キース・アウト
(キースの逸脱)


2000年9月

by   キース・T・沢木













2000.09.01


一家6人殺傷に至った心理、未解明のまま=4日少年を家裁送致−大分地検

[時事通信社 2000年 9月 3日 ]



 大分県野津町の岩崎萬正さん(66)一家6人殺傷事件で、県警捜査本部は容疑者の少年(15)の調べを3日までに終え、犯行動機については、少年が被害者宅に下着を盗みに侵入したことの発覚を恐れた「口封じ」のためと断定した。大分地検は4日、少年を大分家裁に送致するが、6人殺傷という重大な結果を引き起こすに至った少年の心理状態や背景については、未解明の部分も残る。 

9月4日のNHKラジオニュースでも、「のぞきを疑われたことに恨みを持ったことと、下着をぬすんだことの証拠隠滅が目的」だとし、「下着泥棒が発覚して同級生の中で孤立することを恐れた少年が・・・・・・・」といった報道をしていた。しかし下着泥棒の証拠隠滅と一家6人の殺傷という不釣合いを、世間は納得するだろうか?

これは警察の分析が間違っているのだ。
下着泥棒の証拠隠滅なら、計画はもっと綿密でなければならない。窃盗の証拠を隠滅しながら殺人の証拠が残っては何もならないからだ。自宅まで転々と血痕を残したり、簡単な捜索ですぐにも見つかってしまいそうなところにナイフを隠すといった杜撰さは、証拠隠滅とほど遠い。

少年が終始こだわっていたのは「のぞき」の方なのだ。殺人で逮捕されながら「ボクはのぞいてない」と言いつづける姿は滑稽ですらあった。しかし、そこにこそ彼の正義はあり、無実の罪を主張することで彼は周囲の理解を得られると信じていたのだ。

「心の傷」という考え方は今や身体の傷と対比されるまでになった。今回の事件の被害者一家が彼に与えた傷は、万死をもって家族に償わせなければならない。そうした感じ方しかできない子どもたちを、私たちは育ててしまっている。









2000.09.05


神辺西中の出席停止 処分保留し正常化図れ
[中国新聞 8月31日]




授業妨害をする生徒二十人に、神辺西中学校(広島県神辺町)が態度が改まらねば、二学期から最長一カ月の出席停止を課すことを決めた。保護者や地域の大勢はやむなしと受け止めている。しかしこれまでの学校や町教委、保護者、地域の関係者の正常化への努力を多としてもなお疑問が残る。緊急非難では根本的な解決は望めない。
ここは学校は処分を保留し、家庭、地域ぐるみでもう一度問題と向き合ってほしい。


 学校によると、一部生徒の授業妨害が目立ち始めたのは昨年六月ごろ。学校側は「学習室」を設けたり、町費で臨時教員を雇った。危機感を抱いた保護者も授業を抜け出す生徒を説得するなど、模索を続けた。しかし、この四月からでも教職員への暴力が八件も起き、荒れはエスカレート。「教職員ではもう限界。地域、家庭の教育力を借りたい」と藤原幸博校長も自力更生をあきらめた。出席停止の狙いは問題行動の生徒を学校から切り離し、その間に反省を求めるもので、「学校崩壊」を自ら宣言したショック療法と言われる。

 「学校(学級)崩壊」を認めることは間違っていない。むしろ遅きに失した。学校が崩壊の芽を確認してから一年半近く、この二十八日にやっと保護者全員集会が開かれた。家庭や地域の協力を求めるなら、抱え込まないでなぜ、早く実態の公開に踏み切らなかったのか、残念と言うほかはない。荒れの実態を地域が知ることは抑止力になる。学級崩壊未然防止サポートチームを初めて作った京都市教委も指摘するポイントだ。

 問題行動をする児童が学級に三人いたら、小学校でも授業は成り立たないとされる。神辺西中は二年生が三学級、三年生が四学級。一学級三十三人から三十一人の「少人数学級」だが、出席停止になる生徒が二年生に八人、三年生に十二人いる。彼らが騒げば授業は難しかろう。他の生徒の学習権が脅かされるとの町教委の心配も理解できる。

 だからと言って、いきなり出席停止までの処分をするにはためらわれる。一つに荒れの原因が十分解明されていないと思えるからだ。学校の説明現象的で、「勉強が分からないから」という生徒の声には語られていない別の要因があるかもしれない。一般的には管理能力や経験に欠ける若い教師と、古い発想から抜けられないベテラン教師の力不足が崩壊の一方の原因に挙げられる。多面的に原因が究明されねば処分を課しても本質的解決にはつながるまい。

 もう一つ。七月に処分を決めながらほぼ二カ月、学校側はどんな手を打ったか。疲れ果てた教職員には酷だが、処分の間にも進めるという学習指導を兼ねた週二、三回の家庭訪問などを一カ月以上の夏休みにこそ全教職員、地域一丸となってもっと全力で取り組むべきではなかったか。ショック療法の効果なら、内容の公表で目的の大半は達せられよう。

 こう考えると、処分の実施はまず、一カ月保留すべきである。したつもりで正常化の努力をやり直したい。学校、生徒、家庭が真剣に事態に対応して反省もし、学級を守る決意を形で示してほしい。


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何かを語ろうとする意欲を本当に失わせる記事である。
管理能力や経験に欠ける若い教師と、
古い発想から抜けられないベテラン教師の力不足が崩壊の一方の原因に挙げられる。

というが、
「管理教育は親のかたき」といった雰囲気の中で育ってきた若年教師に「管理能力」を求めることも、
若い人間い経験を求めること
も、
そもそも両方とも根本的に間違っているのだ。

「古い発想から抜け出られない」というときの「古い発想」とそれに対応する「新しい発想」について、具体的な提案がなされたことは、今日まで一度もないのだ。

夏休みにこそ全教職員、地域一丸となってもっと全力で取り組むべきではなかったか。 正常化の努力をやり直したい。学校、生徒、家庭が真剣に事態に対応して・・・・・・・

今やろうとしていること、実際に行っていることについてはすべて批判し潰そうとしながら、新しい提案は一切しない。それがメディアの一貫したやり口である。

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ついでにこまかな事実誤認についても話しておこう。

緊急非難は緊急「避難」のあやまりだと思う。しかし仮に「緊急避難」と正しく書いても正しいわけではない。

今回の処分は「刑法 第1編 総則 第7章 犯罪の不成立及び刑の減免 」における「緊急避難」(*1)ではなく、「学校教育法」第26条(*2)に基づいた懲罰なのからある。

また、
神辺西中は二年生が三学級、三年生が四学級。
一学級三十三人から三十一人の「少人数学級」
と言う表現に至っては、呆れるほかはない。
31人学級は決して「少人数学級」ではない。
日教組などが求めている「少人数学級」でさえも30人学級である。(*3)私たちは20人を切らなければ、決して「少人数学級」とは言わない。

そうした無知で浅薄な記者とデスクが記事をつくるから訳が分からなくなる。


だからと言って、いきなり出席停止までの処分をするにはためらわれる。
と平気で書いているが、わずか数行上には
学校側は「学習室」を設けたり、町費で臨時教員を雇った。
危機感を抱いた保護者も授業を抜け出す生徒を説得するなど、模索を続けた。
と書いてある。
「いきなり出席停止」どころではない。万策尽きたから出席停止に踏み切ったのだ。



(*1)
(緊急避難)
第37条  自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為は、 これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り、罰しない。
ただし、その程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる。
 
 2   前項の規定は、業務上特別の義務がある者には、適用しない。
 
(*2)
【学校教育法】
●第26条 児童の出席停止
 市町村の教育委員会は、性行不良であって他の児童の教育に妨げがあると認める児童があるときは、その保護者に対して、児童の出席停止を命ずることができる。

●第40条 準用規定
 第21条、第25条、第26条、第28条から第32条まで及び第34条の規定 は、中学校に、これを準用する。
(*3)
「30人学級」読んで字のごとくの30人ではない。
最大値を30人とする学級制度のことであり、これが実現すると、普通は25人前後の学級が多数できるからだ。
(30人学級制度のもとでは、60人の生徒なら30人学級が2クラス。しかし61人なら20〜21人のクラスが3クラスできる。
したがって「本当に30人きっかりの学級」というのは極めて珍しいのである。








2000.09.15


その後、広島神辺中はどうなったか。

生徒1人を出席停止措置/広島県・神辺西中
[中国新聞9月13日]



 広島県深安郡神辺町川北、神辺西中学校(藤原幸博校長、三百二十六人)が、
授業妨害を続ける生徒約二十人に対し出席停止もありうる、との方針を打ち出していた問題で、
同町教委は生徒一人に対し、授業妨害や対教師暴力を理由に、十二日から出席停止の措置を取った。


 町教委によると、この生徒は十一日の三、四校時の間に、体育館の入り口前に立って、授業を受けようとした生徒の入館を妨害。
男性教諭が「道を開けてやれ」と注意したところ、教諭の足や胸を殴るなどして、右ひざに約一週間のけがをさせたという。


 町教委は、学校や県教委と協議し、学校教育法に基づく出席停止命令を決定。
十一日夜、本人と保護者を学校に呼んで文書で通知した。男性教諭は十二日、福山東署に被害届けを出した。


 出席停止期間は当面二十五日までの二週間で、担任らが家庭訪問を毎日続ける。
本人が反省し、立ち直れると保護者が判断し、学校も確認すれば、出席停止の措置を解除するという。


 藤原校長は「やむを得なかった。誠に残念でならない。家庭、学校、地域の連携を密にして、本人の立ち直りのため努力を重ねていく」と話している。

 広島県教委によれば、県内の公立中学校では過去五年間で計四件、九人を出席停止にしている。


予告したのに、まったく変わらなかった。
なめたガキだ。

しかし裏返せば学校はここまでなめられているということに他ならない。

まず現在の学校には罰というものがない。
体罰はもちろん、辱めなどの精神罰もできない。
せいぜいが怒鳴り声を上げる程度だが、これも慣れてしまえばなんということもない。

それどころか生徒の暴力に対して、教師は自衛手段すらない。
1m80cm近い大柄な男子中学生から1m60cmそこそこの教師が暴行を受けても、
殴り返せば、
「無力な中学生を殴った暴力教師」ということになる。

こんなくだらない「常識」にはまって職と人生を賭ける教師などは、単なるバカだ。
大人としての沽券や、男子としての誇りを犠牲にしても、教師は生徒の前にひざまずかなければならない。

普通の生徒の学習権を侵害し、教師に暴力を振るうのだから、
神辺西中も処分予告などせずに、
20名全員一括処分しても良かったはずだ。
しかしそれができなかったのは、
子どもが子どもであるという理由だけで何でも許されるという
メディアがつくりあげた世論があるからに他ならない。

しかし、もはや世論は風向きを変えようとしている。
子どもたちよ、もう一度考え直せ。
善には賞を、悪には罰をという当たり前の時代がもうすぐ来るのかもしれないのだ。








2000.09.17


<新学習指導要領>中学校に「絶対評価」導入方針
教育課程審


[毎日新聞9月15日]




 文相の諮問機関「教育課程審議会」は14日、生徒の成績を一定の割合で5、4、3などと段階別に評価する「相対評価」を現在実施している中学校でも、割合にしばられず生徒の努力や達成度によって評価する「絶対評価」を導入する方針を固めた。2002年度から実施される新学習指導要領に沿った評価にするのが目的。また、生徒の成績や健康状況などを記録した「指導要録」について、これまでの原則非公開から本人に公開を認めるよう提言する方針だ。

 02年度から導入される学習指導要領は、生徒個人の学習達成度を、結果だけでなく過程も重視する内容になる。現在、中学校では基本的に相対評価を実施しているが、「努力しても報われない生徒がやる気をなくす」などの問題点が指摘され、生徒の荒れの原因とする見方もある。絶対評価を導入すれば、教員は受け持つ生徒の努力次第で、それに沿った良い成績をつけることができるようになる。

 しかし、高校入試の際に中学校が高校に提出する生徒の調査書(内申書)の記載については、入試の判断材料になっている現状から、教育委員会の判断で「相対評価」を残す方向で今後さらに検討する。
(以下略)


年がら年中抗議の電話・電報、要望・要求書、政府各党・産業界・各種団体からの突き上げを受けている文部省は、何かを決めようとするとき必ず審議会や諮問委員会をつくる。責任を回避しようという腹だ。
一部の文部官僚が好き勝手に教育行政を推し進める危険も合わせて考えると、無理もないし、しかたないとも言える。

それら審議会や諮問委員会に集められる人々は、国民がある程度納得できるような著名人でなければならない。
(キース・T・沢木:スーパー・ティーチャーズ、じゃあ話にならないだろう)
そこに問題がある。
なぜなら彼らは、しばしば教育についてはド素人であり、かなりの玄人である場合は、収入の一部を著述や講演会によって得ているからである。

収入を増やすためには、原稿の依頼が増え、本が売れ、多くの講演会に招聘されなければならない。
そしてそうなるためには、人々の受け入れやすい論陣を張らなければならない。
かくして子ども自身や親を攻撃する論調よりは、文部省・学校(そして「社会」という抽象的なもの)を攻撃する論理の方が主流になるのだ。

教育の素人たちは、そうした発言が「商品」であることに気づかない。だから信じる。そして信じたの一部が、著名人というだけの理由で審議会の中に名を連ね、「商品」を支持し、商品の価値をさらに高めることになるのだ。

現在、中学校では基本的に相対評価を実施しているが、「努力しても報われない生徒がやる気をなくす」などの問題点が指摘され、生徒の荒れの原因とする見方もある。
たしかにそういう「見方がある」のは事実だ。しかしそれが正しいかどうかは別問題である。もしかしたら逆かもしれないのだ。

絶対評価が生徒の荒れを減らすかどうかの証明なんて、実際にはさっぱり難しくない。
「すでに絶対評価を導入している小学校では、児童は荒れることなく、一心に努力を傾けている」
ことを証明すればいいだけのことである。はたしてどうだろうか。

絶対評価を導入すれば、教員は受け持つ生徒の努力次第で、それに沿った良い成績をつけることができるようになる。
今小学校で行われているような「絶対評価」については、その通りだ。しかしそれが取り入れられた後で、数年後、次のような記事を書くのだけはやめてほしい。

「『絶対評価』は計測不能な『努力』を評価しようとするものである。4時間勉強した者が10分しか勉強しなかった者より努力したとは誰も言えない。なぜなら勉強ができ、楽しくてしかたない生徒の4時間より、勉強が苦手で、まったく学習時間を持たなかった生徒の10分の方が価値ある場合も少なくないからである。それが教師一人の判断に委ねられている恐ろしさに、学校は気づいているだろうか。『絶対評価』の『絶対』は教師の絶対的権力を意味するものではなかったはずだ。しかし、今や子どもたちは通知表の評価を気にして戦々恐々と学校生活を送っている。自分を少しでも「良い子」「がんばる子」として売りこまなければ通知表の成績は下がってしまう。そうした子どもたちの心の声に、学校はもっと耳を傾けなければならないだろう」









2000.09.19

指導要録開示求められる共有との意識

[沖縄タイムス 9月15日]

 


 文部省が指導要録を開示する方針を固めた。やっと重い腰を上げた感じだ。
最近の情報公開の流れに即したものとはいえ、学校現場に与える影響は大きいだろう。

 指導要録は、学校が子どもの学習状況などを記録し、保管する。
 子どもの特徴や、指導上の注意事項を教師が記入する「所見」欄があり、「自分が先生にどう評価されているか知りたい」と、情報公開制度に基づいて開示を求める動きが全国で相次いだ。

 一九九二年に大阪府の箕面市が全国で初めて全面開示した。

 しかし、大阪の市民グループ「教育情報の開示を求める市民の会」の調査によると、各地の歩みは遅かった。この八年間で、全面開示に踏み切ったのは、大阪府や兵庫県など四十六自治体にとどまっている。

 もちろん一番の足かせは、文部省はじめ都道府県教委の非公開方針にあった、と言えるだろう。

 その姿勢が、開かれた学校づくりへの取り組みを鈍らせ、「開示が前提となれば教員が率直な記録ができなくなる」といった、筋の通らない消極論をはびこらせたのではないか。

 評価は、開示する、しないにかかわることではないはずだ。また、児童・生徒本人が、自分がどのように教師から見られているかを知りたいと思うのは自然だし、当然の権利であった。

 今回の方針転換は、開かれた学校づくりを教育現場再生の柱の一つにしようという文教施策を、後押しするものになるはずだ。

 開示については、これから文相の諮問機関「教育課程審議会」に諮る。合意が得られれば、都道府県の教育委員会に周知する、という。

 学校は改革を余儀なくされるし、教師も意識改革を迫られる。また、例えば先に浦添市教委が公開した問題行動など、その他の資料も開示が求められるのは避けられない。

 もろもろの教育情報が、単に学校や教師だけの資料ではなく、子どもをはじめ父母らと共有すべきものだとの認識が求められよう。


メディアから流される情報が「商品」であり、けっして正しいわけでも公正なわけでもない、との認識は一般にはない。
もちろん一番の足かせは、文部省はじめ都道府県教委の非公開方針にあった、と言えるだろう。
などと言われれば、「ウン、そうに違いない」と思ってしまう。しかしそれに続く以下の文は、私たちのそんな幻想を打ち破ってしまうのだ。

その姿勢が、開かれた学校づくりへの取り組みを鈍らせ、「開示が前提となれば教員が率直な記録ができなくなる」といった、筋の通らない消極論をはびこらせたのではないか。
「筋の通らない消極論」………いい言葉である。
これを翻訳するとこうなるからだ。
「開示が前提となれば教員が素直な記録ができなくなる」かどうかなんて知ったこっちゃない。オリャアそんな話はしたくねぇんだよ!」

話題の本人が読むかもしれない手紙に悪口を書かない、そんなことは当たり前だ。したがって開示が前提となれば「よいことしか書かない」という指導要録の原則はさらに強化され、何の用もなさない文章が延々と続くことになる。

さらに言えば、よほど注意していても言葉というものは誤解されるものであるから、
訂正を求められて裁判を起こされでもしたらたいへんなことになってしまう。(その評価が正しいことを証明する山ほどの書類を用意し、クラスを自習にして何回も裁判所に出かけ、その上負ければ大切な血税から裁判費用を負担しなければならない。いや、そもそも裁判に耐え得る資料となると急には用意できないから、日常的に膨大な個人資料の蓄積を行っていなければならない。そんなこと普通の教師にできるはずがない。)つまり指導要録は「書かない」ことが前提となる。

 学校は改革を余儀なくされるし、教師も意識改革を迫られる。また、例えば先に浦添市教委が公開した問題行動など、その他の資料も開示が求められるのは避けられない。
そうだ、意識改革は確実に進む。




2000.09.30


[コラム]学力低下

[中国新聞 9月29日]



分数計算ができない。小学レベルの漢字が書けない。「本当にひどいんです」。会う先生、聞く教師が皆顔をしかめる。学力低下は小学校から大学まで深刻な状況らしい

新学習指導要領によって再来年度、義務教育に週五日の「ゆとり教育」を導入する文部省も頭が痛かろう。現状でもこのありさまなのに、さらに時間数で二割、教える内容を三割削るのである。学力面だけを考えると、実施前から要領を見直す声があるのも分からぬではない

学力問題はわが国の専売ではない。例えば、英国は男子の学力の不足に悩んでいるという(二日付朝日新聞)。男子が女子より出来が悪い。その理由が「勉強なんかできない方がカッコいい」という風潮だと言うから、かなりの重症である

質実剛健を誇ったジョンブルも軟弱になったものだが、こんな傾向はわが国にも見える。女子が総じて成績がいいようだし、全体に汗して努力するのを嫌う空気もなしとしない。そもそもカッコいい勉強なんてあるはずがないのに

高橋尚子選手は名伯楽、小出義雄監督あって初めて五輪女子マラソンに優勝できた。でも、基礎体力づくりで彼女が励んだ高地トレーニングも並ではなかった。専門家が「むちゃだ」と言う程過酷だった。この苦しさを伴う反復こそ基礎学力づくりの手本であり、今の教育に欠けているものではないか

広島県教委が学力向上対策重点校に十三の県立高校を指定した。実力テストや学習合宿、学習意欲を高める取り組みなどを始めるという。偏った受験知識が学力に結び付かないのは明白だが、学ぶも教えるも汗する労を惜しめば、基礎学力が危くなるのもまた確か。

「学力低下は小学校から大学まで深刻な状況らしい」とは何とも呑気な書き方だ。
学力の低下は20年以上も前(正確には25年前、1975年)から起きているのに。

「現状でもこのありさまなのに、さらに時間数で二割、教える内容を三割削るのである」
この嘆きは多くの教員のものであったのに、メディアはここ20年、常に「学習内容の精選」という言い方で、削減を叫んできたはずだ。私は、文部省が主体的に学習内容を減らしたなどと露ほども思っていない。

メディアに動かされた「専門家」たちが、審議会等で訴える事柄が政策に反映しているだけなのだ。
つまりメディアの主張が文部省の政策反映してくる。なのに「この苦しさを伴う反復こそ基礎学力づくりの手本であり、今の教育に欠けているものではないか」
とは何事だ。

その「苦しい反復」を親の仇のごとく嫌ったのはキミたちではなかったか。
偏った受験知識を問う入試がはびこった背景は、
もはや基礎学力だけでは選別できなくなるほどの「基礎学力」の充実だった。
しかし、そんなものはもういらない、これ以上の知識はゴメンだと叫び続けたのはキミたちではないか。

それもわずか2年前までのことだ。

だから政府は国民教育を見限った。学習内容を大幅に削減し、「勉強が嫌い」「勉強が苦手」「努力することも嫌い」といった感じ方も個性として認めようとし始めた。(しかし国家のためにはすべてを犠牲にするわけには行かないからエリートだけは救おうとする)それが今日の教育の状況なのだ。

もちろんそんなことは、キミたちにとって先刻ご承知のことだろう。
承知の上で、この国を弄ぼうとしている。