キース・アウト
(キースの逸脱)


2000年7月

by   キース・T・沢木














2000.07.07


生徒に「殴れ」、教師が顔骨折−羽幌高校

[北海道新聞 2000年7月7日]




 【羽幌】留萌管内羽幌町の羽幌高校(林勝敏校長、三百七十九人)で六月上旬、二年生の男子生徒(16)が男性教師(35)の顔を殴り、あごの骨を折るけがを負わせていたことが七日までに分かった。同高校は、この問題を道教委に報告していなかった。

 同校によると、この生徒は登校時間直前の午前八時二十分ごろ、サンダル履きで登校した。
生徒指導の教師が校門付近で、とがめた際、もみあいになり、教師の平手が生徒の首に当たった。
興奮した生徒を落ち着かせようと教師が「じゃ殴ってくれ」などと言い、生徒が左ほおを殴りけがを負わせたという。

 教師はこの後、旭川市内の病院へ行き、あごの骨骨折の診断を受け六月末まで入院、退院後も通院のため出勤していない。
生徒は、両親とともに教師への謝罪に出向いた。

 教師と生徒は体育会系クラブの顧問と選手の関係。

教師は
「クラブの生徒だったため厳しい指導になった。『殴れ』と言ったのは軽率だった」
と反省している。

また、生徒は学校側に対し「遅刻すると思い急いでいた」と話しているという。

 林校長は
「教師は結果的に生徒を加害者の立場に追い込んだ。生徒は反省しており、校内指導で十分効果が上がると思った」
と道教委への報告を見合わせた理由を述べている。

 道教委に六月下旬、この問題を指摘する匿名の投書が届き、同高に対する事実関係の調査に乗り出している。
「教師が生徒に手を出したことは体罰にあたる可能性もある。学校側にさらに詳しく事情を聴き、教師を処分するかどうかも含め対応を検討する」としている。

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これは一体何の記事なんだ?

校則違反のサンダル履きで登校し、教師の指導を拒否して強行突破しようとしたが果たさず、もみあいとなった上(いかに相手がそう言ったからと言っても)教師のあごを殴ってけがを負わせた高校生。

強行突破の生徒の首に平手が当たったことで、「じゃ殴ってくれ」とでも言わないと収拾できないほど興奮した生徒に殴られ、入院加療2週間を越える(3週間以上かも知れない)重傷を負わされ、治療のため今も勤務ができない高校教師

どちらが悪いのか。

記事を読めば答えは明らかである。

いかなる理由があろうとも、生徒を平手で打ちつけるような教師は間違っている。何と言っても、生徒は「遅刻すると思い急いでいた」だけなのだ。校則違反も指導拒否も、遅刻に比べれば大したことではない。

それに対して、遅刻したくない一心の、無垢な高校生の心を傷つけた罪は当然重い。加療2週間が何ほどのことか。

じゃあ殴ってくれなどと不謹慎なことを言い、殴られたくらいであごの骨など折ったりするから、可愛そうな高校生は加害者の立場に立たされてしまったではないか。

「教師が生徒に手を出したことは体罰にあたる可能性もある」
まったくその通りだ。

………ん?
ところで、殴った高校生の傷害罪の可能性はどうなるのだ?

何を馬鹿げたことを!
どちらの心の傷の方が大きいか、考えてからものを言いなさい。
子どもにはすべてが許されているのだ。







2000.07.09


現場の人間からすれば分けのわからない記事、そういうものは、昔からあった。
しかし現場でない人間が見ても分からない記事というものはそうはなかったはずだ。
それが最近増えている。

[コラム]正平調(神戸新聞 2000.07.08 )



  神戸高塚高校の校門圧死事件から十年が経過したのを機に、本紙が県立高校の校長から集めたアンケートに目を通してみた。びっしり書き込まれた回答からは、苦悩する学校の姿が克明に伝わってくる。

 自由か規制か。そんな二者択一では割り切れない。「校則」に関する設問に、半数以上の学校が、事件以降、服装や頭髪などの規制を緩和したと答えた。その一方、携帯電話や茶髪、ピアスといった新しい対象を禁止する学校が増えている。自由化が進むにつれ、校則の軸があちこちに揺れる。



別に機軸がゆれているわけではない。
メディアが強いた規制緩和を元に戻した、それだけのことだ。
10年前には学校に携帯を持ちこんだり、茶髪・ピアスをしてくる子がほとんどいなかった。
正平調の記者はそのことを知らない。

 事件につながった校門指導は、約七五%の学校が実施している。高塚高でも今年四月に、事件後はじめて復活させた。ただし、大半の学校が校門を閉めず、さほどの罰則も科していない。あの事件を「行きすぎた指導」と受け止めた結果だろう。
校門も閉めず罰もない指導・・・・・・、真面目なものだけが従ってそうでない者は無視する。
そうした不平等はメディアの好むところだ。真面目で優秀だったメディアの担い手たちは、不良少年に憧れている。
自らは傷つかないところで、不良少年たちが何か新しいことをしてくれるのではないかと期待している。

 では、なぜ教師が校門に立つのか。
「遅刻を見過ごさないのは、最低限のけじめ」。
回答には、そんな思いがにじむ。
「もし家庭や地域に昔のような教育力があったら、基本的な規範まで学校が指導しなくてもいいはずだ」。
ホンネでは、そう思っている先生も多かろう。たしかに学校は過重な負担を背負っている。

そんなことは10年前も同じだった。
しかし誰もそんなことは言わなかった。

「遅刻監視、無情の門扉」(毎日、1990.07.07)

「秒読み『0』でガチャン――『まるでゲーム感覚』」(毎日、1990.07.09)

「挟んだ後、押し続ける――発見遅かった教師」(朝日、1990.07.14)

「ケロッと生徒を殺す奴」(サンデー毎日、1990.08.05)

「校門チェックは家畜の囲いこみと同じだ」(サンデー毎日、1990.08.05)

「刑務所と言われた校門圧死高校」(週間朝日、1990.07.25)

「教師に潜む殺意」(アエラ、1990.08.14)


 職員室は疲れすぎている。だから、指導が形だけになって、生徒との信頼関係が築けない。
事件当時、高塚高にいたという男性教師が、本紙の記事で自問していた。
「私たちは生徒一人一人に向き合う指導に到達できたのか」。

教師がそうした反省するのいい。彼らは善人だからできもしないことまで「できたかもしれない」と思う。
しかし外部の人間がそれをいってはいけない。
生徒ひとりひとりと向き合うことなど、とうてい無理なのだから。

5月17日、JR根岸線内で見ず知らずの男性の頭をハンマーで殴った「17歳」は、大新聞の記者の息子だった。
親としてたった一人の息子にさえも、一人に向き合う指導は困難なのだ。

私は今日まで5000人以上の中学生と向き合ってきたが、生徒との間に信頼関係を感じたことなど数えるしかない。
私は吉田松陰ではないし、生徒の全員が高杉晋作や草加玄瑞であるわけはないのだ。

 焦れば焦るほど砂がくずれる。そんなせっぱつまった空気がある。
生徒と向き合う余裕がほしい。それには社会の応援がいる。

その通りだ。しかし学校を支えるような世論形成は、今、各校が地域を対象に細々と続けているに過ぎない。
しかも、巨大なメディアの学校批判に抵抗しながらという、極めて悪劣な環境下において頑張っているだけなのだ。




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小学校の英語 慣れ親しむだけで十分

(中国新聞2000.07..08)


 英語教育の改善を検討している文相の私的懇談会(座長・中嶋嶺雄東京外大学長)は「小学校から英語を学ぶべきだ」とする中間報告をまとめた。
早期教育には賛成だが、会話に限るべきだろう。
「点数を付ける教科」とするのではなく、外国語を習得する基礎になる「慣れと親しみ」の感覚を培う時間にしてほしい。

オイ、ちょと待て。メディアはいつから早期教育の賛同者になったのだ?
そんなに簡単に掌を返していいのか?

 ビジネスにとどまらず、あらゆる分野での国際化の進展は目まぐるしい。
「共通語」として英語の占める重要度は増すばかりだ。
インターネットなどの情報通信では英語が制覇した感がある。

 しかし、日本人の英語力は威張れたものではない。
昨年度、母国語でない英語力を測るTOEFL試験の日本人受験生は平均五百一点、前年度の最下位は免れたが、アジア二十一カ国・地域の十八位だった。
一位のフィリピンとは八十三点の大差がある。

フィリピンを羨んでどうする?
80もの言語がある国だぞ。
1970年代からタガログの普及に努めているというが、全員が分かる言語としては、植民地時代に手に入れた英語しかなかった国だぞ。

それが羨ましいなら150年前日本を完全制圧しなかったペリーや、50年ほど前、占領下にもかかわらず英語を強制しなかったアメリカを恨め。

 こうした現状が中学、高校で少なくとも六年も英語を学びながら、話せない多くの国民の焦燥感に輪を掛けている。
小渕恵三首相(当時)の懇談会「二十一世紀日本の構想」は今年一月、英語を「第二公用語」とするよう提言した。
三月、経団連も英語は国際競争を生き残るために不可欠と「小学校段階から」の英語教育の必要性を唱えた。

6年間も勉強しながら英語が話せないのは、もともと外国人とおしゃべりするために英語教育があるわけではないからだ。
高校での英語教育は、大学に入ってから諸外国の研究論文を読むためのものだった。
昔はそれで良かった。そして今だって、大差はない。

少なくとも六年も英語を学びながら、話せない多くの国民の焦燥感」

知らなかった・・・・・・・私は英会話がまったくできないが、ちっとも焦ってなかった。困ったこともなかった。
しかし知らぬ間に、日本人はあちこちで英語国民とつきあうようになっているのだろう。

ついでに言えば、
インターネットなどの情報通信では英語が制覇した感がある。」のは確かだが、インターネットで情報のやり取りをするには、英語の読み書きさえできればいいのではないか?
しかしこれも私の認識不足だったらしい。
私は未だにIE4.0である。
だが、知らぬ間に、ブラウザも会話中心になってしまったようだ。
(ところで、IEの最新版のバージョンは20.0くらいになってるのだろうか?)

 英語教育には「早い方がいい」「国語の能力が備わってから」と賛否両論があるが、
欧州や隣の韓国でも早期教育に踏み切っている。


外国がやるから日本もやろうというなら、再軍備あたりから話を始めたらどうか。
軍隊を持つという点で、日本が50年以上遅れているのは確実だ。
徴兵制についても考慮してくれ。

中間報告は「一方的に教え込むのを避け、楽しみながら進める」と条件を付けたが、問題は学習形態ではないか。
従来の中学英語のように「勉強すべき教科」として強制したり、和訳や文法を重んじるようだと英語嫌いを小学校からつくるだけに終わるだろう。

問題は「聞く」「話す」への適応である。
まず教科書を追放し、授業は会話に絞りたい。
子供たちが英語に慣れ、親しめば十分である。

 「うまうま」や「まんま」と母親のオウム返しから始まる母語の初歩を英語に採用したら、聞く耳と発音の力が自然に鍛えられ、日英の母語としての根幹がぶつかり合うことにはなるまい。
その過程で、外国語への抵抗感を取り除き、異文化を前向きに受け入れる免疫を育てよう。
四年から六年かけるに十分な目標だと思う。後は中学以降の学習に引き継げばいい。

脳の未発達な0歳児が「うまうま」「まんま」とやるのを小学生に援用するのか?
毎週一時間、1年間では35時間、4年間では140時間。
これだけの時間を英語に使いながら、英語を初歩の、まま封じこめることなど絶対に不可能だ。
優秀な子の伸びようとする力を止めるのは、そうでない子を伸ばすことより難しい。
「外国語への抵抗感を取り除き、異文化を前向きに受け入れる免疫を育てよう。」
そんなおっとりとした状態のまま納まるはずがない。

 習得能力には個人差があり、それぞれ関心も得意な言語も違う。
英語は苦手でもハングルに才能を発揮する人も少なくない。

ホントかよ!

文部省は、多様な言語習得の道を開くことも怠ってはならない。

国際語である英語以外にも外国語をやらなくてはならないということなのね。

そのいずれも生きた母語かそれに近い言語を話し、教えられる教師を学内外や地域から確保し、育成することがカギだ。
それができねば、小学英語も絵に描いたモチである。


予算措置をつけなければ外国人教師の確保など絵に描いたモチだ。
不況のために教育予算が削減される中で、その部分に予算を増やせというなら、まずメディアは、増税に積極的な姿勢を見せるべきだ。

 小学英語は二〇〇二年度から、小学校三年生以上に導入される「総合的な学習の時間」で学ぶことを想定している。
それでは総合学習が英語会話に一斉に振り替えられる恐れがある。
「自分で課題を見つけ、解決する子供を育てる」という新学習指導要領の趣旨をほごにしかねない。
時間を確保するのは難題だが、総合学習とは切り離して考えたい。
じゃあ何を削って英語に振り向ければいいのだ?
給食でもやめちまおうか?

ああ、何とも無意味な記事。




2000.07.16


<岡山バット事件>被害者の父親がいじめを否定

(毎日新聞2000.07.15)


 岡山県のバット殴打事件で、重傷を負って入院中の2年生野球部員(17)の父親(40)は毎日新聞の取材に対し、
殺人未遂などの容疑で逮捕された3年の男子生徒(17)が2年生部員から「いじめられた」と県警捜査本部に供述していることについて
「息子はいじめはしていないと言っている」と否定した。
また、男子生徒の在籍する高校の校長(60)は14日、野球部員へのアンケートで「いじめはなかった」との結果が出たことを明らかにした。

 父親によると、入院中の2年生部員は男子生徒へのいじめは否定したが、事件前日の6月20日、校内で殴ったことは「『なんで先輩だけ丸刈りにしないのか』と言ったら、『せん』と言い張るので、かっとなった」と事実を認めたという。

 アンケートは野球部員約20人に対して4日に行った。校長によると、部員らはいじめはなかったとした半面、2年生部員が男子生徒にしていた「からかい」として、
柔道技をかける
▽ズボンを脱がす
▽打撃フォームや声のまねをする
――などの回答があったという。 

結論から言えば「いじめ」は確実にあった。だれが否定しようとも、それは100%保証できる。
なぜならバット事件の犯人が「いじめにあった」と言っているからである。

前にも書いたが、ここ数年いじめの定義は「被害者がいじめであると認識すれば、それはいじめである」
といった客観性無視の滅茶苦茶なものとなっている。
したがって加害者やその父親や学校が何と言おうとも、バット事件の加害者がいじめだといっている以上、いじめは存在したのである。

しかし今や、メディアはそうは言わない。

彼らは困っているのだ、被害者として同情すべき一部の子どもたちが、
許しがたい加害者として立ち現われてきたからだ。


一昔前なら「彼を犯罪に駆りたてたのは、いじめと言う不当な差別であり、その意味では彼も被害者である。
彼のいじめを解決できなかった学校にこそ猛反省を促したい」
とでも書いておけば良かったのだが、今は少年にも責任を取らせろというのが知識人の間のブームである。
余計なことを語って発行部数に影響をあたえるまでもない・・・・・そうした判断が上のような奇妙な記事を作るのだろう。



いじめの公的な定義には以下のようなものがある。


文部省
「@自分より弱いものに対して一方的に、A身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、B相手が深刻な苦痛を感じているもの。なお、起こった場所は学校の内外を問わないことにする。」

警察
「単独または複数の特定人に対し、身体に対する物理的攻撃又は言動による脅し、いやがらせ、無視などの心理的圧迫を反復継続して加えることにより、苦痛を与えること(ただし、番長グループや暴走族同士による対立抗争事案を除く。)」





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教師の18%熱意失う/授業以外の業務重荷に

(琉球新報 2000.07.14)


 

身ともに消耗し、仕事への熱意を失う「燃え尽き症候群(バーンアウト・シンドローム)」と教師の多忙化の因果関係を探るため、「沖縄教師の仕事と多忙化・バーンアウト調査研究会」(会長・梶村光郎琉大助教授)が行ったアンケート調査結果がまとまり14日午後、梶村助教授らが県庁記者クラブで発表した。

回答した教師の5%がうつ病に近い状態、13%はバーンアウト、それに近い教師も31%いて、半数近くが教員としての熱意を失った、あるいは失いつつあると感じていることが分かった。

 調査は1999年11月から2000年3月にかけて行われた。那覇、浦添両市の校長、養護教諭、非常勤教諭を含む2059人が対象。有効回答数は566人(27・5%)。

 アンケートは「疲れる」「憂うつ」などバーンアウトの症状21項目を自己評価。回答ごとのポイントがあり、平均点(バーンアウトスコア)が4―5点の場合バーンアウト、3―4点で危険信号。
「うつ病に近い状態」とされる五点以上の教師も5%いた。
全体の平均も3・15ポイントで「多くの教師が危険信号を発している」と結論付けている。

 同研究会では、生徒指導などの「校務分掌に費やす時間が増えて忙しくなった」と答えた教諭ほどバーーンアウトの傾向が強いことから、授業以外の仕事の増加がバーンアウトの一因とみている。

5%がうつ病傾向、13%がバーンアウトという数字に、単純に驚いてはいけない。
メディアのインタビューに答えたり投書したりする人と同様、この種のアンケートに対しては、問題意識の高い人や問題そのものを抱えている人の方が積極的に答えやすいからだ。

しかし回答を寄せなかった72.5%の人々すべてがうつ病傾向やバーンアウトに否定的であると仮定しても、13.5%あまりが教員としての熱意を失った、あるいは失いつつあるのだから、やはり驚くべきだろう。
日本の学校は小中高全部合わせて平均すると、1校25人ほどになる。
つまり各校およそ3.5人が熱意を失いつつあるということだ。

論評はしない。
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