キース・アウト
(キースの逸脱)


2000年11月

by   キース・T・沢木














2000.11.01

犬山市が小学校長を外部から登用 公立で全国初

[中日新聞 2000年11月1日]




 【愛知県】犬山市教育委員会は三十一日、来春、市内の小学校一校に外部から校長を迎える方針を決めた。教育学専攻の私立大教員が候補に挙がっており、配置先をどこにするかも含めて今後調整する。学校外からの校長登用では、東京都教委が都立高校の校長に二人の企業出身者を登用することを決めているが、公立の小中学校では全国で初めてとみられる。同市教委は「硬直化している学校経営を再構築するモデルケースにしたい」という。

 犬山市教委によると、教員の任命権は県教委にあることから、地方教育行政法に基づく市町村教委の内申行為の手続きを踏み、来春の定期異動に向け、年内にも作業を進める考えだ。

(中略)

 公立の小中高校の校長・教頭は従来、教員免許を持ち、小中高校や大学の教員、学校事務員、少年院の教官など「教育に関する職」に五年以上就いた経験を持つ人に限られていた。しかし、今年四月に学校教育法施行規則が改正され、教員免許を持たない人でも校長・教頭になる道が開かれたことから、外部からの登用の動きが全国的に広がっている。犬山市の場合、候補となっている私立大教員は従来の基準でも校長になれる資格を持っているという。

(中略)

 瀬見井久教育長は「外部からリーダーシップが発揮できる人を送り込み、内側から学校経営を再生させる発想。無駄を省き、授業中心の仕組みを築いてもらうと周りの校長にも具体的なイメージがわき、刺激になる」と期待する。

 石田市長も「経歴や考え方の違う人が学校に入ることで、今いる校長たちも光ってくる。必ず効果をもたらすと確信しており、市教委の取り組みを市長として支援していきたい」と話す。

 これに対し、愛知県教委教職員課は「犬山市教委が外部から校長を登用したいという意向は聞いている。初めてのことなので、慎重に検討していきたい」としている。

近頃の教育関係の記事は無職透明なものが多く、だいぶつまらなくなった。メディアもそろそろ、自らの主張があやしいことに、不安を持ってきたのかもしれない。この校長外部登用制度にしても、賛成なのか不賛成なのか、記事を読んでいてもニュアンスさえ伝わってこない。結局、ことの成否を見極めてから立場を決めようということなのだろう。

個人的な立場からすると(公的立場で話したこともないが)、私は見通しのない新規のことは嫌いである。ただでも忙しいのにこれ以上気を使う場が増えることはゴメンだという気持ちがある。現場を知らない新校長にいちいちご進講申し上げるのは本当に面倒だ、そうも思う。

しかし、この外部登用性にはそうした面倒をおしても、なお余りある効果があるのではないかといった、かすかな期待もないわけではない。一番の期待は校長職のスリム化である。

とにかく現在の校長はアホ臭く多忙だ。特に田舎の学校の校長など、正月は消防の出初式が仕事始めで、やれ敬老会だ、地区の運動会だ、村の文化祭だ・・・・・・と一年中校長室の椅子を暇もない。おまけに市町村が運営する各種委員会、校長会、教育諸団体の仕事、そして校内の仕事。外部から来た新校長はさぞや仰天するであろう。どんなにすばらしい教育理念を携えて来ても、それを実現する暇がないのだ。

こうした外部新校長が一斉にブーイングして、こんな状態ではやっていけないと音を上げてくれれば、案外校長職のスリム化はあっさりと進むのかもしれない。

もともと他に職業を持ってる人たちだ。いやとなればあっさりと仕事を投げ出してさっさと帰ってしまうだろう。
そして帰った後で、学校が追いこまれている不条理をべらべらと喋ってくれればいい。

そんなにうまくいかないかもしれないけど。








“キレる”少年めぐり仙台でシンポ

[河北新報 2000年11月01日]



 全国で少年犯罪が相次ぐ中、精神科医や教育関係者らが解決の糸口を探ろうと、「青少年のこころは何処(どこ)にゆくのか−キレる17歳をめぐって」をテーマにしたシンポジウムが31日、仙台市青葉区の市シルバーセンターで開かれた。第39回宮城県精神保健福祉大会(宮城県精神保健福祉協会主催)のメーン行事。県内のPTAや児童福祉の関係者らが出席し、議論に耳を傾けた。

 パネリストは、
宮城教育大教育学部教授の花島政三郎氏、
宮城県警少年課少年警察補導員の遠藤和子氏、
山形大医学部付属病院講師の生地(おいじ)新氏の3人。
仙台市精神保健福祉総合センター所長で精神科医の岡崎伸郎氏が司会役を務めた。

 花島氏は「家庭や学校の現場で体罰が容認される雰囲気があり、子供への暴力が横行している。青少年の健全な成長をゆがめる一因にもなっている」と強調。その上で、「全国で発生している少年による凶悪事件の背景には、加害者側にもいじめや差別の体験がある場合が多い」と指摘した。

 遠藤氏は「少年の行動が『善か悪か』でなく、『快感か不快か』との感情に支配されている」と問題提起した。遠藤氏は、かつて「ママポリス」と呼ばれた婦人少年補導員の第一期生。これまで三十数年にわたり、繁華街などでの少年補導の現場経験を持つ。

 ことし5月、全国に衝撃を与えた少年によるバスジャック事件を引き合いに出した遠藤氏は、「この事件の後、『子供が何を考えているのか分からない』と相談する親が急増している」と、宮城県内の実態を報告。病院や自立支援施設など専門機関で少年たちをケアする必要性を訴えた。

 “キレる”子供たちへの対応については、生地氏が「子供の目から世界がどのように見えているかを、大人たちが理解する取り組みが欠かせないと思う。少年1人ひとりの異なるケースについて、社会全体で対処方法を積み重ねる努力が必要だ」と語った。

 会場を訪れた聴衆は約150人。パネリストの発言にうなずいたり、熱心にメモを取ったりしていた。宮城県精神保健福祉協会は、この日のシンポジウムの討論内容を冊子にまとめ、
県内各地の医療機関、福祉施設などに配布する予定。

実際にパネル・ディスカッションを聞いたわけではないので迂闊なことは言えないが、ここに登場したお三方はある種の評論家ありかたを代表している。

例えば生地氏、
彼は「少年1人ひとりの異なるケースについて、社会全体で対処方法を積み重ねる努力が必要だ」などと悠長なことをおっしゃっているが、シンポジウムの参加者たちが聞きたいのは、まさにその対処法そのものなのだろう。
「積み重ねなくてはいけない」などという当たり前のことを今更聞いてもしょうがない。ましてや「子供の目から世界がどのように見えているか」などということは、まずプロが指し示すことだろう。
「良くわかんないので、みんなで考えて行きましょう」は、プロの言葉ではない。

それに比べれば遠藤氏の言うことは実に分かりやすく適確だ。「病院や自立支援施設など専門機関で少年たちをケアする必要性」その通りだ。本格的に難しい問題を、素人である親や教科指導の片手間にしか扱えない教師に任せるべきではない。一刻も早く病院や専門機関のお世話になるべきケースは山ほどある。

そして花島氏
平凡な人は自分のフィールドでしか十分な話をすることはできない。彼らはしばしば、核心を外してでも問題を自分のフィールドに引き寄せる。
体罰の専門科はあらゆる教育問題を「体罰」で説明しようとする。「全国で発生している少年による凶悪事件の背景には、加害者側にもいじめや差別の体験がある場合が多い」それは事実だ。しかし、訴えがあるからといって事実あるかどうかは別問題だろう。

佐賀バスジャック事件について言えば、階段飛び降りゲームは確かに存在した。バスジャック事件の犯人少年は確かに飛び降りそして大怪我をした。その言葉によれば、彼は確かに飛びたくなんかなかった。やりたくないことをやらされたという意味で、確かに彼は強要された。しかし飛ばされたのは彼一人ではなかった。その頃、階段飛び降りは勇気を試す男の子らしい遊びとして、その学校に定着していた。その日も、多くの生徒(正確に言えば4人)が勇気を試された。

勇気の必要なことを試されるというのは、弱気なボクにとっては確かに強要ではある。そして3人がそれに成功し、達成感を得た。彼を除き、参加したすべての生徒にいじめの認識はなかった。したがって客観的ないじめとは言えなかった。だから県教委は「いじめはなかった」と報告した。

しかし客観的ないじめはなくても主観的には存在したのだ。何といっても、彼がそう言ったのだから。

「いじめは本人の認識次第で、最終的に少年がいじめられていたと供述すれば、受け入れなければいけない」
5月10日、佐賀県教委はそのようなコメントを発表したが、それはそういう意味である。

私は通常の生活の細々としたことを、いちいちいじめだ何だと騒ぎ立てる、被害者意識に満ちた弱い感性を問題とする。しかし花島氏たちにとってはそんなことは全く問題ではない。とにかく、「いじめ」「体罰」と受け取られる可能性のあることは、すべて排除しなければ気が済まないのだ。そしてローカルな場でのこうした発言を、積極的に取り上げて行くメディアも、基本的には同じ態度でいる。

私たちは非常に困難な指導を強いられている。
それは例えば、教室で生徒たちにこう訴え、納得を得なければならない内容だ。

キミたちは誰でも自分と同じように考え同じように感じるかのように日々を暮らしているがそれは間違いである。
キミたちと同じ年齢で同じような生活をしていても、まったく異なる感じ方の人間がいることを、
肝に銘じておかなければ、キミたちはとんでもないそしりを受けることになるからだ。

例えば、しばしばキミたちは友だちのことをバカと言ったりアホとい言ったりしながら、互いに戯れているが、そんなのとき、キミたちの仲間の中に深く傷つき、こんなに傷ついたボクを放ったらかしにしておく世間に対して、ボクは当然復讐する権利があると思いこむような人間がいるかもしれないと考えたことがあるだろうか?

何か危険な遊びや、他愛もない悪事を一緒にやろうと声をかけ、実際に一緒にやってみておもしろおかしく遊んでいるとき、もしかしたらこの中に、本当はそんなことはしたくないのに、キミたちのために「むりやりやらされた」キミたちのために「酷いいじめを受けた」と感じる人間がいると考えたことがあるだろうか?

しかしそんな人間は驚くほど多いのだ。

もし「いじめの張本人」「現代の人非人」と呼ばれたくなかったら、キミたちは即刻、他愛のない言葉のやり取りを中止して、一言ひとこと、今の数倍の気を使って友との語らいをしなければならない。危険な遊びや小さな悪事から、即刻手をひかなければならない。

さらにキミたちは
「そんなことは面倒くさいことをするくらいなら、いっそのこと『いじめだ』『いじめだ」と騒ぎ立てる奴らから身をひいて、気の合うや面だけとつきあい続ければいい」と考えてもいけない。

排除もまた「いじめ」だからだ。
どんな生徒ともつきあい、なおかつ、おとなしく静かに、たおやかに交際しなければならないのだ。

さらにもう一つ、
(これは私からのお願いだが)私がこんなことを言ったからといって、危険なことや小さな悪事から完全に手を引いてもらっても、それは困る。厳しい担任の管理によって、生徒は自由な遊び、小さな失敗の可能性からも遠ざけられてしまっている、そんな批判は日常茶飯事だからだ。

申し訳ない(これは私の側の事情だ)。けれど頼むから、絶対危険ではないが危険の匂いのする遊び、人を傷つける可能性は全くないが何か自由な雰囲気の漂う会話、そうしたものを開発して、自由で闊達な中学生を世間にアッピールし続けてくれ。そうしなければ私もキミたちも、いつまでも無用な非難に晒され続け、本来すべきことの一端だにできずに終わってしまうのだから。





2000.11.04

「努力する子ども」育てよう

[読売新聞 11月3日]




 「受験戦争がなくならない限り、子どもの問題は解決しない」。十年近く前まで、学校現場の取材に行くと、教師は必ずそう言ったものだ。
 確かに、当時、教育の最大の課題は受験の過熱だった。そのストレスが子どもたちを息苦しくしていた。

 それが、九〇年代初めから少子化が顕著になり、受験競争は緩和された。そこで理想的な教育に近づくはずだったが、しかし、子どもの状況は悪化した。

 いじめや校内暴力の問題行動もそうだが、気になってならないのは、普通の子に耐える力、あるいは自分を抑制する力が乏しくなっていることだ。

 例えば、高校中退。実に十一万人を超え、高校生全体の2・6%にものぼる。そうした中退者の中で、高卒資格をとろうとする若者を専門に教える民間のサポート校が増えているが、それでうけに入っている経営者でさえ、「今の子は簡単に学校をやめるんですね、校則がちょっと厳しくなったぐらいで」と驚く。

 様々な事情があり、一概に論じられないとしても、不登校やフリーターの記録的な増加の根底に、何か共通するものがあるように思える。著しい耐性の低下。「キレる」少年を生む要因の一つも、そこにあるのではないか。

 内向き志向も気になる。人生目標についての国際比較調査で、アメリカの中高校生がキャリアアップを目指しているのに対し、日本の中高校生は「その日その日を楽しく暮らす」など、個人生活に関する答えばかりだったという。

 立身出世志向が必ずしも望ましいわけではないが、事はそれ以前の問題だ。小中学校や高校、大学を問わず、若者の間で、何かに立ち向かい、困難を乗り越えようとする意欲が弱くなっている気がして仕方がない。

 生まれつき豊かな環境に育った若者たち。易(やす)きに流れているかに見える現状には、核家族化や都市化による家庭や地域の教育力の低下、刺激的な情報化社会などの影響もある。教育の前提条件そのものが変化してきている。

 だが、それだけだろうか。教育のあり方そのものにも問題があったことを示しているのが、学力低下の傾向だ。分数計算のできない大学生などが問題になっているが、小学校からの基礎教育に問題があるのではないか。個性化、多様化を強調し、「ゆとり」を重視した教育が、本来の狙いとは逆に、現実には、子どもに勉強しなくてよいという誤解を与え、学習時間の減少などをもたらしたのではないか。

 にもかかわらず、教師たちは今、「指導より支援」と言っている。子どもはほうっておけば自発的に勉強し、成長するもの、
教師の仕事はそれをサポートすること、といった考え方が前提にあるようだ。

 しかし、「人間とは、教育されなくてはならない唯一の被造物である」というカントの言葉を持ち出すまでもなく、子どもは人格も知能も成長の途上にあり、適切な指導を要する存在である。

 子どもには、まず、学ぶ努力を教え、そして学ぶべきものを学ばせなければならない。その基礎の上に、個性も多様性も花が開く。サポートだけでは、教育の使命は果たせない。

 二〇〇二年度から小中学校では、総合的な学習の時間が始まる。子どもが課題を見つけて学ぶことを重視し、教科書もない授業。教師の力量が伴わないと、子どもたちの学力は崩壊する恐れすらある。

 自由化や個性化、「ゆとり」などの本来の意味を問い直し、これまでの教育改革を総点検しなければならない。社会全体が教育についての認識を改め、足元を固めなければならない。易きに流される社会的な背景があるからこそ、二十一世紀を担うたくましい子どもを育てなければならない。

 そうした視点から、私たちは教育について緊急提言を行った。家庭、学校、地域それぞれで提言を受け止め、教育のあり方をもう一度、考えてみて欲しい。

(編集委員・勝方信一)




いやになった。

 「受験戦争がなくならない限り、子どもの問題は解決しない」
「個性化、多様化を強調し、『ゆとり』を重視した教育」
「子どもはほうっておけば自発的に勉強し、成長するもの」

これらはメディアの常套句だったはずだ。

この20年あまりの間、本気で子どもの学習過剰を心配した教師は一人もいなかったはずだ。埼玉では、今をときめく河上亮一らの「プロ教師の会」が、大阪では「学力の基礎をきたえ、落ちこぼれをなくす研究会(通称落ち研)」の岸本裕史がそれぞれ精力的な活動を続けている時代、 メディアの叫びつづけていたのは常に、
受験競争の激化、
過剰学習、
学校の過干渉と管理教育の問題
・・・だった。

子供を学校の呪縛から解き放ち、いかに自由なものとするのかが、メディアの最大の関心事だった。「子どもはほうっておけば自発的に勉強し、成長するもの」と考えたのはメディアの方であって、そんなこと悠長に言っていられる教師など、ひとりもいない。



 「子どもにまず体験させ、なるべく自分で問題を解決させる力を身につけさせる。大人たちが出来る最大のことは、自分たちが身に付けた智恵をもとに、そのヒントを子供に教えることではないか。主役はまず子どもだということを忘れてはならない」

毎日新聞社編「総力取材「いじめ事件」: 1995



 
子供が登校拒否をすることなど、むしろ健全であり、当たり前ではないのか。反対に、モノサシに合って嬉々として登校する「学校秀才」にこそ問題があるのだ。かれらはモノサシに合わせて「育てられ」てしまったのであり、この下等で非人間的な日本の教育制度のカタにはめられてしまったあわれな犠牲者である。犠牲者は登校拒否の子ではない。登校拒否は、非人間的教育の拒否にほかならぬ。学校秀才こそが唾棄すべき、軽蔑すべき、あわれな連中なのだが、その連中が権力をにぎれるようなコース作りに熱中しているのが文部省教育だから放っておくわけにもゆかなくなってくる」

本田勝一「もっと登校拒否をしよう」;「MR.DANDY」1984年7月号



  • われわれは「教える」ことよりも「育つ」のを待つ方が効果的であることを知らされた。
  • 大人が子どもに対する期待を持ち、むやみな干渉を行なわないかぎり創造過程が進行する。
  • 教育の現場においては、偶然を排除するのではなく、偶然を生かすことによって成功することが多い。
  • 一見、負の価値のように見えるものが、実は個性を伸ばすうえで、大きい価値をもっていることもある。
  • あまりにもわれわれ大人が既成の知識体系を注入することに熱心すぎて、子どもが個々に持っている個性を壊すことになっていないか。
  • 子どもの好きと思うことをやらせてやる、そこから個性は開花してくる。
  • 私は子どもを育てる、というときに「植物」をイメージする。太陽の熱と土とがあれば、ゆっくりと成長してゆく。(中略)植物の成長を楽しんでみるような態度を身につけると、楽しみが増えてくるように思われる。

河合隼雄著『子どもと学校』:岩波新書 1992



こんな文章ははいて棄ててもまだ余りある。そうした論調を、新聞や雑誌、テレビのワイドショウは積極的にひき入れ展開してきた。

教育荒廃の犯人探しをしようというなら、学校=教師犯人説といった「定説」から一歩だけ身を引き、もう一度全体を見てみればいいのだ。






2000.11.18


センター試験5教科7科目に波紋

[東奥日報 11月17日]




 国立大学協会(会長・蓮実重彦東大学長)が十五日に方針を打ち出した国立大受験生の「大学入試センター試験五教科七科目実施」が、県内教育界にも大きな波紋を投げかけている。学生の学力低下を防ぐため二〇〇四年春の入試以降から実施するというものだが、高校、塾、大学関係者からは「短絡的すぎないか」「受験生への負担増につながる」との批判がある一方、「専門的な学問の基礎として幅広い教養は必要」「長い目で見れば良いこと」と歓迎する声も出ている。“五教科七科目”への評価は分かれている。




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高校通学区制廃止を−田中知事「選択の自由奪う」

[信濃毎日 11月17日]




 田中知事は十六日、松本市の県松本合同庁舎講堂で開いた車座集会で、教育問題に触れ、県内公立高校の十二通学区制について、「廃止し、どこでも希望するところに行けるようにすべきだ」との考えを示した。通学区制度をめぐっては、受験競争の過熱といった社会問題や、現役の大学進学率低迷などを背景に、県教育界や経済界を巻き込んでの全県的な論議が長年続いてきただけに、知事の発言は、波紋を呼びそうだ。

 田中知事は、知事選で「適性と個性をはぐくむ、多様な学校教育」を主張していた。参加者から「教育県長野の復活を期待するがどうか」という質問に、「(通学区制は)選択の自由を奪っている」との認識を示したうえで、「廃止しなければいけないと思う」と明言した。

奇しくも奇しくも同じ日に出た二つの記事「センター試験5教科7科目」「高校通学区制廃止」は、同じ根を持つ二つの花だ。その意図するところは学力向上に他ならない。しかし私は少年法改正における刑罰強化とともにこれに反対する。

出口を塞ぐ前にやるべきことが山ほどある。
からだ。子どもが信じられないような犯罪を犯すようになったのも、子どもが勉強しなくなったのも、けっしてその結果の重大性が薄れたからではない。その点で珍しくメディアと意見を一つにする。

今のところメディアは入試の過激化に批判的である。それでいい。

しかし、そうした姿勢がいつまで続くのか。注意深く見ておこう。








2000.11.27

共生社会実現の一歩に

[11月26日 四国新聞]



社会には、障害のある人がいるのが、自然な姿である。
障害のない人とある人がごく普通に、共生する。二十一世紀は、そんな社会が当たり前のものにならなければならない。

 障害のある子どもについて文部省の研究会議が、普通の小、中学校で学ぶ道を広げようという中間報告をまとめた。障害のある子も、地域の子どもとして共に学ぶ方向に一歩踏み出そうという提案だ。条件整備など課題は多いが、将来の共生社会に向け積極的に受け止めたい。

 これまで文部省は、一九六二年に定めた「就学指導基準」で、障害の程度に応じ、就学先を、盲・ろう・養護学校と普通の小、中学校に振り分けるよう指導してきた。例外は基本的に認めていなかった。

 これに対し、中間報告は「両眼の視力が〇・一未満」(盲学校)などとした振り分けの基準を緩和するよう求めるとともに、基準を満たさなくても、各市町村教育委員会が受け入れ可能と判断すれば、例外として認めることにした。

 いずれも普通学校への道を広げる提案である。


 眼鏡や補聴器など補助具も格段に進歩した。情報技術の進歩で音声と文字が相互に変換できるようになり、視覚や言葉の障害を持つ人も、コミュニケーションがとりやすくなってきている。基準見直しは当然だ。

 九四年に国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界会議で採択された「サラマンカ宣言」のように、健常者と障害者が共に学ぶ「インクルージョン」(包括の意)の方向を目指すことが世界のすう勢だ。

 背景にあるのは、障害を持つ子どもも持たない子どもも、子ども同士の関係の中で社会性を身に付けていくことが大切だ、という考え方である。

 中間報告が、障害を持つ子どもは専門スタッフによる教育を受ける方がいい、という従来の文部省の枠組みを変更していないのは物足りないが、その一方で、教育委員会の判断による例外を新たに認めたのは大きな意味がある。

 市町村教委によっては、地域の学校で学びたいという親や本人の強い希望にこたえているケースがあるが、中間報告は、こうした前例を踏まえ、市町村教委の主体性次第で、可能な限り普通学校に通える道を開いたと言えるだろう。

 障害者受け入れには条件整備が欠かせない。中間報告は、政府は金が出せないが、市町村でやりたければどうぞ、と聞こえなくもないが、まずは各自治体の積極的な受け止めが必要だ。

 車いす用のエレベーターやスロープ、障害者用トイレという施設の整備だけでなく、受け入れた障害者をケアする職員も必要だ。

 首相の私的諮問機関、教育改革国民会議では、先の中間報告で「一人ひとりの資質や才能を伸ばす教育」が強調されたが、論議はエリート育成に集中した。

 だが、一人ひとりの資質や才能を伸ばすというのなら、障害のある子どもに目配りすることも忘れてはならない。
 文部省には、障害者の機会を広げる試みに積極的な財政支援を求めたい。

 先月、米コネティカット州の公立小学校を視察した人の報告がある。
 日本で言えば幼稚園の年長組にあたるクラスで、障害を抱えた子どもが一人、十五人のクラスメートと一緒に授業を受けていた。ダウン症だという子どもの背後には、担任とは別にもう一人の先生がぴったり寄り添っていた。

 この人が驚いたのは、校長の説明だった。
この小学校の障害を持つ子どもは十五人いるが、それに対応したケア担当の補助教員も十五人いる。一人の障害者に一人の先生がつくという。

 その気になれば、公立学校でもできるということだ。一人ひとりの資質や才能を伸ばす、という言葉を単なるスローガンで終わらせてはならない。


私は基本的にこの記事の方向に賛成する。
しかし美味しい話には必ず裏があり、その美味しい部分だけを報道して行政や学校を非難するのは、少なくともフェアではないだろう。つまり、共生教育には莫大な金がかかり、その資金は税金によってしか賄うことはできないということだ。

「その気になれば、公立学校でもできるということだ」と呑気に言うが、一つの学校がその気になって15人教員を雇ったとすると、それだけでも年間7000万円以上の支出である。小中2校で一億五千万円。さらにスロープやエレベータ、全学校施設に置ける段差の解消、トイレ・プール等の改修・・・そうした施設面での整備も加えると、共生初年度に必要な予算は膨大なものになる。とても行政改革だけでは追いつかないだろう。

私もすべての子どもは、同じ学校で同じ教育を受けるべきであると思う。特別な介助・指導が必要なら、米コネチカット州の公立学校のようにすればいい。それだけのことである。

そして、そのための増税なら喜んで受け入れよう。(私にはその用意がある。)

だがそのことを言わず、ただ美味しい話だけをしているメディアはとんでもない卑怯者だ。非難はするけど、責任は取りたくない、それはまるでキミたちが育てた子どもと同じ論理だ。









2000.11.29

これといった記事がなく本当に退屈な11月だと思っていたら最後に来て、立て続けにおもしろいものがあった。


小学教諭の5割強「体罰は必要悪」/与那城・勝連町の校長会が調査

[琉球新報11月27日]


 【与那城・勝連】生徒の個性、人権を尊重する教育の必要性が叫ばれる中、小学校教師の5割強が「体罰は必要悪だと考えることがある」という調査結果が、このほど発表された。調査は与那城、勝連の二町にある小学校の校長会が今年7月、同地域にある小学校の全教諭104人を対象に実施した「教師の人権意識調査」。「生徒指導には体罰がつきものだと考えることがある」教師も3割程度いて、社会の流れに現場の意識が追い付かず、苦悩する状況が浮き彫りになった。

「反抗的児童が悪い」も半数
 調査では「自分の思い通りに児童を動かそうとすることがあるか」との問いに対して、「よくある」と「時々ある」の回答を合わせると、全体の8割以上にもなった。「児童が反抗的な態度を取るのは、児童が悪いと思うか」には「思う」と「時々思う」で5割以上となり、教師の中に「思い上がり」や「独りよがり」があることを示す結果となった。

 一方、指導の成果を急ぐあまり、自分の予想通りに動かない児童に出会った時、かっとなったり、いらいらしたりすることが「よくある」「時々ある」は合わせて約7割に上った。特に20代、30代にその傾向が強く、若い教師のゆとりのなさが表れた。

 体罰に対する意見として「体罰は何の解決にもならない」(40代男性)「不快しか残らないのでやめた方がいい」(40代女性)という意見がある一方、
「体で分からせることも大切」(40代女性)など、教師の中に「愛のむち」論も見られた。また「体罰が行われているのを見過ごしてしまうことがあるか」との問いには「よくある」と「時々ある」が合わせて約35%あり、
必ずしも職場で教師同士が自由にものを言える状況にはないことをうかがわせた。


 調査は、現場教師の人権に対する意識の実態を把握し、学校経営に役立てようと実施された。このほど開かれた県小中学校長研究大会の分科会で報告された。

 報告書は、今後の対策として
(1)
  1. 人権教育への理解を深めるため、教師を対象とした校内研修の充実
  2. )児童への理解を深める教育相談など、指導体制の確立
  3. 人間尊重の教育を中核にした学校経営方針の徹底
  4. 教師が心を開くとともに、地域ぐるみで人権教育を推進する開かれた学校づくり

―の四点を挙げている。







「体罰は必要悪」/指導が教師に徹底せず

[琉球新報 11月28日]




 この調査結果を教育関係者や父母はどう受け止めるだろうか。

 調査というのは今年七月、与那城、勝連の二町の小学校校長会が同地域にある小学校の全教諭百四人を対象に実施した「教師の人権意識調査」だ。

 調査は児童に対する指導のあり方についても聞いているが、中でも体罰についての結果が目を引く。

 「体罰はなんの解決にもならない」と答えている教師もいるが、「体で分からせることも大切」と現在では否定されている考え方にとらわれている教師もまだいるのに驚く。

 こうした教師はどれくらいいるのだろうか。

 「体罰は必要悪だと考えることがある」との質問に、「よくある」は一〇%強で、「時々ある」を合わせると五〇%を超す。

 「体罰は必要悪」と答えたからといって体罰を積極的に容認、あるいは自ら行うということではないであろう。それにしても高い数字だと思う。

 調査が実施された直前の六月に浦添市の中学校で教師による殴打、頭突き事件があり、生徒が前歯数本を折る大けがをして地元の市教委や議会、県教委で大問題になったばかりだった。

 そうした事件の直後の調査でこのような結果が出るというのはどういうことなのか。そのことにも驚く。

 社会的に問題になってもなくならない教育現場における体罰に対して県教委が十月十九日、教職員による体罰に懲戒処分を下す際の判断基準を承認している。「児童生徒に重傷を負わせた場合は免職または停職」などだが、要するに教育現場では体罰や暴力行為、暴言は認められないということだ。

 にもかかわらず、今回のような調査結果が出ることを関係機関、関係者は重大視する必要があろう。
 子供たちの目に余る言動に手を焼いている教師の姿も容易に想像できるが、それでも教師は体罰は認められないことを肝に銘ずるべきだ。

 県教委は教師に対する指導をもっと徹底しなければならない。


記事にもある通り、沖縄は今年「体罰」問題に揺れている。メディアにとって「体罰」は絶対悪であり異論のないはずところだから、その張りきり様も尋常ではない。
「意識の進んだボクたち、遅れているキミたち」というのはメディアのもっとも好きな構図で、その意味でもハシャグのも無理はないかも知れない。

しかしそれにしても記事はお粗末だ。
「『生徒指導には体罰がつきものだと考えることがある』教師も3割程度いて、社会の流れに現場の意識が追い付かず、苦悩する状況が浮き彫りになった」

だが、『』の中を書きかえれば、次のような文だってできる。

「第二次世界大戦中『戦争は継続すべきではない』教師も3割程いて、
社会の流れに現場の意識が追い付かず、苦悩する状況が浮き彫りになった」

こうすれば記事の異常さは、自ずと見えてくだろう。社会の流れがどこにあろうと乗ってはいけないものには乗ってはいけない。


「児童が反抗的な態度を取るのは、児童が悪いと思う」のは本当に教師の中に『思い上がり』や『独りよがり』があることを示す結果となるのだろうか。(児童が反抗的な態度を取るのは教師が悪いという独り善がりな立場に立てば別だが・・・)

「自分の予想通りに動かない児童に出会った時、かっとなったり、いらいらしたりすること」は「ゆとりのなさ」が原因なのだろうか。(ゆとりがあったって、怒らなければならないときは怒ると思うが・・・)

しかも記事は「そうした事件の直後の調査でこのような結果が出るというのはどういうことなのか。そのことにも驚く。」と書くが、

「どういうことなのか」と書いて放ったらかしにするのはどういうことか。
「そのことに驚く」などと呑気に驚いているヒマがあるなら、
重大な体罰事件の後でもなお『生徒指導には体罰がつきものだと考えることがある』と考える教師が3割もいる状況を
調査に行くべきではないか。

『児童生徒に重傷を負わせた場合は免職または停職』
この重い条項を背負いながら、なぜ教師が職と生活を賭して体罰に走ってしまうのか、そのことも調べないで、他人の調査の上にあぐらをかき、好き勝手にものを言っていいのならジャーナリズムというのは楽なものだ。

「子供たちの目に余る言動に手を焼いている教師の姿も容易に想像できるが」冗談じゃない。「子どもたちの目に余る言動」の凄まじさを、キミたちは知ろうともしない。そこは「体罰は行けません」「暴言はいけません」などと呑気に言っていられるような平和な場所ではなく、まさに戦場なのだ。

「要するに教育現場では体罰や暴力行為、暴言は認められないということだ」と偉そうに言うが、あらゆる意味で子どもたちにストレスを与えてはいけないとするキミたちの言動が、どういう子どもをつくってきたか、その子たちの幸せとなったのか、少しでも心あるなら自らの足で調べに行くがいい。

記事によると、沖縄は人権意識の上で全国最低のレベルにあるらしい
少なくとも読む者にそうした印象を与える。
しかし同時に、沖縄は現在でもトップクラスに不登校率が低いことも考慮に入れるべきだ。
管理教育や体罰が不登校の重要な一因だと主張し続けたキミたちは、こうした事実をどう受け止めるのか。





授業中、過半数が居眠り/アルバイトの実態報告
学業不振、中途退学を懸念/県高校PTA研究大会

[沖縄タイム 11月27日]




 「アルバイトをしている生徒の過半数が体のだるさを訴え、授業中、居眠りをする」「賃金や勤務時間など父母がアルバイトの実態を把握していない」。
二十六日、浦添市民会館を主会場に開かれた県高等学校PTA研究大会の分科会で高校生のアルバイトの実態が報告された。勤労体験という視点からその意義を認めつつも、学業不振や中途退学につながる懸念が示され、不必要、不健全なアルバイトの禁止を求める声が出された。

 大会には父母や教諭ら約九百人が出席。直面する課題として健全育成、高校教育の振興、中途退学対策、進路指導の四つのテーマに分かれ分科会が開かれた。

 中途退学対策とPTA活動の分科会では、前原、南風原、八重山商工のPTA会長が各学校の取り組みを報告。その中で前原高校の新里紹市会長が、生徒七百六十五人、父母三百五十五人から回答を得たアルバイトに関する意識調査の結果を発表した。

 それによると、
「アルバイトをしている生徒は全体の二二%」
「職種で多いのは結婚式場、ファストフード、酒類も販売している飲食店」
「勤務日数は週三〜四日で賃金は五万円以上が四分の一」
「賃金の使途は小遣い、貯金、家計補助の順」
など実態が浮かび上がった。

  また、
アルバイトとの関連で、朝起きづらい、体がだるいなど不調を訴える生徒が六七%、授業に集中できず居眠りをすると答えた生徒が五二%に上った。

 保護者対象の調査では
「アルバイト料が実際より少ないと思っている」「勤務時間も実際より長いと思っている」など、実態とのずれが見られた。

 新里会長は、アルコールを扱う店やテスト期間中も休めない、深夜に及ぶ仕事など問題点を指摘した上で、「雇用者に配慮を求めるなど地域と一体となった取り組みを進めたい」と話している。

この記事はどういう記事なのだろう?

かつて学校の「管理教育」が徹底的に叩かれたころ、必ずやりだまに挙げられ内容のひとつが「アルバイトの禁止」問題だった。

学校は、授業中の居眠りなど学業への影響、深夜労働による風紀上の危険、生徒が不必要に金を持つことの危険などを訴えて徹底抗戦の構えを見せたが、メディアは「労働体験の重要性」と「個人の自由」を盾に攻撃の手を緩めなかった。

にもかかわらずこうしたアルバイト批判に類する記事が書かれるということはどういうことなのだろう?

高校生のアルバイト事情がそんなに酷いものだと初めて知りました、ということなのか。
今度は教師ではなく、PTAが言うのだから賛成しておきましょう、ということなのか。
それとも、
学校ではなく親を責めるというのが最近のトレンドだから、
「意識の遅れ」と言われないように、こちらに乗っておきましょう、ということなのか。






料理の後ろ姿で合否判定
西武文理大のユニークな入試

[埼玉新聞 11月27日]


  料理を作る後ろ姿で大学入試の合否を判断します−。ペーパーテストだけでなく、一芸に秀でた学生を採用する大学が徐々に増えているが、西武文理大学(佐藤英樹学長、狭山市柏原新田)で25日、料理を作る所作で合否を判断するユニークな入試が行われ、21人の受験生が挑戦した。

 同大はサービス経営学部で、ホテル、観光、フードなどの分野で将来活躍する学生の養成を目指している。定員240人のうち自己推薦の20人枠を学科試験免除の実技試験のみとした。この課題が「サービスの鉄人−アウトドア料理入試」と名付けられた今回の試験だ。

 受験者は5、6人で一つのグループを構成した。与えれたテーマは「料理を作る」というだけ。持ち時間は2時間。5グループに分かれた受験者は協力しながらカレーやサラダ、スープを作っていった。また飯ごうを使ってご飯を炊いた。

 各グループには試験官がつき一つひとつチェックした。ポイントは協調性やリーダーシップ、周辺への配慮、人の嫌がる作業に進んで参加しているかなどの所作。最後は試験官と一緒に料理を食べて実技試験は終了した。

 この入試は目的意識の明確な学生を選びたいとする佐藤学長が考案した。同学長は「何がチェックされているのか受験生には分からない。だから、まずこの試験を受けようとするチャレンジ精神を買いたい。また、チェック項目はあるが、所作の判断では試験官にも見方に個人差がある。いわば受験生と試験官の相互が試される。こうして学科試験では発見できない個性が尊重されることになる」と話した。

 受験生は「ペーパー試験では見てもらえない人間性が見てもらえる。そこに自信があるから受験した」などと話していた。

なにも言うことはない。

しかしこういうものを「ユニークな入試」と持て囃すなら、「大学生の学力低下」などというふざけた記事は書かないことだ。

覚えておくぞ、埼玉新聞。










2000.11.30

<番組批判>「ネプ投げ」などに改善求める
放送と青少年委

[毎日新聞11月29日]



 NHKと民放連が自主的機関として今年4月に設立した「放送と青少年に関する委員会」(原寿雄委員長)は29日、視聴者からの苦情・批判などをもとに検討を進めてきた二つのバラエティー番組について改善を求める初の見解を発表した。

 対象となったのは、フジテレビの「めちゃ×2イケてるッ!」(土曜日夜7時53分)の中の「しりとり侍」のコーナーと、テレビ朝日の「おネプ!」(火曜日夜11時9分)の「ネプ投げ」コーナー。

 しりとりゲームをして間違えた出演者が、罰としてオモチャの刀を持った集団に襲われてメッタ打ちにされる「しりとり侍」については、「暴力やいじめのメッセージを子供に伝える結果になる」。人気タレントのネプチューンが、若い女性をともえ投げで投げるシーンを写し、その時下着が見える「ネプ投げ」は、「のぞきを肯定する」との見解。いずれも、青少年への影響が大きいとして両局に改善を求めた。

 これに対しフジテレビは「改善策を見いだすまで同コーナーの放送は控える」。テレビ朝日も「番組内容の改善を予定している」とのコメントを出した

1994年11月、愛知県で一人の中学生がいじめを受け自殺したとき、メディアは教師をほとんど鬼畜のように報道し、週刊誌には「学校脳死」という言葉さえ飛び交った。教師が教師であることさえ恥じなければならないような、教師として生きていることすら息苦しい時期だった。

そのわずか三ヶ月後、あるテレビ局のバラエティ番組は次のような番組を放送した。

花束に包まれて棺おけに横たわる高木ブー、息子役の志村けんと加藤茶が泣きながら、
「お父さんが好きだったものを一緒に葬ろう・・・」と言い始めて


食べかけのバナナを投げこみ
きたウナギを流しこみ、
大量のモズクを顔からかけ、
カレーをぶちまけ、
生きたエビを胸にはわせ・・・・・・

志村も加藤も笑いを押さえきれず、
その間背後では女性たちの笑い声が終始流され
死体の高木は必死に耐えて・・・・・


偶然見ていた、当時6歳の私の娘は心配そうに「あの人、大丈夫かなァ」と呟く。

しかし画面の背後から流れる高笑いは教える。

気にすんな、
ジョークだ、
遊びだ
どうってことない
抵抗しないヤツはこういう目にあわせろ、
黙っているヤツには何をやってもかまわない、
デブはいじめろ、
みんなでやってしまえ、
これは遊びだ、笑って楽しめ・・・、


私はまた、三ヶ月前のマスメディアの言葉を思い出す。

いじめ対策に真剣に取り組め(読売)
子どものサインを見ぬく努力を(産経)、
全身で『先生』をしているか(中日)
学校にもはや解決する力ない(東京)、
学校はなぜいじめを放置したのか・・・・、

しかし、新聞は民放テレビに比べれば、ずっとずっとマシだった。