キース・アウト (キースの逸脱) 2001年5月 |
by キース・T・沢木
2001.05.02
社説=教員採用 「社会人枠」を有効に
教員採用の新たな試みのひとつに「社会人枠」の設定がある。東京都などに続き、長野県教育委員会も来春の採用から導入することにした。教室に多様で個性的な人材を送ることは、ますます大事である。新制度を教育の場の活性化につなげたい。
県教委は小中学校、高校それぞれの採用数のうち、一割程度を充てる考えだ。企業での勤務や子育てなどを五年以上経験しており、必要な教員免許を持つ人が対象である。年齢は四十歳を上限としている。
「社会人枠」は多面的な採用を進める観点から九九年に教育職員養成審議会が提言していた。少子化に伴い教員採用は狭き門が続いている。ともすると、学力試験の成績が優れた“偏差値秀才”ぞろいになりやすい。そんな事情が背景にある。
多様な顔触れを―という考え方は分かる。変化の激しい時代にあって教員も一段と幅広い視野が求められる。これからは子供たちの主体的な学びを支えるのが、大きな目標だ。子供を刺激し、興味や関心を引き出す個性豊かな教員を増やしたい。
社会人を積極的に受け入れ、さまざまな経験や視点を生かしてもらうことで学校教育に新たな活力を吹き込み、磨きをかける期待は大きい。
いじめや不登校など、子供たちにかかわる悩みも依然、多い。教育問題は複雑さ、難しさを増している。画一的な発想や価値観で解決できるものではない。この点でも多面的な採用を進める意味は大きい。
広く教員にふさわしい人材を掘り起こすため社会人の特別枠を設けるのは、確かに一つのやり方だ。
具体的な方法については今後進めるなかで、なお検討を重ねる余地がある。県教委には、先行する自治体の取り組みも参考にしながら、より良い制度を整えていくよう望む。
例えば、試験内容である。今春の採用から設けた東京都は長野県と違い、社会人枠について筆記試験を免除した。個性豊かな人材を確保するうえで、どんなやり方が望ましいか、引き続き吟味を要する。
採用数全体に占める割合はどの程度がいいのか、年齢制限についてさらに引き上げる必要はないか、など採用状況を見ながら、多角的に考えていかなくてはならない。
制度を一層実りあるものにするには、学校の態勢づくりもポイントになる。教員同士が互いに意見を交わし、鍛え合いながら、教育の質を向上させていく。そんな環境があればなお、多彩な人材が生きる。
ともすると、学力試験の成績が優れた“偏差値秀才”ぞろいになりやすい。そんな事情が背景にある。
なるほど、
しかしその学力試験の成績が優れた“偏差値秀才”が各企業のトップに立ち、日本を動かしている現実をキミたちはどう考えているのか?
また、新聞社を初めとするマスコミ各社はその学力試験の成績が優れた“偏差値秀才”によって動かされてはいないか?
私自身は学力試験の成績が優れた“偏差値秀才”ではないが、教員採用試験という狭き門を潜り抜けてきた“偏差値秀才”が、教職という仕事の場でも実によく勉強することを知っている。そして、教員の仕事の中で時間数が飛び抜けて多い「教科を教える」という作業の中で、教師自身が良く勉強するということは限りなく重要な資質なのだ。
いじめや不登校など、子供たちにかかわる悩みも依然、多い。教育問題は複雑さ、難しさを増している。画一的な発想や価値観で解決できるものではない。この点でも多面的な採用を進める意味は大きい。
だが、多面的な発想や価値観を求めるなら、もっと安上がりにできることは他にある。
例えば、マスメディアが適切な発想や価値観を与えるということである。その方が数千人の社会人教師を雇うより遥かに簡単なはずだ。
しかし、今日までメディアの精力的な取材にも関わらず、不登校やいじめを一気に解決してしまうような方策は提示されてこなかった。
キミたちが意図的に「多面的な発想や価値観」を隠し、学校の荒廃を重要なニュース種として確保しているのなら別だが、もしそうでないとしたら、学校問題を解決する妙案など、もともとないと考える方が適切ではないか?
意見を聞きたいところである。
さて、私は社会人が優先的に教員になることに反対しているのではない。
そのことによって、何年も採用試験を受け直し、何が何でも教師になろうと頑張っている講師の人たちの門がさらに狭くなることを憂いているのである。
また、都府県によっては結婚などによって一度退職した教員は新卒と同じ条件で採用試験を受けねばならず、そのためにすばらしい技能を講師としてしか使えずにいる人たちが、ごまんといることを嘆いているのである。
彼らにこそ道を空けるべきである。
会社勤めをしていたから優先的に入れるといった制度は、その後でも十分だ。
2001.05.03<あいさつをABC評価>Cだと留年 福岡の私立高校 [毎日新聞5月2日]
あいさつができないと留年――。福岡工大付属城東高校(福岡市東区、正司園(しょうじぞの)博行校長、生徒1720人)は4月から、生徒のあいさつの態度をABC3段階で評価し、成績通知書に書き込むことにした。最低のCを取った生徒は卒業や進級が認められない。学校側は「あいさつは生活態度の基本。問題行動が目に見えて減った」と言うが、生徒からは「成績にするのはどうか」と疑問視する声も出て、論議を呼んでいる。
高校の説明では、評価の対象は(1)(あいさつのために)立ち止まるか(2)声の大きさ(3)おじぎの角度で、それぞれA「すばらしくできる」、B「まあまあできる」、C「まだまだ」の3段階で評価する。
担任と各教科担当の教諭計10〜12人が毎月、生徒を査定。各教諭がA=5点、B=3点、C=1点をつけ、その平均値が4・0点以上ならばA、3・0点以上をB、3・0未満をCとし、前後期それぞれの成績通知書に記す。好成績者の多いクラスは表彰する。各月の平均値が年間を通して3点未満の生徒は留年とする。1〜3月に試験導入した際にはCの生徒はいなかったという。生徒指導主事の山下浩基教諭は「教科の点がよいだけでは困る。生活態度を評価し、総合的に人をつくるのが狙い。生徒は全員納得してくれたと思う」と話す。
生徒からは「あいさつをきっかけに先生とよく話すようになった」(2年女子)、「あいさつはいいこと」(同)と評価がある一方で、「留年なんて脅しだと思うけど、気になる」(同)、「成績が気になるのであいさつをするようになった」(3年男子)、「いやです」(同)といった声もある。ある学校関係者は「生徒の態度がぎこちない。社会に出てから心配だ」と疑問を投げかける。
正司園校長は「生徒たちはあいさつができているが、さらにきちんとしてもらおうと導入した」と話している。
これについて、文部科学省教育課程課は「そういうことをやっている学校は把握していない。あいさつができないという一点で卒業・進級させないとしたら不適切だと思う」と話している。 【青島顕、山田宏太郎】
秦政春・大阪大大学院人間科学研究所教授(教育社会学)の話
尊敬や信頼感を示すあいさつが強制で形がい化し、要領よく先生の前でぺこぺこする生徒を生み出す恐れがある。それ以上に、点数化や卒業の要件にする根拠があいまいで、制度として行き過ぎだと思う。
メディアにとって「強制」は不倶戴天の敵だ。
強制の臭いのするものはそれがどんなに具体的・効果的なものであっても、とりあえず反対しておかなければならないと考えている。
そこには「人間は自らの意思によって判断し人生を選び取るべきであって、何事にも縛られてはならない」といった強硬な意志がある。
だが、すべてを自分の意思によって判断し、その判断に従って行動している人間など世の中に何人いるのだろう。
マスメディアに勤めるような人々は社会のエリートだからそれができるのかもしれない。
しかし私を含め、普通の人間はそれほど意志強固ではないのだ。
幼児が手洗いや歯磨きの習慣を手に入れるのは、それらの重要性を知って自ら率先してやるようになるからではない。
多くの子どもたちが挨拶の習慣を持つのも、親や教師に教えられた挨拶の重要性を納得したからではない(もしそのように見える場合でも、それは親や教師という権力者が言ったというまさにそのことが強制力となっているに過ぎない)。
それはわずか1歳半で歯磨きの重要性を知り自ら率先して行ったり、衆目の中でオモラシをすることの恥を知って、自らトイレットトレーニングに励んできたキミたちのようなメディアエリートとは違うのだ。
大人である私たちも、秦教授の言うように「尊敬や信頼感を示す」ものとしてあいさつをしているわけではない。
秦教授を始めメディアエリートのキミたちは「尊敬や信頼のできない相手には挨拶しない」という強い意志をもって生きているかもしれないが、私たちは近所のおじさんやおばさんに交歓の意をもって挨拶をしている。その程度のちっぽけな人間なのだ。
キミたちから見るといかにも愚かしいことかもしれないが、それが世間というものだ。
「おはよう」と人が言うとき、それは「私に向かって話しかけてもいいんだよ」「しばらく一緒に話してみないか」という意味であり、お互いの人間関係を築こうという意思の表明に他ならない。
だがそした交歓の喜びは、自然に身に付くものではないしある種の強制によって次第に気づかれるものなのだ。
普通の子は普通の家庭でそのように躾けられくる。意味がわかろうとわかるまいと、しつこく挨拶を要求され、子どもは育ってくるのだ。
しかしそうした躾けが行われずに来た場合あるいは失われてしまった場合、それを学校が行おうとするのは極めて理にかなった親切なことだと思う。
だから生徒も言う。
「あいさつをきっかけに先生とよく話すようになった」(2年女子)
「あいさつはいいこと」
「成績が気になるのであいさつをするようになった」(3年男子)
そしてお互いに心を開きあい正常な人間関係をつくることによって、
「問題行動が目に見えて減った」
としても、そんなことはメディアのとっても大学教授にとってもどうでもいいことに過ぎない。
大切なことは
「留年なんて脅しだと思うけど、気になる」
「いやです」
といった拒否的な子ども気持ちだけである。
ある学校関係者は(それってだれだ?)
「生徒の態度がぎこちない。社会に出てから心配だ」と疑問を投げかける。
そうだが、ぎこちないにしろ挨拶ができる方が、できないよりは「社会に出てから」心配がないように思うがどうだろう?
いずれにしろ今度東京に行ったら毎日新聞社に出かけてみるようにしよう。
そこで見ず知らずの私を尊敬したり信頼したりして挨拶をするような社員がいたら毎日新聞社社員はバカぞろいだ。
しかし毎日新聞が自分の主張に誠実である限り、こちらが「おはようございます」といっても、受付嬢を始め社員たちは一斉に「フン」とそっぽを向いてくれるに違いない。
ステキな会社だ。
2001.05.06
中3生、勉強意欲先細り
藤沢市の意識調査 どう受け止めるか[朝日新聞5月6日]
東京オリンピックの翌年の1965年から2000年までの35年間、暮らしは大きく変動し、さまざまな教育改革も試みられてきた。ところが、この間、中学3年生の「勉強意欲」は一貫して下がり続けてきたことが、藤沢市が続けてきた学習意識調査のまとめで、このほど明らかにされた。この事実をどう受け止めればいいのだろうか。藤沢市の中学生だけの特殊な傾向ではないはずだ。(中沢一議)
■生きる意欲も
調査は5年に1回。原則として藤沢市内の全中学生を対象に行われてきた。文部科学省によれば、長期にわたって勉強意欲を調べたケースは珍しいという。
「もっと勉強をしたい」と勉強に強い意欲をみせた生徒は、35年前は65%いたのが24%にまで減った。逆に「勉強はもうしたくない」と答えた生徒は、35年前のわずか5%から、6倍の29%に達している。
この間の推移をまとめた報告書は「生徒の勉強意欲をこれほどまでに削(そ)いできた原因が、どこにあったのかを突き止める作業を真剣に行う必要がある」と指摘している。
特別研究員として調査にかかわってきた早稲田大学教育学部の元教授で藤沢市在住の富田達彦さん(70)は「勉強意欲というより、生きる意欲そのものが弱まっていることの現れ」と受け止めている。背景の一つに、サラリーマンの親たち自身の変化がある。「35年前のサラリーマンのような希望を持てなくなっている。子どもたち自身も将来への展望が描けなくなっている」と話す。
■教科への関心
報告書に関連して藤沢市内にある幼稚園の先生は「園児でも意欲のない、しらけている子がいる。過保護・過干渉の親のもとで生きる力を弱めている」とも指摘した。
藤沢市立中学のある校長は「携帯電話やパソコンなどの情報メディアや視覚メディアがあふれる中、従来型の勉強への興味や意欲をなくしていくのはむしろ当然ではないか」と話した。
いまの子どもたちの勉強観を探るうえで参考になりそうな調査結果がある。英国数理社の5教科それぞれについて、必要と思うかどうかをたずねた調査だ。くもん子ども研究所が小学4年から高校3年まで約700人を対象に今年1月に実施した。それによると、中学、高校と進むにつれ、英語を除く教科で「必要」と答える生徒が減っていくことが分かった。
■授業への期待
藤沢市の調査によれば、生徒たちは授業そのものへの期待を失ったわけでもない。期待する授業の形を選択式で聞いたところ、1位が「楽しくリラックスした雰囲気」。続いて「自分の興味や関心のあることを学べる」「教科書をきちんとわかりやすく教えてくれる」「生徒の意見を受け入れてくれる」の順で続き、7割以上がこうした授業に期待を寄せている。
昨年の調査で初めて学校と塾の比較を設問に入れた。「親友がいる」「楽しい」「好き」などの項目で学校が塾を圧倒した。「受験に役立つ」「教え方がわかりやすい」では塾が学校を大きく上回った。
○やりたいこと探す時間・場所
東京都渋谷区の社会教育指導員として中高生の居場所づくりに取り組む元中学校長の相川良子さん(64)の話 従来の勉強が役立たないことは子どもたち自身が気づいている。親をみればそれは分かるはずだし、子どもは大人より敏感だ。加えて塾やスポーツクラブなどスケジュールに追われ、いろんなことから逃げ出したいと思っている中学生は多い。大事なことは、自分が本当にやりたいことを探す時間と場所を用意してやることだ。学ぶ意欲や生きる意欲は、そこからしかわいてこない。
現在「もっと勉強したい」生徒が24%しかいないことには驚かないが、35年前に65%もいたことには驚く。
時代は変わったものだ。
しかし時代の変化と言えば、こうした資料がマスコミに載ること自体も大きな変化と言えるだろう。
「いつの時代も子どもは変わらない。学校問題のほとんどは教師や学校というシステムが変わったことに原因がある」
それがつい数年前までのメディアの基本的な考え方だった。
そうした風潮の中で、「子どもが変わった」という教師たちの叫びはまったく無視されてきたのだから。
私はずっと科学的な話をしたいと思っていた。
今、ようやくそうした条件が揃ってきたわけだが、それにしてもメディアの持って行きどころはほとんど変わらない。
「楽しくリラックスした雰囲気」
確かにそれで勉強できれば良いに違いない。しかし教師の努力で毎日の授業の大部分が「楽しくリラックスした」ものになるかどうかは別問題だろう。
元中学校長の相川良子さん(64)の話 従来の勉強が役立たないことは子どもたち自身が気づいている。
しかしそんなことは35年前だって同じことだったと思う。もし役立つ勉強が子どもたちの願いだったとすれば、いわゆる職業科の高校の人気は普通科を上回るはずである。
そして、
塾やスポーツクラブなどスケジュールに追われ、いろんなことから逃げ出したいと思っている中学生は多い。大事なことは、自分が本当にやりたいことを探す時間と場所を用意してやることだ。学ぶ意欲や生きる意欲は、そこからしかわいてこない。
となると、話は結局元に戻ってしまう。
とにかくお子様大事で、子どもが苦労していそうなことはすべて廃し、気楽にしてやれば問題は解決すると、そんなふうにしかものごとが考えられないのだ。
子どもの年間テレビ視聴時間はおよそ730時間(2時間×365日)。これにマンガやテレビゲームの時間が400時間以上加わる。
それに対し、子どもが学校で受ける年間の授業時間はおよそ750時間しかない(45分×5時限×200日)。
塾やスポーツクラブなど、まったく微々たるものだ。
もし子どもに時間を与えなければならないとしたら、まずテレビを消させることだ。
TVゲームを取り上げることも考えなくてはならない。
この二つを行わないで塾やスポーツクラブを廃しても、生み出された時間は結局、テレビとゲームに食いつぶされてしまうことになる。
それでもまだ子ども時間を与えたいというなら、いっそのこと小学校への入学をバラバラにしてしまってはどうか。
自分が本当にやりたことを探す時間と場を確保し、それが見つかったら学校においで。
そうなればきっと、学校問題の大半は片がついてしまうだろう。
2001.05.06
子供たちと「学力低下」という誤算[日経新聞5月6日]
新しい世紀の「こどもの日」である。『梁塵秘抄』が「遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけん」と歌っているように、のびのびと遊ぶ子供たちの歓声は活力ある社会の薫風である。家族や友人と交わる自由な時間は心と体を羽ばたかせる大切な経験だが、高まる「学力低下論争」などで日本の子供たちは大人からの注文や不安の渦中に置かれている。「ゆとり」が看板の教育改革が学ぶ意欲の低下を招き、今度は知的水準の維持へ不安を抱える産業界などから「学習内容を高めてもっと競争を」という声が強い。振幅の大きな改革の振り子が子供たちをもてあそんではいないか。
来春から全国の小中学校で使われる新しい学習指導要領に合わせた教科書の検定結果が発表され、教科内容が3割削減されるこの「軽い教科書」をきっかけに、論争はいわゆる「新しい学力観」に基づいた文部科学省の改革自体を問い直す政治的な文脈を帯びつつある。
「個性重視」の落とし穴
日本の子供たちの学力低下現象にはいくつかの背景がある。一つは受験競争の過熱や偏差値信仰に象徴される戦後教育の弊害への批判から、この20年来「個性」と「ゆとり」を目指して進められてきた改革による学習の質量の軽減である。学力評価の尺度を知識の量から考える力や創造的思考の重視に変えた結果、例えば理数系では従来学んだ計算や公式の学習が除外されて国際比較でも日本の学力の不振と勉強嫌いがこのところ目立つといわれる。
少子化という人口構造がこれに拍車をかける。大学・短大への進学率が5割に近づくなかで、大学は定員確保のために入試科目を減らして入り口をできるだけ広げた。「物理を知らない工学部学生」などが現実となって大学の授業が成り立たない。学力低下論が大学の理数系教員から起こっているのは偶然ではない。
要は政策的要因と構造的要因が複合して招いた現実だが、経年的な学力データの不足と評価の尺度の変化を理由に学力低下を認めてこなかった文部科学省も対応策として「新しい学習指導要領はミニマム(最低基準)であり高度な学習内容は裁量で可能」という説明に転じている。混乱は高等教育の大衆化と偏差値に象徴される画一的な競争に代えて改革を動かした「個性」という原理のあいまいさによる部分が大きい。
1980年代から90年代にかけた日本の教育改革は、戦後教育を支配した機会平等と一律競争原理に代えて受益者の自己責任に基づく選択性と市場原理を教育の場に導入することを目指した。「個性の重視」はその改革を主導する新たな理念として教育の現場を独り歩きした。
募る人材劣化への不安
本来相対的で多義的な概念である「個性」という原理によって「教科内容の精選による基礎基本の徹底」という改革の方向性が「基礎知識の軽減による選択的な学習の重視」に転じた。その結果として習得知識や学習時間の絶対量と学習意欲の衰退が進み、子供たちの知のすそ野の劣化が起きたことは否定できない。
学力低下論は戦後の日本の成功経験を支えたシステムがこの10年ほどの間に著しく衰退するとともに、政治や経済の停滞の長期化によって産業界や社会に広がる自信の揺らぎが人材劣化の不安となって噴出していることにも深くかかわる。「ゆとり」改革が若者全体の学習能力の平準値に照準を合わせて能力の高い層を置き去りにしているという認識から、国際的な競争に耐えうる卓越した人材を求めて社会が改革路線への不信を強める構造が認められる。
戦後の米国では「機会の平等」と「卓越性」という両極の間で、教育改革を巡る言説と政策は揺れ動いてきた。世界最初の人工衛星打ち上げをソ連に先行された「スプートニク・ショック」で能力主義による科学技術教育への重点的投資が進められたが、60年代から70年代にかけては公民権運動の高まりを背景に黒人層を含めた教育の平等性への要求が強まった。80年代にはこうした多様化による若者の学力の低下に危機感を深めたレーガン政権が『危機に立つ国家』で国家の知的な武装の強化を打ち出し、国際競争力強化の観点から高校の学習時間や卒業条件のかさ上げなどで「卓越性」の育成へ向けた転換がはかられた。
国家戦略として求められる教育の水準は時代環境によってその内容を変える。知識の詰め込み競争がキャッチアップ型社会の教育原理であったことは疑いないが、戦後社会の「平等圧力」への反動とバブル期という時代背景を映した「個性」という改革理念は教育の基本単位としての「学力」の設計にいささか楽観的に過ぎたようにみえる。日本が求める新たな「知」の水準へ向けて子供たちの学力基盤の再構築が必要だ。
『梁塵秘抄』から話が始まるとは!
日経新聞はいつも格調が高く、保守的で、しかしだからこそまともなことを語ることも多い。
しかしそれにしても格調が高すぎて分かりにくい文章だ。
日本の子供たちの学力低下現象にはいくつかの背景がある。
一つは受験競争の過熱や偏差値信仰に象徴される戦後教育の弊害への批判から、この20年来「個性」と「ゆとり」を目指して進められてきた改革による学習の質量の軽減である。
その通りだ。
1980年代から90年代にかけた日本の教育改革は、戦後教育を支配した機会平等と一律競争原理に代えて受益者の自己責任に基づく選択性と市場原理を教育の場に導入することを目指した。
これももっともである。
しかし
「個性の重視」はその改革を主導する新たな理念として教育の現場を独り歩きした。
ここがいけない。
「個性重視」は決して教育現場を一人歩きしたのではなく、メディアを扇動者として強力に煽られてきたのだ(ただし文部科学省が重い腰を上げるまでは)。
学力評価の尺度を知識の量から考える力や創造的思考の重視に変えた結果、例えば理数系では従来学んだ計算や公式の学習が除外されて国際比較でも日本の学力の不振と勉強嫌いがこのところ目立つといわれる。
ここもいけない。
従来学んだ計算や公式の学習、それこそが詰め込み教育として忌み嫌われた「旧学力」の本体なのである。もうこれ以上知識の詰め込みは真っ平だ、と言った時点で、「従来学んだ計算や公式の学習」と決別するだけの心積もりがなければならなかった。
しかし、メディアはその部分をひた隠しに隠しながら新学力観を煽り、文部科学省が圧力に屈してそれを取り上げると、今度は「学力はどうなってる」とブチ上げる。
振幅の大きな改革の振り子が子供たちをもてあそんではいないか。
そうだ。それがキミたちのやってきたことなのだ。
メディアは、おそらく自ら煽ったものの内容を深く吟味していなかった。
つい4〜5年前まで、
「これからは教えられた通りのことができるだけじゃダメなんだ。独創的な、個性溢れる人間を育てなければ、日本の将来はない」
彼らはそう言い続けた。しかしこれは典型的な「エリート落ち」の文章であって、文中の「人間」を「エリート」に置き換えて始めて理解される質のものだ。
なぜなら、「教えられた通りのこともできない人間」に対して「それだけじゃダメなんだ」と言うのはあまりにも愚かしいことだからである。
「教えられた通りのことができる人間」つまり、テストで100点を連発できるような人間、児童会や生徒会で指導されたとおりに人を束ねたり企画を行ったりすることのできる人間、スポーツで卓越した力を発揮する人間・・・・・・・彼らこそ「教えられた通りにできるだけじゃダメなんだ」と言ってもらえる権利を持つ。
そこには、中間以下のレベルの者には微塵の配慮もない。
今回日経新聞のこの社説に出会ってうれしかったことは、メディアがはっきりと同じ土俵に立って話そうとしているからである。
・「ゆとり」改革が若者全体の学習能力の平準値に照準を合わせて能力の高い層を置き去りにしているという認識から、国際的な競争に耐えうる卓越した人材を求めて社会が改革路線への不信を強める構造が認められる。
・国家戦略として求められる教育の水準は時代環境によってその内容を変える。
そうだ。学力低下問題とは国民一般の学力が下がることに対する不安ではない。
能力の高い層の学力低下だけが問題なのである。
2001.05.15
母親のキモチ、先生のキモチ 家庭訪問、様変わり[朝日新聞5月14日]
○母親の気持ち
■埼玉県草加市 会社員(35) 中学校で「家庭訪問がない」という説明を聞いて、思わず「ヤッター」と叫んでしまった。3人の子どもが小学生の時は大変だった。兄弟の家庭訪問が同じ日になるように調整してもらい、その日の午後は休みをもらった。10分程度のために、苦労して時間をやりくりしても、雑談になることも多い。掃除して、繕って、こちらも自然体を見せてない。意味がないのでは。
■東京都世田谷区 主婦(36) 「今年から家庭訪問の時は会えなくてもいいです」と、新学期の保護者会で担任から説明を受けた。掃除しなくてもいいや、とホッとした。家庭訪問は母親にはちょっとした大仕事。先生は玄関先で帰るのか、リビングまで上がるのか。それで掃除の範囲を決めていたこともある。 結局、家庭訪問は受けた。内容は「元気です。おもしろい子ですね」程度。だが、学校での子どもの様子はわからないから、それだけでうれしい。学校での個人面談は、相手のテリトリー。構えてしまい、他人に聞かれたくない話はしにくい。
○先生の気持ち
■東京都豊島区の小学校長(59) 昔は、「どうぞ、勉強部屋も見てください」と通されたこともあった。今は玄関先で、短時間で切り上げるように気をつかっている。日程も保護者に希望を募る学校が多い。
■神奈川県の小学校教師(40) 今は母親もわがままだ。訪問日当日に「今日はムリ」「時間を変えろ」と言ってきたり、子どもの習い事の送迎で日程を変えさせたり……。苦労は絶えない。
■横浜市の小学校教師(41) 短時間の訪問で、勉強部屋を見るでもなく、心をうち解けず終わることも多い。収穫があった、と思えるのは半数弱。半面、最近は調査票もプライバシー保護で詳しい記入がなく、親の顔が見えてこない。親を知るいい機会だし、虐待発見のきっかけになることもあると思う。
■千葉県市原市の小学校教師(33) たとえ玄関先でも、家の雰囲気がわかる。どんなに繕っていても、話をしているそばで子どもが暴れても注意しなかったり、テレビがつけっぱなしだったりとか……。親のしつけ方など、子どもの育つ環境を知る重要な手がかりだ。
◇起源は 不就学児の親を説得
日本大学文理学部の佐藤秀夫教授によると、家庭訪問は明治初期に、不就学児を学校に通わせるように親を説得する目的で始まったという。明治の学校の様子をまとめた「小学校事彙(じい)」(明治37年刊行)の中には、広島や三重県の小学校の事例で、家庭訪問の「規定」が紹介されている。このころには、今と同じように、子どもの家庭環境を把握するのが目的となっている。「師範学校付属校のような中核校からじわじわと周辺に広がっていったのでは」と佐藤教授はみている。また、家庭と学校の不干渉が徹底している欧米では、家庭訪問は基本的に「ない」という。
家庭訪問に関する私の考えは「キースのお仕事」(ふざけた命名だが間借りしている身としては仕方ない)に書いた。
書いたのはだいぶ前だったが、それが遅れてアップされた翌日にこうした記事が載るのだから暗合というものは面白いものである。
「母親のキモチ、先生のキモチ」そう題してバランスを取るようなフリをしながら、暗に家庭訪問を厭う母親たちを非難している。
メディアは普通の主婦を敵に回しそうな時は慎重だ。
それはそうだろう。
家庭批判をして得られる教員の購読者数より、失う主婦の購読者数の方がはるかに多いのだから・・・。