キース・アウト
(キースの逸脱)


2000年6月

by   キース・T・沢木















2000.06.02


学校の「犯人扱い」で精神的苦痛=元男子高生が慰謝料求め提訴−山口

[時事通信社 2000年 6月 1日 ]



 恐喝事件で学校側から犯人扱いされたのを不服として自主退学した山口県立防府西高校(檜垣良夫校長)の元男子生徒と父親が1日までに、学校側の対応により精神的苦痛を受けたとして、管理責任者の県などを相手取って2400万円の慰謝料を求める訴訟を山口地裁に起こした。
 県教委などによると、恐喝事件は昨年10月13日に防府市内で発生。
被害を受けた私立高校の生徒が、当時2年生だった元男子生徒を犯人と思い込み、元生徒は学校側から3回にわたり最長で約5時間、調べられた。 

やはりここまで来た。
教員よ、よく学びたまえ。

たとえ被害者が名指しで訴えたとしても、ゆめゆめ生徒を疑ってはならない。
「お前やったな」と言って「ボクはやってはいません」と答えたら、彼を信じなければならない。
何しろ彼はやっていなかったのだから。

しかしもし、彼が本当にやっていたとしたら、学校は彼を徹底的に調査し、対応しなければならない。
何しろ彼は恐喝の犯人であり、いじめは絶対に解決しなければならないからだ。

じゃあ、彼が本当にやっていたかどうかはどうしたら分かるのだ?

そんなことは目を見れば分かるはずだ。
子どものサインを読み取ることもできず、それで教師と言えるか!

・・・・・・ 6月の最初を飾るにふさわしい良い話であった。








2000.06.14

県教育連絡会シンポ開く 親子、教師 いい関係を 17歳事件から見えるもの

[西日本新聞2000年06月13日]



 【福岡】 県内の子育て問題や教育問題に取り組む団体でつくる「子どものための教育を求める県連絡会」(県教育連絡会、野林豊治会長、二十六団体)は十一日、福岡市中央区舞鶴の「あいれふ」で「子どもの育ちと高校再編基本計画―十七歳事件から見えるもの」と題するシンポジウムを開いた。

 西鉄高速バスジャックや愛知県豊川市の主婦殺害など「十七歳事件」が相次いでいることから、定期総会に合わせて実施。教師や母親ら四人がパネリストを務めた。

 宇美町立宇美東中の山本千明教諭は、生徒に「どういうときにむかつくか」とのアンケートを取り、「部活や塾で疲れているが、内申書のために休めない。神経がピリピリしてすべてを壊したくなる」などの回答があったことを報告。母親の入江妙子さんは「偏差値競争の中で、子どもたちは人間関係がうまくつくれないのでは」と指摘した。

 会場の母親は「娘が友達に裏切られ、不登校になったので、ゆっくりすればいい、とアドバイスした。
自分からやり直したいと言って、高校を移り、少しずついやされていくのが分かった」と述べた。
別の母親は「校則が厳しいから学校をやめる子どもたちが増えている。学校は自己主張ができる環境をつくってほしい」と訴えた。

 最後に
「子どもたちに自己肯定感を与えるためにも、無理をせずに生きていけるような現実をつくりだす必要がある」「親、子ども、教師のいいトライアングル関係をつくろう」などと意見をまとめた。
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「子どもたちに自己肯定感を与えるためにも、無理をせずに生きていけるような」
そんな現実ってあるのか?

勉強の苦しみも受験の苦しみも失恋の苦しみもない、仕事の苦しみも家庭を維持して行く苦しみも子どもの将来を思い悩む苦しみもない、そんな桃源郷をどう想像すればいいのか。

私たちは誰だって無理をしながら生きているじゃないか。
多少の無理をしながらも、それでも手に入れたい別の何かのために、いつだって頑張ってるじゃないか。
それが人間の生き方だ。


しかしそれでもなお「無理をせずに生きていけるような現実」 をつくろうとするとき、彼らの合言葉はこうなる。

「まず、できることからしよう」

しかしこの「まずできることからしよう」は、
「叩きやすいところから叩こう」程度の意味しか持たない。

「学校を叩こう!」


公教育に不満を持つ人たちが私的団体の会合で何を語ろうがそれは勝手だ。
しかしそれをあたかも市民の主張のように無批判に記事にする西日本新聞の態度は間違っている。










2000.06.20


今日の視角 読み書きそろばん

[信濃毎日新聞2000年06月20日]



 


 人体のつくりや働きは、遺伝子によって決定されている。生まれた時すでに完成している働きもあるが、年齢とともに次々に発現してくる遺伝子もある。
言葉や数を数える遺伝子などはそうである。人間関係を作り出す社会性の遺伝子なども幼児期に初めて働き出す。この時期を逸すると、他人と協調して生きてゆくことが困難になる。

 初等教育は、こうした幼児期にスタートする遺伝子の働きを最大限に引き出し、伸ばすことに専念すべきではないだろうか。昔の人は「読み書きそろばん」と言ったが、それこそ初等教育のエッセンスなのである。「よく学びよく遊べ」も、遊びを通して社会性を身につけさせる大切な知恵であった。

 近ごろ、初等教育のころから創造力を伸ばす教育だとか、イマジネーションを引き出す教育だとかしゃれたことを言っているが、そんなものは、思春期になって別の遺伝子が現れるのを待って行なわれるべきであろう。「読み書きそろばん」と「遊び」こそ、初等教育の最も大切な目標とすべきだと私は思う。(多田富雄)

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私もそう思う。
しかし、初等教育のころから創造力を伸ばす教育だとか、イマジネーションを引き出す教育だとかしゃれたこと
を言っていたのが誰か、キミは知らないのか?

おそろしく減らされる授業時数の中で、教師が「それでも知識は必要だ」と必死に「読み書きそろばん」を支えている間、

そして親たちが疲れて帰った家庭で、ふたたび力を奮い起こして子どもの勉強を見てやり、あるいは補習塾に通わせて、必死に子どもの学習を守ろうとしていた時期、「もう知識は十分だ」「暗記中心の詰込み教育はいらない」と無闇に不勉強を煽ったのは誰だっのか?

まさかキミたちは、努力抜きで覚えられる九九や漢字というものを信じていたわけではないだろうね。教師が努力して楽しい授業にすれば、自然に身についてくる膨大な知識という甘い夢を信じていたわけではないだろうね。

今まさに、キミたちが望んだ「子どもたちがほとんど勉強しない」時代が訪れた。なのに何故キミたちは喜ばないのだ。


私はキミたちが次ぎに書く記事の大要を知っている。それは以下のようなものだ。

1970年代の半ば頃より、一部の人権派教師たちによって教育内容の削減が叫ばれるようになった。
子どもを勉強の苦しみから解放したいというのが彼らの主張であったが、実態はどうであったか。
子どもたちは今「読み書きそろばん」という基本的な学力さえつけてもらわないまま、
社会という荒波に無防備にさらされようとしている。
教育を受ける権利はもとも重要な基本的人権であるにもかかわらず、
教師のこうした怠慢により、
今、子どもの権利が微塵もなく踏みにじられようとしている・・・・・・。


多田富雄よ。教育の現代史に関するキミの不勉強も、また私たちの責任には違いない。








2000.06.24


試合に負け、からかわれる 岡山

[毎日新聞6月24日]





毎日新聞が極めてユニークな1行を書きこんでくれたので紹介する。
山県内の県立高校で21日、3年生の男子生徒(17)が後輩の野球部員4人に金属バットで重軽傷を負わせるなどした事件、県警捜査本部は24日、男子生徒らの野球部は練習試合で負け、部内に丸刈りを強制する雰囲気が出ていたのに、男子生徒が強く反発したため、部員にからかわれていたことをつかんだ。
男子生徒は2年生のころから、後輩部員にプロレスの技をかけられるなど、からかいの対象になっていたことも既に判明。
捜査本部は、男子生徒がこうしたからかいを「いじめ」と受け止め、不満を募らせていたことが動機になったとの見方を強めている。

(後略)




こまれで多くの報道において、少年犯罪の根底に「いじめ」があるとされてきた。
メディアの意識には明らかに、
[いじめを受けた体験]→[加害者の精神または人格のゆがみ]→[異常な犯罪]
という流れがあり、その線での取材は欠かせないものとなっていたのだ。


特に「バスジャック事件」では、学校はもちろん同級生までがこぞって「いじめはなかった」と証言しているにもかかわらず、「いじめ」は執拗に追求され続けた。
(これについては「キース・アウト」5月11日付にも書いた)

5月10日、佐賀県教委は「いじめ」を再度否定し学校の対応も追認した上で、さらに
「いじめは本人の認識次第で、最終的に少年がいじめられていたと供述すれば、受け入れなければいけない」
という報告を行った。
そうなのだ、「いじめ」問題の難しさのひとつはこの点にある。


日常の社会生活の中で完全にゼロにはすることのできないことごと、
皮肉、からかい、揶揄、嘲笑・・・・・・・・
そうしたものをさらりと受け流すことができず、言った側の意図をはるかに超えて深く傷つき、悲しみや苦しみ、恨みや復讐心として沈殿させる心性がある。
この、被害者意識に満ちたひ弱な心性は、ありとあらゆることに傷つき、自分に向けられたものではない言葉にも反応する。

「みんなが同じように扱われている」ときも、「ボクだけが傷ついている」ことを重視する。
自分が「やったこと」よりも「やられたこと」の重みを異常に高く見積もる。
自ら人間関係の渦中に飛びこまないのに、人々から遠ざけられていると主張する。

それにもかかわらず、彼が「いじめを受けた」と叫べば、それは即「いじめ」となり、からかった側は加害者となってしまう。
なぜなら「いじめ」の基本的定義は、
「いじめられた側が『いじめだ』と意識すればそれは『いじめだ』」
という無茶苦茶なものだからだ。

これは問答無用の弱い者勝ちの論理だ。

先の佐賀県教委の報告は、そうした理不尽なものでも社会通念がそうなら受け入れざるをえないという、苦渋に満ちたものだった。

今回の野球部金属バット事件における「いじめ」は、バスジャック事件に比べると遥かに「いじめ」の匂いの強いものだが、
それにもかかわらず、毎日新聞は
男子生徒がこうしたからかいを「いじめ」と受け止め、不満を募らせていた
と書いた。

警察発表の報道とはいえ、
また間接的な表現とはいえ、
はじめて「いじめ」を、「客観的・具体的事実におけるいじめ」と「被害者の意識におけるいじめ」に分けて見せたのだ。

もちろんこのふたつが一致する場合も少なくない。
しかし前者がないのに後者だけがある(客観的にはいじめとは言えないのに当人が強くいじめだと意識している)という場合も、
それとはまったく逆の(被害者が意識していないいじめ・・・・・被害者本人は許していても、社会的にゆるせない事実のある)場合だってある。

毎日新聞の今後の報道のしかたに注目したい。







2000.06.24

河合塾が大学入試難易度で「Fランク」を設定

[毎日新聞 6月24日]



 大手予備校の「河合塾」が、大学入試の合格ボーダーライン(合格可能性50%)の設定が困難な学科などに対して「Fランク」を新たに設けた。
少子化や私立大の乱立で、定員割れを起こしたり実質倍率が1倍台の大学が急増。ボーダーラインの設定が、いずれの偏差値帯でも設定できない学科などが出てきたためという。

やや遅れたが予想された時代が訪れた。いよいよ何の苦労もなしに大学に進学できる時代がきたのだ。

メディア諸君、今こそきみたちの分析の真価が問われるときだ。
不登校・いじめ・非行といった学校問題の二つの原因(厳しい管理主義と受験競争)のうちのひとつが終わる。
きみたちの主張が正しければ、これで学校問題の多くが自然に消滅するはずだ。
そうだろう?
メディア諸君







2000.06.28



文を公開しておきながら「読まないで下さい」と言うのも変だが、よほどヒマな人でない限り、以下の部分は読まないでいただきたい。まったくつまらないから。

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今日の視角 中等教育の目標

[信濃毎日新聞2000年06月27日]



 前回この欄で、初等教育で必要なのは「読み書きそろばん」と「遊び」だと書いたが、中等教育ではどうだろうか。

 中学生のころ思春期が始まり、この時期特有の遺伝子が働き出す。たとえばホルモンの遺伝子。増大した成長ホルモンによって体は急速に成長する。性ホルモンによって中学生たちは、自分を男、あるいは女として認め、自己のアイデンティティーを確立してゆく。ティーンエイジャーは、この時期に働き出す遺伝子のおかげで、幼児期にはなかった新たな能力を獲得し「自己」を完成させるのだ。

 この時期に遺伝子が広げる可能性を、引き出し伸ばしてやることこそ中等教育の目標であろう。多少社会的に逸脱した行動があったとしても、未知の可能性を試し発見するための過程と考えなければならない。

 近ごろ初等教育の段階で言われている「創造性を育てる教育」などは、まさに中等教育の時期にこそ必要な理念なのだ。この時期にこそ、己を広げアイデンティティーを確立させる教育が効果的なのだから。

 ところが日本では、中等教育のころには受験戦争が始まって、せっかくの遺伝子にチャンスを与えない。可能性が充分広がっていないのに、進学する大学や学部をもとに「理系」と「文系」に分けてしまう。理系の学生は文系の教科を取らず、歴史や文学に接する機会を逸する。文系の受験生は、初歩的な物理や生物学を学ぶチャンスが与えられない。

 せっかく可能性の広がる時期に、真っ二つに分けて制限してしまうのだ。こんな教育を受けた学生は、大学に入っても一方的なものの見方しかできない。
高校で理系の勉強しかしなかった者が医学部に入って、患者という悩める人間やその背景を理解できるようになるだろうか。病気を機械の部品の故障としかみなくなるのではないだろうか。

 一方、DNAのことを全く知らずに、人間や、人間のつくり出す文化や社会を理解できるはずがない。中等教育は、文系と理系をつなぐ人間の知のあらゆる可能性に開かれていなければならないと思う。(多田富雄)



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ティーンエイジャーは、この時期に働き出す遺伝子のおかげで、幼児期にはなかった新たな能力を獲得し「自己」を完成させる
この時期に遺伝子が広げる可能性を、引き出し伸ばしてやることこそ中等教育の目標であろう。
せっかくの遺伝子にチャンスを与えない。
こんな文を読んでいると、この人は遺伝子の手先としか思えない。
まさに「リング」や「パラサイト・イヴ」の世界だ。

もしかしたら彼こそ、
こんな教育を受けた学生は、大学に入っても一方的なものの見方しかできない。
人間の典型なのかもしれない。

あるいは、

DNAのことを全く知らずに、人間や、人間のつくり出す文化や社会を理解できるはずがない。
といっている以上、「ボクが大切だと考えていることを、キミたちは何故理解しないのか」
と義憤に駆られているのかも知れない。

私は、ある日突然義憤に駆られた多くの人々が校長室に押しかけ、DNAのことを全く知らない校長や教頭を前に、
「なぜ学校は遺伝子のための教育をしないのか」と叫ぶ悪夢にうなされる。
これからは管理職であることもシンドイ時代だ。
さて、どうしたものか・・・・・。

いかに地方紙とはいえ、これほど質の悪い記事が堂々と紙面に載っていることにこそ驚くべきことだ。
そしてこの記事を前に、「フムフムなるほど」と感心する無数の人々が存在することに恐怖しなければならない。
なぜなら、私はこの記事Yahooから再引用しているが、少なくともYahooのスタッフはこれに価値があると踏んだはずだからだ。

これからは「わがままな遺伝子」とも戦って行かなければならない。
本当にシンドイ時代だ。









2000.06.29


神戸の中学 罰ゲームで丸刈り、校長も容認


[神戸新聞2000年06月28日]





 神戸市長田区内の市立中学校が今年五月、三年生の修学旅行先で行ったレクリエーションの罰ゲームで、生徒数人の頭髪を校長(51)らがバリカンで丸刈りにしていたことが、二十七日分かった。ゲームは生徒が自主的に決めたもので、校長らがバリカンを入れることも生徒からの要望だったというが、保護者らから「教育の場でふさわしくない」との批判の声が出ている。

 同校の説明によると、ゲームは五月三十日夜、修学旅行先の熊本県内のホテルで行われた。五クラスが物まねや仮装などの出し物を用意。その中で一つのクラスの男子二十人が、二チームに分かれてじゃんけんをし、負けチームの三人が丸刈りになるルール。

 各チームから三人、計六人の生徒が候補になり、旅行前に自ら名乗り出て了解済みだったという。この案を聞いた担任教諭(28)は、いったんは止めたが、生徒側の要望が強かったため、各自で保護者に了承を得るよう指示。全員が承諾を取り、一部の保護者とは担任教諭が直接話して了解を得たため認めたという。

 丸刈りにする役も生徒側が決定。自宅にバリカンを持っている生徒が持参し、校長と三年生の学年主任(46)に依頼した。校長らは、担任教諭や生徒から趣旨などを聞いたうえで受けた。ただ、制限時間内に三人にバリカンを入れることができず、その場では二人だけで終わった。残る一人は旅行後、自主的に理容店で丸刈りにしてきたという。

 校長は「頭髪を刈るというのは問題かとも思い議論したが、生徒が自主的に決めたことで、要望も強かったため認めた」と釈明している。神戸市教委指導第一課は「学校から特に報告は受けていなかった。罰ゲームに加わった校長や教師は生徒を指導する立場にあり、丸刈りが罰ゲームにふさわしいのかを含め、立ち止まって考えてほしかった。校長には適切な指導をしたい」と話している。

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「事件」の内容を読んで、いい話じゃないかと感じる私の感覚は狂っているのだろうか?

クラスで決めたことに水から名乗り出て丸刈りを感受するなんて、なかなか男気のある生徒たちじゃないか、しかも一人は旅行後に自主的に丸刈りにしてきたという。
男はこうでなくちゃいけない。

さらに丸刈りを校長に頼むなんて・・・・・・・、生徒たちにとって、校長先生はきっとすばらしく身近な存在なのだろう。


事は生徒のレクリエーションなのだ。
生徒の自主性を重んじても問題となるような場面ではない。
本人の承諾だけではなく、保護者の了解まで直接取るという点で、担任の配慮も行き届いていた。

なにがいけないというのだろう?



私は自分のクラスの子たちがこんなユニークで素敵なことを思いつかないよう心から祈る。
なぜなら、子どもたちが自主的に決めたことを覆すには大変なエネルギーとそれなりの論理、そして生徒との関係を決定的に悪くするかもしれないという覚悟を必要とするからだ。

もしそれが教育上好ましいことでないとであればいくらでも努力する。
しかしこの罰ゲームの非を、生徒に分かるかたちで説明する論理は、私にはないのだ。
私自身が納得していないものを生徒が納得するはずはない。
そして、生徒に納得できないものを果たさせることは「押しつけ」でしかない。


神戸新聞よ、教えてくれ。
一体何が悪いというのだ。

たとえ納得できないものであっても、メディアが扱えば学校は確実に引く。
キミたちと本気で戦うだけの時間もエネルギーも手段も、私たちにはないのだから。

そうした学校の体質を知りながら、学校をそこまで萎縮させることを承知の上で、キミたちが実現しようとしている教育理念とは何なのか。

神戸新聞よ、教えたまえ。