キース・アウト
(キースの逸脱)


2001年2月

by   キース・T・沢木
















2001.02.04


「不登校」発言、きちんと説明をすべきだ

[
沖縄タイムス2月4日]



  不登校の小、中学生は、伸び率が鈍ったとはいえ一九九九年度も全国で過去最高の十三万二百人に上っている。
 小学生が二万六千人で全体の〇・三五%を占め、中学生は二・四五%に当たる十万四千人に達した。
 中学生は四十一人に一人の割合で、不登校の生徒が一クラスに一人いる計算となる。

 本県も同じ傾向を示し、小学校で四百五十八人、中学校は千七百四十七人が学校を休んでいる。前年度から二百六十五人も増えた。
 学校現場にとっては、不登校が依然として重要な課題である。

 この不登校問題について、町村信孝文部科学相が「はき違えた個性の尊重、はき違えた自由が不登校を生んでいる」などと発言した。
 町村文部科学相の言っている「はき違え」の対象が、いったい不登校の子どもたちに対してのことか、あるいは教育現場全般を指してのことなのか、いまひとつはっきりしない面は残る。
 そうであるにせよ、文部科学省のトップにいる者としては不用意な発言と言えるのではないか。

 文部科学省はすでに「不登校はどの児童・生徒にも起こり得る。いじめ、教師への不信感など学校生活上の問題が起因して登校拒否(不登校)になる」との公式見解を示している。
 町村文部科学相の発言が、自ら束ねる文部科学省の取り組みとの間にずれを生じているのは明らかだ。
 県内の不登校に携わっている関係者から、「単純な見方」「認識不足だ」など戸惑いや疑問の声が上がるのももっともだろう。

 識者が指摘するように、不登校やいじめに対応するカウンセラーの配置や、フリースクールへの出席を指導要録上の「出席」扱いと認めるなど、これまで積み上げてきた施策や努力を否定するもの、と言わざるを得ない。

 不登校の原因としては、児童の不安や緊張が学校嫌いにつながったり、あるいは無気力になって、親子関係のもつれ、教師との信頼問題などさまざまな要因が挙げられよう。
 中学では学業不振、遊び・非行型のケースも目立つ。いじめにあって学校に行けない子も少なくない。
 多くの子どもをはじめ、周りの父母や教師が不登校問題で悩み苦しんでいるのが現実である。

 町村文部科学相は、不登校について文部科学省のこれまでの見解を変えようとしているのか。
 「自由や個性をはき違えている」とはいったいどういう意味なのか。児童・生徒とどのように向き合い、不登校を少なくする考えなのだろう。
 発言の真意も含め、町村文部科学相は父母や教師に対してきちんと説明する責務があると思う。

この町村発言は、2月2日の報道各社との懇談会の席上で飛び出したものだが、それ以後あまり問題にならず、,どうしたのかと思ったらやっと出てきた。
大いに議論すべき問題だ。

不登校問題は現在も活路がほとんど見いだせない難問であり、学校における最重要課題であることには間違いない。
したがって、これが町村発言ほど単純ではないことについては沖縄タイムス氏に賛成する。
しかしが記者が盾にとる文部科学省公式見解の単純さも、同時に批判されるべきものだろう。

「不登校はどの児童・生徒にも起こり得る。いじめ、教師への不信感など学校生活上の問題が起因して登校拒否(不登校)になる」という公式見解自体がおかしいのだ。そういう見方は昔から学校現場にはあった。
どう考えても不登校なんかにとてもなりそうにない子はたくさんいたし、一個の人間の中に起こることの原因が、すべて学校にあるなんてとても受け入れられるものではなかった。
しかし一度文部(科学)省が公式見解として発表してしまえば、それは言質となり、繰り返し引用され、学校批判の道具となる。
ところでいったい、こうした「文部省公式見解」はどのように出されてきたのだろう。


これは平成元年に設置された「学校不適応対策調査研究協力者会議」の報告書の形で、当時の文部省にあがってきたものである。

私は文部(科学)省のつくる諮問委員会・懇話会等々についてはいつも同じことを言ってきた。
ここで言うこともその繰り返しに過ぎないが、あえてもう一度言っておく。


これら会議・委員会・懇話会等は、常に「識者」と呼ばれる有名人によって構成される。そうでないと世論(それを扇動するメディア)が許さないからだ。
ところがこの「識者」たちは、そのほとんどが生活費のかなりの部分を文筆や講演によって稼いでいる。
したがって彼らは、読者や聴衆がそっぽを向きそうなことは絶対に言わない。
自分を宣伝し、収入を増やしてくれるメディアの公式見解に反するようなことも絶対に言わない。
常に人々に甘く、人々が受け入れやすいことだけを語り続ける。


平成元年当時、「不登校はどの子のどもにも起こりうる」はメディアが作り上げた最大のテーマであった。そしてそれが協力者会議に反映して文部省見解となったとき、メディアはそれを金科玉条のように盾に取り、不登校問題の解決を引き伸ばしに引き伸ばしてきたのだ。

この「文部省公式見解」のために、不登校の研究はまったく進まなくなってしまった。
とにかく子どもや家庭環境、あるいは社会環境にはまったく問題はなく、悪いのは学校なのだから学校だけを研究し、学校だけを変えればいい、というのだからお話にならない。

不登校をどの観点から分析しても、
たとえば、
 人間の自立性という観点から研究しても、
 その子の社会認識から研究しても
 生育暦から研究しても、
 家庭環境から研究しても、
・・・・・・それらはすべて、その子の特殊性を明らかにすることになり、「不登校はどの子のどもにも起こりうるもの」という公式見解と対立してしまう

実際、かなり突っ込んだ研究の発表の場に行くと、かならず「これは『不登校はどの子のどもにも起こりうるもの』という文部省の公式見解と矛盾すると思うがどうか」という質問が出され、研究は根底から否定されてしまうことになり続けた。
もはやみんなで「学校が悪い」と大合唱するしか方法がなかった。

そしてその間、不登校の子たちは分析的な研究の場から完全に締め出されていた。


・・・・・・ところで、「文部省公式見解」を盾に取る沖縄タイム氏よ。キミ自身は果たして、この見解を本気で信じているのだろうか?
「不登校はどの子のどもにも起こりうるもの」を盾に取りながら、
不登校の原因としては、児童の不安や緊張が学校嫌いにつながったり、あるいは無気力になって、親子関係のもつれ、教師との信頼問題などさまざまな要因が挙げられよう。
中学では学業不振、遊び・非行型のケースも目立つ。いじめにあって学校に行けない子も少なくない。
と書くキミは、いったい何者なのだ?


[参考]   「教育白書に見る『文部省公式見解』の変遷

平成2年度の教育白書にはそうした表現はない。その代わり、今から思えば心臓が口から飛び出しそうなほどとんでもない文言が書かれている。
「登校拒否の態様は,無気力で何となく登校しないケース,行かなければならないことは分かっていても不安を中心とした情緒的な混乱によって登校できないケース,非行グループに入って登校しないケース等まちまちである。また,そのきっかけも,いじめ等の友人関係をめぐる問題,学業の不振,家庭の生活環境の急激な変化,親子関係をめぐる問題等まちまちであり,さらにこうした学校,家庭,地域社会の環境要因が複雑に絡み合っていてその原因を明確に特定することが困難なケースも多い。 」
ここには「教師不信が原因」、などという考え方は小指の先ほどもない。
登校拒否はあくまでも子ども本人の問題だった。

それが大きく変化したのが、平成元年から行われていた、「学校不適応対策調査研究協力者会議」の中間報告である。

平成3年度教育白書にはこう書かれている。
また,平成元年7月に発足した「学校不適応対策調査研究協力者会議」では,登校拒否問題の背景・要因,登校拒否児童生徒に対する基本的な対応の在り方等について,広く専門的,総合的な観点から検討を行ってきたが,文部省ではその検討状況を2年11月に「中間まとめ」として公表した。3年度中には最終まとめが行われる予定である。
 本中間まとめでは,
(1) 登校拒否は特定の性格傾向をもつ子どもにのみ起こるものとい
  うとらえ方ではなく,どの子どもにも起こりうるものであるという視点
  に立つことが必要であること。

(2) その解決に向けて,予防的取組を含め,学校,教師の一層の努力
  が重要であること。
が指摘されている。
以後、平成4年版からは、
さらに,平成4年3月に取りまとめられた学校不適応対策調査研究協力者会議報告「登校拒否(不登校)問題について―児童生徒の「心の居場所」づくりを目指してー」の報告の趣旨を踏まえ,平成4年9月に都道府県教育委員会等に対し,「登校拒否問題への対応について」を通知し,(1)登校拒否はどの児童生徒にも起こり得るものであることなど登校拒否問題に対応する上での基本的な視点,(2)学校や教育委員会における取組の充実,(3)関係機関等との連携等について具体的に示し,登校拒否問題への取組の一層の充実に努めるよう求めた。
という表現が毎年付け加えられるようになった。


しかし平成10年度版教育白書からは、少し様子が違っている。
不登校の背景としては、家庭の問題、学校の在り方、本人の意識の問題等の要因が複雑に絡み合っていることがある。
また、最近見られる傾向として、「不登校はどの子どもにも起こり得るものであり、問題行動ではない」として、学校を絶対視するような考えが相当弱まっており、一般的に「学校に必ず行かなければならない」という意識も薄らいできていることが挙げられる。
つまり誰にも気づかれないように、さりげなく「不登校はどの子のどもにも起こりうるもの」という看板をおろしたのである。


 





2001.02.05

 [新世紀を開く] 学校で「公共性」をどう教えるか…奉仕活動の導入を機に

[読売新聞編集手帳2月5日]


 【ボランティアと補完】
「奉仕」という言葉が論議の的になっている。「もとは天皇に仕えるという意味だ」などと、日本書紀にまで語源をさかのぼって、批判されたりもする。
しかし、言葉の意味は移り変わる。時代時代の空気を吸っては深みを増し、それがまた、その時代時代に深みを与えても来た。新世紀の劈頭(へきとう)、奉仕という言葉もまさにそうあればと思う。

首相の私的諮問機関「教育改革国民会議」が、昨年末、小、中、高校で全員に奉仕活動をさせるよう提言した。将来的には十八歳以上の青年が様々な分野で一定期間、奉仕活動をすることも検討が必要だとした。

文部科学省は二〇〇二年度には何らかの形で、各学校に奉仕活動の導入を促す方針だ。関連法案も今国会に提案する。しかし、肝心の同年度から実施に移される新学習指導要領に手を加える様子はない。

学校教育の場に奉仕活動をどう位置づけるのか。ボランティア活動や種々の体験活動との関連をどう考えるのか。この機会に整理しなければならない大事なことが忘れられていないだろうか。


「奉仕」は「ボランティア」との対比で論難される。「自発的なボランティアならいいが、押し付けの奉仕では意味がない」というのが典型だが、これは両者を一面的にとらえた意見でしかない。


ボランティアは「問題意識」から「自主的」に始まるのに対し、奉仕は「貢献意識」から「他律的」に始まる。その成果としては、前者には「民主主義社会の発展」があり、後者には「個人の道徳的成長」が考えられる。


ある論者の見事な整理だが、これに従えば、どちらにより高い価値があるとは言えない。むしろ互いにあい補う関係にあると言ってもいい。この関係を教育に生かしているいい例に米国がある。


米国では「コミュニティーサービス」という言葉は、ボランティアと画然と区別されている。もとは兵役や服役の代替を意味したともされ、公園の掃除、障害者の手助けなどがイメージされる。日本で言う奉仕活動に極めて近い。
全米の中高生の約二割が、このコミュニティーサービスを学校から課されている。州によっては数十時間の活動を卒業要件としているところもある。必修化、義務化と言っていい。
 

【米英でも進む必修化】

学校から義務化されていない者も含めれば、全米の約半数の生徒がコミュニティーサービスに参加しているという。学校側から見ても、五割から六割の学校がコミュニティーサービスを企画し、生徒に参加を促している。
さらに注目したいのは、米国では活動後にクラスでその問題について学習させる「サービスラーニング」を重視している点だ。討議させ、リポートを書かせ、理解度を評価する。
それはやがて子どもたちの問題意識をはぐくみ、自主的な活動へとつながることになる。つまり、奉仕活動が、それを通じて子どもたちを教育することでボランティア活動に発展していく道筋が、ここに示されているのである

英国は来年から、日本で言う学習指導要領で、中高生に相当する生徒に「シチズンシップ教育」を必修化する。言わば「良き市民」についての学習で、地域社
会へ出て責任ある活動に参加することなどが盛り込まれている。
世紀の変わり目に、日本を含めた各国で、若者に公共性について学ばせる必要が叫ばれているのは興味深い。しかし、これは決して偶然ではない。


【共同体再構築が急務】
二十世紀はある意味で経済の世紀だった。経済発展は都市化を促し、その一方で地域社会や家庭が影の薄いものになった。人々が帰属意識を失い、それが若者に影を落とした。
新しい世紀がどんな展開を見せるのかは分からない。しかし、まずは共同体を再構築しなければ、新たな地平は開けて来ないのではないか。それが各国に共通した危機感だろう。

奉仕活動の対象が、特定の個人であるとか戦前のような軍国主義であるとかの議論が、いかに時代感覚を欠いていることか。ためにする後ろ向きの論議からは早く脱しなければならない。

兵庫県で始まった「トライやる・ウイーク」をきっかけに、全国に体験活動の様々な取り組みが広がっている。ほとんどそのすべてが成功しているが、学校教育の中にまだまだ体系的に位置づけられているとは言いがたい。

奉仕活動を入り口にして、子どもたちをどこへ導いて行くのか。それを考える今をいい機会としたい。それは、新しい時代に私たちの社会をどう築いて行くのかということにもつながっていく。


マスメディアの論調と一致してしまうと、なんだかかえって釈然としない感もある。
しかし「正しいことは誰が言っても正しいのだ」ということで矛を収めておこう。

「奉仕活動だっていいじゃないか」との考え方は、先月の「キース・アウト」にも書いた。
読売新聞はおきまりの「アメリカでは〜」「イギリスでは〜」でこれに肉付けをしてくれたわけだが、私と同意見なら何でもやってよい。
許す。


読売は昨年の『教育改革』読売新聞社提言(直接行けないので探してみてほしい)以来、教育に対するスタンスを大きく変えてきている。
それまでの「何でも子ども中心主義」から、社会的要請の側に、足場をシフトしてきているのだ。
個々の内容については大いに異論がある。
基本的に文部省と学校が今日の教育の衰退を招いた、という基本的姿勢も気に入らない。
さらに、この「提言」の行く先に、これまでとは逆の「とにかく子どもをしつけろ」という強圧的な方向が見え隠れする危険性もある。

しかしそれでもなお、メディアの新しい流れとして注目して行きたい。

読売新聞がんばれ!(すぐに裏切ると思うが・・・)



 



2001.02.10

学校が児童の写真提供するも無関係と判明 

[毎日新聞2月9日]



 奈良市内で昨年10月、幼稚園の男児2人が小学校高学年とみられる少年3人に同市内のスーパーに置き去りにされる事件があり、保護者から通報を受けた同校区内にある同市立登美ケ丘小(和田良重校長)が、6年生2クラス68人の集合写真をこの保護者に預けていたことが9日、明らかになった。数日後、保護者は特徴などから3人の児童が疑わしいと指摘したため、担任が3人から直接話を聴いたが無関係だったという。

 同校などによると、昨年10月16日午後、市内の男子園児2人が少年3人に自宅前から近くのスーパーまで連れて行かれ、置き去りにされた。園児たちにけがなどはなかった。

 3人のうち1人が同小の校章に似た6年の名札を付けていたという園児の記憶から、保護者が17日に同小に通報。6年生3クラスの担任が教室で事情を児童らに説明。その後、学校は保護者の求めに応じて集合写真を写していた2クラス分だけを預けたという。

 市教委の林英典・教育総務部次長は「幼稚園児の保護者の気持ちを考えると一連の対応はやむを得なかった。しかし、疑われた児童は深く傷ついており、写真の提供までするのは不適切だった」と話している。

教育委員会にはもっと別なコメントを出してほしかった、という気持ちもあるが、メディアのいつもの姿勢から考えれば「その意図を汲み、一応謝っておかないとあとで何を言われるか分からないので謝っておく」、そういう気持ちも分かる。謝らなければ叩かれるから謝っておこうという姿勢が、身についてしまっているのだ。

しかしそれにしても
「疑われた児童は深く傷ついており、写真の提供までするのは不適切だった」というのは、それでいいのだろうか?

1997年2月10日、神戸市須磨区で二人の小学6年生の女の子が若い男にハンマーのようなもので殴られる、という事件があった。幸い二人とも命に別状はなかったが、女の子たちの証言で犯人が中学生らしいということが分かり、被害者の両親が近くのT中学校にアルバムを見せることを要求した。しかし学校は生徒のプライバシーを盾にして写真の提供を拒否し、結局その事件は解決が半年以上遅れた。

同じ年の8月以降、メディアはT中の対応を激しく非難した。
あの時被害者の両親に写真さえ見せておけば、その後の酒鬼薔薇事件はなく、二人の尊い命が奪われることはなかったのだと。


それ以後、私は学校というものは近隣の事件・事故についてはできるだけ捜査に協力し、新たな被害者が出ることを抑止するとともに、自校にいるかもしれない「危険な子」をあぶり出し、その子が本物の犯罪者をになることを阻止しなければならないと考えるようになった。自分の生徒を大切にするということには、そういう意味もある。

しかし今回の記事を読んで思うことは
「面倒だからやっぱりやめとこ」
ということである。

繰り返し言うが、
「やってもやらなくても叱られるなら、やらないで叱られる方がよほどマシ」
それが人間というものだ。

ひとつの事件が将来殺人やその他の大事件につながるかどうかなんて誰にも分からない。
起こるか起こらないか分からないような将来の重大犯罪より、子どもを疑って疑われた子が傷つく方がよほど重大だ。
そういう趣旨なんだよね、毎日新聞。







「ああ言えばこう言う辞典」の掲示板で2月9日付け信濃毎日新聞社説の話が出たので一応コメントしておいた方が良いように思うのだが、何度読んでも良く分からない。
とりあえず全文を掲げ、有識博学の諸氏の判断を仰ぎたい。


社説=高校通学区 いま見直す意味を問う

 [信濃毎日新聞 2月9日社説]


 
 田中知事の問題提起で急浮上した長野県立高校の「十二通学区制」見直し構想には、疑問や不安がぬぐえない。何よりなぜ今、高校の通学区を改めなくてはならないのか―。肝心のところがはっきりしないからである。

 いかに子供たちをはぐくむか、教育の在り方は幅広く多角的に問われている。高校も中退の増加や学力低下など多くの心配を抱える。山積する課題に対し、通学区の見直しがはたしてどれほどの意味を持つのか、素直に理解しづらい。

 県教育委員会は、早ければ二年後の入試から通学区制を改められるとの考えを示した。当初の検討に「最低二年はかかる」との姿勢を転じている。直接責任を担うのは県教委だ。地域の実情を踏まえた議論の積み上げを欠いてはならない。


<状況は大きく変わった>

 十二通学区制が始まったのは一九七四(昭和四十九)年度だ。それまでは四通学区制で、隣接通学区にも志願できたため、実質は「全県一区」に近かった。

 四通学区制の下、特定高校への志願集中による受験競争の激化や遠距離通学などの弊害を生じ、改めた経緯がある。

 四半世紀が過ぎ、十二通学区制の開始当時とは、受験生を取り巻く状況がずいぶん違っている。通学区をなくしても、かつてと同じ状態に戻るわけではない。

 高校入試について言えば、まず、九五年度から導入された「パーセント条項」がある。募集定員の一〇%を上限に隣接通学区からの入学を認めるものだ。

 さらに普通科の一部を転換し、理数、英語といった専門学科を設置する試みも進んでいる。この専門学科は職業科と同じく四通学区制をとる。県内唯一の学科には全県から入学できる。

 十二通学区制がなお続いているとはいえ、実際には、さまざまな形で受験生の選択の余地が広がってきた。

 推薦入学が増えるなど、受験のスタイルも変わってきている。大半の私立高校が今では県立高校と入試の日程をずらしているので、併願も選択肢に加わる。

 通学区の論議に絡む大学受験も様変わりした。少子化が進み、大学の側が学生の確保に知恵を絞る時代だ。

<「選択の不自由」もまた>

 通学区をどうするかはこれまでも議論されてきた。今回も現行の仕組みは受験生の「選択の自由を奪っている」との問題意識に基づく。しばしば繰り返される論点の一つであり、それなりの説得力を持つ。

 まず考えたいことは、通学区を拡大したり、廃止することによって現実の進路選択がどうなるのか、である。入試制度や社会の変化などを踏まえると、必ずしも選択の幅が広がるとは限らない。

 通学区による制約が完全になくなったとして、その“恩恵”はだれもが受けられるものではない。学力や通学のための交通の便、家庭の経済力など幾つかの条件が満たされて初めて可能になる。

 特定の高校に多くの志願者が集中した場合、進路変更を迫られる人もまた出てくる。自宅から、より遠い高校へ通うことを余儀なくされる事態もあり得る。通学区の拡大は「選択の自由」だけでなく「選択の不自由」にもつながる。

 地域高校への影響も視野に入れる必要がある。子供が少なくなり、ただでさえ厳しい状況だ。通学区が廃止され、都市部志向が一段と進めば、存続も危ぶまれる。地域高校を維持できなくなった場合、逆に選択肢が減ることになる。

 選択の自由をどう保障するかという問題は、今に始まったことではない。現行の通学区制度にしても、そうした議論を積み重ねたうえに成り立っている。通学区制だけを取り出し、高校教育の在り方を検討するには限界を伴う。

 中学から高校にかけての年ごろは個性を伸ばし、生き方を見定める大事な時期だ。十代半ばの子供たちにどんな教育環境を整えるか。将来像をはっきりさせる必要がある。

 その際の重要な課題の一つは、中学と高校二つの学校制度をどう連携深いものにするかである。現在は入試によって選別することが中心だ。ほとんどが高校へ進む現実を踏まえ、できるだけスムーズな中高関係を目指す施策が欠かせない。

 中高一貫の学校制度が公立でも浮上した背景とも言っていい。私立の場合はとかく受験エリート校になりがちだけれども、十代半ばの教育を三年ずつに区切らず、六年間通して学べるようにするのはあり得る姿の一つだろう。

 あるいは、地域の中学と地域の高校をその地域社会が一体となって支える発想もなくてはなるまい。すべて中高一貫に切り替えられない以上、それに代わる方策が求められる。


<教育こそ「現場主義」で>

 県教委は今後、県民の多様な意見をくみ上げる責任が重い。県内の高校受験の現状はどうなのか、どこにどんな不都合が生じているか。実態を押さえ、丁寧に合意をつくらなくてはならない。

 通学区については、全国的に競争原理を働かせることで教育の場を活性化しようという発想からも見直しが進んでいる。現在は認められていない「全県一区」を可能にするため、文部科学省は今国会に関連法の改正案を出す予定だ。

 すでに東京都教委は都立高校の学区制を二〇〇三年度にも撤廃する方針を固めた。生徒の学校選択の機会を増やすとともに、学校間の競争を促して教育内容の底上げを図る狙いである。

 だからといって長野県にそのまま当てはめられるものでない。地理的な条件や交通機関、公立校に対する期待度など、東京都とは事情が異なる。

 むしろ長野県の教育を展望するとき、重要なのは都市部、農村部それぞれにふさわしい「現場主義」の発想ではないか。地域の幅広い連携と協力を核とし、実情に応じた教育の在り方を探る。大都市圏とは違い、人と人とのつながりがなお健在であればこそ、できることである。

 地域に根差した学校づくり、子供の選択の自由や機会均等、適性や個性に応じた多様な教育内容…。さまざまな要請を踏まえ、バランスの取れた仕組みをどうつくるか。視野の広さが欠かせない。


私に理解できたことは少ない。したがって以下に列挙する。

  • どうやら信濃毎日新聞は四通学区を十二通学区に戻すことには反対らしい。
  • しかし絶大な人気を誇る田中知事の言い出したことには反対しにくいので、県教委をターゲットにするぞと脅しをかけているらしい。
  • 昔と比べると、十二通学区制でも選択肢が増えたからいいじゃないか、と言っているらしい。
  • 大通学区制にすると、ごく一部の優秀な子たたちが恩恵を受ける代わりに、多くの子たちが不本意な遠距離通学をしなければならなくなるということに、最近気づいたらしい。
  • 周辺部の高校がなくなってしまう可能性についても、近頃ようやく知ったらしい。
  • 大学入試も楽になたんだから、学力向上なんて気にしなくてもいいと考えているらしい。
  • 中退問題や学力問題に対する代案として、中高一貫教育の大切さを主張しているらしい。
  • しかしすべての高校に中学校を併設させても中学校の方が圧倒的に数が多いから、完全な中高一貫教育というのはj不可能だということは分かっているらしい。
  • 余った中学校については、「地域社会が一体となって支える」というよく分からない方法によって対応するのがいい、らしい。
  • 文部科学省や国会の言うことには従わない方がいいと考えてるらしい。
  • 東京のまねなどとんでもないと考えてるらしい。
  • 農村部というからにはせめて就労者の80%くらいが農業従事者であると思うが、そういった村が長野県にはまだまだいっぱいあるらしい。
  • 大都市には人と人とのつながりがないと思っているらしい。
どうだろう?



 



2001.02.18

親たちよ! 教師たちよ!  
[文芸春秋 3月号]


文芸春秋というのは面白い雑誌である。
古くは30年ほど昔、『田中角栄研究』という論文を載せて一国の政府を潰してしまったかと思えば、それからいくらもたたないうちに『日本共産党の研究』などという記事を載せて野党にも冷や水を浴びせてしまう。

新しいところでは一昨年、ベストセラー「買ってはいけない」の批判記事を掲載したかと思うと、2ヵ月後には「買ってはいけない」グループからの反論記事を載せ、最後には両者を対談させてそれを記事にするという、なかなかあざといことを平気で行うからである。

いったい自社の立場はどこにあるのか、と疑いたくなるときもあるが、概して、世の風潮に生真面目に冷や水をかけているという点では一貫していると言えなくもないだろう。

教育問題についても、早くから川上亮一たちの「プロ教師の会」に目をつけていたし、「引きこもり」の問題にも、相当早い段階から警鐘を鳴らしていた
・・・その文芸春秋の2001年3月号の特集が「親たちよ! 教師たちよ!」である。


私は新聞広告の項目を見ただけで「調教師の会」の高岡あたりが陰で動いたのではないかと疑ったほど、今回の記事の多くは私たちの主張と重なるところが多い。


たとえば、曽野綾子は次のように記す。

 教育改革国民会議の第一分科会が出した答申の中で、奉仕活動を義務づける、ということに対して、あちこちからいっせいに「義務づける」とは何だ、奉仕は全く「自発的」でなければならない、という議論が、日本人の平和主義と良識の証のようにわき起こったことは、非常に興味あることであった。
 さらに私がその答申案(中略)の文章の起草者であり、さらにこの会議で最初から奉仕活動を提唱した者であったので、矛先が一斉に私に向いたこともその特徴であった。
 私の答えは「私もすべての勉学や人生の選択は、自発的である、という姿勢に基本的に賛成だ。しかし私たちは、教育が自発的に健全に推移するのを五十五年間待った。その結果、教育の崩壊は極限に達した。いつまで自発的教育の結果を待てばいいのか」ということであった。(『「奉仕」義務から自由へ』)

教育が自発的に健全に推移するのを五十五年間待った。いつまで自発的教育の結果を待てばいいのか」 というのはまさに私たちの思いである。

ほとんどまったくと言っていいほど勉強をしない生徒を前に、「子どもたちは今、毎日4時間・5時間という猛烈な家庭学習に苦しんでいる」と聞かされるのはなんとも不思議な光景だった。

好き勝手に教室を飛び回る子どもたちを目の前にしながら、「子どもたちは頭のてっぺんからつま先まで揃えられるような管理主義の中に閉じ込められてる。もっと自由を!」と叫ばれるのは、まったく苦痛だった。



「欧米に比べ日本の教育はダメだ、 日本の親はダメだ」と批判する文化人、知識人、学者、タレントはたくさんいますが
騙されてはいけません。みんなテレビやマスコミで食べてゆくためにいい加減なことを言っている大嘘つき達です

 先進国の中で日本ほど、社会か安定していて、親が親らしく、子供が子供らしく、教師がまあまあ熱心で、犯罪が少なく、幸せそうな人が多い国はありません。(松井和『アメリカの学校教育を見習うな』)



 通常、私も含めた一般人が算数や数学をやって面白いと感じるのは、やはり実際に自分のカで問題が解けたときです。つまり、小学校の算数教育において最も重要なことは、文部科学省の方向とは正反対で、むしろ授業時間を増やしてでもひたすら繰り返し訓練させ、身体で覚え込ませて、自分で答えを導き出せる基礎学力を付けてあげることなのです。高校や大学などとは異なり、少なくとも小学校での成績は、個人の能力には依存しない。小学校での成績は内容上、「いかに定義を暗記して、それが使える練習をしたか」によって決まるのです。つまり
「詰め込み教育」も小学校では必要なのです。それに、もし小学生にその訓練をしてあげないと、中学や高校での数学の初歩的なことでつまずくことになる。そんな状態では余裕を持って”思考力″の訓練をすることができず、どんどん分からなくなり、落ちこぼれていってしまうでしょう。
そうなると本来、数学を学習する意義である「論理的な思考力を育てる」ところまではとても到達できない。つまり、数学の楽しさを味わうことができなくなるばかりか、実社会で生きていく上で強力な武器となる論理的な思考力を身に付けるチャンスさえ失うことになってしまうのです
。(細野真宏『「円周率3」時代の勉強法』)


こんな当たり前のことが大手の総合雑誌に載るのに、いったい私たちは何年待たなければならなかったのか!
いや、時間的な損失はいくらでも補える。補えないのはその間、たいした力もつけてもらえず、未熟なまま社会に押し出されてしまった無数の子どもたちの人生である。

「文芸春秋」(3月号)にも繰り返し「文部(科学)省が悪い」といった書き方がされているが、そうではないだろう。文部(科学)省はいつだって世論の僕だった。そしてその世論の形成者は、言うまでもなくマス・メディアだ。

力のないまま世の中に出されてしまった子どもたちの人生を、社会(その扇動者たるマス・メディア)は、どう保障するというのだ。


曽野綾子は掲載文の最後で次のように語っている。
しかし義務化はいけない、自発的でなければならない、という もっともらしい意見が大勢を占めることに私は少しも苛立ってい ない。私は自分と反対の意見が実行されるのを見るのがそれほど 嫌いではないのである。その方が責任がなくて気楽だし、うまく いけばその恩恵にのっかるという矜持のなさも備えている。しか ももしうまくいかなければ、「私の方が目があった」という幼稚 な楽しみを味わうこともできる。社会がやらなくても、教育だけ は家庭が秘かにそれを補うことはできるからだ。嫌なことはでき ないという子供は恐怖そのものだし、彼らに未来はないと思う が、そういう教育の「良識」なるものが放置した部分さえも、実 は秘かに家庭で補うことはできるのである。

たしかに、社会がやらなくても、教育だけは家庭が秘かにそれを補うことはできる。
だから私も、自分の子どもたちに対しては努めて社会で言われるような教育だけはしまいとしてきた
しかし現職の教員であり、目の前に明日を生きる子どもたちを据えている以上、私は曽野綾子のように子どもたちがむざむざとダメになっていくのを見ていることはできない。

保護者諸君
メディアの言うことを信じてはいけない。
あなたたちの感覚で正しいことは実際に正しい。
子どもの行うことで、どう考えても許せないことは絶対に許してはいけないことなのだ。

メディアとそれに扇動された社会に屈して校内では静かにしているものの、教師たちは児童や生徒に接するようには、自分自身の子どもたちには接していない。
自主性を伸ばすために放ったらかしにしたり、創造性を伸ばすために教えるべきことを教えなかったりといった愚を犯したりはしていない。

あなたたちが自分の頭で考え、子どもに使い時間を使い惜しみしなければよし。
そうでなければ私たち教師と一部の良識ある人々の子どもだけが、未来の日本社会でひとり勝ちしていくことになるのだ。



*注   「文芸春秋」(2001年3月号の目次は以下の通りである。

教育再生 私の提言
親たちよ! 教師たちよ!
建前だけの議論はもう沢山。今こそ自らの体験に基づいた本音の教育論を語る時だ
「奉仕」義務から自由へ 曾野綾子
「ゆとり教育」で日本衰亡 榊原英資
文部科学大臣は考える 町村信孝
「円周率3」時代の勉強法
(予備校講師)細野真宏
小学五年で英検2級がとれる
(秀明学園理事長)川島幸希
わが「限定・単純・反復」学習の秘密
(町立山口小学校教諭)陰山英男
間違いだらけの教科書を捨てよ
(仮説実験授業研究会代表)板倉聖宣
東大生はバカになったか? 立花 隆
&東大立花ゼミ生
慶應幼稚舎はこう変わる (慶應義塾幼稚舎長)
金子郁容
わが子三人「中学受験」体験記 鹿島 茂
中学生「出席停止」私の決断
(町立神辺西中学校長) 藤原幸博
アメリカの学校教育を見習うな
(東洋英和女学院短大元講師)松居 和
少年はなぜムカつくのか 桐野夏生
「孫」教育は老後の楽しみ 佐藤愛子
私立に負けない都立高校を作った
(都立八王子東高校長)殿前康雄
早稲田大学「入試問題」は最悪だ
(河合塾進学教育本部長)丹羽健夫
浪人ゼロ時代なんて怖くない
(東進ハイスクール理事長)永瀬昭幸
「大学倒産」少子化ニッポンの悲劇 森 健
子供を本屋に放り込め 重松 清
親こそ真の教師 石原慎太郎



 



2001.02.22

理科離れを探る(7) 薄い教科書 これでは興味がもてない

[朝日新聞 2月21日夕刊]



韓国の中学用数学教科書(左)と日本の教科書。日本のページ数は韓国の3分の2、新しい教科書になると、差はさらに広がりそうだ

 「比べてみてください」。日本数学会理事長の松本幸夫・東京大教授が、日韓の中学用数学教科書3冊ずつを並べた。合わせて約600ページの日本に対し、韓国は900ページ余り。小学校の6冊でも、日本は厚さ7センチで、韓国は15センチという。

 韓国にも、日本の学習指導要領や教科書検定に当たる制度があり、各社の教科書がそれほど違わないのも同様という。とくに数学の教科書はかつて日本を参考にしたといわれ、全体の流れや項目はよく似ている。が、説明がていねいで、練習問題の量も多い。

 例えば、小学校の足し算。日本はほとんど3けたまでだが、韓国では7、8けたまで。しかも各学年とも、教科書とほぼ同じ厚さの学習帳がつく。「日本のやり方では、数字の感覚が十分身につかない」

 中学の2次関数では、一般形の「y=ax^2+bx+c」の韓国に対し、日本は基本形の「y=ax^2」だけで、2次関数のグラフがx軸と交わる点が2次方程式の解になることが説明できない。「ただ簡単にすればいいというのは間違い。一定の説明がないと、かえってわからなくなる」と松本教授はいう。

 東京大学の松田良一助教授(動物学)が、米国の高校用生物教科書を開いた。1150ページと日本の3倍以上。環境問題や妊娠、喫煙と肺がんなど、生活にかかわる話題も豊富だ。日本の大学中級レベルまでカバーし、学校や生徒の実情に合わせて学ぶ。「内容を削減し尽くした日本の教科書では、楽しさは伝わらない」と話す。

 なぜ薄いのか。日本の教科書は学習指導要領にのっとり、文部科学省の検定をへて作られる。同省教科書課によると、教科書は学校での使用を義務づけられ、指導要領の内容を過不足なく取り上げるよう求めているが、ページ数についての定めはないという。

 松田助教授は、「指導要領に、『……は扱わないこと』など、内容の上限を示す表現が多すぎる」と指摘する。

 長年教科書を執筆し、今回の指導要領改定にもかかわった細矢治夫・お茶の水女子大教授(理論化学)は、「採算を重視する教科書会社の姿勢や、薄い方が現場で採用されやすいという実情もある」とみる。

 同省は最近、「指導要領は最低基準」とする姿勢を明確にした。では、現在検定中の新指導要領に基づく教科書はどうか。

 渡辺正・東京大教授(電気化学)は、小学校の教科書で、昆虫の例に水生昆虫を挙げたら、指導要領に昆虫は「植物を食べ、植物をすみかにしている」とあるから不適切とされ、4種類以上の昆虫を紹介したら、「2または3種類」とあるから不適切、とされた。

 細矢教授も「指導要領は条文と解説からなる。条文にない内容でもこれまでは解説にあれば認められていた。今回は少なくとも小中学校では、条文から一歩でもはみ出た教科書は認めない方針のようだ」と話す。

 舟橋徹・同省教科書企画官は「内容を厳選して基礎を徹底するという新指導要領の趣旨に基づき、検定基準も指導要領への準拠性をさらに高めるよう改定した」と話し、教科書では、指導要領を上限とする方針をより徹底させたことを認める。教師が指導要領以上のことを教える場合は、「教科書以外の教材を工夫してほしい」ともいう。

 渡辺教授は「教科書は授業のよりどころであり、文部科学省の姿勢は言行不一致の典型だ」と批判している。(杉本潔)

※「ax^2」は「(ax)の2乗」の意味です。


教科書は厚い方が覚えやすい、というのは当然である。
必ず100点を取れというなら、100点満点の問題より1000点満点の方が絶対取りやすいのと同じである。
確かに、100問覚えるより1000問覚えようとする方が大変だが、忘れる許容量がゼロである100点満点より、90%忘れてもかまわない1000点問題の方が簡単なのは火を見るよりも明らかだろう。

中学3年終了だけで、中三レベルの学習を完璧にすることはおよそ不可能だ。しかし高校三年間の学習を終えるころには、中三の学習内容がほぼ頭に入るようになる。
高校の勉強なんて何の役にも立たないというが、その役に立たない学習の最大の意味が、「それだけやれば義務教育の内容が定着する」である。

教科書も同様で、量が減れば減るほど内容は単純化され、単純化されればされるほど分らなくなる。

数学の二次関数グラフも、三次関数のグラフと比較されて初めて知識として定着する。
漢字も山ほど勉強して、その8割でも残れば御の字だ。それで生きていける。

F・G・高岡は社会科の教師だが、「教科書に論理がなくなった」といつも嘆いている。
歴史には流れがあり、地理には気象学的な地学的な、あるいは経済学的な論理がある。それが教科書の薄くなることによってどんどん削られ、しまいには単語の羅列みたいなものになってしまった。これでは丸暗記に強い生徒しか救われないという。

アメリカの心理学者ブランスフォードは、「力持ちの男がペンキの刷毛を洗った」「やせた男がハサミを買った」より、「力持ちの男がバーベルを塗るのに使ったペンキの刷毛を洗った」「やせた男がズボンを詰めるためにハサミを買った」のほうが覚えやすいという研究結果を発表している。(西林克彦「間違いだらけの学習論」より)
つまり長い文の方が覚えやすいのだ。

かつての教育は過剰学習を強い、その中の何分の一かが残ればいいという配慮のもとにやってきた。
人間は忘れる動物だし、忘れることを許される世界は気持ちも楽だ。

しかし文部科学省は次期指導要領から、内容を最低基準とし、全員が100点を取れるようにすると言い始めた。
量が減ったからできるはずだというのである。
全員が100点を取ることを強制される学校など地獄だが、文部科学省は本気でやらせるつもりらしい。


ただしこの流れ、文部科学省の主体的なものではない。
学習指導要領の元となる「教育課程審議会」のつくられた当時、「詰め込み教育を許すな」「もっとゆとりを」「子どもにとって多すぎる学習内容」「知識偏重より考える教育」は、疑う余地のない世論だった。そしてその世論に応えて、学習内容は削減され、教科書もリーフレット並みに薄くなった。
つまり、薄い教科書は、メディアの主張にまっすぐに応えたものだったはずだ。
しかし今度は、それが気に入らないらしい。
メディアは社会のダダッ子だ。

さて、最近「総合的な学習」に対する期待の声がメディアからさっぱり聞こえなくなった。
「個性教育」「考える学習」「体験中心主義」の超目玉商品である「総合的な学習」は、メディアがこぞって要求した新時代の教育だ。したがってしばらくはおとなしくしているだろうが、次にターゲットにされるのは間違いなくこれである。



 



2001.02.27

なぜ人を殺してはいけないのか? 出題者を説得するつもりで

[中日新聞コラム2月17日]




 「なぜ人を殺してはいけないのか? 出題者を説得するつもりで述べなさい」。弘前大教育学部の二次試験で出題された小論文のテーマである。教育者を目指す受験生たちは、意表をつかれたにちがいない。

 たぶん出題者の頭には、同じ青森県内で先月開かれた教育研究全国集会の光景があったのだろう。少年事件を考えるシンポジウムで、制服姿の地元高校生が、同じ問いを投げかけた。会場は一瞬静まり返ったという。

 居合わせた本社記者によると、正面から受け止めて答えようとする教師たち「大人」はいなかった。終わるのを待って、記者は高校生に自分の意見を伝えた。「人は人とつながっていて、一人を殺すことは周りに大きな悲しみを招く」「だれにでも生きる権利がある」などと。

 「腑(ふ)に落ちました」と最後に高校生は言ってくれたが、その記者は各地からきた教師たちの戸惑いと無反応が残念でならなかったという。教え子の問いかけに「わたしはこう考える」と諭すことがなぜできないのか。

 予備校講師の吉本康永さんが近著で、自分の子どもが同じ質問をした場合の対応を書いている。まず、殺したい相手の名前を聞く。だれかにいじめられ復讐(ふくしゅう)しようとしている可能性があるからだ。もし名前を挙げたら、どうして殺したいのか誠心誠意耳を傾けてやる。それが親の最大の責務だ。

 具体的な名前を挙げずに、そんなことを聞いたら「その場で即座に子どもを張り飛ばす」。でも学校の先生はこうはいかない。弘前大の受験生たちはどんな論文を書いたのだろうか


生徒が人生の大問題について真正面から問いかけてきたら反射的に身構える。
そうでなくてはいけない。
それが教研集会のような大きな場での問いかけであればなおさらである。

「人は人とつながっていて、一人を殺すことは周りに大きな悲しみを招く」「だれにでも生きる権利がある」
そんな事は誰でも知っている。しかしそれに納得できないからこそ、彼はこの場に来、多くの聴衆の前で勇気を奮って質問したのかもしれないのだ。 (もし彼が単に教員をからかうためにそんな質問を発したとしても、会場には他に多くの高校生がいれば、その子たちのいる中で不誠実な答えはできない)
教師たちが一様に絶句した理由は、よく分かる。


「なぜ人を殺してはいけないのか」「なぜ自殺してはいけないのか」「なぜ私たちは生きていかなければならないか」・・・・・・
そうした質問に誠実であろうとすればするほど、言葉を失う。
ヒョコヒョコとしゃしゃり出て、中途半端な説教で済ませていい問題ではない。



余談になるが、私はかつて生徒の喫煙指導の中で面白い体験をしたことがある。

タバコを吸った中学一年生について、家庭訪問の上、事実と今後の指導予定を説明した。それで両親は納得してくれた(・・・と思っていた)。
ところが翌日の夜、突然当該の生徒の父親から電話がかかって、こんな話をした。

「私も実は育成会の役員という関係もあって、今日、息子と一緒のタバコを吸った連中を集め、よく話し合いました。
 子どもたちはやはり分かってくれますね、腹を割って話せば。
 もう大丈夫ですから先生、妙なペナルティなんて考えず、許してやってくださいよ。私が責任を持ちますから・・・」
明らかに、若い私を指導してやろうという気持ちがうかがえた。息子が悪に手を染めたと言うことで傷ついていたのかもしれない。

私は腹の中で笑ったが口には出さなかった。こんなところで対立してもしょうがない。
「ありがとうございました」と感謝を述べ、課そうとしてたペナルティの解除を約束した。

果たして、三日もしないうちに同じメンバーが別の場所で喫煙した。父親は色を失った。

人間の心というものは深いものだということだ。

さて、「なぜ人を殺してはいけないのか」と問うた高校生、
「腑に落ちました」と言ってさっさと話を切り上げたのはよく賢明であった。
褒めてあげよう。
キミの問いへの答えは、そんなところにはないのだから。