2000.0303

中学生322人分答案用紙盗難 車中から 北九州

[西日本新聞2000年3月2日]



 

一日午前八時十五分ごろ、北九州市八幡西区永犬丸の路上で、同区の市立千代中学校の女性教諭(42)が、駐車中の軽乗用車から答案用紙の入ったバッグが盗まれているのに気づき一一〇番した。
 八幡西署の調べでは、女性教諭は子どもを保育所に預けるため車を駐車。五分後に戻ったところ、車の助手席の窓ガラスが割られていた。盗まれたのは、二月二十九日に行われた音楽の学年末試験の答案用紙で一、二年生三百二十二人分が入っていたという。同校によると、答案用紙などは学外に持ち出さないよう同市教委が指導していたという。




記事はこれだけである。したがって私も簡単に記す。

答案用紙を校外に持ち出さないとしたら、採点はいつやればいいのかということ。
採点を学校で行うとした場合、保育園児である自分の子は誰が迎えに行けばいいのかということ。
以上2点である。

社会は教員のために、次の二つのうちのどちらかを用意すべきだ。
@採点専用教員
A装甲車






2000.03.07



超人的な一人の教師の努力によって、一人の子どもの人生がすくわれたという例は少なくない。
例えば「二十四の瞳」の大石先生などがそうであろう。


子ども救うのは強い信念 「崩壊家庭」粘りの訪問 久留米の元校長体験寄せる
[西日本新聞2000年3月6日]



 本紙の連載「親と子―悲劇の断面」を読んだ福岡県久留米市の元小学校校長、長谷川富士男さん(68)から、取材班に手紙が届いた。福岡市近郊で起きた中学生兄弟による母親傷害致死事件。母子を救えなかった周囲の苦悩を連載で知り、参考になればと、自身が同じ境遇の子どもと向き合い立ち直らせた経験がつづられていた。長谷川さんは「子どもを守るという信念が大事残された兄弟には十分なケアを」と願う。

 長谷川さんがアルコール依存症の父親からの暴力などに苦しむ女児の家庭と接するようになったのは十年ほど前。久留米地区の小学校の校長在職中、当時五年の女児が給食費を滞納したことから「おかしい」と思ったのが発端だった。

 女児は、両親と中学生の姉の四人家族。滞納をきっかけに不登校になった。校長自ら家庭訪問を繰り返し、父親が勤務先の倒産で酒浸りになったことを知った。訪ねても「何の用だ」と父親は泥酔して暴れた。長女は家出を繰り返していた。

 根気強く訪問を続けた。
朝も自宅を訪ね、父親を諭した。
家出する長女の捜索にも立ち会った。
姉妹は少しずつ登校するようになった。
近所の児童宅を回り「一緒に遊ばせてほしい」と地域の親たちに協力を求めた。

 一年後、父親の症状は治らず、母子は同居を拒んだ。福祉事務所などと相談し入院を説得した。「無理強いすれば人権問題になる」。周囲は心配したが、自ら保証人になって父親を入院させた。
 入院先への見舞いにも付き添った。「子どもは最初、父と離れたくないようだったが、納得してくれたと思う」。父親はその後、病死。母親は深夜労働に携わり、姉妹は児童施設に入った。しかし、長谷川さんら周囲の励ましで高校を卒業。現在は母子で大阪に移り住み、姉妹は介護の仕事などをしているという。

 長谷川さんは教師時代に不登校児らと接し、挫折も繰り返した。手紙の家庭は「たまたま大事に至らなかった例」と断りつつ、教訓として
(1)児童から早く危険信号を見つける
(2)親子と信頼関係を築く―ことが大切と指摘。

「信頼があればプライバシー問題にも発展しない。そして何より周囲の協力が不可欠。地域社会全体で取り組むべき問題ではないか」と話している。

素直に読めば良い話である。
しかしこの記事を読んで「先生がここまでやってくれればウチの子もあんなふうにならずにすんだ」と思う親も少なくないだろう。「教師の質の低下」という言葉は、まさにこうした教師の努力が行われなくなったという意味でもある。

だが、多くの現職教師は次のように考える。
「こうした努力は、問題を抱えた子が、クラスに2〜3人しかいない場合にのみ可能である」と。

長谷川氏は校長だったからかえって一人か二人の児童に力を注ぐことができた。しかし今や学級は40人近い生徒が一斉に危険信号を発する修羅場なのだ。教師が同時に心を痛めなければならない生徒の数は、担任個人の能力をはるかに超える。そうした数に対応できないという意味では、確かに教師の能力は低下した。

記事から垣間見る長谷川氏の手紙には、そうした事情に配慮した様子がある。しかしそれにも関わらず、この記事には危険なにおいがする。
教師が努力を惜しまなければ、学校は必ず良くなるという示唆,、つまり、今日の学校問題の責任は教師にあるということである。







2000.03.08


教頭というのはひとりでやってる総務課みたいなもの、早い話、雑用係だ。
その教頭たちが音を上げている。



教頭先生の多忙ぶりが分かる 〔3月8日 東奥日報]

 

県内の中学校教頭の四八・四%が「平日で十二時間を超す勤務が常態化」しており、四五%が心身の不調から「定期的に病院に通っている」など、学校内の“中間管理職”である教頭がハードワークにさらされている実態が、県小中学校教頭会(高坂義則会長)の調査で浮き彫りになった。

忙しさに追われる学校に教員を増やしてほしいと望む声は、一線教員ばかりではなく教頭先生たちからも高まっており、同会も毎年、教員の配置改善を県教委に要望している。


 調査は昨年秋、県内小中学校の全教頭を対象に行った。回収率は小学校が九八・一%で中学校が九八・四%。

 平日の平均的な勤務時間を尋ねたところ、一般的に中学校の方が小学校より一時間ほど長い傾向にあった。中学校では九三%が「十時間以上」と回答。「十一−十二時間」「十二−十三時間」の順に多く、十三時間を超すケースも一五・六%あった。小学校の「十時間以上」は八三・七%で、「十一−十二時間」「十−十一時間」の順。十三時間以上は四・三%だった。

 調査に対して各教頭からは「朝一番に学校に来て、帰りは戸締まりの確認をして、疲れた足取りで最後に下校」「勤務時間が十四時間半の人もいる」「異常な状態。早く解消しないと大変な事態になりそう」などの声が寄せられた。

 教頭職とともに、時間割に定められた授業を持っているのは、小学校で七五・二%、中学校で九七・九%だった。週当たりの授業数は小学校で「三−四時間」、中学校では「七−八時間」が最も多かった。「授業なし」と答えていても、教員が出張や病欠の際には補欠で教壇に立つのは当たり前で、「子どもたちと接する教育的意義は大きいが、多忙さに拍車が掛かるため“痛しかゆし”です」(ある小学校教頭)との声もある。

 激務から心身の不調を訴える教頭も多く、「定期的に病院に通っている」のは中学校で四五%、小学校で四〇・二%だった。

調査には「小・中規模の学校で通院者が多い」「ほとんどが疲労感を覚えながら病院に行く時間がなく、時々の通院で健康を保っている」などの声が寄せられた。


 調査にかかわったある教頭は「一日の半分以上を学校で過ごすが、PTA関係の事務、教育委員会の文書作成など、常に何かに追われる状況。校長や先生方の視線を感じながらの職務は、ストレスもたまる」と話している。

そうだ。教頭という仕事は本気で校長になろうと思う教員か、ある種の誠実さのために「教頭になってしまった」人にしか勤まらない仕事なのだ。
教師よ! この教頭たちを見習って、早く音を上げよ! もう私たちの手におえないと叫びたまえ。本当に子どもを救うというのは、そういうことなのかもしれない。





県教委が、いじめ・不登校対策

[2月8日 東奥日報夕刊]



 いじめ、不登校、校内外での暴力事件などを未然に防ぐため、子どもたちへの「心の教育」を進めていこう−と、県教委は十二年度、家庭の教育力アップと青少年の野外活動体験の充実を図る、二つの新規事業を計画している。問題行動が起きてから“対症療法”的に子どもたちと接するのではなく、大人と子ども、子どもと子どもが心を通わせる社会教育の場をつくり出すのが狙い。

 一つは「家庭の教育力トレーニング講座」。家庭の教育力低下が指摘されている中、将来親となる若者や、既に育児に励んでいる親たちに対して、子どもへの接し方などをアドバイスする講座で、夏から秋にかけて実施する。

 テーマは、
(1)子どもの行動の理解
(2)子どもに心を開かせるような、話の聞き方
(3)親の気持ちや意見の伝え方
(4)親子の気持ちが食い違った時に、よりよい解決法
(5)親子の価値観の対立を解くコミュニケーションーなど。


 講師からの一方的な講演ではなく、参加者が寸劇に参加しながら親子の心理状態を学ぶロールプレーイングなど、実践的な内容を組み込む。
 八月に青森市で中央フォーラムを開き、基調講演やシンポジウムを行う。また、秋には青森市と八戸市を会場に四日間ずつの地区講座を開催。内容を年度中に冊子にまとめ、「家庭教育サポート誌」として小中学校や幼稚園、保育所、子育てサークルなどに配る。


 もう一つは「輝く目・輝く夢・輝く未来フォーラム」。七月に開催し、県内の中・高校生約百人が、夏休みの十和田湖畔で共同生活を送る。大人から押し付けられる体験学習ではなく、子どもたちの自主性を前面に出したイベントとなる。

 自分たちの住む街で行われているボランティア、自然体験などについて、子どもたちが交流しながら実践報告。内容を再び各市町村に持ち帰り、次のステップに子どもたちの力で役立ててもらう。
 また、野外で子どもたちが参加できるコンサート、奥入瀬渓流ウォーク、カヌー体験などを予定。県教委生涯学習課は「特定の友達以外とは話をしないという子どもが増えているが、多くの人と触れ合いながらコミュニケーションの輪を広げることも図りたい」と話している。

またもや学校への締め付けかと思ったら全編家庭教育と地域協力の話だった。5年前だったら「学校の責任を果たさないで家庭に話を持ち込むとは何事だ」といった話になったろうに……。
時代は本当に変わったのだ。




次は学校批判。




県内小中学校の指導要領廃棄新たに19万人判明

〔2月8日 神戸新聞]
 



 兵庫県内の公立小・中学校計九十九校(神戸市除く)で、保存期間中の児童、生徒ら約十八万七千人分の指導要録が誤って廃棄されていたことが七日、兵庫県教委の調査で分かった。これまでに廃棄の事実が明らかになっている西宮市や神戸市と同様、一九九一年の学校教育法施行規則改正で定められた保存期間を誤解。すでに調査された神戸市を含めると、県内の小中学校で廃棄された指導要録は計約二十三万四千人分にも上る。在学したことを証明する「学籍記録」も約五千八百人分が捨てられており、いずれも復元はできない。県教委は廃棄に至った経緯などさらに調査を進め、責任者の処分も含めて今後の対応を検討する。
(中略)
 両記録は二十年間の保存が義務づけられていたが、九一年三月の施行規則改正で「指導に関する記録」の保存期間が五年に短縮。ただし、それ以前の記録は従来通り二十年間保存することが義務づけられている。
知らなかった……。
 県教委は廃棄の理由を、以前の分も五年で廃棄してよいと誤った▽震災で書類が散逸し、整理する際に間違って廃棄した―などと説明。今後、個別の学校で、どのような経緯で判断、処理されたのかなど詳しい調査を行い、場合によっては処分も検討する。
おい、これで処分か?
 神原吉三郎・同課長は「このような結果になり、県教委として誠に遺憾。復元はできず、公開の要望にも応じられないことになるが、廃棄された当人に不利益が生じないよう対応していきたい」と話している。
指導要録がなくなってこうむる不利益って何だろう。 自分の小中学校時代の成績やら業績が20年も残っていることの方がよほど不利益だと思うが。

処分されちゃった人たち、ホントに良かったね。

 文部省教育課程企画室の石塚等・企画係長は「通達は法令改正を伴っており、口頭での説明などその趣旨を周知徹底すべき事案だ。







2000.03.09




本当にすばらしい記事が出た。ここで皮肉抜きに誉めるのは、これが最初で最後かもしれない。
とにかく読んでくれ。




「お受験」の幻想

〔3月8日 北海道新聞]



トルストイが書いた「アンナ・カレーニナ」。冒頭の一節が名高い。「幸福な家庭はみな一様に似通っているが、不幸な家庭はいずれもとりどりに不幸である」(原久一郎訳)

▼だから、とりどりのはずの「不幸」の中身を、あまりにも分かりやすく理解しようとするとき、人は過ちを犯すものらしい。昨秋、二歳の女児が近所の主婦に殺された東京文京区の事件の場合もそうだ。事件の直後、あれは「お受験」殺人だ、という報道があふれた

▼だが、初公判で検察が描き出した不幸な事件の背景は「お受験」なんかではなかった。いまさらながら、人の心の不可解さをうかがわせる複雑なものだった。その点では
「『お受験』で確執か」「容疑者、犯行後も『お受験』心配」といった記事を掲載した本紙も、間違った

▼理解困難なことにぶつかると、人は、とりあえずは納得しやすい「物語」に頼って分かった気持ちになる。たぶん、そうしないと不安だからだ。
今度のケースでは、事件が起きた地域環境といい、当事者たちの状況といい、背景を説くには、まことに通りがいい物語が「お受験」だった

▼その実、しっかりした根拠には乏しかった。冒頭陳述に記された容疑者の動機は、当人が「心の葛藤(かっとう)」と語った通り、難解だ。本人にしか分からぬ孤独や疎外感。家人に救いを求めたSOS信号が通じない不安。人の心の深い闇(やみ)がうっすら見える

▼そこを報道は見逃した。とりどりに違う不幸の表情を見ずに、本当は、何も事件から学びとれないのだと思う。


北海道新聞! あんたは偉い!






2000.03.14

教諭らが教室にビデオカメラ設置 東京都福生市立第3小

[毎日新聞3月13日]


 

東京都福生市立第3小学校(榊田賢勝校長、児童数644人)で、5年生担任の教諭らが教室にビデオカメラを設置し、盗み撮りをしていたことが13日、分かった。

いよいよ教室内で児童ポルノ盗撮か!と、思ったら、

教諭らは盗難事件の犯人捜しのためだったと説明しているが、榊田校長は「人権尊重を無視した行為だった」と謝罪している。
という話だった。

内容はこうだ。
 榊田校長によると、5年生の教室で、昨年12月21日から今年1月20日にかけて計5回、教室のテレビ下の本棚の間にレンズの部分だけをくりぬいた段ボール入りのビデオカメラを設置し、体育など児童のいない時間に盗撮していた。

 同校では1学期から文房具や教科書などがなくなるケースが十数件続き、児童のカバンが切られる事件も起きた。このため、5年生担任の教諭3人と生活指導主任教諭が相談して、盗撮を思い付いたという。1月20日に撮影を終えた男性教諭がビデオを片付ける際、児童に見つかり発覚したという。

「文房具や教科書などがなくなるケースが十数件続き、児童のカバンが切られる事件も起きた」というのは十分人権問題である。
「1学期から続いていた」のに解決できなかったということは、相当やり口が巧妙だったのだろう。
ビデオの盗み撮りというのは、こういう場合魅力的な方法だと思う。しかし、もちろんやってはいけない。

 同校では2月10日と同18日に保護者会を開いて、事情を説明した。保護者からは「責任はどうするんだ」という声も出たという。
しかしカバンを切られた子どもの保護者も一緒になって「責任はどうするんだ」に組していたとすれば、ずいぶんお人よしな御仁だ。福生市は徳の高い市民ばかりがそろっているに違いない。

私だった許さない。
被害者が自分の子だったら、大変な事態になる前に「盗み撮り」でも何でもいいからやってもらいたいと思うだろう。被害者が自分の子でなくても、いじめ解決のためにはたいていの手段が許されると私は思う。現に脅かされている人権がある以上、盗み撮りが何ほどのことか。そして万が一自分の子が加害者だったとして、もしそのまま加害の事実が明らかにらなず、子がノウノウと生き続けるとしたら、私の子は大変な者に育ってしまう。それだけはやめてもらいたい。我が子が他人のものを盗む場面を写されるより、我が子が犯罪者のまま育って行く方がよほど恐ろしい。


 榊田校長は「(盗撮について)相談はなかった。先生と児童、保護者の信頼関係を崩す行為であり、管理責任を強く感じている」と話している。
 都教委初等教育指導課は「児童と先生との信頼関係の回復に努めるよう市教委を通して指導している」という。
校長も都教委もそのように答えるしかないだろう。

盗撮もいけない、極めつけてもいけない、犯人探しは教育になじまない、しかしいじめはなくさなくてはいけない。

マスコミは教師のすべての手段を封じながら、なおかつ何事かをせよと厳しく極めつける。




もう一本

男性高校教諭が逮捕される 福島県教委は懲戒免職に

(毎日新聞)




 福島県警福島北署は13日、県立福島明成高校教諭、尾形弘明容疑者(36)を児童買春・児童ポルノ処罰法違反の疑いで逮捕した。県教委は尾形容疑者を同日付で懲戒免職にした。尾形容疑者は3日夕、テレホンクラブを通じて少女(16)と知り合い、同市内のホテルで性交渉を持った疑い。少女には現金2万円を支払った。
弁護の余地のない事件である。卑しくも教員たるもの、買春に手を染めていいはずはない。しかしこの時逮捕されたのは、尾形某一人だけだったのだろうか?
それが疑問だ。


東京都に買春条例ができた時、最初の逮捕者は僧籍にある者だった。新聞で見る限り、その後、全国における同様の事件の逮捕者は、大部分が公務員であり、中でも教員が圧倒している。買春のほとんどは教員によって行われているのである。



そうではないだろう。

私は昨年同様の事件を調べたことがあるが、その事件での逮捕者は30人以上に上っていた。いわゆる援助交際を行った少女の自供から、芋づる式に捕まったのだが、その中にいた教員だけが学校名と実名入りで報道されたのだ。

私が不満なのはそこだ。それは平等原則に違反しないかということである。

教員には高い倫理性が求められるにしても、職を奪われ、恥を世間に曝し、連日報道され続ける元教員に対して他の20数名がのうのうと暮らすのはあまりにも不公平ではないか、ということである。

しかしそれもいたし方あるまい。他の20数名の勤め先にはかなり有力な企業が含まれている。そしてそれらはマスメディアの重要なスポンサーなのだから。

(例外がひとつ。メディア同士は互いにスポンサーになり得ないから、しばしば相手を刺す。〇〇テレビの不祥事などはその代表的な例だ)






2000.03.24

高校進学率98% 従来の指導通じない 児童殺害事件の波紋 関係者に戸惑い 

[京都新聞3月23日]




 京都市伏見区の日野小校庭で小二男児が殺害された事件で、京都府警捜査本部は二十三日、殺人などの疑いで、自殺した岡村浩昌容疑者(21)を書類送検した。京都府警は、岡村容疑者の不本意な高校卒業に対する不満や学校教育へのうらみが、犯行につながったとの見方を示している。高校進学率が九八%を超え、多様な生徒が入学するなかで、これまでの指導の方法が通用しなくなったという指摘もあり、今回の事件は教育関係者に戸惑いと重い課題を突きつけたといえる。

 「彼が(事件を起こすほど)精神的に追い詰められているシグナルは読みとれなかった」。岡村容疑者が卒業した府立洛水高の耒(らい)田新三校長は、この日の記者会見で、卒業取り消しを求めて同高を訪れた岡村容疑者と再三話し合い、今後の進路を考えるように何度もアドバイスしていたことを明かした。

 京都府内の公立高中退者は、一九八九年の千五百八十二人をピークに徐々に減少してきた。しかし、岡村容疑者が高校を卒業した後の九八年に再び千人を超え、在籍者数に対する中退者の割合が七年ぶりに二%を超え、今も増加傾向にある。かつては、経済的な理由で学校を去る生徒が多かったが、現在では「学校生活そのものに適応できない」という理由が大半を占めている。

 府教委は、中退者だけでなく、不登校やいじめなどで学校に適応できない生徒に対し、「学校での居場所づくり」をキーワードに、生徒の相談に応じるスクールカウンセラーを配置するなど、生徒の悩みにこたえる対策を講じてきた。

 耒田校長とともに会見した府教委の福岡進高校教育課長は「学校生活を続ける意思が弱い生徒らに対し、前向きな意欲を持たせるよう、これでもか、これでもかと学校は努力してきた」と話した。

 しかし、岡村容疑者にはその思いは届かなかった。逆に高校への不満を募らせ、その不満が小学校を含めた学校教育全体へのうらみに変わったことが、府警が押収したメモから伝わってくる。

 「高校へ入る生徒が多様化し、卒業を望まないというまったく価値観の違う生徒もいることを重く受け止めたい」。福岡課長は戸惑いを隠さなかった。

 現場の教師も「高校に対する生徒や保護者の意識や気持ちの変化が、わたしたち教師に分かりにくくなってきており、対応の仕方が難しくなってきた」と時代の変化を指摘する。生徒や保護者は卒業にこだわらず、教師だけが生徒を卒業させることに懸命になることもあったという。

 「最終的には教師が生徒と一対一で向き合い、心の奥まで理解する以外にない」。福岡課長はかみしめるように話した。


学校教育のへの恨みから小学生を殺すような卑劣な人間の言い分を、なぜまじめに受け取らねばならないのか? そして学校(教委)はなぜまともに返答しなければならないのか。



メディアが匕首を突きつければ答えはおのずと定まってしまう。
「高校へ入る生徒が多様化し、卒業を望まないというまったく価値観の違う生徒もいることを重く受け止めたい」
これ以外の答えはほとんどないだろう。したがって、これは高校教育課長の言葉であっても、彼のメッセージではない。メディアのそれだ。


私の卒業させた生徒のうちの何人かが3年間の高校生活をまっとうできないまま社会に出ている。しかし、誰一人として「中退して良かった」と言う者はない。
「仕事がきつくて転職しようかと思っても履歴書が書けねぇんだよ。高校中退じゃ話にならねんだ」
「好きな女ができても、相手の親の所に、どのツラ下げていきゃあいいか、それが分かんねェんだよ、先生」

学歴なんてなくても、実力さえあればこの世は渡って行ける。それはそうだ。しかしその「実力」さえない者たちはどうしたらよいのだろう。 そして「普通の人」の大半は17〜18歳で社会に通用するほどの実力など、持っているはずないのだ


「最終的には教師が生徒と一対一で向き合い、心の奥まで理解する以外にない」
メディアはあくまでも正論を引き出そうとする。

しかし、とことん話し合っても人間の心など掴まえられるはずがない。少なくとも私自身は自分の心を捉えたことはない。今日本気で高校を辞めたいと願う自分を、明日の自分はいとも簡単に裏切ってしまうのだ。

きっといつか役に立つ日がくる。だまされたと思って卒業証書を持っていきなさい。嫌だったらいつでも捨てればいいじゃないか。
私にはそうした言葉しか思いつかない。

しかし、それが『原因』で、彼が小学生を殺すなら、もう何も言葉はないだろう。この記事の指し示す方向はひとつだ。

子どもに価値観を押し付けるな。子どもの言いなりにせよ。