キース・アウト
(キースの逸脱)


2001年3月

by   キース・T・沢木
















2001.03.11


茨城の大子一高教諭 テスト30点未満は「頭を刈り上げろ」

[読売新聞3月10日]


 茨城県大子町の県立大子第一高校(深津澄世校長)で農業科を担当する男性教諭(58)が、三年生の男子生徒数人に「この成績では卒業できない。頭を刈ってこい」と、刈り上げを強要したことが十日わかった。生徒は全員、丸刈りにして今月一日の卒業式に出たが、保護者側は「教師のいじめ行為で、心の傷になった」と反発し、式当日、教諭の処分を求める請願書を校長に手渡した。
 この教諭は畜産を教え、副担任も務めており、昨年四月、日ごろの生活態度や服装、髪形などを注意する度に、学業成績から三点を減点すると伝えた。

 先月七日には、一年を通じたテストの平均点から減点分を引いて三十点以下だった生徒に追試を実施し、それでも三十点に満たなかった生徒に、「頭の横と後ろを刈り上げて高校生らしくしてこい。そうすれば、減点分は考えないで評価する」と言ったという。

 結局、全員が卒業できたものの、卒業式当日、同校PTA副会長らは校長に抗議し、請願書に、同科卒業生の保護者二十二人の署名などを添えて提出した。

 教諭は「全員卒業させたくて言っただけで、実際は成績の減点はない。指導が間違っていたとは思わない」と主張する。これに対し、深津校長は「熱心な指導のあまりのことだろう。ただ、問題がなかったとは思わない」としている。


 

浦和商高卒業式 茶髪2生徒、名前呼ばず ―同級生ら批判、校長謝罪

[読売新聞3月9日]


 浦和市の埼玉県立浦和商業高校(小山久夫校長)で八日、卒業式での証書授与の際、担任の男性教諭(30)が、自分のクラスの生徒二人(男女各一人)の名前を故意に呼ばず、別の生徒に指摘されて、式終了直後に名前を呼んでいたことが分かった。式後、教室で「なぜ名前を呼ばなかったのか」と批判が相次ぎ、その後に父母らが出席して開かれた「卒業を祝う会」で、担任教諭と小山校長が謝罪した。
 同校によると、卒業式は同日午前十時から行われた。二人の名前が呼ばれなかったため、式典が終わり、退場する際、生徒の一人が「二人の名前を呼んでいません」と大声をあげ、教頭に促された担任が名前を読み上げたという。

 担任教諭は、卒業式の前日、髪を茶色に染めていた生徒二人に元に戻すよう指導をしていたが、従わなかったため故意に名前を呼ばなかったことを認めているという。小山校長は「あってはいけないことが起き、非常に残念で、二人の生徒には誠に申し訳ない」と話している。

いまどき生徒に丸刈りを強制したり、卒業式に故意に名前を落としたり・・・実に剛毅な教師がいたものである。

学校というところは平等主義の塊のようなところである。
それは時間的に空間的に完全に果たされなければならない鉄則であると言ってもいい。
いや、子育てを含め、それが教育というものなのだ。

簡単に説明しておこう。
時間的に平等ということは、今日守らせた約束は明日も守らせなくてはいけないということ、今日許したことは明日も許さなくてはならないということである。

今日宿題忘れを許しながら明日許さないとしたら、それは生徒に対する重大な裏切りである。許されたとしたら、それは新たな方針が示されたことであり、その新方針に従ったために翌日罰せられるのは許しがたいことであろう。

空間的に平等というのは、Aに許したことはBにも許さなくてはいけないということであり、Cに守らせたことはDにも課せられなければならないということである。
AはいいがBは許さないといった不平等は、生徒全員が認められるような相当な理由がなければ許されない。

だから教師の一言一言は、そのつど重大な意味を持つ。
何かを語るときは、それを守らせきれるかどうかを必ず考え、言った以上は必ず守らせなければならない。

家庭でだってそうだろう。
毎朝の玄関掃除を次男に命じたら、必ずやらせなければならない。
今朝は忙しいからやらなくても良いという日をつくれば、次男は毎朝ダラダラと朝の仕事を長引かせればいい。親は当然怒鳴るが、怒鳴られることなんて減っちゃらである。そのうち親のほうが根負けして何も言わなくなる違いない。
その上で「皿洗いが仕事の長男だけは担当を続けなさい」と言うこともできまい。そんな不平等を納得する者はいない。

結局、長男も次男も仕事をせず、決めたことはなくし崩しに崩される。
「遅刻してもかまわんから、朝掃除だけはしていけ」と静かに言い、翌朝からは親が反省してもう10分早く次男をたたき起こせば良かっただけのことなのに、問題を難しくしてしまった。

さらにおまけに、このことによって、親は「結局、何を決めてもウチの親は守らせきることができない」ということを決定的に子どもに教えてしまっている

さて、二人の高校教師、ある意味で本当に詰まらん決心をしたものである。
他人のお子様のためにそこまでする必要はあったのだろうか?

そんなことはない。
結果を見てみるがいい。親たちはこういっているのだ。
「ウチの子がどんなに悪くなってもいい。校則違反だって刑法違反だって憲法違反だって、そんなことはどうでもいいじゃない! 大切なことはウチの子どもの『心の傷』よ。どーしてくれんの!

それにしても
昨年四月、日ごろの生活態度や服装、髪形などを注意する度に、学業成績から三点を減点すると伝え
先月七日には、一年を通じたテストの平均点から減点分を引いて三十点以下だった生徒に追試を実施し、それでも三十点に満たなかった生徒に、「頭の横と後ろを刈り上げて高校生らしくしてこい。そうすれば、減点分は考えないで評価する」と言ったという。
のだそうだが、なぜそのときは問題にしなかったのだろう?
結局、親の方も、そんなこと言ったってできっこないと舐めていたのかもしれない。

読売新聞は昨年(2000年)11月3日「『教育改革』読売新聞社提言」という高邁な思想をブチあげた。
その最初の3項目はこうである。
 ◆自由、個性を放縦と混同させるな 
 ◆自然・社会体験でルール、道徳を教えよ 
 ◆責任ある自由を柱に新教育基本法を

最後の項目にはこうある。
 ◆「なんとなく教師に」を排せ 

だが、ここに掲げた記事は、私にはこうとしか読めない。
 ◆子どものやることに口を出すな。
 ◆マジに生徒を教育しようとするな。
 ◆とにかく子どもが嫌がることをやったら記事にして、謝罪させるぞ。


*付記
  1. ところで、この国ではいつから頭の横と後ろを刈り上げて高校生らしくしてくることを「丸刈り」と表現するようになったのだろう?
  2. 実際、この二つの記事に書かれてことはつまらんことである。親たちがこれだけ怒るには別の事情もあったのだろう。しかしそれについては、記事は何も言わない。






2001.03.14

卒業式欠席求める/仲西中

[琉球新報3月14日]



 浦添市の仲西中学校(仲西盛光校長)で18日の卒業式を前に、繰り返し服装指導などが行われた生徒24人の保護者に、学校側が「厳粛な式を乱される恐れがある」として、生徒に卒業式を欠席するよう要請していることが13日までに分かった。この措置に父母らが反発。訴えを受けた沖縄人権協会は、「義務教育の在り方に反し、教育を受ける権利を奪うもの。問題児のレッテルを張り排除することは許されない」として学校側に再考を求めている。

 学校によると、式への欠席を要請したのは男子20人、女子四人で、このうち女子全員と男子生徒三人の保護者が了承したという。卒業証書の授与式は、後日学校で行う。

 同校では服装違反や欠席などが多い生徒を対象に、今年1月29日から3月9日まで、ボランティアの外部講師による「特設授業」を実施。式への欠席を求められた生徒の大半は特設授業クラスだったという。

 同校の仲西校長は「まじめに授業を受けていたのは2、3人だった。このままでは騒動は目に見えている」と、指導後も生徒の態度に改善が見られなかったと強調。だが「法的根拠はなく、あくまでも学校側のお願い」としている。職員会議でも異議はなかったという。

 しかし保護者の一人は「子どもは『最後の卒業式はきちんとしたい』と言っていた。心配ならば私たちが式場周辺のパトロールなど協力する」と訴える。また、「高校を受験するのでやり直す決意をしている。友だちと一緒に卒業したいという子供たちの気持ちを考えてほしい」と話していた。

 また特設授業でボランティア講師を務めた男性は「授業を受けた生徒の一人は『親と先生にはとても迷惑をかけた』と卒業式をきっかけに出直そうと考えている者もいる。学校は茶髪などの外見にとらわれ、内面の変化を見逃しているのではないか」と疑問を投げ掛けている。

 県教委、浦添市教委では「あくまでも学校長の裁量」としながらも、保護者らの訴えを受け、学校側に話し合いで解決するよう指導した。15日には学校と保護者が、生徒の卒業式参加について話し合うことにしている。


教育否定する行為/永吉盛元沖縄人権協会事務局長(弁護士)の話

 中学校生活最後の晴れ舞台である卒業式に、生徒全員がそろって臨めないのは教育を否定する行為で、全員参加のために学校側も毅然(きぜん)とした対応で臨んでもらいたい。


対応に説明つかない照本祥敬・琉大助教授(教育心理学)の話

 卒業式などの学校行事は、重要な教育的意義がある。それを欠席してほしいというのは、学校が「教育をしたくない」と放棄したようなものだ。直前に問題を起こしたり、卒業式を妨害する明確な証拠があれば、出席停止の措置も取れるが、今回はそうした事実は見当たらないようだ。学校の対応は説明がつかない。
私の言いたいことはそう多くない。
外部ボランティアの入ったおよそ一ヶ月の間、いやそもそもこの3年間、当該の生徒たちは何をしていたのか、ということである。

それをいまごろになって、『親と先生にはとても迷惑をかけた』と卒業式をきっかけに出直そうと考えている者もいるというのは汚ねぇじゃないか。
私はそう思う。

何度指導しても茶髪を止めないのは、結局「指導には従わない」という明確な闘争宣言であって、戦いを挑む以上はそのためのリスクやコストは覚悟しておかなければならない。それが社会だ。
それにもかかわらず、再三の勧告にもかかわらずやりたいだけやって、そのためのコストを払う段になってから反省するから支払いは猶予しろというのは、それこそ見下げた根性だ。


その見下げた根性の子どもにふさわしく、親も見下げ果てたものだ。
学校が用意した最後の指導のチャンスを、いとも簡単に蹴ってしまう。
「子どもは『最後の卒業式はきちんとしたい』と言っていた。心配ならば私たちが式場周辺のパトロールなど協力する」と訴える。また、「高校を受験するのでやり直す決意をしている。友だちと一緒に卒業したいという子供たちの気持ちを考えてほしい」

そんな子どものわがままな気持ちを大切にしてきたから、今日の息子がいるのではないか。わが子を身勝手すき放題な人間に育て上げて、そのまま社会に送り出したら、その子がかわいそうだという親心は全くないのか? それとも日本に反動革命でも起こして、その子が王様になれるような国家改革でもしてやれるとでもいうのだろうか?


さらにそして、それを支持する琉球新報にもあきれ果てた。

何をやっても公平に扱われるのなら、まじめに暮らす方がバカだ。

沖縄の少年少女諸君!
沖縄県では何をやってもOKOKだ。
いくらバカやったって、キミたちは公平に扱われる。
いざとなれば琉球新報がついてるぞ!




 





2001.03.15

小6算数「正答率」18年間で11ポイント減 東京理科大教授ら調査
「ゆとり」弊害を証明?


[読売新聞3月15日]

 小学生の算数の学力は、「ゆとり教育」が導入されたここ二十年間で大幅に低下していることが、澤田利夫・東京理科大教授(数学教育)らの調査で、初めて明らかになった。過去三回にわたり同一問題で学力を評価した結果で、教科内容の三割が削減される新学習指導要領の二〇〇二年度実施を前に、「ゆとり」と学力低下をめぐる議論が再燃しそうだ。

 澤田教授らは、文部科学省が学習到達度を調べる目的で一九八二年と九四年に行った全国テストと同一の問題を使い、昨年十二月、小学六年生約千三百人を対象とする算数の学力調査を十一都道府県で実施。三回の正答率を比較した。調査対象は、平均的な学力レベルの小学校に限った。

 その結果、各調査時点で学習済みの十七問の平均正答率が、八二年の69%、九四年の65%から、今回はさらに58%にまで低下していた。応用問題に比べ、分数や小数の計算のような学力の基本となる能力の低下が著しかった。

 同時に行った中学二年生対象の調査でも、基礎的な計算能力の低下は大きく、小学校での学力低下がそのまま中学校に持ち越されていた。

 小学生の学力調査は、これまでにも文部科学省などが行ってきたが、同一問題による継続的な調査はなく、最近の「ゆとり教育」のなかで学力が低下したかどうかについては、データ不足で議論が分かれていた。

 澤田教授は、「小学生の学力がこれほど低下していると知って驚いた。反復練習が不足しているようだ。『日本の子どもたちの学力は下がっていない』と慢心して、教科内容と授業時間を安易に削るのは危険だ」と警告している。 「ゆとり教育」が導入されたここ二十年間は、「厳しい受験体制の中で、子どもたちがゆとりを失い、『勉強』『勉強』と追いまくられている」と報道され続けた二十年間でもある。
文部科学省はそうしたメディアに煽られた世論によって、指導内容を削りに削ってきた。

メディア上で学力低下が問題となり始めて、まだ一年もたてはいない。
私たちは20年以上も前から叫び続けていたのに。








2001.03.20

仲西中事件続報二つ・・・

参加認める可能性も/仲西中卒業式

[琉球新報3月16日]



 浦添市立仲西中学校(仲西盛光校長)の卒業式(18日)に一部の生徒が学校側から参加しないよう要請されている問題で学校側と生徒の父母との話し合いが15日夜、同校内で開かれた。午後5時半すぎから午後11時半まで及んだ話し合いでは、式への参加を認めない学校と参加を強く求める父母の主張は平行線をたどったが、終了後仲西校長は「17日に全職員で対応を再検討し、場合によっては現在と異なる回答をすることもある」と語り、参加を認める可能性もあることを示唆した。

 この日の話し合いは学校側が提案したもので、父母13人が参加。参加した父母によると、父母側は「子どもたちは悪かった部分を認め、反省もしている」「式典を乱したり、妨害するような行為は絶対にしない」と参加を強く求めたという。またこの生徒たちが卒業生から金銭恐喝に遭っているという実態など、問題行動に至った原因を訴え、学校の教育的配慮を求めた。

 これに対し仲西校長は、当初の方針通り「式典を妨害する恐れがある」として欠席を要請したが、父母らの訴えで「新たな判断材料が出た。きょうの話し合いは3年生にかかわる職員だけだったが、17日に全職員で改めて論議したい」と語った。

 学校側では、17日午後に再度話し合いを持つよう提案したが、父母は拒否。学校側は職員の論議で式典参加を認める結論が出た場合は、父母側に積極的に働きかけるという。現時点で父母側は「認められないなら式典には強行参加する」と強い姿勢で臨んでいる。



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27人欠席させ卒業式/仲西中

[琉球新報3月19日]



 生徒27人に卒業式を欠席するよう要請した浦添市立仲西中学校(仲西盛光校長)で18日午前、卒業式が行われた。欠席を求められた生徒のうち、保護者が式への参加を要望していた13人も自主的に欠席、(残り14人は欠席を了承または態度を保留)27人全員が欠席した。しかしそのうちの生徒二人が式典途中に登校、正門前で教諭とPTA関係者に校内への立ち入りを制止され、帰宅した。

 欠席した生徒への卒業証書授与について同校は、今月中に行うとしている。

 この日同校では、欠席した生徒を含む375人の卒業を認定した。校長の式辞などでは、今回の問題に一切触れられなかった。式後仲西校長は「欠席を求めたのは問題行動に対する懲戒処分ではない」とあらためて強調、学校としての判断に「誤りはなかった」と語った。この日は、生徒の登校時から多数のPTA関係者が正門や通用門など数カ所に立ち、学校に入る者をチェック。式開始後の午前10時半ごろ、欠席を求められた生徒二人が正門に現れると、教師やPTA関係者が「来るなと言ったはずだ」などと厳しい口調で制止した。さらに生徒を数人で囲むようにして数十メートル歩きながら帰宅を促した。

 一方、卒業式に欠席した生徒と保護者らは同日夕から浦添市内で「お別れ会」を開いた。保護者によると欠席を求められた生徒のうち18人が参加、生徒たちは「卒業式には参加できなかったが、自分たちのために頑張ってくれてありがとう」と話したという。

この事件、琉球新報が取り上げた時点で学校の負けだと思っていた。
新聞紙上で「わずかなミスで卒業式に出席を拒否されたかわいそうな子どもたち」(ということになっている)は、決して妨害などしないからだ。
そうなると出席拒否は懲罰以外の何の意味もなくなってしまう。
「欠席を求めたのは問題行動に対する懲戒処分ではない」が正当性を失えば、学校は何もできないはずだった。

しかし、
いかに頑迷とはいえ、この期に及んでも出席を拒否する学校。
バカ親はどこの世界にもいると考えても「認められないなら式典には強行参加する」ほどのバカは13人もいまいという事情。
そう考えるとこの問題、紙面からは計り知れない複雑なウラがあるようだ。

教師や
PTA関係者が「来るなと言ったはずだ」などと厳しい口調で制止した

といった部分を見ると、PTAの中心部は学校の行き方に賛同しているようにも見える。
しかしそれとても本当のことは分からない。
したがってこれ以上の発言は控える。


かくして仲西中の卒業式は終わった。
仲西中と仲西校長は「子どもの気持ちの分からない」「子どもの人権を理解しない」悪辣な学校、最低な校長として全国に名を馳せた。
13人の保護者たちも「本格的なバカ親」として、永く浦添市の人々に語り継がれるだろう。


琉球新報が続報を書くことは、もうない。
記者はこの問題から手を引き、二度と「お別れ会」参加者の前には立たない。 彼らには学力低下問題など別の別の懸案が山ほどあって(ないならつくればいい)、いつまでも彼らと関わっているわけには行かないのだ。

記者は自分の記事が大きな見出しとなり、ネット上で大きく取り上げられたことに満足するだろう。
(もしかしたら「キース・アウト」に載せてもらったと小躍りしているかもしれない)

琉球新報の社主や株主は、新聞の売上が少しばかり伸びたことに満足するだろう。


そして13人の子どもたちも同級生たちも、以後「ああ、あの仲西中の・・・」と好奇心に満ちた目にさらされ続けることになる、それだけのことだ。

メデタシ、メデタシ・・・




 




2001.03.21

小分離卒業式,、大人が居場所を作ろう

[沖縄タイムス3月20日]





 浦添市・仲西中学校の卒業式は、人生の節目を刻む晴れの場にしては、どこか重苦しい空気が漂っていた。
 学校側は既定方針通り、二十七人の生徒について、過去の問題行動などを理由に式典参加を認めなかった。別の日にあらためて卒業式を行うという。

 生徒たちは普段、喫煙や恐喝、授業妨害など悪さを重ね、教師も手を焼いていた。

 「口で言っても聞かない。かといって体罰は禁じられていて、たたくこともできない。どう指導すればいいのか」と、現場の教師は語る。

 生徒の中には、分離卒業式が妥当かどうかをめぐって、さまざまな意見がある。「仕方ない」という生徒もいるし、「一緒に卒業させた方がいい」と考える生徒もいる。

 父母会の意見も、それぞれの教育観を反映して割れている。「家庭のしつけが問題」だと親の責任を問う声がある一方で、懲罰的な方法に疑問を投げ掛ける親もいる。

 生徒の問題行動とどのように向き合うか。問題行動を引き起こす生徒とどのように接していくか。学校と父母会と地域がどのように協力し合い、分担し合って、問題に対処していくか。仲西中学校のケースは、大なり小なり、多くの学校が抱える悩みである。

 仲西中学校の学校側の判断に一つだけ、腑(ふ)に落ちないことがある。

 分離卒業式を言い渡された生徒の中には、校長先生に謝罪し、誓約書を準備して「参加させてほしい」とお願いした生徒たちがいる、と聞く。

 でも、その誓約書を学校側は受け取らず、既定方針を崩さなかった。その理由が分かりにくい。なぜだろう。

 式典の最中、二人の生徒が、学校敷地の中に入れてもらえず、周辺を何度も行ったり来たりしていた。胸が締め付けられるような、いわく言いがたい光景だった。

 彼らの「居場所」はどこにあるのだろうか。悪さをした報いだといって、それで済むものだろうか。

 家庭にも学校にも地域社会にも「居場所」を失えば、ますます悪さをするほかないのではないか。

 自分を受け入れ、親身になって話を聞く教師やカウンセラーがいれば、彼らは、その教師に良くしてもらったという記憶を卒業後も持ち続けるに違いない。その記憶が、掛け替えのない「居場所」になるはずだ。

 分離卒業式が今月中に行われるという。生徒たちは、自分の過去の行いに向き合う機会としてこれを受け入れ、教師は、生徒の心に届くような言葉をかけてほしい。


「家庭のしつけが問題」だと親の責任を問う声がある一方で、懲罰的な方法に疑問を投げ掛ける親もいる。・・・
沖縄というところは人格者が多いらしい。
授業妨害されたクラスの保護者も恐喝された生徒の親も、仮に一部とはいえ一緒になって学校の対応に疑問を投げかけるというのだから見上げたものだ。

しかし本土の人間は違う。本土の保護者たちの感じ方はこうだ。
どうでもいいからウチの子が迷惑にならんようにやってくれ!

私が仲西中の教師だったら、職員会の席では分離卒業式に反対しただろうが、親としては子ども側に立ってものを考えることはできない。
学校を追求するとしたら、
なんでもっと早くこういうことをせんかったのか、ということであって、もっと優しくしろとは絶対に思わなかっただろう。



分離卒業式を言い渡された生徒の中には、校長先生に謝罪し、誓約書を準備して「参加させてほしい」とお願いした生徒たちがいる、と聞く。
 でも、その誓約書を学校側は受け取らず、既定方針を崩さなかった。その理由が分かりにくい。なぜだろう。

その通りだ。

オウムの人々の多くも、裁判で泣いて謝罪したと言うのに、裁判官は無情にも死刑を言い渡したりしている。
その他大勢の犯罪者が、懲罰の段階になると心から頭を下げているのに、日本の司法制度はチャラにしてくれない。

酒鬼薔薇聖斗は謝らなかったから仕方ない。しかしコンクリート詰殺人事件の主犯や一家6人殺傷事件の被告は、みんな涙を流して謝罪したではないか。それにもかかわらず、その謝罪を司法は受け取らず、既定方針を崩さない。その理由が分かりにくい。今も彼らが冷たいコンクリートの中にいるのはなぜだろう

彼らにとって、少年法はあまりにも厳しすぎる。
彼らの「居場所」はどこにあるのだろうか。悪さをした報いだといって、それで済むものだろうか
その通りだ。沖縄タイムスよ、この不条理も一緒に考えて行こうではないか。


さて、ここまで書いてきて、私は自分のうかつさに驚く。
家庭にも学校にも地域社会にも「居場所」を失えば、ますます悪さをするほかないのではないか。
 自分を受け入れ、親身になって話を聞く教師やカウンセラーがいれば、彼らは、その教師に良くしてもらったという記憶を卒業後も持ち続けるに違いない。その記憶が、掛け替えのない「居場所」になるはずだ。
・・・・・・・・・・・。

なんだ、そもそも沖縄には「親」というものがいないのだ。自分を受け入れ、親身になって話を聞く のは教師やカウンセラーの仕事であって、親の仕事でも親戚でも、近所のおじちゃんやおばちゃんの仕事でもない。

沖縄で子どもを育てるのは教師とカウンセラーだけだったのだ。
それでは、
分離卒業式が今月中に行われるという。生徒たちは、自分の過去の行いに向き合う機会としてこれを受け入れ、教師は、生徒の心に届くような言葉をかけてほしい。
といわれても仕方ない。

沖縄の教員諸君。キミたちが間違っている。
子どもと教師と、無関心なその他の人々しかいない世界では、キミたちが頑張るしかないんだから。


 



2001.03.26

民間から起用の3校長が記者会見/広島県

[中国新聞3月25日]


 広島県教委は二十四日、教職員異動を発表した。公立小・中・高校に民間から初めて校長を起用。マツダの希望退職募集に応じた三人の赴任先も決まった。小・中学校への校長就任は全国で初めて。

 県庁で記者会見した三人は、それぞれ意気込みを語った。誠之館高の校長に赴任する山代猛博さん(57)=マツダ国内販売本部主席=は「会社で人材育成にかかわってきた経験を、どう学校現場に生かせるか。保護者や地域と交わりながら見出したい」。

 黒瀬中校長になる了安峻さん(54)=同用品開発部マネジャー=は「学校の伝統や風格をつぶさに見ながら、子どもの夢を育てる場をつくっていきたい」と強調した。

 小学校への赴任を希望していた上畑範明さん(50)=同ブランド・マーケティング部長=は呉市の郷原小校長に。「子どもをどう育てていくか。いろんなアイデアを吸い上げながら、大人たちでじっくり話し合いたい」と意欲を見せた。

 江田島高校長に行政職員で初めて起用された山本譲二さん(57)も同席。「地域に根差した学校づくりに力を尽くしたい」と抱負を語った。

 教員免許を持たない企業人や行政職員からの校長起用は昨年、学校教育法施行規則の改正で可能になった。

校長の民間人起用についてメディアがどう考えているか分からない。
この話が出た当初、メディアはおおむね好感を持って迎えたような気もするが、その後これといった論評はなされていないように思う。

私はというと、これがやはり分からない。不安と期待が合い半ばするといったところだろうか。

企業が本来持つ合理主義は、教員社会にある不合理に耐えられない。その意味では、これまで仕事の手を抜いてきた教員にとってはつらい職場となる可能性がある。

地域に根ざした学校といっても、校長が相変わらず地域の名士として必要もない儀式や飲み会に引きずり出される不合理にも我慢し続けられるとは思わない。

さらに、ごくわずかの荒れた生徒のためにみんなが我慢するといった状況にも、彼らは容易に耐えられまい。
簡単に言うと、出席停止といった厳しい処分に対しても、現在の校長のようにためらいを持つことはないだろうということである。

様子を見ていこう。



 




2001.03.31

指導要録 全125人分ハンコで同内容

[
読売新聞
3月31日]


第三者に総合所見初公開されるが…
 大阪市阿倍野区の市立中学校が一九九八年度に作成した三年生百二十五人の指導要録の「総合所見」欄について、市公文書公開審査会は三十日、市教委の非公開決定を覆し、公開請求していた市民団体に全面公開するよう答申した。「特記事項なし」との趣旨のスタンプが一律に押され、全員同一の内容で、「開示しても支障は生じない」と判断したため。指導要録が第三者に一部でも開示されるのは全国で初めて。ただ、一律評価に対し、識者らは「教師の責任を放棄している」と批判、市教委も「好ましくない」として各校長に注意する。
 公開請求は、同市の非営利団体(NPO)「子どものための民間教育委員会」(良井靖昌代表委員)が、生徒の性格や行動、学習態度などを担任教師が評価する「総合所見」の実態を調べるため、九八年七月に申請。市教委は同八月、「学習指導や進路指導などに関する個人情報」として非公開を決定した。

 しかし、同団体の異議申し立てを受け、審査会が調べたところ、百二十五人全員分が「スタンプの押なつによる同一の記載内容」だったと判明。審査会は、人物評価を含む総合所見欄の開示について「教師の主観的判断が入らざるを得ず、本人や保護者の自己評価と異なる場合は信頼関係を損なう」可能性を認めながらも、同中のケースについては「生徒の個別評価を回避しているに等しく、評価の意義を失っている」と指摘、全面公開を認めた。

 下村哲夫・早大教授(教育経営学)の話
 「生徒一人一人に個性があるはずで、全員に特記事項がないというのは考えられない。教師の専門性の放棄で、保護者や子供の信頼を失うのではないか」


指導要録というものは、生徒一人ひとりについてその様子と教師の指導を細かく書いた、2枚3ページからなる書類である。
項目としては、氏名や住所、入学前の略歴や担任氏名。学習の記録、特別活動の記録、行動の記録、その他参考となる事項の記録、そして出欠席の記録の5項目からなる。

担任から担任への引継ぎのためにある書類なので、当然、転校の際には転出先の学校にコピーが送られることになる。
そして、私たちの間では、大阪のコピーはつとに有名であった。

とにかく何も書いてない。
「特記事項なし」のスタンプの連続なのである。

私たちはそれを羨望の眼差しで見たが、他方で、これもひとつの方向なのだと妙に納得する気持ちもあった。
指導要録の開示を考えた場合、それが一番合理的な対処方法であるからだ。

文章というものは書き手が書き終えた瞬間からその手元を離れてしまう。
どんな文であれ、悪意を持って読めばそのように映り、好意を持って読めばそのように見える、それが文章というものである。

私たちの県では異常に熱心に書くが、その大半は大嘘である。良いことしか書かないし、良いことのない場合はあったかのように書く、それが指導要領というものである。
嘘八百のために数十時間を割いて記録を続けることは実に苦痛なのだ。しかしやるしかなかった。

さて、下村哲夫・早大教授は
 「生徒一人一人に個性があるはずで、全員に特記事項がないというのは考えられない
と語った。それはその通りだ。
しかしそれよりずっと以前から、下川教授の言う
教師の専門性の放棄は始まっていた。

専門家としての教員から見た真実は絶対に書けないのだから。

メディアは言う。
書かないことは許さない。しかし生徒の真実を書くことも許さない。それは生徒を傷つけるからだ。
とにかく何でもいいから、いい事ばかりを書くように教師は努力しなければならない。
子どもなんてどうなってもいいのだから。