キース・アウト
(キースの逸脱)


2000年12月

by   キース・T・沢木














2000.12.06
いかなる「先祖返り」をしたものか――
正平調[神戸新聞 12月4日]


  いかなる「先祖返り」をしたものか、道路や地下街の通路にベッタリと腰を下ろす若者の姿がやたら目につく。

 「道路にしゃがんで電話している奴は、蹴っとばしてもいいという法律ができませんかねェ」。作家の永六輔氏は、最近出した「新・無名人語録」(飛鳥新社)の中に、こんな言葉を収録している。世間の大人たちは、よっぽど腹にすえかねているようだ。

 そういえば、つい先日も、神戸のある私鉄の車内でのこと。高校の制服姿の男女が乗ってきた。空いてる座席に座らず、そのまま、ドア付近の床に座り込んだ。ルーズソックスの女の子と、携帯電話を片手に耳ピアスの男の子と、まことに似合いのペアである。どこにもある風景なのだろう。

 そのうち車内が込んできた。それでも、動く気配はまったくない。ところが、降りる際にふと見ると、男の高校生はタバコをくゆらしているではないか。「恥ずかしくないのか、バカモノ」と怒鳴ろうとしたが、やめた。体だけは、向こうの方が大きい。

 もちろん、「何でも規制」は、本意ではない。しかし、こんな不作法がやたらと横行すれば、無名人ならずとも、「蹴っとばし法」なるものが、欲しくなってくる。

 多くの高校生は、きちんとマナーを守っている。しかし、こんな光景をしばしば目の当たりにすると、ついこんなことまで、考えてしまう。車内のよく見えるところに、沿線の学校の制服やバッジの一覧表を掲げてほしい。高校生には小学新入生よろしく名札をつけてほしい。その下に「親の顔」も…。そこまで考えると心寒くなった。

オイオイ、正義の話をしていたのに
何が
「やめた。体だけは向こうの方が大きい」だ?

恥ずかしくないのか、バカモノ!

「高校生には小学新入生よろしく名札をつけてほしい。その下に『親の顔』も…。」
ちょっと待て、高校生の丸刈りをまるで囚人のようだと言い、制服を「国民服を思い出す」と揶揄して、ありとあらゆる規制を排除しようとしたのはキミたちじゃないか。
「学校の責任を親に転化するな」と叫び、教師を狂人扱いするのはつい2〜3前のキミたちの常套手段だったではないか……。
覚えてないのか?

……いや、覚えているからこそ「そこまで考えると心寒くなった」のだろう。
その点だけは認めてやってもいい。








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<教育課程審>順位の評価やめ「内申書も絶対評価で」 
最終答申

[毎日新聞12月4日]



 文相の諮問機関「教育課程審議会」は4日、2002年度から完全実施される新学習指導要領に合わせ、小中学校の評価は子供の学習到達度を見て評価する「絶対評価」にし、高校入試の際の調査書(内申書)でも使うよう求めることなどを盛り込んだ最終答申をまとめた。

 同審議会は10月に中間まとめを公表し、小中学校、高校、大学などの関係団体から意見を聞いた。絶対評価をより重視することには賛成意見が多数を占めたが、高校入試で用いられる調査書について、集団の中での順位による「相対評価」を残すことに批判的な意見もあった。

 最終答申では、関係団体からの意見も取り入れ、「調査書の評定についても絶対評価にするための努力を期待する」と、都道府県教育委員会に対して絶対評価を取り入れるよう求めた。絶対評価に際しては評価方法や基準を作ることも必要とした。

 また、児童・生徒の学籍や指導経過などが要約されている指導要録についても、評定を相対評価から絶対評価にする
▽「総合的な学習の時間」の評価を文章で記載する
▽要録は条例などに基づき、教育委員会の判断で本人開示を原則とする――ことなどが盛られた。
また、子供たちの学習到達度を把握するために、全国的な学力調査を実施するとした。

(後略)






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社説=子供の成績 頭を切り替えるとき [信濃毎日新聞 12月5日]


 子供たちの学習に対する評価の仕方が大きく変わる。
全体の中での順位による「相対評価」から、一人ひとりの到達度をみる「絶対評価」へ重心を移すよう、文相の諮問機関、教育課程審議会が答申した。これからの教育改革の趣旨にかなう。確実にすすめる必要がある。


 答申は、小中学校の学習記録の原簿になる指導要録と、高校入試で中学校が提出する内申書について転換を求めた。

 相対評価の場合、例えば五段階評価の「5」を得るには、集団の上位を目指さなければならない。努力して新しく何かをつかんだり、できるようになっても、順位が変わらなければ、評価には反映されない。これに対し絶対評価では、理論上は全員が「5」になることもある。

 二〇〇二年度からは小中学校で教える内容や方法が改まる。単に知識量を増やすのでなく、主体的に学び、考える力をはぐくむ狙いだ。基礎的、基本的な内容は確実に身に付けることを目指す。一人ひとりの学習の成果や課題を丁寧にみる絶対評価は、確かに適している。

 内申書の扱いは今回、考え方を前進させた。中間まとめでは、絶対評価にするかどうかを都道府県教委の判断にゆだねる方針だった。答申は、各教委の判断を尊重しながらも、絶対評価にするための努力を促している。評価方法の見直しを徹底するうえで歓迎できる。

 指導要録については、個人情報保護の流れに沿って本人への開示を原則とすることも盛った。主体的な学びを支え、励ますための評価であれば、伏せるのでなく、共有するのが筋である。

 評価方法の大転換と言っていい。軌道に乗せるのは、そう簡単なことでない。社会全体で発想を切り替え、新たな形を整えていきたい。

 何より評価そのものの難しさがある。テストの点数などによる序列と違い、一人ひとりの到達度は必ずしも目に見えるものではない。客観性や信頼性を高める工夫が求められる。的確につかむため、まずは評価の基準となる到達目標をはっきりさせなければならない。

 学習に対する意欲や態度をみるやり方が子供たちに教師の顔色をうかがわせ、学校を息苦しい場にしているとの指摘もある。教師の主観的な評価により、新たなゆがみを生じるようだと、本来の意図からそれる。

 親の理解も重要だ。序列に基づく相対評価は分かりやすい。子供がどんな位置にいるのか、確かめることで安心するといった面も否めない。なじむまでは、落ち着かない気分が伴うかもしれない。周囲との比較ではなく、本人の頑張りを見る姿勢がますます大事になる。

 内申書を改めるとなると、高校入試の在り方を見直す余地も出てくる。「絶対評価」重視の流れを踏まえれば、例えば一点刻みで競い合うのではなく、一定の学力水準に達しているかどうかを問う―といった視点もあり得る。広く問題意識を共有し、論議を深めるときだ。


信濃毎日新聞には根本的な勘違いがある。
それは「絶対評価」を「周囲との比較ではなく、本人の頑張りを見る」評価だという勘違いだ。

「努力」という目に見えないものを評価すると考えるから
「学習に対する意欲や態度をみるやり方が子供たちに教師の顔色をうかがわせ、学校を息苦しい場にしているとの指摘もある。
教師の主観的な評価により、新たなゆがみを生じるようだと、本来の意図からそれる」
といった的外れな心配も出てくるのだ。

「絶対評価」は実はそんなものではない。

「絶対評価」とは何か?
定石にしたがって辞書でも引いてみよう。そこにはこんなふうに書いてある。
「絶対評価は、指導目標という外的基準に照らして個々の生徒の到達度を位置づける方法で、到達度評価ともいう」(imidas'99)

ここで大切なのは「指導目標という外的基準に照らし合わせて」という点である。
つまり、外的基準としてテストで80点以上を取れればその内容について目標達成ができたと規定すると、
80点以上取ったものは全員「5」、
40点の者は目標のちょうど半分だから「3」、
20点未満の者は(それが何人いようとも)理解がまったく不十分なのだから全員「1」とつける、
そんなやり方のことである。

ここには教師の主観の入る余地はほとんどない。
「指導目標の達成」という観点からの評価である以上、努力の生むもさほど考慮されない。
つまりは実績主義なのだ。

確かに、「どれほど成績を延ばしても順位を上げなければ『5』が取れない」と言われる相対評価に比べるとずいぶんいいようのも思えるが、どんなに努力しても目標達成が果たされなければ「5」をもらえないとしたら、生徒にとって絶対評価は相対評価と何ら変わるところがない。
絶対評価の恩恵にあずかれるのは、一握りの勉強のできる連中だけなのだ。


ところで、「絶対評価は努力を計る評価」だという誤解はどこから生まれてきたのだろう?

これは実は小学校に責任がある。
小学校が「絶対評価」に、「個人内評価」という別の評価の方法が滑りこませたためである。
これも辞書を調べてみよう。するとこうなる。


「個人内評価は個々の生徒の内部に基準を求める評価で、個々の生徒の成長過程を縦断的に示す方法や個人の能力の諸側面(諸教科の成績)を構造的に示す方法がある」

簡単に言ってしまうと、生徒個人個人についてそれぞれ別個の目標を立て、「努力して目標を達成した者に高い評価を与え、そうでない者には低い評価しか与えない」というものである。
私の知る限り、小学校「絶対評価」と「個人内評価」の二つを絡み合わせて、実に複雑な通知票をつけているのだ。

例えば、「小数のかけ算」という単元で50点しか取れなかったXという子が、「三角形の合同」では努力して90点を取れるまでに学力を伸ばしてきた。この子には「A」を与えるべきである。それはいい。

しかしほとんどの単元で5をつけられるような好成績のYの場合……担任は考える、「この子は『小数のかけ算』では100点、『三角形の合同』では90点だった。しかしこの差は、Yの場合非常に大きい。
なぜなら『小数のかけ算』のみならず他の単元では圧倒的な力を誇るYも『三角形の合同』だけは『人並みのちょっと上』程度なのだ。
彼の数学的才能からみると、力は明らかに落ちる。したがって彼は『B』だ」

そのような事情から、同じ90点でも、Xは「A」、Yは「B」となる。

トップグループの子よりも2番手グループの子の方が「A」が多いという逆転は、こうしてできあがる。
確かに、能力的に低いXには励みとなり、高い能力を生かしきれていないYには痛いお灸となるだろう。
小学校はそれでいい。


しかし高校への調査書がそれでいいと考える人はそうはいないだろう。
この方式を調査書に当てはめると、もっとも優秀な生徒は地域のトップ校に入れないのだ。

さて、話を本来の「絶対評価」に戻そう。
もし、教育課程審議会が考えている「絶対評価」が語の本来のものであるなら、優秀な者がトップ校へ入れないという逆転は防げるだろう。
しかし問題がなくなるわけではない。


新学習指導要領のもとで学習内容が3割減になることに対して各界から学力低下を心配する声が聞こえているが、文部省はそれに反論して次のように言っている。

「文部省がこう言っている以上は、2002年以降は、時間無制限にやれば全員が百点とれなきゃおかしいことになる。分からない子がいたら大問題になる。だから今から3年間で、どうやって全員にわかってもらえるかを教育現場でも真剣になって考えなくてはいけないのです」
(寺脇 研・文部省政策課長:「論座」1999.10)


「時間無税弦でやれば全員が百点をとれるようにする」この難題を現場教師はどのようにクリヤするか……実はこれが簡単なのである。
問題を異常に易しくするか、さもなくば高校が卒業認定に濫用するように、果てしない追試でこれをかわしていけばいい。そして「全員が百点」をとる。そのとき、内申点はどうなって行くだろうか?もちろん全員が「5」である。

信濃毎日新聞は「絶対評価では、理論上は全員が「5」になることもある」と書いているが理論上の問題ではない。実際私が言うような複雑な経路をたどらずとも、絶対評価のもとで、内申点は全員「5」になるに決まっている。
なぜなら、
同じ高校を受験する他の中学校の生徒が「オール5」を持っている可能性がある以上、
どんな奇策をもってしても、私たちもまた「オール5」を持たせてやらなければ、生徒に申し訳ないからだ。


ところで、受験生全員が「オール5」の内申点をもっているとしたら入試選考はどのようなものであろう。……いうまでもなく、それはテスト点だけで選抜される大昔の入試である。

努力したかどうかなんてどうでもいい、結果がすべてであり、結果を出せない者は去るべきである。「絶対評価」絶対主義者の本音は、実はそんなところにあるのかもしれない。





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数好きの割合、世界最低レベル=日本の中2、成績は高水準維持−文部省

[時事通信社 12月 6日 ]




 日本の中学生の数学と理科の成績は国際的に高い水準にあるが、両科目を「好き」という生徒の割合は最低レベルであることが、6日付で文部省が発表した国際教育到達度評価学会(IEA)の「国際数学・理科教育調査」で分かった。

それによると、数学を「大好き」「好き」と答えた日本の生徒の合計は48%で、95年の前回調査より5ポイント減少。国際平均の72%を24ポイントも下回り、37カ国中、モルドバ(43%)に次ぎ下から2番目だった。

 また「大好き」を4点、「大嫌い」を1点として計算した「数学好き度」は、日本は「大嫌い」がモルドバより多かったことなどから、2.4点(満点4点)で最下位だった。
 一方、理科の「大好き」「好き」の合計は55%。国際平均の79%を24ポイント下回り、23カ国中で最下位の韓国に次いで下から2番目だった。

 また学校以外の自宅や塾で宿題や勉強をする生徒の割合も、数学は74%、理科は61%で、前回調査から各11ポイント、13ポイント減少。23カ国中それぞれ22位、21位だった。
しかし、共通問題での得点は各国平均を大きく上回り、38カ国中数学は5位、理科は4位。前回調査の得点と比べ統計上有意な差はなく、
文部省は「引き続き国際的にトップクラスを維持しており、学力は低下していない」(中学校課)としている。 


いいじゃないの?好きじゃなくたって。
もともと数学や理科なんてそんなに楽しいものじゃないでしょ……とはならないようだ。

理科や数学が好きな上にできなくちゃいないということなのろうか?
それとも、成績なんてどうでもいいから、理数の好きな子を育てろということなのだろうか。

とにかくどこかに噛みついていなければ仕事をしてないような気分にしかなれないメディアの態度にはウンザリする。
なぜ「理数好きの割合、世界最低レベル=日本の中2、成績は高水準維持−文部省」ではなく、「日本の中2、理数の成績は世界最高水準、しかし理数好きの割合、低レベル=文部省」と書けないのだ





2000.12.09


まさにマスメディアらしい、本当にマスメディアらしい記事が出たので紹介する。

学力低下

[琉球新報 12月8日]



 技術立国に赤信号―。理工系でも小数計算できず、の調査結果がある。
いま、大学生の学力不足が深刻な問題として浮上している。大学当局の不満がすさまじい。特に数学の基礎学力の落ち込みが歴然としているという

アレ? 理数科の学力は世界最高レベルと聞いたが・・・・・

▼「ゆとり教育の反動」と指摘する声も多い。「分数できない大学生」の著者、西村和雄京大教授は、「入試の多様化に加え、算数・数学の授業時間と内容の大幅削減による学力低下」との調査結果をまとめた。「小学校から大学まですべて駄目にした」と文部省を痛烈批判

ちょっと待て、ゆとり教育=学習内容の削減はつい数年前までのメディアの最大級の主張だったはずだ。新指導要領の発表された1998年以前の記事から、1時間以内に私は「ゆとり」要求のページを百ページ以上並べることができるぞ。

それほどの激しい要求に答えて文部省が学習内容を削減すれば、掌を返すキミたちの厚顔無恥には、言葉を失うぞ。

▼日本での数学と理科(中学三年)の年間授業時間数は二百三十三時間。週五日制に伴い、二〇〇二年から導入予定の新指導要領では、さらに三割削減となる

キミたちのお蔭だ。

▼業を煮やしたのが国立大学協会(会長・蓮実重彦東大学長)。

いよいよメディアに殴りこんだか?

国立大学受験生は五教科七科目が原則、を決めた。大半で〇四年実施に踏み切るという

アレ?

▼「補習」。高校授業のおさらいを大学でやらざるを得なかったケース。予備校のなかに同様の講義に乗り出す動きも。日本に次いで年間授業数が少ない英国でも数学力が低下、再び基礎学力重視に転じているという

またぞろ外国の真似をしろという話か・・・。

▼一方、学力はトップクラスを維持するものの、際立つのが「数学、理科嫌い」。「日本の中学生群像」。国際比較で調査参加国の中で最低レベル。テクニック依存が浮き彫りになる。

ゆとり、個性尊重教育のなかでの学力低下問題。
そうだ「個性教育」は「ゆとり」とともにキミたちの掲げた金科玉条だった。
それが招いた(と君たちが主張する)学力低下の責任を、一体どうとるつもりだ!・・・と息巻いたら、

子供たちにとって、分かりやすい、楽しい授業の確立が求められている。知恵と工夫を。

なんだオレたちが頑張らなければいけないという話か・・・・

自分が放火した火事の消し方が悪いとわめき散らす犯人の前で、何もできない消防士のキ・モ・チ・・・・・。

最低の記事だ。





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新宿のビデオ店爆弾投げこみ事件に関する対照的な記事が出たので並べる。


新宿・爆弾事件 ―子供に教えよう命の尊厳

[沖縄タイムス12月7日]



 どうして思いもかけないような少年犯罪が相次ぐのか。四日夜、東京都新宿区のビデオ店で起きた爆弾事件も容疑者は十七歳の高校二年生である。
 愛知県豊川市の夫婦殺傷や福岡県での西鉄バス乗っ取り、岡山県の金属バット殴打などの事件も十七歳だった。

 これら少年たちの周辺の評価は「まじめな子ども」「成績が優秀」などであり、事件とあまりにもかけ離れた“素顔”に驚くばかりだ。

 今回の爆弾事件の容疑者の少年は「人をばらばらに壊してみたかった」と警察の取り調べで話し、豊川市の夫婦殺傷事件の少年も「人を殺す経験をしたかった」と動機を述べていることに国民はあらためて大きなショックを受けたに違いない。

 一連の少年事件に共通するのは、他人の命を粗末にする感覚と法を守る意識の欠如などが底流にあるように思う。

 そうだとしたら、大人の責任は大きい。家庭や学校、地域社会の中で子供たちに命の尊さや他人を思いやる心をきちんと教えてきたのかが問われよう。

 家庭、学校、地域の「教育力」が弱まっていると指摘されて久しい。

 「キレル」子供たちが増え、どこにでもいるような普通の子供たちが事件を起こすことはやりきれない。

 事件を引き起こした要因がどこにあるのかを司法の場できちんと解明することは重要なことである。

 同時に少年たちを犯罪にかりたてる心の「闇(やみ)」の部分も精神科医や臨床心理士など専門家の力を動員して解きほぐして、少年たちの更生や犯罪防止につなげなければなるまい。

 四日から第五十二回人権週間が始まった。法務省などは十日の「世界人権デー」まで人権意識の高揚を図るための事業を展開する。

 県内の小、中学校でも「人権教育」に取り組んでいるが、より強めていくことが求められる。

 そうすることによって、他人や自分の命を大切にする心をはぐくみ、子供たちが、豊かな環境のもとでより幸せな社会生活を送ることができると考える。


「どうして思いもかけないような少年犯罪が相次ぐのか」
と嘆き、
「事件とあまりにもかけ離れた“素顔”に驚くばかりだ」
と驚き、
「どこにでもいるような普通の子供たちが事件を起こすことはやりきれない」
と切ながる。
それだけだったら単なる素人の感想のレベルだ。


「一連の少年事件に共通するのは、他人の命を粗末にする感覚と法を守る意識の欠如などが底流にあるように思う」
も単なる庶民感覚の代弁に過ぎない。

しかし
「そうだとしたら、大人の責任は大きい」
と突然大上段に振りかざし、何を言うかと思ったら、
「家庭や学校、地域社会の中で子供たちに命の尊さや他人を思いやる心をきちんと教えてきたのかが問われよう」
いくつもの残虐な事件を不必要なまでにセンセーショナルに扱い、しつこくグロテスクなまでに報道し続けたメディアの姿勢はどう考えればよいのか。
民放の低俗な番組の、人間軽視、嘲笑と揶揄、からかいといじめ、人を人と思わぬ高慢と尊大塗炭の苦しみを味わう被害者の家族にしつこく付き纏い、マイクを向けカメラのフラッシュを浴びせる残虐、盗撮しても有名芸能人ならば「田代さん」と「さん」付けにする人権感覚。
キミたちこそ、
子供たちに命の尊さや他人を思いやる心をきちんと教えてきたのか」


 家庭、学校、地域の「教育力」が弱まっていると指摘されて久しい。
そうだ、家庭にニセ情報を吹き込み、学校から管理機能を奪い、今また学校の自由選択制を主張して地域教育完全破壊をもくろむ。
そして家庭、学校、地域の「教育力」が弱まったと指摘していさえいればいい、それがキミたちのやり口だ。
そして解決の方策は示さない。

すべて他人任せだ。
 司法の場できちんと解明することは重要なことである。
 精神科医や臨床心理士など専門家の力を動員して解きほぐして、県内の小、中学校でも「人権教育」に取り組んでいるが、より強めていくことが求められる。

 そしてこう言う。
 そうすることによって、他人や自分の命を大切にする心をはぐくみ、子供たちが、豊かな環境のもとでより幸せな社会生活を送ることができると考える。

なんと空しい言葉だろう・・・・・・・。





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同じ新聞でも新聞でも、中国新聞はやや建設的だ。

大切な人間的触れ合い

[中国新聞 12月7日]




東京・歌舞伎町のビデオ店に手製爆弾を投げ込んだ高校二年生は「人を壊してみたかった」と動機を語っているという。人間が物体にしか感じられないのだろうか。それとも人と人とのつながり方がおかしくなっているのか。いずれにしても自分自身が壊れかかっていることには気づいていないらしい

▲東京の多摩少年院の境克彦院長は、罪を犯して少年院に来る最近の子どもたちの傾向として
(1)忍耐力が弱い
(2)わがままで共感性に乏しい
(3)適切な自己主張ができない
(4)付き合いが下手
(5)劣等感が強い
―などを挙げている(マスコミ倫理懇談会全国協議会の研究会での報告)

▲少年院の教育の核は、集団の相互作用を活用した更生的な雰囲気づくりだと言う。
そして、教官との人間的な触れ合い、辛抱強い働きかけが必要となる。

「本気で褒める、本気で叱(しか)る、慰める、励ます。その繰り返しなんです」

▲最近、贖罪(しょくざい)指導も行われるようになった。
共感性に乏しい子どもたちは、自分のことばかりに目がいって、なかなか被害者に目が向かない。
そこで作文を書かせたり、一週間、一人部屋で静かに被害者のことを考えさせる。
「内省、内観」である

▲数日たつと、被害者への自分の行為を思い浮かべ始める。
そこから思考が急に深まりを見せる。
院に来たころは険のある顔だったのが、だんだん穏やかな顔つきに変わる

▲面会に来る親との関係を見ると、仲の良い「友だち親子」のようで、「ご機嫌取り親子」が増えているという。
真剣に悩みを話し合い、時にはぶつかり合う親子であってほしい、と境さんは思う。

解説とはかくあるべきである。

罪を犯して少年院に来る最近の子どもたちの傾向

(1)忍耐力が弱い
(2)わがままで共感性に乏しい
(3)適切な自己主張ができない
(4)付き合いが下手
(5)劣等感が強い

ここには読者と一緒に嘆くだけといった愚かさがない。
少年院の指導を通して、私たちが学ぶことのできるものが存在する。






2000.12.15

「体罰を教育に取り入れてよい」 
八浪県議が持論展開

[熊本日日新聞 12月13日]



 12日の12月定例県議会一般質問で、自民党の八浪知行氏(熊本市区)が「少年犯罪が凶悪化、多発化している問題の根幹は教育。体罰を教育に取り入れることだ」などと述べ、学校教育での体罰を容認する持論を展開した。

 八浪氏は、体罰が学校教育法で禁止されていることを説明し、「今は先生が子供をたたくことができなくなり、逆に先生が生徒からたたかれることもある。それが怖くて登校拒否する先生もいる」と発言。学校現場について「子供が自信や威厳を失った先生に接するのは不幸。学校では礼節や正義感が消え去り、少年犯罪も問題となっている」との危機感をあらわにした。

 その上で「問題発言と非難を受けることは覚悟の上で言うと、体罰を教育に取り入れることだ。先生の言葉が子供の心に響かなければ、体に響かせてもよいのではないか」と語った。

 ただ、「私は頭から体罰を容認するものではない」と断り、「決してけがをさせないのが前提。相手の鼓膜が破れるようなことは暴力であり、教育とは違う」とも強調した。

 質問終了後、田中力男教育長は取材に「体罰は許されるものではなく、県議の質問の趣旨はもっと厳しさを持て、という現場教師への激励と受け止めている」と語った。


このなんの変哲もないような記事がなぜ取り上げるに値するのか?

ひとことで言うと、ここに批判がないからだ。

つぃ1年前でも(そしてメディアが異なれば今でも)、この記事につくべきタイトルは「八浪議員、体罰容認発言」または、「八浪議員問題発言『体罰を教育に取り入れるべきだ』」となったはずである。

しかしこの記事にはそうした批判の雰囲気はない。

努めて客観的であるように見せかけて、幽かな支持が匂う。


教育を取り巻く雰囲気は確かに変わった。

おそらく数年を経ずして、私たちは次のような批判に晒されるだろう。

「体罰を恐れず生徒に向かえ」
「教師は体罰も辞さない情熱を持て」
「体罰非難が怖くて何もできないバカ教師たち」
・・・・・・・・・・・・・・・

心して見ていこう。


 



2000.12.18

出席停止処分・全国の2割も占める本県

[琉球新報 12月17日]



 授業妨害や暴力行為を繰り返すなどして出席停止処分を受けた公立中学校の生徒が、一九九九年度は八十四人と前年度に比べて一・五倍増えていることが文部省調査で明らかになった。

 中学生の荒れの深刻化を裏付けているが、そのうち県内が十六人、約二割を占めていることが分かった。県教育委員会では「問題がより深刻になる前に迅速に対応した結果」としているが、驚くべき数字だ。

 授業妨害や暴力行為は、教師に暴力を働いたり、注意をうらんで罵倒(ばとう)を浴びせたり、教室内での喫煙、同級生への暴言などの形態がある。学級崩壊に結び付くものが多い。

 出席停止の増加は、そうでもしないと校内の秩序の維持が図れないことを示しているが、処分は家庭に大きな責任を負わせている側面がないだろうか。

 悪いことをすれば当然、ペナルティーが伴う。学校内だからといって”聖域”であるはずはない。中学生もその基本ルールを理解し、結果には責任を持つべき年齢と思う。

 しかし、処分に当たって、その中学生たちの声にしっかり耳を傾けたのか、暴力行為などに至る過程で、適切な対応、指導が行われたのかどうか。また対応の妥当性をだれが判断するのか。経緯が不透明のままでは「教育の放棄」になりかねない。

 今年八月、広島県内の中学校が授業妨害を繰り返した生徒二十人に出席停止の通告をして波紋を広げた。一部の暴力行為により、他の生徒の授業が侵害されるのは許されないというのが主な理由であった。

 その校長の強硬姿勢に賛否が上がったが、いま、いわゆる「問題児」への対応が強まる流れになっている。文部省は処分基準を明確にするため教育基本法の改正を視野に入れている。

 問題解決には、さまざまな手法が用意されてしかるべきだが、何よりも保護者や地域に現状や情報を包み隠さず伝えることが大事だ。どんな解決法が最善なのか、地域、社会との「共育」の視点でじっくり話し合う必要がある。


よくも恥ずかしくもなくこのような記事が書けたものだ。
恥を知れ!

学校が出席停止を考えるような、授業妨害や暴力行為は「教師に暴力を働いたり、注意をうらんで罵倒(ばとう)を浴びせたり、教室内での喫煙、同級生への暴言などの形態がある。学級崩壊に結び付くものが多い。といった穏やかなレベルのものではない。
その程度で出席停止ができるなら、日本中で数十万人の処分者が出るはずだ。(実は私はその方がいいと思っているのだが)。

しかし、わずか84名! 新たな学校の荒れが評判になって久しいが、450万人もいる中学生のうち、これは実に九万人にひとりというとんでもない数字なのである。


学校が出席停止を考えるような事態、それは、
校内を無免許のバイクが走りまわり、1枚2〜3万円のガラスが数十枚割られ、生徒が同じ生徒によって毎日数千〜数万円の恐喝を受け、教師が鼻を折られ、一歩間違えば生徒同士が刃物で渡り合う、
そういう世界である。記者はその実態を取材したのか?

それを言うに事欠いて
処分は家庭に大きな責任を負わせている側面がないだろうか。
とは何事か!
子どもの責任は本来親が負うべきものであって、出席停止は親の眼前にそれを突きつけるのがひとつの目的なのだ。いつからこの国は親が子の責任を取らなくていい国になってしまったのか。


 しかし、処分に当たって、その中学生たちの声にしっかり耳を傾けたのか、暴力行為などに至る過程で、適切な対応、指導が行われたのかどうか。また対応の妥当性をだれが判断するのか。経緯が不透明のままでは「教育の放棄」になりかねない。

結局メディアが言いたいのはここなのだ。

ボクは知りたいんだよ、いったい何があったか教えてほしいんだよ。
本当はボクたちが調べればいいようなものだけど、
足で稼ぐ取材なんていう面倒くさいことはしたくない。

第一ボクたちには時間がないんだ。
なのにデスクは「記事を書け」「金になる記事を書け」とうるさい。
だから「やっぱり学校が教えてくれなくちゃボクは困るんだよね。
生徒のプライバシーなんてこの際、横に置いておいてくれないかな?

え?、学校のこと話したら何かいいことあるかって?
そんなことは知らない。

話してくれたらきっと誰かが一緒に考えてくれると思うよ。
どんな解決法が最善なのか、地域、社会との「共育」の視点でじっくり話し合えば、
きっとなにか考えてくれると思うよ。

そんな機会があったら、また教えてね。
ボク、きっと取材に来るから・・・。


 



2000.12.21

中学生の出席停止が16人で全国の20%にも及んだという件に関し、沖縄タイムスが内容の触りだけを書いているので紹介する。

中学生の出席停止16人/県教育長調べ /全国の2割占める、いじめ暴言など理由

[沖縄タイムス 12月17日]



 級友へのいじめや教師への暴言などを理由に、一九九九年度中に「出席停止」の処分を受けた県内公立中学の生徒が十六人に上っていたことが、
県教育庁の調べで分かった。
文部省が発表した八十四人の二割近くを占め、出席停止期間も二週間以上と長期にわたるケースが目立ち“荒れる”中学の実態が浮き彫りになった。

(中略)
 出席停止の理由は、生徒へのいじめが六人、その他が十人。
その他の多くは教師に対する暴言や生徒への脅し。
全国で多数を占めた教師への暴力、生徒への暴力はなかった。

 いじめ、暴言の具体例は
「教師を傘やほうきで威嚇。再三にわたる注意や指導を受け入れなかった」
「級友や下級生へたびたび暴力を振るい、被害者が不登校に陥る恐れが出た」
「指導に当たった教師を罵倒(ばとう)。『やるならやってみろ』と挑発した」
など。

 直接の理由はいじめや暴言だが、服装違反や教師の指導を全く聞かない、保護者の注意にも耳を貸さないなど、問題行動が重なった結果だという。


そういうことである。

大昔の不良少年と異なり、現代の不良少年は学校が大好きだ。
学校で好き勝手に振舞うことにこそ魅力があるのであって、世の中に出て、そこで悪行を働くほどの根性などどこにもない。
そうした不良少年たちから大好きな学校を取り上げたらどうなるのか、
私たちはそこに興味がある。

学校が嫌いな不良少年を「出席停止」にするバカはいない。
罪には罰が必要であって、しかし校内の大部分の「罰」が体罰や心罰の名のもとに禁止された今、残るのは彼らから1番好きなもの(学校)を合法的に取り上げるしかなくなってきている。それが「出席停止」の本当の意味である。

もちろん、家庭に責任をあずけて何もしないというわけではない。
子どもを校外に置けば、校外に行ってまでも指導するという面倒ごとを背負うことになるが、教師はそれでいいと覚悟を決めている。

中学校にとって「出席停止」はひとつの新たな試みだ。
もしかしたら意味のないことかもしれないが、意味がなければまた考えればいい。

ところで、「出席停止」の表の意味は、いうまでもなく「他の生徒の保護」である。
出席停止は学校教育法で定められた処分であって、児童・生徒の暴力や授業妨害などによってほかの子どもの教育が妨げられる場合に市町村教委が決定する、そういう性質のものである

「教師を傘やほうきで威嚇。再三にわたる注意や指導を受け入れなかった」
「級友や下級生へたびたび暴力を振るい、被害者が不登校に陥る恐れが出た」
「指導に当たった教師を罵倒(ばとう)。『やるならやってみろ』と挑発した」

服装違反や教師の指導を全く聞かない、保護者の注意にも耳を貸さないなど、

教師は、そうした生徒から他の生徒を守らなければならないと考え、まともな子の保護者は、ウチの子を暴力から絶対守ってもらわなくてはならないと考える。しかしメディアだけは、そういうことには無頓着らしい。

出席停止の増加は、そうでもしないと校内の秩序の維持が図れないことを示しているが、処分は家庭に大きな責任を負わせている側面がないだろうか。 (琉球新報)

 しかし、問題を起こす子どもを学校から締め出し、保護者に責任を負わせるだけでは、必ずしも問題解決の道は見えない。むしろ学校の責任放棄につながるのではないか。(熊本日日新聞)

とにかく危険な子でもなんでも学校に留め置いて、その中で指導をしなければならないのだ。





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成人式“現状追認”型に 「だめならもうお手上げ」 佐賀市、来年から

[西日本新聞 12月20日]



 多くの新成人がおしゃべりに夢中で「同窓会」化している成人式の現状を前に、佐賀市教委は来年の成人式から式典部分を合計十五分に切り詰め、後は立食パーティーという“現状追認”型に変更することを決めた。これまで青空成人式などあの手この手で新成人の心をつかもうと努力してきた同市も「これでだめならお手上げです」。

 同市教委によると、来年の成人式は、市長のあいさつやアトラクションなど例年一時間余りかかった式典部分をバッサリ。あいさつは市長、議長、新成人代表の三人だけ。国歌斉唱も含めて十五分で終わり、後は友人や恩師らと軽食を食べながら歓談する場を設けた。記念品もテレホンカードをやめ、その場で記念撮影ができるレンズ付きフィルムにした。

 同市の成人式はこれまでも市長とのフリートークや商品券が当たる抽選会などを企画。「新成人がおしゃべりに夢中で会場に入らないなら」と、今年は屋外の特設ステージで式典を行う“奇策”にも出たが、新成人の大半はやはりあいさつには無関心で、空振り。それなら若い人の意見を聞こうとアドバイザーを公募したが、応募さえなかった。

 市教委は「大人になるけじめの式典の意味が理解されていない」と困惑しながらも、「まじめに参加したい人がいる限り、式典は続ける」との姿勢。案内状には「大人としての自覚と責任を持って出席を」との一文添え、「せめて十五分だけは静かにして」と訴えている。成人式は来年一月八日正午から、佐賀市日の出一丁目の市文化会館である。

それなら若い人の意見を聞こうとアドバイザーを公募したが、応募さえなかった。
には泣ける。

「話し合い」は、互いに主張し合い互いに歩み寄る言葉のコミュニケーションである。しかし「互いに歩み寄る」というのは、結局自分の主張の一部を撤回することだから、いまどきの青少年の気持ちにはまったくそぐわない。

「話し合って」一部を売り渡すくらいなら、最初から100%好きなようにやる方がどんなにいいかしれない
多くの若者はそんな風に感じている。そして子どもが万能な現代にあって、その認識は間違っていない。

今年の反省に立って、多くの地方自治体が成人式を投げ出そうとしている。
学校もそろそろ現状を追認し、教育を投げ出す時期なのかもしれない。

さて、「キース・アウト(キースの逸脱)」は今年(2000年)の正月、成人式に関する報道にキレた私が稿を起こしたことから始まった(ネーミングは私ではない)。
したがって、この記事を最後に今年を締めくくれれば、かなりカッコウいいのだが果たしてそうなるだろうか?



 



2000.12.28

公明が教育改革国民会議の報告に慎重姿勢

[毎日新聞12月28日]


 公明党は28日、三役会・常任役員会を開き、森喜朗首相の私的諮問機関「教育改革国民会議」が22日公表した最終報告で、
小・中・高校のすべての生徒が奉仕活動をすることを明記したことについて、憲法18条(奴隷的拘束・苦役からの自由)との整合性から具体化については慎重に検討していくべきだとの考えで一致した。


 最終報告では「義務付け」の表現は避けているが、「奉仕活動は、あくまで自主性をサポートするものでなければならない」(幹部)などと慎重姿勢をとることになった。同党は来年夏の参院選に向け、教育改革を重要政策の柱のひとつに掲げる方針。「教育改革国民会議の論議は現場の声を反映していない」(幹部)との立場から、年明け早々から全国で学生や教師との対話集会を開くことにしており、教育改革で党の独自性を鮮明にする狙いがあると見られる。

結局、教育改革国民会議はドジを踏んだということなのかもしれない。
「奉仕活動を全員が行うようにする」などといわず「奉仕体験を全員が行うようにする」とすればこんなに叩かれることもなかったからだ。なんと言ってもメディアは「体験的な学習」が大好きだから、そう書いておけば敢えて反対しなかったと思うが、どうだろうか?

「奉仕活動はあくまで自主的にやるものであって……」というのは言葉尻を取った、まさに「敢えてする論議」であり、国民会議はそんなことは百も承知で、義務化を提唱してきた。それ以外に子どもの社会参加を促す方法が見つからなかったからだ。

「子どもたちが積極的に社会に参加し、地域や社会的弱者に手を差し伸べようとする気持ちをつくるため」の唯一の具体策として「奉仕活動」を位置付けてきた。それだけのことだ。

 学校が「奉仕活動」をカリキュラムの中に入れれば、その二週間(小中学校)あるいは一ヶ月(高校)の中で、
ある子はボランティアの大切さを学び、
ある子は自分の有用性(坊は必要とされている・ボクには価値がある)を学び、

別のある子は結局ボクにはこれはできないと学ぶ、

それでいい。


しかしそれが憲法18条(奴隷的拘束・苦役からの自由)に抵触するということになると、
そもそも学習すること自体、18条違反と言わなければならないだろう
あんなものを楽しんでやる子なんてそうはいないのだから。


子どもが少しでも苦痛を感じることは、すべて「苦役」なのだろうか? 

私は公明党がそのような理念を持っていると言っているのではない。メディアがすべてこうした方向で取材をし、奉仕活動の義務化に賛成しない個人・団体を突き上げているから怒っているのだ(たまたま、目にした記事が公明党だった。公明党さんごめんなさい)。

さて、学校による奉仕活動を否定したとして、ではメディアはどのようにして奉仕活動への自主性をつくらせようとするのだろう。訊ねれば、きっとこんな答えが返ってくるに違いない。
「教師はそのたゆまない研鑚によって、
子どもたちが自主的に奉仕活動に向かいたくなるような意欲づくりをして行くべきだ。
その上で学校は奉仕活動のための機会と選択肢を用意しておかなければならない」




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少女から誘う 京都は8割 児童買春禁止法1年

[京都新聞12月28日]



 京都府警が摘発した児童買春禁止法違反事件で、被害者とされる少女から容疑者を誘って事件につながったケースが全体の八割近くにのぼることが、府警少年課の調べで分かった。府警は、少女たちの性に対する抵抗感が薄くなったことやテレホンクラブの増加などが原因とみている。

 児童買春禁止法は、十八歳未満の児童を対象にした買春やポルノを禁止している。インターネットで発信する児童ポルノや女子中高生との援助交際も取り締まり対象となっている。

 府警によると、同法が施行された昨年十一月から一年間に府警が検挙したのは百三十八件。容疑者は三十五人で、被害少女は九十三人だった。このうち、少女から大人に犯罪行為を誘発したケースは百八件で、全体の七八・三%にのぼった。

 被害少女から見た動機は、「小遣い欲しさ」が六十六人で七〇・九%、「友だちに誘われて」が二十人で二一・五%だった。

 知り合った方法は、テレクラのツーショットダイヤルが百四件で七五・四%、直接の声かけが十六件で一一・六%だった。次いで、友人などの紹介が八件で五・八%、ネット接続型携帯電話を含むインターネット利用が五件で三・六%となった。

 府警少年課は、被害少女からの誘発が多い背景について「援助交際と称することで罪悪感が欠如しているうえ、テレクラなど非行を助長する形態が増えたため」と分析している。

そんなことはみんな知ってた。

しかし少女売春で「売る方が悪い」「売る方も悪い」といった言い方は、メディアの気分に馴染まなかった、それだけのことだ。

子どもはどんな場合も悪であってはいけない。 したがって「いじめ」があっても悪いのは加害者の子どもではなく、抑えられなかった学校である。子どもが犯す犯罪の責任も「その子を犯罪に追い込んだ社会」にあり、不登校も十把ひとからげに学校の責任でしかない。それがメディアの基本的な姿勢なのだ。

売春も「少女を買う男たちがいなければ起こり得なかった」犯罪として、少女たちに全面的な支持を与えつづけてきた。
たしかにそうだろう。

買う男たちがいなければこの商売は成立しない。しかし売る側が売らなければ商売にならないことはもう一方の真実だったはずだ。
しかしそんな当たり前のこともメディアの世界では通らない。
女の子から誘って、たっぷり金を儲け、その金でどんな享楽を手に入れようとも、彼女たちは可愛そうな被害者なのだ。

しかし同じ論法を使えば、店に商品がなければ万引きも起こらないし、この世に自動車がなければ無免許運転もない。

酒がなけれ子どもの飲酒もなく、煙草がなければ校内の喫煙もなかった。そして人間さえいなければ、その子が殺人者となることもなかったはずだろう。


しかし、 メディアの論調は常に極端から極端に振れる。この記事を読んで思うことは、今度は子どもたちが締め上げられる番かもしれない、という可能性だ。




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教員の不祥事・病める現場の抜本改革を

[琉球新報12月28日]



 率直に言えば、学校現場は病んでいるのではないかと思う。文部省がまとめた公立小中高校で処分された教師数は、社会が教育者に求める姿とは懸け離れすぎる。

 一九九九年度に処分を受けた教員は四千九百三十六人。嘆かわしいのは、わいせつ行為で処分された教師が、前年度の一・五倍の百十五人に上ることだ。社会の教育者像と異なる姿だ。

 さらに憂慮すべきことは、これらわいせつ行為が、自校の児童・生徒を対象にした教師が五十六人。他校の児童・生徒を対象にした十九人も含めれば、六五%が児童・生徒を被害者にしている。これでは父母はじめ、社会の信頼が得られるはずはあるまい。

 教師と児童・生徒の力関係は明白だ。指導者である者の愚かな行為に対して、児童・生徒が、自らの意に沿わぬことであっても、あらがうことに躊躇(ちゅうちょ)することは明白なはずだ。

 その程度の良識を失うまでに、教師の質は低下しているのだろうか。

 また、体罰による処分も三百八十七人と相変わらず多い。わいせつ行為、体罰ともに、子供らの人権というものが、どの程度教師らに認識されているだろうかと疑問に思う。

 この数字にもし、「一握りの教師の不祥事」とする者がいれば、それは社会が教師に何を求めているのかを、知らない者だ。たとえ、それが一人でも、社会はこうした行為を許さない。

 将来への夢を託す子どもらを預ける教育者が、良識を持ち得ないのでは、悲しすぎる。

 職場で弱者に向けて、体罰をふるい、わいせつ行為をはたらくことは、一般の社会では許されぬことだ。

 この数字との関連は別に、精神性疾患で休職する教員も増加している。一二%増の千九百十三人と過去最多を記録している。県内でも五十六人。どんな現象が学校にあって、このような休職者の増加につながっているのだろうか。文部省は、すみやかに実態を調査して対策を講じるべきだ。

 一般的に今、学校現場に対して指摘されることの一つに、教師の「社会性の欠如」がある。確かに、学校という狭い社会だけで交友し、学校の外の動きに疎いという側面は、全体とは言わぬがありがちだ。

 以前なら、それでも良かった。教育者は地域の中では高学歴であったし、豊富な知識が地域から重宝され、リーダーとして存在できた。

 ところが今はどうだ。父母、地域は同等、それ以上の学歴だ。さらに、多様化する社会は、知識を新しく、幅広く求める。前年の教科書を教えるようにはいかない。職場に閉じこもっては、社会から取り残される時代だ。

 こうした認識が、どの程度教員にあるのだろうか。古い時代の感覚で存在してないか。良識さえ疑われる今回の数字で、学校現場の抜本的改革が必要に思えてきた。


児童・生徒を対象としたわいせつ行為で計75人が処罰された。こうした教師に同情する気持ちはまったくない。

しかしそれにしてもわずか0.0075%の教師のために、われわれは
その程度の良識を失うまでに、教師の質は低下しているのだろうか。」
などといわれなくてはならないのだろうか?
琉球新報は「そうだ」という。
「たとえ、それが一人でも、社会はこうした行為を許さない。 」
こうした教師が一人でもいれば、連帯責任として全員の罪を問う。

残りの100万人あまりの教師の、誇りも自負も生きがいも、そして権威も意欲も、そんなことはどうでもいい。とにかく不埒なヤツをゼロにしろ。そうしなければ「教師はバカ」だと言い続けてやる。
それはまさにファッショだ。

 私に言わせれば、あの人たちはビョーキなのだ。何が悲しくて生徒なんかに手を出すのか。そんなつまらぬことに職や収入を賭けるのは正常な人間のすることではない。
今年、そうしたビョーキの教師が75人も捕獲できた。それはメデタイことではないか。警察・学校関係者はもっと頑張って、こうした人間をさらに釣り上げ、来年は200%くらいにしてもらいたいものだ……そうは書けんのかね?



実は「教師のわいせつ事件急増」について報道したメディアは数多かった。しかしその中から特に琉球新報を選んだのは、実は上記のような怒りのためだけではなかった。私が手に入れることのできる情報の中で、教師の精神疾患の問題を取り上げていたのが琉球新報だけだったからである。

精神性疾患で休職する教員も増加している。一二%増の千九百十三人と過去最多を記録している。

1913人といえば全教師のおよそ0.2%。それぞれの教師が数十人の生徒を教えていることを考えると、これも放って置けない数字だろう。しかし多くのメディアは、教師が弱者であるようなこの問題については無視した(この点については、誉めてあげよう琉球新報)しかしこの件に関する主張が、
どんな現象が学校にあって、このような休職者の増加につながっているのだろうか。文部省は、すみやかに実態を調査して対策を講じるべきだ。
というのはいかにも情けない。

どんな現象があるのか、まったく知らないということもないだろう。しかも、面倒なことはすべて「文部省」だ。とにかくどこかを突き上げてさえいれば、メディアは仕事を果たしているような気分でいる。

さらに突き上げの矛先は教師自身にも向かい、一般的に今、学校現場に対して指摘されることの一つに、教師の「社会性の欠如」がある。
と、「社会性のなさ」が精神疾患の主因とでも言いたげな話になってくる。

要するに「社会から取り残される」という認識のない教員が「古い時代の感覚で存在して
いるから病気になんかなるんだ、ということらしい。
しかしそこから、教師は仕事もそこそこにして、もっと社会に出るべきだ、なんて話には絶対ならない。

一体、若い教師が忙し過ぎる。
持ちかえりの仕事があるから、学校帰りにちょっと一杯ひっかけながら社会情勢に耳を傾けるなんてことはまずできない。
普通のサラリーマンなら平気で行ける場所の中にも、教師であればとても足が突っ込めない
(下手に見つかって
社会が教育者に求める姿とは懸け離れすぎる。などと言われてもかなわないからね)。

休日も部活やクラブがあるからゴルフにも行けない。釣りにも行けない。朝から晩まで学校にいることを知っているから、地域の人もロクな仕事を回してくれない(それは無理のないことだ)。

若い頃、遊ばなかった人間が年を食って遊べるはずもない。自然、話題も乏しくなり、交際の範囲も狭まる。

メディアよ。
教師にかけている社会性というのがどんなものか教えて欲しい。そしてどうやったらそんなものが身につくのか、聞かせてくれ。


 



2000.12.31

私立高生、勉強に否定的意見

[東奥新聞12月29日]



 「勉強は将来、役に立つのか」「難しくて面白くない」−。県内私立高校の場合、学習に対して否定的な意見を持つ生徒が九六・八%にも上ることが、子どもの声実行委員会による「子どもの声アンケート」の中間報告で分かった。

質問は八項目で記述式。書き込みが多いのは「どんな先生に教えてほしいか」という質問の八二%で、この項目への関心が高さが目立った。実行委は「九七%近い否定的意見も、裏返せば、役に立つ面白い授業を、という意欲の表れ」と分析、「学校と教員は、この声にこたえていかなければならない」と話している。


 同委員会は県教組、県高教組、県私立高校教組で組織する。
(略)
 このうち「学習のこと」に回答した私立高校生の記述内容を分析したところ、「勉強は楽しい」という肯定的意見は三・二%、「難しい、役に立つのか」という否定的意見が九六・八%とはっきり分かれた。
具体的には
「覚えることが多すぎて授業についていけない」
「黒板を書き写すだけで授業が面白くない」
「教え方が下手な教師が多すぎる」
といった内容で、生徒の学習への願いや訴えがかなえられていない現状が浮かび上がっている。


 また、質問項目別では書き込みが多い順に
「どんな先生に教えてほしいか」八二・二%、
「学校や先生のこと」七〇・六%、
「自分や社会の未来」六九・九%などとなった。
実行委は「自分や社会への関心の高さには驚いた。常々、子どもは無気力無関心だと言われるが、いかに子どもの一面だけをとらえたものかが分かる」と話す。


 逆に「友達のこと」は五〇%と下から二番目で、「言いたいことが言えない」「みんな仮面をつけている」などの書き込みから「表面的に仲良く見える生徒同士が、疑心暗鬼で不安定な心理状態に置かれている」と危ぐしている。
(略)

私はれっきとした組合員であって反組合ではないが、ときどき組合のやることが分からなくなるときがある。教員組合が組合員の首をしめてどうするのだ?

「難しくて面白くない」
それは必要な知識を身につけてこなかった生徒のほうが悪い。

「覚えることが多すぎて授業についていけない」
そりゃそうだ、分数の計算もロクにできない人間が対数を覚えようと思ったら覚えることは「多過ぎる」。本もロクに読まない生徒が教科書に向かえばやることは「多過ぎる」。新聞も読まなければニュースも見ない者が政治を学んでも何がなんだかわからないのは当たり前じゃないか。

「黒板を書き写すだけで授業が面白くない」
それは教師が黒板に書きながら話している内容を聞いていないからだ。

「教え方が下手な教師が多すぎる」
同じ教科の他の授業も受けていないのに生意気を言うでない。第一「多過ぎる」とは無礼だ。

なんでこんなアホな意見に、
「学校と教員は、この声にこたえていかなければならない」
ということになるのだろう。

子どもたちが本当に「役に立つ勉強」を望んでいるとしたら、職業科の高校は軒並み高倍率になってしかるべきではないか。にもかかわらず、私は「今年も難関、商業科。普通科の衰退深刻」などというニュースを聞いたことがない(私の情報収集不足か?)。

ただ、こんなふうになったからといって、それは子どもが悪かったからではない。

ここ十数年、社会は「もう勉強は十分だ」「勉強より大切なものがある」と言いつづけてきたのだから、子どもが頑張らなくなっても何の不思議もない。

分からなければ面白くないのは勉強に限ったことではない。したがって学校から勉強を外せない以上、
「もう勉強しなくてもいい」というメッセージは、子どもにとって、
学校がつまらないものになってもいい」というメッセージと同じものだったはずである。


いまさら嘆くほどのこともない。ただし、子どもにとってそれは本当に可愛そうなことだった。




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事件をまず振り返ってみる。

 兵庫県揖保(いぼ)郡御津(みつ)町の国道わきの空き地で今月27日夜、同県姫路市内の「高岡タクシー」運転手、三美(さんみ)文男さん(49)=同市御国野町御着=が車内で首を切られて殺され、売上金が奪われた事件で、同県警捜査1課の龍野署捜査本部は29日、同郡内の無職少年(16)と県立高校1年の少女(16)を強盗殺人容疑で逮捕した。いずれも容疑を認めており、「遊ぶ金が欲しかった」と供述している。
2人はタクシーを停車させた後、いきなり鋭利な刃物で切りつけており、またも繰り返された未成年の凶悪犯罪に、関係者は衝撃を受けている。 

クシー運転手殺害容疑で16歳男女逮捕 兵庫[毎日新聞12月29日])

さてその上で次の記事だ。

普通の16歳がなぜ 少女は教職一家

[毎日新聞12月29日]




 少年による凶悪事件の相次いだ2000年の年の瀬の29日、強盗殺人容疑で兵庫県揖保郡内の16歳の無職の少年と高校1年の少女が逮捕された。1万5000円ほどの売り上げと引き換えに、タクシー運転手の命を奪った事件。学校関係者や友人らは、普段の2人の行動からは、とてもこんな事件を起こすとは信じられないと証言する。命の重みを感じぬ少年・少女の暴走の背景には何があるのか。

 「今年夏、友達の紹介で付き合い始めた」。強殺容疑で逮捕された少女の幼なじみで、県立高校の同級生(16)は、同じ容疑で逮捕された少年と少女の関係を、こう聞いていた。その後、容疑者の2人は「毎週日曜にはデートしていた。一緒にカラオケに行ったりしていた」という。逮捕された少女については「とても明るい子で、成績もよかったのに」と証言した。事件を起こすような気配を感じられないような「普通の子」だったようだ。

 少女が今春まで在学していた町立中学で、少女に英語を教えていた男性教諭は「明るくて、笑顔が印象的な生徒だった。勉強もよくできて地元でトップクラスの高校に進学したのに。どうしてこんなことになったのか、言葉も出ません」と驚きを隠せない様子だった。


 近所の人によると、少女の一家は8人家族。父親は私立高校の教諭、母親は公立幼稚園の教諭。兄も教職についているという。

 一家は教育熱心で、少女は小学校時代から近所の学習塾に通っていた。中学まではおとなしい感じだったが、高校入学後、近所の人と道で会ってもあいさつをしないなど「突っ張っている感じがした」という。

 一方の少年について、周囲の人たちは最近になって様子が変わっていたことを証言する。

 自宅近くの女性は「中学生のころは、おとなしそうな感じだったが、最近は金髪に染め、すっかり変わり、姿もあまり見かけなくなった。まさかこんなことをするなんて」。また、近所の男性(55)は「中学生の時は、よく学校を抜け出し昼ごろには自宅に戻ったりしていた。道で会っても、すぐに顔をそむけ、下を向いていた」と話し、事件に絶句していた。

 少年が卒業した中校で3年生の時に学年主任だった男性教師(48)によると、「両親が離婚し、中学時代は父親と暮らしていたようだ。校内で目立ってはいたが、非行グループからは離れて行動していて、特別悪い子ではなかった。中学時代は、学校をよく休んだり、けんかをしたりする子だったが、人を傷つけるような大きなことをする子ではなかった」という。卒業後は、定時制高校に進学したものの「すぐに辞めたと聞いている」と言い、逮捕容疑の事件を起こしたとされることについては「話を聞いて、とにかくびっくりしている」と信じられない様子だった。

 これまでの調べでは、2人は事件を起こしてから逮捕まで行動を共にしていたようだ。

(略)


「勉強もよくできて地元でトップクラスの高校に進学した」
そのことをもって彼女が「普通の子」であるということになはらないだろう。トップクラスに優秀だったとしたら、むしろ普通の子ではない。

「少女の一家は8人家族。父親は私立高校の教諭、母親は公立幼稚園の教諭。兄も教職についているという」

これも「普通」とは言えない。

「一家は教育熱心で、少女は小学校時代から近所の学習塾に通っていた。」
私はそんなふうには思わない。私が私立高校の教諭だったとすれば、塾などにはやらず自分で教える。少なくとも自学自習の習慣づけをしようとするだろう。

しかし、外からは非常におとなしく優秀そうな女の子であったことは事実だろう。
そしてそんな子が「
高校入学後、近所の人と道で会ってもあいさつをしないなど『突っ張っている感じがした』」ということになると、
これは絶対に普通ではない。


少年の方はさらに「普通」ではない。
近所では「中学生のころは、おとなしそうな感じだったと見える子が校内で目立ってはいたとすれば、これはやはりおかしい。
さらに
「中学生の時は、よく学校を抜け出し昼ごろには自宅に戻ったりしていた。道で会っても、すぐに顔をそむけ、下を向いていた」
そんな子が「普通の子」だとは、中学生もバカにされたものだ。

おそらく記者の編集の不手際だと思うが
「少年が卒業した中校で3年生の時に学年主任だった男性教師(48)」の話は、無茶苦茶だ。

「校内で目立ってはいたが、非行グループからは離れて行動していて、特別悪い子ではなかった。
中学時代は、学校をよく休んだり、けんかをしたりする子だったが、人を傷つけるような大きなことをする子ではなかった」

校内で目立ち、学校をよく休んだり、けんかをしたりする「普通の子」
記者は真面目に記事を書こうとする気持ちがあるのだろうか?

とにもかくにも、「普通の子が何をするのか分からない時代」というセンセーショナルな話題にしておけば新聞が売れる、そうした読みの中で記事を書くから、こうしたやっかいなことになるんだ。

ん? 普通の人はそんなに深読みしないって?
だから困るんじゃないか!
内容はないのに影響力だけがある。