キース・アウト (キースの逸脱) 2000年7月 |
by キース・T・沢木
2000.08.08
7月の後半は、学校が夏休みに入ったこともあってネタ切れの感があった。8月に入ってもこれといった記事はなく、夏枯れが続いていたが、考えてみれば学校基本調査の速報の時期なのだ。
<不登校小中学生>昨年度13万人突破、過去最高 文部省調査
(毎日新聞2000.08.05)
「学校に行かない」あるいは「行くことができない」不登校の小中学生が1999年度は13万人を突破し、過去最高を更新したことが4日、文部省が公表した「学校基本調査速報」で分かった。中学校では生徒41人に1人、小学校は児童288人に1人の割合だが、前年度比の増加率は2・0%(約2500人)で、91年に統計を取り始めて以来、最小となった。依然として高い水準ながら、増加傾向はやや鈍化した形。同省はスクールカウンセラーの配置などが効果をあげたとみており、来年度以降、全公立中学校へ配置する方針だ。
(中略)
調査結果によると、年間30日以上の長期欠席をした児童・生徒数は、小学校で約7万8000人、中学校で約14万3000人だった。このうち不登校は小学校で2万6044人、中学校は10万4164人で、前年度に比べ小学校は横ばい、中学校は2500人ほど増えた。
増加率の鈍化について、同省は「今回だけでは判断できない」としながらも「学校に配置しているスクールカウンセラーなどが、子供が不登校になるのを未然に防いでいるのではないか」と評価。今後も相談体制の充実を図る考えだ。
文部省の言うことがすべて正しいと思ってはいけない。文部省はいうまでもなく政府の機関であり、その発言は政治的なものだからだ。
文部省が
「学校に配置しているスクールカウンセラーなどが、子供が不登校になるのを未然に防いでいるのではないか」と評価するのは、
自らの指示と予算措置を自画自賛しているだけのことであり、実際にその通りであるかどうかは別問題である。
その見解が正しいかどうかは、カウンセラーに対して次のようなアンケートを行い、その結果を示すだけでもよかった。
「あなたのカウンセリングの結果、不登校にならずに済んだと考えられる事例は何例ほどか」
しかし文部省にそのようなことをする気はなく、メディアもそれを確認しようとしない。
教育問題は常に言いたい放題で、科学的検証というものはほとんど入らないのだ。
文部省が非科学であり、メディアがそれに科学的検証を加えようとしないなら、私もまた科学的でない私自身の実感を伝えよう。
「不登校増加率の縮小は、保護者の必至の願いを入れ、登校刺激を与えてはいけないという方針を無視し始めた教師たちの努力によるのだ」
と。
そして多分、これも違っている。本当に考えていることは別にあるのだが、今は言いたくない。
なお、
学校基本調査速報の概要は以下のページで見ることができる。
http://www.monbu.go.jp/stat/r316/youshi00.html
2000.08.15
学校基本調査(速報)については知っていたが、愚かにも生徒の問題行動調査(速報)というのは知らなかった。基本調査同様、5月1日付けで教頭あたりが整理報告しているものなのだろう。
学校内暴力、過去最多の3万1千件=いじめは4年連続減少−文部省調査
(時事通信 2000.08.11)
1999年度に全国の公立小中高校から報告された校内での暴力行為は、前年度より4.7%増えて計3万1055件に達し、過去最多となったことが11日、文部省の生徒の問題行動調査(速報)で分かった。同省中学校課は「かつての不良グループによる校内暴力とは違い、ささいなことをきっかけに突発的に暴力を振るうケースが多い」としており、背景には“切れる子供”の増加があるとみられる。一方、いじめの報告件数は4年連続で減少した。
調査は、各自治体の教育委員会からの報告を集計した。それによると、99年度に公立小学校で起きた暴力行為は前年度比1.2%減の1509件、中学校は同5.5%増の2万4246件、高校は同2.9%増の5300件だった。形態別では、小中高とも「生徒間暴力」が最も多く計1万5181件。次いで「器物損壊」が計1万722件、「対教師暴力」が計4877件。
暴力行為が報告された学校の割合は、小学校が全体の2.3%、中学校が34.1%、高校が41.6%。学校外での暴力行為は計5522件で、同0.7%減少した。
一方、いじめの件数は同13.8%減の計3万1369件で、95年度の計6万96件をピークに年々減少。同課は「指導が徹底され、早期に解決するケースが増えてきたことが一因では」と推測している。しかし、報告件数は自治体によりばらつきが大きく、「実態を正しく反映しているか疑問」との指摘もある。
最後の1行、一体誰が言ったの?とチャチャを入れたくなる。
新聞記事には記事の定型とも言うべきものがあって、最後は識者または一般大衆の言葉で締めくくると納まりが良い、ということになっている。そうした『常識』にのっとって書かれたものであり、大した言葉は載らないのだが、それでも記者の報道姿勢をうかがう上で、重要な一文でもある。記者は「いじめ」が減ったという数字に疑問を持っているのだ。
しかしそうなると「校内暴力が増えた」という数次も同様に疑われるべきなのだが、そうはならない。新聞記事なんてその程度のものだ。
さて、この記事に関して、私の関心は記者の姿勢よりも文部省のコメントの方に傾く。
「かつての不良グループによる校内暴力とは違い、ささいなことをきっかけに突発的に暴力を振るうケースが多い」
の「かつて」を1970年代以前にまで遡らせれば別だが、ここ20年あまりの校内暴力はすべて「ささいなことをきっかけに突発的に暴力を振るうケース」だったように思うがどうか。
また、(いじめが減ったのは)「指導が徹底され、早期に解決するケースが増えてきたことが一因では」 も、そんなに単純なものではないだろうと言いたくなる。
文部省や各教育委員会は年がら年中調査を行っており、その都度学校は教頭を中心にアタフタしているのだが、数値の分析はいたって尾粗末なのだ。
もっとも校内暴力にもイジメにも共通の特効薬はなく、アンケートでも集計していないと、文部省・教育委員会は何をしているのだと非難されかねないからやってるだけのこと。
科学的な分析など期待する方がバカなのかもしれない。
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小中高生の暴力
彼らがキレるのはなぜか
(沖縄タイムス 2000.08.13)
ささいなことがきっかけで、キレて暴走する子どもたち。学校現場や行政は、解決の決め手を見いだせず戸惑いを隠せない。
社会問題となった「十七歳の犯行」に象徴される児童・生徒の暴力行為が増えている。
文部省調査によると、公立の小中高生が、一九九九年度に学校の内外で起こした暴力行為は、前年度より三・八%増えて三万六千五百七十七件に上った。県内では五百七十一件発生した。
全体のうち校内での暴力は三万一千五十五件。この中で中学が二万四千二百四十六件と、全体の八割近くを占め、「荒れる中学」を数字で浮き彫りにする。
暴力の対象では、生徒間をトップに器物損壊、教師と続いている。教師への暴力が、一一・二%増と大幅に伸びているのが目立つ。
耳のピアスやラジカセの音量、授業中の携帯電話への注意、悪ふざけをいさめられるといった、ささいなことで逆上し教師につかみ掛かる。
学校への反抗のニュアンスが強かった八〇年代に吹き荒れた校内暴力に対して、今の子どもたちは、どちらかと言うと自己中心で、短絡的に暴走するケースが多い。
それだけに、「暴力が簡単にエスカレートする」「今までのとらえ方では理解できない」と対応に戸惑い、悪戦苦闘する教師の声が聞こえる。
もちろん、これは学校だけの問題ではないことも確かだ。
子どもらが、どうしてこんなにキレやすくなったのか。家庭や社会を含めさまざまな要因があると思う。
暴力に走る子どもたちの「心の闇(やみ)」を解きほぐすことは大事だろう。社会病理面からの追求も欠かせない。しかし、それは一朝一夕には対応できない。
当面の手だては、子どもたちと常に向き合っている教師やスクールカウンセラーなど、学校現場での取り組みがより重要となるはずだ。
そのために、教師が、一人ひとりの児童・生徒ときちんと話し合えるような少人数学級の実現が緊急の課題であるのは間違いない。
学校への反抗のニュアンスが強かった八〇年代に吹き荒れた校内暴力に対して、ここがすでにずるく、汚い。
記者はここで
八〇年代に吹き荒れた校内暴力は学校への反抗のニュアンスが強かったので私たち(マスメディア)は支持したが、今の子どもたちは、どちらかと言うと自己中心で、短絡的に暴走するケースが多いので私たちは支持しない、と弁明し宣言しているだけなのだ。
私に言わせれば80年代も現在もなにも変わっていない。20年前の子どもたちが学校の不正を明確に見極め、しっかりした見通しをもって校内暴力及んだなどということは、まともな人間の考えることではないのだ。けれど当時、あたかもそれが真実であるかのように流布され、支持された。
よおく考えてみよう。当時の第一線で取材活動をしていた若手記者たちが何者であったのかを。
彼らこそ、実は
「造反有理」(すべての反抗には意味がある)を旗印に、70年安保を戦い抜いてきた学生運動の闘士の世代なのだ。
「何か良く分からない、けれどボクが反抗したくなるのはそれなりの理由があるからだ」
「そしてそれは頭ではなく、体が捉える事実だから絶対に正しい」
今となれば「造反有理」はその程度のものでしかなかったのに、しかしそれを、全共闘世代は次の世代にも当てはめた。八〇年代に吹き荒れた校内暴力は学校への反抗のニュアンスが強かったは、そうした目で捉えた風景に過ぎない。
さらに言えば、
彼らこそ90年代の「困った子どもたち」の父親の世代であり、
「迷走する17歳」の父親でもある。
彼らは学校にあった多くの価値を潰し、多様な方法を奪った。そして今、無恥としか言いようのない要求を掲げる。
子どもらが、どうしてこんなにキレやすくなったのか。家庭や社会を含めさまざまな要因があると思う。
(その通りだ)
↓
暴力に走る子どもたちの「心の闇(やみ)」を解きほぐすことは大事だろう。社会病理面からの追求も欠かせない。
(これもその通りだ)
↓
しかし、それは一朝一夕には対応できない。
20年前からそうした取り組みをしておけば間に合ったはずだ。しかし20年前、問題は子どもになく、学校と教師にこそある、と強力にミスリードしたのは誰だったのか?
↓
当面の手だては、子どもたちと常に向き合っている教師やスクールカウンセラーなど、学校現場での取り組みがより重要となるはずだ。
ふざけないでくれ。
↓
そのために、教師が、一人ひとりの児童・生徒ときちんと話し合えるような少人数学級の実現が緊急の課題であるのは間違いない。
そうだ。キミたちにできることは山ほどあるのに、キミたちはなにもしなくて済むのだ。
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生徒の暴力行為・お盆は情操教育の機会
(琉球新報 2000.08.13)
公立の小中高校で暴力行為が過去最多となっていることが、一九九九年度の文部省調査で明らかになった。県内の学校も例外ではない。
県教委の調査によると、県内の公立校での暴力行為は前年より七十件多い五百七十一件で、三年連続して過去最多を記録した。集計された暴力行為の八割は中学校で発生している。「疾風怒濤」の思春期の子どもたちの行為には、いつの時代もハラハラさせられてきた。しかし、昨今の子どもたちの常識を逸した「分からなさ」は、世代間の深い意識のずれ(というより亀裂)を見せつけて余りある。
日本全国で連鎖反応のように少年の凶悪犯罪が起きている。まさか沖縄ではあり得ない、と楽観してはいられなくなった。
県教委の分析によると、暴力の形態で最も多いのが「生徒間」で四百五件。これは、集団で少数の者を傷つける「いじめ型」であり、それが県内小中高校の暴力行為の特徴であるという。
調査では、高校中退率もまとめているが、こちらは、何とか全国ワーストワンを返上した。とは言っても、千七百十五人が九九年度内に学校を去った。中退の理由は「進路変更」「学校生活・学業不適応」「学業不振」といろいろだが、これらは個別に独立しているのではなく密接に関連しあっていると見るべきだろう。
学校の暴力行為も、怠学も、思春期に特徴的な反抗という大きな枠でとらえると、社会性を身につける大事なステップである。問題は、傷つけたり、傷つけられたりする心の痛みに感応することを、どう教えるかではないだろうか。県教委では、中退者への指導を強化するため、今後二十三校に担当教諭を配置する方針のようだが、学校任せだけでは問題は決して解決しない。
きょうはお盆の中日。私たちは、忙しさにかまけながらも、毎年この時節には先祖を思いやる時間を共通に持つようになった。今、生きてある自分を、子どもたちとともに語り合う、大事な機会ではないだろうか。
のんきなものだ。
今、生きてある自分を、子どもたちとともに語り合う、
で、結局何を話し合えばいのだ?
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「不適格先生」を追放 文部省、転・免職制導入へ 独り善がり授業
(西日本新聞 2000.08.12)
文部省は、子どもたちが理解できない独り善がりの授業を行うなど、指導力に欠ける公立校の不適格教員を転職させたり、免職処分にしたりする制度の創設を検討する方針を固めた。子どもの人格形成に悪影響を与えるこれらの教員を教育現場から“追放”できる道を探る。早ければ二〇〇一年の通常国会にも教育公務員特例法改正案を提出し、早期導入を目指す。
教員は、免許を取得し採用されれば、終身教員の身分が保障される。このため、子どもたちが理解に苦しむ授業を行い、校長らから指導を受けても全く改善しない教員でも免職にすることができないのが実情。
同省は、人の成長に極めて大事な時期に不適格な教員に巡り合うことの悪影響を一掃することが必要と判断。転職を勧めたり、免職にしたりする仕組みを本格的に検討することにした。
教育改革国民会議(首相の私的諮問機関)の分科会が七月、不適格教員について「学校内での役割変更、転職、免職などの処遇を取ることが必要」と強力に迫ったのもきっかけだ。
不適格教員には、地方公務員法に基づく免職や降任などの分限処分がある。しかし、処分を不服として提訴するケースも多く、明白な事件でも起こさない限り処分できず、一九九八年度に免職など重い処分を受けた教員は全国で十七人と少ない。
同省は、教員の適切な評価手法を確立し、不適格なことを客観的に立証して公正な方法で免職処分などができる規定を教育公務員特例法に盛り込むことなどを検討していく。
今後の動向に注目しよう。
2000.08.15
またもや少年による不可解かつ残忍な犯罪が起きた。
高1 一家6人殺傷 民家侵入、3人死亡 「のぞきした」注意され 大分・野津町
(西日本新聞 2000.08.14)
十四日午前三時前、大分県野津町都原、農業岩崎万正(かずまさ)さん(65)方から「一家六人全員が男から刃物で刺された」と一一〇番があった。大分県警三重署員が駆け付けたところ、万正さんの妻澄子さん(66)、長女の智子さん(41)、智子さんの長男で中学二年の潤也さん(13)の三人が胸などを刺され既に死亡。残る三人も病院に運ばれたが、万正さんが意識不明の重体、智子さんの長女で高校二年の舞さん(16)、二男で小学五年の誠也君(11)も重傷を負った。同署は家族の証言から、殺人と殺人未遂の疑いで同県大野郡内の高校一年の少年(15)を逮捕した。
少年は容疑を認め「一週間ほど前に岩崎さん方のふろ場をのぞいたと注意された。そんなことはしておらず、ぬれぎぬを着せられ恨んでいた。家族全員を殺そうと思った」などと供述しているという。同署は捜査本部を設置し、詳しい動機などの解明を進めている。
(後略)
不謹慎な話だが、私はこれを読んで江戸時代の武士のことを考えた。江戸時代の中期、ある田舎の殿様が家来の起こした覗き事件を恥じて切腹した、という話を思い出したからである。両者に共通するのは、その視野の狭さと短慮である。
事件についてはまだ詳細が分からないのでコメントは差し控えるが、私がこの事件で少なからぬショックを受けたのは、次の記事の見出しのためである。
<少年殺人>逮捕の高1生は不登校 大分
(毎日新聞2000.08.14)
(前略)
近くの住民らによると、少年の自宅は被害者の岩崎萬正さん(65)方からわずかに約500メートル。
共働きの両親と成人した会社員の兄と一緒に住む。
今年4月、県立高校に入学したが、1カ月程度で学校に行かなくなった。
髪を赤く染め、ピアスをするなど服装が派手になり、朝の新聞配達をした後は自宅周辺をぶらぶらしていたという。
少年がほぼ毎日、買い物に寄っていたという近くの商店の女性は「(少年は)どちらかというと暗い感じ。
高校に入学してから悪い友達ができたようだ。
でも根っからの不良ではなく、人を殺したなんて信じられない」と話した。
被害者の岩崎舞さん(16)とは、同じ高校の1学年後輩にあたる。
小学校のころ一緒に通学していたが、最近はほとんど交流がなかったようだ。
私は常々「不登校は病気ではなく、受験競争や管理教育に対する当然の反応だ」という考え方に反対してきた。そして今年になって起きたいくつかの事件(京都小2殺人事件、新潟少女監禁事件、佐賀バスジャック等)に共通なこととして「不登校経験」や「引きこもり傾向」「いじめ体験」のことを考えてきた。
しかしそれは彼らの心の闇を注視せよという意味であって、けして「不登校」を危険視するものではない。多少厳しい言い方があったとしても(多分なかったと思うが)、メディアが一方的に「不登校」を支持する以上、バランスをとる上で、それでいいという気持ちがあった。
しかしこうもあからさまに「不登校の子どもたちは危険だ」といった印象を与える記事が出てくるとなると、私も考え直さなければいけなくなる。
不登校を健全と考えるメディアと不登校を危険視するメディアの両方を視野に入れてものを言わなければならない
ということだ。
2000.08.16
今朝も朝寝坊、8時過ぎに階下に降りてきて、頭に来ると分かっていながらTVのワイドショウのスイッチを入れたりする。涼しい午前中にやっておけば良い事も多いのだが、日ごろ世のお母さんたちはTVを見ながらどんな勉強をしているのか、そのことを知るのも勉強だなどと言い訳をしながら、毎日TVばかり見ている。
今朝の話題はやはり大分の「一家6人死傷事件」
やれ高校でのイジメまがいのことが遠因だの、6人を殺し家に火を放つことで「覗き」の噂を消し去ろうとしただの、精神科医やら心理学者やらジャーナリストたちが好き勝手なことを言っている。おまけに芸能人・タレントにまでコメントを求める。
いまやかのサッチー女史は悩み事相談員であり、講演会では教育談義をしているという。アグネス・チャンも一回の講演料百万円以上で独自の教育論をぶっている。古い例では、故横山やすしもマイク真木もユニークな自由主義子育て論で一世を風靡した。しかしその子たちがどのように育ったかは、多くの人の知るところだ。
無責任なTVに比べると、その点で新聞の方がややましかもしれない。
<少年殺人>大分の一家6人死傷事件 識者の談話
(毎日新聞 2000.08.14)
精神科医で作家のなだいなださんの話
少年の語っていることが犯行理由だとすれば、そのようなことは日常的によく起こっていることだ。ただここまでの事件の引き金になってしまうのは、犯罪を抑止していた心のブレーキがマスコミによって外され、まるで流行のようになってしまっているからではないか。例えば「こんな変なことを考えるのは自分だけ」と考えた人が精神科に来るのだが、犯罪報道によって「同じことを考える人間もいるんだ」と思えば、心の中のブレーキが緩んでしまうかもしれない。人間は一人一人が別個の存在だ。「15歳」といったキーワードだけで少年たちをひとまとめに論じることはやめた方がいい。
京都女子大の野田正彰教授(精神病理学)の話
事件の現場が農村地帯なら家同士などの緊張関係の影響も考えられるし、「ふろをのぞいたと言われた」のが本当の動機なら、しゅう恥心から被害妄想がふくらんだことも考えられる。しかし問題は、これまでの少年事件でも捜査をする警察・検察に聞き取る能力がないのか、出てくる動機がよく分からないことだ。多発化、残酷化している少年犯罪に社会として対処しなければいけないのに、判断する材料をだれも持っていない。他の国のように、専門家の委員会が権限を持って少年の面接や資料収集を行って、正確な状況を把握することが必要だ。
岩井弘融・東洋大名誉教授(犯罪社会学)の話
昔からよくある農村型の犯罪という印象だ。農村のような共同体地域では変なうわさが一回立つと、それを苦に自殺したり、逆に攻撃的になって一家皆殺しなど、のっぴきならないケースになることが多い。今回のケースは「のぞいた」といううわさが少年の耳にどういう形で伝わったのかわからないが、顔見知りであればあるほど追いつめられ、殺意が募ったのではないか。しかも15歳というと動揺の激しい年ごろだ。これらの要因が複合した結果の事件だと思う。
野村勝彦・福岡女学院大教授(臨床心理学)の話
今の思春期の子どもたちには、自分が悪くても相手から非難されると、自分が悪いことは忘れ、相手への攻撃性を増す行動傾向が特徴的にみられる。自分の行動を客観的に見れず、ブレーキをかけられないからだ。これは自分の意思で行動を起こしたり、善悪を考えさせるトレーニングが幼児期から家庭でも学校でもなされていないことが原因。殺人は絶対やってはいけないことだが、その意味では少年は大人たちの被害者と言ってもいいのではないか。
元教師の教育評論家、尾木直樹さん(東京都町田市)の話
注意されたのをきっかけに家族全員にあつれきを感じていたのだと思うが、全員を刺すとは飛躍がありすぎる。非常にショックだ。これまで、恨みを晴らすことはできないことだったが、今は各地で起きる17歳の犯罪をきっかけに、その方法を学習してしまったとも言える。少年の間には「自分もできる」というムードがまん延し、今後もこうした事件が続く可能性が強い。
吉川(きっかわ)武彦・国立精神神経センター精神保健研究所長の話
競争社会の団塊の世代の親から育てられた17歳を中心に前後5年くらいの世代は、自己抑制が効かないことが特徴だ。「ふろをのぞいたといわれた」という恨みを自分の心が処理できないままため込み、直前にあった何らかの刺激でキレてしまったのではないか。いったん行動を起こしてしまった後は歯止めがきかず、これだけの人数を殺傷してしまうことになったのだろう。発達段階の15歳という年齢を考えると、精神異常の余地は考えられず、心の未熟さが生んだ事件だと思う。
ポイントは被害妄想と「広がる少年犯罪」だ。
私もそれで良いと思う。
中でも被害妄想が、直接引き金を引かせたと考えるのがもっとも妥当な判断であろう。
メディアの報道する「事実」がすべて本当だとすると、加害少年のこの数ヶ月は本当に惨憺たるものだった。
4月には本来入る気のなかった高校に進学させられている。運動部に入っても練習が辛くてついて行けない。友だちとじゃんけん遊びをすればオレだけが異常に強く叩かれてしまう。心を寄せた女の子(今回の被害者)にはフラれてしまう・・・・・・。
しかし考えてみればそのいずれにしても、責任の一端は自分にあった。もっと勉強すれば良かった。運動が辛くても頑張ってやればよかった。じゃんけんも負けさえしなければよかった。女の子にフラれるのも、ときにはしかたがない。しかし
しかし、覗きの問題だけはそれらとはまったく違うのだ。自分はあの家の裏でタバコを吸ったことはあるが覗きだけは絶対にしていない。にもかかわらず犯人あつかいされ、おまけに下着切り裂き事件の犯人まで自分だと疑われている。
この一件だけは向こうに非があり、こちらに落ち度はまったくない。自分を濡れ衣で苦しめる被害者家族こそ悪であり、正義は100%こちらにある。これだけの悪が見過ごされていいはずはない!
彼が再三「覗きはしていない」と訴える秘密がここにある。やってもいない犯罪のために苦しめられる、ボクこそ本当の被害者なのだ。
NHKの報道によると、少年は自ら犯行現場に警察官を案内し、警察に向かう車の中では眠ってしまったという。
少年の心の中は満足感でいっぱいだった。かれは正義を行った。無実の罪で自分を苦しめ、絶望の淵に追いやった被害者家族に、ついに正義の鉄槌を下した。
それなのにどうして、あの人たちは殺人などというどうでもいいことにいつまでもこだわっているのだろう。ボクはあいつらを殺した。それであいつらが濡れ衣を着せたことも許してあげようと思っているのに、みんなはなぜいつまでもつきまとうのだろう。
社説=一家殺傷事件 十代の内面に肉薄を
(信濃毎日新聞 2000.08.16)
やりきれなく、無力感すら覚える。大分県野津町で起きた一家殺傷事件のことだ。高校一年の男子生徒が近所の顔見知りの家に押し入り、ナイフで三人を殺害、三人に重軽傷を負わせた。
現場となった周辺には、日本のどこにもあるのどかな風景が広がる。なぜこんな凶行が、それも十五歳の手で―と疑問が消えない。昨今の少年事件では、加害者に内面の葛藤(かっとう)があるにせよ、引き起こした結果との落差があまりに大きいことに驚く。今回も心の軌跡を丁寧に解明する必要がある。
少年は事件発生から間もなく犯行を認め、殺人などの容疑で逮捕された。調べに素直に応じている。供述内容にも、ひどく混乱があるようにはうかがえない。
とはいえ、自分で自分の気持ちをうまく説明できない部分があるかもしれない。思い込みもないとは言えまい。今の段階では周囲の証言や物証と重ねつつ、心の奥底に一歩ずつ迫る努力が捜査側に求められる。
事件が全国に衝撃をもたらした理由の一つは、伝統的な地域社会が惨劇の舞台になったことだ。そこにはまだ、家族づきあいのできる人間関係が残っている。
困り事があれば助け合い、家族の単位を超えて子供を育成するといった意識は都市部の及ばないところだ。信頼感に基づく秩序が隣近所を支えている。事件がそれを崩した波紋は小さくない。
関連して、少年がなぜ殺意を一家全員に向けたのかが不可解だ。供述では、ふろをのぞいたと注意されたことから恨みを持つようになったという。
少年はのぞき見を否定している。だとすれば、自分に向けられた不名誉を何とか晴らしたい思いは分かる。問題は、それが「一家を殺そう」と一気に向かう心理である。ここを解きほぐさなければ、全体像の把握は難しい。少年の行動は計画性をうかがわせる半面、短絡的と思われる側面もあるからだ。
犯行そのものは、ただむごいと言うほかない。就寝中を襲い、家人を次々と刺している。被害者の恐怖心は察して余りある。心からめい福を祈りたい。
少年に関しては、優しい、素直との見方と同時に、「内にこもるタイプ」との指摘がある。
学校や一般社会で、付き合い下手は往々にして起こる。人間関係のこじれの中で、憎悪に発展することもあり得る。多くの人は、そうした負のエネルギーを友人に受け止めてもらったり、スポーツや趣味で紛らす方法を次第に身に付けていくものだ。少年の場合、取り巻く環境はどうだったのか、多角的に明らかにしてほしい。
少年はほかの少年事件の影響は受けていないと述べている。だが目立たないとされる同世代が重大事件の当事者になった点で、共通項はある。「特異なケース」では済ませられない。警察はじめ、学校や社会がともども心のひだに肉薄することが、再発防止につなげる道である。
自分に向けられた不名誉を何とか晴らしたいという思いが「一家を殺そう」と一気に向かう心理のカギは被害者意識だ。幼い時から万能感だけを与えつづけられた彼らの、思い通りに行かないことに対する恨みの声だ。
子どもの心を傷つけてはいけない、子どもは自由にしておかなければ創造力を失う、子どもに親の価値観を押しつけてはいけない、
そういうメディアの悪魔のささやきに、不承不承反応していった親たちがつくりあげた、おそろしく傷つきやすい心が容易に他者を傷つける。
「警察はじめ、学校や社会がともども心のひだに肉薄することが、再発防止につなげる道である。」
メディアよ、警察も学校もキミたちが徹底的に叩きつづけてきた場所ではないか。「無能」「脳死」「現代の強制収容所」「平気で人を殺す」・・・・・・・・・・・・ありとあらゆる修辞で潰しにかかった警察や学校に、何をいまさら期待するのだ。
不登校や「80年代の校内暴力」が厳しい受験体制と管理主義に対する正当な反応だと断じたキミたちの、その優れた判断力によってこそこの問題は解かれるべきだ。「警察はじめ、学校や社会が・・・・・・」と言ってはいけない。キミたちがつくったこの社会の問題は、キミたちが解決すべきだ。
テレビを見たり、テレビゲームに接したりする時間が長い子供ほど、暴力を肯定しがち―。郵政省がこのほど首都圏の小学生に行ったアンケート調査で、こんな傾向が浮かび上がった。
2000.08.17
TVやゲーム、長時間するほど暴力的に―郵政省が首都圏の小学生調査
(北海道新聞 2000.0816)
「テレビなどの暴力シーンが子供に悪影響を及ぼしている」との指摘が一部にあることを踏まえ、同省として初めて実施した。米国では1950年代以降、同種の調査が約3500件行われているが、日本は「十件に満たない」(同省放送政策課)といい、今後も調査を重ねて議論のたたき台としたい考えだ。
調査結果によると、テレビの視聴時間は48.8%が「一日三時間以上」で、テレビゲームは27.2%が一日2時間以上遊んでいた。過去一年間に「ける」「ぶつ」など十項目の暴力を振るった経験を尋ねたところ、一日3時間以上テレビを見るグループは、53.6%が二項目以上で「ある」と回答。二時間以内しか見ないグループの44.8%を9ポイント近く上回った。
「相手が口で言っても聞かない場合」などに暴力を振るっても良いと思うか―などの質問で暴力への許容度を調べた結果、許容度の高い子供の比率は、ゲームで一日2時間未満しか遊ばない子供では43.7%だったのに対し、二時間以上遊ぶ子供では59.0%と15.3ポイントも高かった。
テレビアニメの「ピストルや爆弾で敵を攻撃するシーンを見てどう感じるか」との質問に、「何も感じない」と答えた子供は21.5%。「こわい・気持ち悪い」(19.2%)や「かわいそう」(12.0%)を上回り、現代っ子の無感動ぶりもうかがえる。
また「『いじめはいけない』というけれど、いじめられる方にも悪いところがあると思う」という意見をどう思うか―との問いに「そう思う」と答えた子供の割合は、ゲームで遊ぶ時間の長いグループが34.2%で、時間の短いグループを3.8ポイント上回った。
調査は今年三月、東京、神奈川、埼玉、千葉の一都三県の公立十小学校の三、四年生とその保護者を対象に実施。有効回答は小学生1292件、保護者1256件だった。
2年前(1998年)栃木県の黒磯市で女教師が生徒に刺殺された際、大手新聞各紙に奇妙な記事が出た。テレビは子どもの暴力性に影響を与えないという、イギリスの心理学研究論文である。
心理学は昔も今もアメリカがメッカであり、研究論文は質・量ともにこの国が圧倒している。その中にあってわざわざ「イギリス」の論文を引用するというのはどういう意味か・・・・・・
答えは簡単である「テレビに悪影響はない」などという論文はイギリスにしかなかった、ということだ。
大手新聞社は系列にテレビのキー局を持っている。したがってそのテレビを批判したくないのは分かるが、それにしても「テレビに悪影響はない」などとよくも言えたものだと、メディアの厚顔無恥に、私はずいぶんと腹を立てたものだ。テレビに影響力がないとしたら、まずクライアント(番組提供企業)にそのことを報告すべきだ。
さて、暴力国家ゆえに暴力には敏感なアメリカ人たちは日本の親たちが子どものテレビ視聴を制限しないことに驚いているという。私はこれに同意する。ただしもはや子育てに関心を示さなくなったかの国の人たちは、自ら努力して子どもを暴力シーンから守るのではなく、テレビに「V(バイオレンス)チップ」という小道具を組みこんで、自動的に暴力シーンを受像できないようにてしまった。
そこで日本だ。日本の親たちはこの郵政省の研究に対してどう反応するか。
*ネットで検索できる限りにおいてだが、今日の5大新聞にこの研究を紹介する記事はない。また、テレビニュースでこれが話題になったことも、私の知る限り、ない。
2000.08.24
<バス乗っ取り>「友人とのトラブルはいくつかあった」と教委
[毎日新聞8月22日]
西鉄高速バス乗っ取り事件で、殺人容疑などで佐賀家裁に送致された佐賀市内の少年(17)が中学校でいじめを受けていたかどうかを調べていた佐賀市教委は22日、県教委への報告書案を定例の市教育委員会に提出した。案は「はっきりしたいじめは見いだせなかったが、学校生活で友人とのトラブルはいくつかあった」と報告した。しかし「いじめと認定するには、それを苦痛と感じるかどうかは本人の問題で、絶対にいじめはなかったとは判断できない」と結論付けた。
市教委は5月下旬から、少年が通っていた小・中学校の教員22人に聞き取り調査を実施。さらに地域の教育関係者や少年の両親ら約50人からも聞き取り調査した。その結果、「学校生活でのトラブル」として、少年が中学3年の9月末、文化祭の準備中に友人と口論となり、持っていたカッターナイフで少年が先に挑発し、友人も応戦して少年が学生服の肩口を切られたことがあった、と指摘した。
市教委によると、聞き取り調査対象の教員22人のなかで「少年がいじめられていた」と断定した人はいなかった。また、少年の両親も「(少年)本人から『いじめられた』との言葉は聞いておらず、『からかわれただけ』と聞いていたと語った」という。
「それでもいじめはあったはずだ」という批判を見越して、佐賀市教委は常に微妙な発言をする。「いじめと認定するには、それを苦痛と感じるかどうかは本人の問題で、絶対にいじめはなかったとは判断できない」は、そういう意味である。
その上で「 それでも何かあったはずだ」との批判も考えて、「トラブルはあった、しかし少年の方が先に手を出したのだ」という事例も用意する。
22人の教員、少年の保護者も「いじめはなかった」と言っている。だからいじめはなかったという論法である。
学校におけるいじめ→やる場のない鬱憤→少年犯罪という図式はかくも強力なのである。
いじめの有無よりもっと本質的な問題が横たわっているのかもしれないのに、ひたすら「いじめ」の不在を証明しなければならない、
何とも情けない話だ。
<特報・「キレる」子>成育歴の詳細な調査実施へ 文部・厚生研
[毎日新聞 8月24日]
文部省の研究機関「国立教育研究所」と厚生省の試験研究機関「国立公衆衛生院」は23日、学校や家庭などで「キレる」子供の成育歴について詳細な調査を実施し、原因究明と対策研究に乗り出すことを決めた。「キレる」子供たちの多くが、育ち方に原因があると考えられることから、親などに聞き取りして「育て方」を探る。
もしかしたら教育問題に対するメディアの立場は、学校主因説から家庭主因説へ完全にシフトしてしまったのかもしれない。
文部省が「『キレる』子供たちの多くが、育ち方に原因があると考えられる」などと、つい2〜3年前なら袋叩きに会いそうなことを平気で言えるようになり、メディアが無批判にこれを報道するところに、何かしらの変化を感じる。
「少年犯罪は一義的にその犯罪を起こした少年自身が悪い」たったこれだけのことが共通のコンセンサスとなるために何年にもわたる時間と多くの犠牲が必要であった。
「その少年が育った主たる場は、学校ではなく家庭なのだ」これが、今形成されようとしている新たなコンセンサスだ。
しかし進むべき次の段階に、果たして世間は進んでくれるだろうか?その段階とは、以下のような疑問から出発するものだ。
「その家庭が持っていた誤った教育情報は、どこから得られたものなのか」