枝さん)のことを玉ちゃんなんて呼んでるが、その方がインティメート(親密)でいいからそうした。『おかあさん」じゃないからって、一律に無礼と決めつけるのはヤボだよ」と理解を示した。うーむ、この辺が世のおじさんたちの「常識」に近いかも。
ナロー、オチョクっとんのか?
社会的に成功した50歳の男が80歳の母親を「玉ちゃん」と呼ぶから、しつけ盛りの子どもも母親を「おばさん」と呼んでいいだと!?

それが常識なら世も末だ。大人がそうだから子どももそうでいいというなら、タバコも酒も選挙権も被選挙権もみんな認めてしまえばいい。 3歳児にも運転免許を持たせろ!


一方では「それほどのことでもない」という若い世代の声もある。
そもそもこういうことを若いやつに聞くな。「それほどのことでもない」と答えるに決まってる。
奈良女子大大学院博士課程で家族社会学を専攻し(だから正しいということかな?)
新聞コラムなどを連載している羽渕一代さん(28)は、
「親に反抗的な態度をとるのは当たり前の通過儀礼のひとつで、社会への自己表現として、むしろあってしかるべきです」
親を「ババア」と呼ぶのが七五三や成人式と一緒だとは知らなかった。
まさか子どもが親を「ばばあ」と呼んだら「お赤飯」を炊いてお祝いせにゃならんのだろうな?

世の中を見回せば官僚のスキャンダルや不況のニュースばかり、「大人は信頼できない」と子どもたちが反乱を起こしたのとも考えられる。
だったらやっぱり「ババア」と呼ぶのは正しいわけだ。



こんなアホ話に比べたら松坂投手の母親の言葉は、天の声のようにすばらしい。
『マスコミや第三者がいるところでは、家族となごんでいる雰囲気を見せたくないのかもしれません。勝負師には似合いませんから』
『ちっちゃく甘えたい盛りに十分、愛情を与えたぞって自信があるから、今になっておばちゃんと呼ばれても不快じゃないのかも』

いかにもその通りだ。

『甘えたい盛りに十分、愛情を与えたぞって自信がある』……そういう家だから、ああいう男が育つ。
『甘えたい盛りに十分、愛情を与えたぞって自信がある』
……それだけの信頼感で結ばれた母子だから「おばちゃん」でもいいのだ。

ここまで来てやっと先の羽渕一代さんの言い分が分かった。
松坂大輔のように幼稚園・小学校・中学校とずうっと良い子であった日本の子どもたちは、そのままでは大人になれない。「おばさん」と呼んで乳離れさせるべきだということなのだ。

申し訳なかった。
私はてっきり、学級崩壊だ、いじめだ、家庭内暴力だといった恐ろしいことばかり起こるどこかの国の話をしているとばかり思っていた。
その通りだ、日本の子どもたちは何も問題のないいい子ばかりだ。だから、「ババア」「おばさん」くらい認めてやらなくちゃナ。
(ホンキにするなよ!)








2000.02.10




よくぞ来ましたまってたホイッと、歌でも出そうなくらいうれしい記事が出たので全文転載させていただく。
(枠つきの特別サービスだ)

茶髪シャットアウト 洛西高 校則違反で生徒60人帰宅さす (京都新聞)

 京都市西京区の京都府立洛西高校で、髪を染めた「茶髪」の生徒六十人が校則に違反したとして、髪を染め直すまで学校に入れない「再登校指導」で帰宅させられていたことが九日までに分かった。

 同高によると、校則の服装規定でパーマや染髪を禁止している。

 今月七日から十日までを「総合指導」期間として、登校時に生徒指導担当教諭と各クラスの担任教諭計二十数名が校門前で、茶髪の生徒を黒に染め直すよう指導して帰宅させた。七日は約六十人、八日は約三十人、九日は約十人が帰宅させたという。

 一部の生徒は「以前は指導されなかった」「自由を縛るのは納得できない」と抗議し、応接室で校長らと話し合う場面もあった。

 同高は、校則を守る意識を高める狙いで毎年五回、一週間程度の再登校指導を行っている。生徒や保護者には事前に通知し、毎回数人を帰宅させていた。今回は、校則違反があらたまらないとして、厳しく点検したため、帰宅させた生徒が大幅に増えたという。

 一部の保護者からは「学校で授業を受ける権利を侵害しており、教育的な指導ではない」と抗議の声も上がっている。

 高田渉校長は「授業については補習を行う。今後も生徒との信頼関係を大切にしながら、校則を守るよう指導を進める」としている。府教委によると、府立高校の半数で、頭髪や服装の校則違反に対して再登校指導を行っているという。

 教育評論家の斉藤次郎さんの話 検問のように校門前で指導するのは行き過ぎ。どんな子が入ってきても育てていこうというのが公教育だ。なぜ茶髪にするのか、子どもたちの声に十分耳を傾けたうえで、指導すべきだろう。今回の問題だけにとどまらず、子どもを管理する日本の教育のあり方を真剣に問い直さなければならない。

[京都新聞 2000年2月10日]

もう、ほんとうに何度読んでも涙が出る。ここまで完璧な定型文書は、そうはない。このタイプの報道が学校をダメにし、子どもを完膚なきまでにつぶしたのだ。
マアしかし、ひとつひとつ見ていこう。

まず子どもの発言
「以前は指導されなかった」
その通りだ。以前は指導するほどのこともなかったからね。
「自由を縛るのは納得できない」
学校ってとこは一日の大半を座って過ごす、ホントはものすごく不自由なとこなんだ。そんなに自由が好きなら、学校辞めて、野山で遊んでろッテ。

それにしてもこんなアホなことにつきあうのだから校長も人格者だ。教育者というのはそういうものかもしれないけど。


そして保護者
「学校で授業を受ける権利を侵害しており、教育的な指導ではない」
本当にそんなこと言う親がいたとしたら、それは成績に響くと困るからと必死になっているやつか、息子にせつかれ、息子が怖いばかりにいやいや来たやつか、常習性のクレーマーか、保護者のフリをしたニセモノか
それらのいずれかだ。
学校と対決してまで、子どもの髪型や服装を守ろうとする親なんてめったにいない。

私だったら「これでやっと安心して子どもを学校にやれる。これまで精一杯躾けたのに、あの高校でバカなガキどもに汚染されるのはカナワンと思っていたところだ 学校さんありがとう」
そんなふうに思うはずだ。そしてそんな保護者はたくさんいるさ。
誰だって単なる通過点の高校の改革よりも我が子の方が大切なのだから。



それにしても評論家斎藤次郎のコメントはご粗末じゃないか。
どんな子が入ってきても育てていこうというのが公教育だ。
小中学校じゃない。高校だぜ?
そこはまず、「勉強しようという意欲と姿勢を持った子ども」だけが来るところだ。なんでもかんでもいらっしゃいというなら、義務教育でもないものに多額の税金をムダ遣いされる納税者がおこるぜ。(斎藤次郎は税金払っとらんのか?)

なぜ茶髪にするのか、子どもたちの声に十分耳を傾けたうえで
この人は、わけを聞けば教師が納得できる答えが得られると、本気で思っているらしい。やれば「表現の自由論」と「みんながやってるモン論」の横行する永遠の水掛け論だ。われわれはすでにやってきた。
十分聞いてから無視するよりも、最初から突っぱねる方がよほど親切だと思うが、そうじゃないか?卑しくも教育評論家を名乗るなら、なぜ茶髪にするのか、明確な理由を子どもに代わって語ってくれ。理由なんかない。やりたいからやってる。他に理由があるというなら。

子どもを管理する日本の教育のあり方を真剣に問い直さなければならない。 どこでもいい、手近な高校を5〜6校見学してきてくれ。 私なんぞは高校が生徒をサッパリ管理できないことにイラつくが、斎藤次郎はそれでもし過ぎだという。

どうでもいいが、あの「ふざけたガキどもが横行し、きちんとした子どもたちが肩身を狭くしている高校」に、 私の大切な税金を使うことだけはやめてほしい。

「個性ある学校づくり」の一環として、真面目で素直で一生懸命勉強する良い子ちゃんだけの高校をつくり、私の納税分だけはそちらに回してほしいのだ。たとえ10円でも20円でも、「その他の高校」との間に格差をつけてくれたら、私は税金を2倍払ってもいい。





2000.02.23


しばらくいい記事がなかったが、ちょっとステキなのがあったので書いておく。


日本の親は影が薄くないか(2000/02/21 中日新聞)

 少年事件や学級崩壊が起きると、必ず家庭の教育力の低さが問題になる。
「少年事件や学級崩壊が起きると、必ず」問題になったのは「学校の管理教育と受験体制」だったように思うが、いつからこうなったのだろう?
まあいいや。

庭での「心の教育」を充実させるためには、まず親が自らの教育力を養う勉強をしよう。

東京で高校生と中学生が強盗殺人の疑いで逮捕された。神戸の児童連続殺傷、栃木の女性教員刺殺と、少年事件のたびに親を責める声が上がる。 学級崩壊についてのPTA全国協議会のアンケート結果では、PTA会長の六割近くが親の教育力低下に主な原因があるとみている。
PTA会長が言うから正しいのか?

文部省が「子どもの体験活動研究会」に委託して、日、韓、米、英、独の五カ国の都市部で、小学校五年生と中学二年生を対象に行った国際比較調査をみると、たしかに日本の親は教育力が乏しいようにみえる。「弱いものいじめをするな」「うそをつくな」「ひとに迷惑をかけるな」といった生活倫理を、日ごろ親から教えられていない子どもの割合は、日本が一番多い。
そりゃそうだ。あれこれうるさく言うと子どもの創造性や自主性は育たないと脅迫されれば誰だって何も言わなくなる。
「テレビを見過ぎるな」「もっと勉強しろ」といった注意さえ受けていない点でも日本は一番だ。
アレ? 日本の子どもたちは朝から晩まで「勉強」「勉強」と言われて追いまくられてるんじゃなかったのか?今年から変わったのか?

 では、「あれはいけない」「これはだめ」式の締め付けをもっと厳しくすればよいのか。
「あれはいけない」「これはだめ」の話をしているわけじゃない。「弱いものいじめをするな」「うそをつくな」「ひとに迷惑をかけるな」の話をしてるのだが・・・

 「友達と仲良く」「先生の言うことをよく聞け」と親からよく言われている子は米国が一番多い。その米国で「安全で、規律のある、麻薬のない」学校が政府の教育目標の一つになっているところをみると、親の注意が直ちに「心の教育」になっているとはいいにくいのではないか。
それはそうだ。だから日本の子どもたちが親の躾不足で社会性が乏しくなったとは言えない。

 そうした点に留意しつつも、なお日本の子どもに社会性や規範の順守といった意識が乏しいことは否めない。先の国際比較調査で、いじめを注意したり、体の不自由な人やお年寄りの手助けをしたことが「何度もある」子は日本が一番少ない。

親には、幼児期から子どもに自らの価値観を伝え、話し合いを通して社会性や規範意識を育てる義務がある。
おい! 本気か? 幼児と話し合うって。 話し合いというのは相手の意見に従うこともあるってことだろ? こちらの「価値観を伝え」、幼児が「ヤダ」と言ったら3回に1回くらいは譲ってやらにゃいかんのか? だいいちオッパイやめたら「幼児」だろ?どーやって話すんの?

核家族の世の中では、子どもとどう接するか、適切なやり方を親が自然に身に付ける機会が豊かとはいえない。しつけと虐待の区別さえつかないような親が増えている現実もある。
だからマスコミの一言一言が重要なのだ。分かっているんじゃないか。

自治体は、例えば両親学校といった施設を設け、子どもとの意思疎通の仕方などを学ぶ場にしてはどうか。年配のボランティアによる「子育て相談員」を地域に置くのもいいだろう。
「ああ言えばこう言う辞典」に来る方がマシだ。しかしマスコミの方が教育力は高いぞ。そちらの頼め。

日本IBMなどが実施する、小学生の親に在宅勤務を認めるといった子育て支援も広げたい。
賛成だ! 教師を在宅勤務にしろ。

子どもが社会性や規範を身に付ける場は家庭だけではない。
そうだ。現代の子どもたちはメディアの中でこそ学ぶ。

家に帰っても親がいない家庭が増えている中では、塾以外に子どもの居場所を確保しなければならない。
一例だが、地域の「子どもクラブ」育成にもっと力を入れるべきではないか。

の影が薄くては家庭での「心の教育」は成り立つまい。
存在感のある親になるには自発的な勉強が必要だ。
親は勉強やってるって! 新聞見たり雑誌見たり、テレビのワイドショーなんて、それこそ目を皿にして真剣に学んでるって!
その結果がこのザマだ。

家庭の教育力が自然に備わるものではないことを国、自治体は広く住民に知らせてもらいたい。
おい、お前! 国や自治体よりもはるかに広報に強い組織知らないのか?
少しはマスメディアの影響力の勉強もしてくれ。







2000.02.29



今日で2月が終わる。
今月は4日書いただけだった。
忙しくもあったが、これといった教育ネタもなかったからしかたない。

いや、ほんとうはあったのだ。
しかし事件が思わぬ方へ行ってしまい、集まるべき記事が集まらなかった、それが正確なところだ。
それは京都の小2殺人事件と新潟の少女監禁事件である。

このふたつの事件は犯人が割れたときから、常に並べて考えられた。
時期的にも、猟奇的な犯罪である点も似ていた。
そしてそれ以上に、私たちはそこに何らかの類似性を感じ、それが耳目を引き寄せたのだった。
その類似性とは何だったのか。

「週刊新潮」(7号:2月17日付)はそれを
「こちらも『母子家庭』21歳浪人男の京都小2残酷殺害」
と表現した。
母子家庭に問題ありと感じたのだ。

面白いことに、「週刊新潮」のこの号を宣伝する新聞広告は『母子家庭』の部分が『問題家庭』となっていた
「こちらも『問題家庭』21歳浪人男の京都小2残酷殺害」
この辺の事情はわからない。『母子家庭』だから事件を起こしたという印象を新聞が嫌って勝手に変えたのだろうか?
それとも私の購入した『週刊新潮』《7号》と別の7号があるということなのだろうか?
いずれにしろ新聞は、その類似性を問題家庭に求めた。

私は待っていた。
2つの事件の類似性はその犯人そのものの類似性だと信じていたからだ。
事件自体や家族が似ているのではない。
年齢こそ違え、二人は私の目にソックリに見えるのだ。
おそらく私の感じ方は間違っていない。マスコミもやがてそのことに気づくだろう。そして二人の犯人に関する情報が大量に流れこんでくる。そのとき、それは極めて教育的な問題になるはずだった。

だが、もうこれ以上は言いたくない。
この事件は最後になって、警察の不手際という、極めて教育とは縁の薄い類似性の世界の話になってしまった。
無念である。





もう一つ。


2月25日(金)に不幸な事件があった。


「学校にナイフ」悲劇また 刺された中一死亡 殺人容疑中2送検へ 芦屋中(西日本新聞)


 福岡県芦屋町中ノ浜の町立芦屋中学校(高木正雄校長、五百六十三人)で二十五日、一年の縄田啓太さん(13)=同町山鹿=が二年の男子生徒(14)にナイフで腹部を刺された事件で、縄田さんは同日夜、出血性ショックで死亡した。折尾署は、殺人未遂などの現行犯として逮捕していた二年男子を、殺人容疑に切り替えて送検する。

校内で中学2年生が1年生を刺し殺した事件である。
それにもかかわらず、
マスコミの取り上げ方は極めて小さかった。

あまりにも軽く扱われたことにショックを受ける事件だったが、その後の情報もないため、これについても書かない。


今日は400年に一度という特異日

次の特異日までずっと黙っていたい気分だ。