キース・アウト
(キースの逸脱)


2001年6月

by   キース・T・沢木














2001.06.08

4人に3人、父は怖くない 相互の印象に親子で差

[毎日新聞6月7日]



 中学2年生の4人に3人が「父親は怖くない」と感じていることが7日、東洋大の中里至正教授の調査で分かった。父親の4割は「自分は怖い方だ」と考えており、親子で差がみられる。中里教授は「怖い顔も父親の役割の一つ。それを捨てて“友達親子”になろうとするのは親の義務放棄ともいえる」と話している。

 調査は、昨夏から今年1月にかけて、東京、静岡、鹿児島、青森の1都3県でアンケート形式で実施。中学2年生1156人とその両親1447人から回答を得た。

 「父親は怖いか」を中学生に問うと、51%が「全く怖くない」と答え、「あまり怖くない」が24%だった。「少し」「非常に」怖いと答えたのは18%だけだった。

 父親に「自分が怖い父親か」どうかを聞くと、「まったく怖くない」は20%で、「非常に怖い」は21%だった。

 また、異性の友達と2人で泊まることについて、中2男子の43%、女子の39%が「たいしたことはない」と回答。ポルノ雑誌やアダルトビデオを見ることについても男子の半数と女子の4割、父親の4人に1人、母親の5人に1人も「たいしたことはない」と答えた。中里教授は「開放的な米国でも、これほどポルノに甘くないのではないか。日本の親は弱腰ではないか」と分析している。 【澤圭一郎】


そもそも「父親が怖いかどうか」などというくだらない調査をなぜ始めたのか。その発端に問題がある。
おそらく怖い父親がいて厳しく指導すれば、子どもの問題のいくつかは解決してしまう、という安直な発想があるのだろう。
親父が怖くなくちゃ、しつけなんかできるはずがないじゃないか
というわけだ。
しかしそうだろうか?


ある日思い出したように子どもの成績を見て、突然怒り出し、気の狂ったように暴れまくる父親は今もいる。記事の中にある「少し」「非常に」怖い18%の父親のうち何割かは確実にそうだ。
しかしそんな父親の多くは、その後継続的に子どもの様子を見るようなことはしない。
「これからは毎日3時間勉強しろ!」とか「オレに恥をかかせるな」と叫んで後は放りっぱなし。
そして一月もたってからまた思い出したように怒り狂う。

大抵はそんなものである。

厳しい父親は、違う。
彼らは、諦めない。

子どもの成績が気になるなら、とにかく毎日でもチェックする。

しつこい。できるまで続ける。

毎日のことだから、自然と口調は穏やかになるが絶対に引いてくれない。

妥協というものがない。


彼らはまた、子どものために大量の「自分の時間」を裂いてくれる人でもある。
子どものためなら大抵のものを犠牲にしてくれる。
そのことが子どもの弱さを支える。
日本に少なくなったのは厳しい父親である。
それにも関わらず毎日新聞は「怖い父親」が必要と考え、「日本の親は弱腰ではないか」という中里教授の言葉を掲載してアメリカ型の「怖い父親」を待望するのだろうか?

アメリカ型の怖い父親が日本に上陸するとき、その左手に携えているのは妻でなく、児童虐待である。

ついでに言っておく。
突き詰めると、世の中に「怖い人間」は3種類しかいない。

  1. 生殺与奪の権を持っている人(だから上司は怖い、社長が怖い)
  2. 怒らせたら何をするか分からない人(だからヤクザは怖い、街にたむろするチンピラも怖い)
  3. 好きな人・尊敬する人(だから恋人が怖い)

就学前の子どもが無条件に親の怒りを恐れる理由は、おそらく1番だ。
親は子を保護し守るほとんど唯一の存在であり、その親の愛を失えば子は未熟なまま社会にさらされる。
もっと簡単に言ってしまえば、夜暗くなって帰る家がないのは怖いことだ、常にそばにいたものがいなくなるのは怖いことだといった、ただそれだけのことである。
したがって心理的に親から離れ、夜遅くなっても泊めてくれる友だちを持つようになると、親などサッパリ怖くはなくなってしまう。それが普通だ。

さて、1が消えたあと、それでも怖い親でいる必要があるとすると2と3しか残っていないが、父親として、あなたはどうするか。




 


2001.06.09

大阪児童殺傷事件

[各紙社説6月8日]



大阪の事件に関する社説が出揃ったが、大方は大同小異である。

論説の柱は三つ。

@ 精神上の障害を疑われる犯人に対する医療機関及び司法判断は正しかったのかという疑い。
A 児童のPTSDに対する配慮をせよという主張。
B 学校は適切な危機管理を行っていたかという疑問。学校開放との関連

@については

精神に障害があったため、措置入院となり、入退院を繰り返していた。小学校侵入前に、精神安定剤十回分を一度に飲んだ、などと供述しているという。病状について医師の判断はどうだったのか。十分に経過を観察していたのか。 (読売)


 今回の事件の容疑者の場合も、極めて短期間の入院で退院させたが、これほどの大事件を起こす予兆はなかったのか。それを医師らが見逃していたとすれば、その責任の所在が明確にされなければならないのではないか。 (毎日新聞)

と表現されるだけで、制度そのもの見直そうという動きはまだない。

神戸事件のときは、それまでの流れに沿って学校を糾弾してきたマスメディアが一斉に世論の批判を受け、あわてて「少年法見直し」に路線を変更した。しかし今回はまだ機が熟していなと見たのか、精神に障害を持つ人を特別に扱うなといった発言は少ない。

わずかに中日新聞が

 加害者家族の人権、医師の守秘義務が尊重されるのは当然である。とはいえ、自分を傷つけたり、他人に危害を及ぼす恐れがある者を周囲が把握し、継続的で注意深い観察によってあらかじめ事件を防ぐ方法を検討していいのではないか。(中日新聞)

と匂わせただけであるが、今後も同様のことが続くようなら、メディアは一斉に「被害者の人権」の旗を並べ精神に障害をもつ人々に対する人権の制約を強く迫ることになるだろう。
(ちなみに、私は厳罰主義を導入せよという意味での少年法の改正にも、精神的な障害を負った人に対する人権の制約という考え方にも、基本的に反対である)


Aについては言うことはあまりない。
ただしPTSDを扱える「専門家」がどの程度いるのかという点については、極めて強い疑問を持っている。カウンセリングは、飲めばすぐ効く風邪薬のようなものではないからである。


Bについてはいろいろ言いたいことがある。
特に中日新聞のように

 学校の保安体制にも、検討課題がある。最近、「開かれた学校」という言葉をよく聞く。これは、学校の教育方針や授業の状況を保護者に明らかにしたり、地域社会との連携を強めようという趣旨であって、学校そのものの安全をないがしろにしていい、という意味ではない

と、あたかも学校が世論とは無関係に、勝手に「開かれた学校」づくりを始め、その結果安全対策をないがしろにしたように言われては黙ってみているわけにはいかない。

もともと学校は「開かれた学校」づくりなんてやりたくはなかったのだ。少なくとも、今までやってこなかったことをやるのは面倒ごとだった。
それを強引にこじ開け学校開放の道筋をつけたのは、まさにマスメディア自身だった。
メディアは学校の取材のしにくさに苛立っていたのだ。

「ああ言えばこう言う辞典」では一年前に既に、学校開放に伴う危険性について言及しておいた(ケース・バイ・キース)。
しかしそれは私たちが優れていたわけではなく、ほとんどの教師の共通の危惧だった。にも関わらず、メディアによって学校開放は謳歌し続けられた。

おそらくメディアもその危険には気づいていた。しかし学校開放のおいしさに比べたら、そうした危機は社会的コストとして諦めることができると考えていたのだろう。まさか犠牲者が8人にものぼるとは予想していなかったのだから。
だから、こんな記事を書く。

自由で権利が保障された社会を作るための社会的コストとしてあきらめるには事件はあまりにも悲惨で重大だ。我々の社会は本当に再発を防ぐ方法を持たないのだろうか。(毎日新聞)

学校は、たった一人の子どもであっても社会的コストとして容認しない。そもそも学校には子どもの犠牲が社会的コストなどと言う発想自体がまったくない。そこがメディアと違うところだ。

毎日新聞は続けて言う。

子供のような弱者は家族、学校、地域など社会全体で守っていく存在なのに、事件は一瞬にしてそんな価値観を吹き飛ばした。

  子どもは守っていかなくてはならないという価値観は吹き飛んだのだろうか?

もう「学校も決して安全ではない」と、全国の学校が当然のこととして無防備でありがちな現状を改めるとしたら、事は本末転倒に陥ってしまうのではないか。

無防備な現状を改めるのが「末」ならば、何が「本」なんだ?

 今回のような学校現場での惨事は99年12月、京都市伏見区の小学校の校庭で小学生が若い男に刃物で刺され死亡した事件が記憶に新しいが、以後も和歌山、栃木、岡山などで学校を舞台にした事件が起きている。
 だからといって、「開かれた学校」が閉ざされてはならない。

「開かれた学校」は子どもの命よりも重い価値だというのか?

文部科学省は緊急対策本部を設置した。しかし、表面的な調査や対策を出すのではなく、事件を防げなかった社会のシステムや病理にまで踏み込んで解明する必要がある。いたいけな児童を殺傷することなど、断じて許さないという社会的コンセンサスを再確認したい。

  ここまで書いておきながら、再確認できるいたいけな児童を殺傷することなど、断じて許さないという社会的コンセンサスとは、いったい何をさすのだろう?



そこまであきれた記事でなくても、この事件に対するメディアの認識はことごとく馬鹿げている。

 事件後、当時の文部省は全国の教育委員会に対して安全管理のための39項目のチェックリストを配布した。しかし、リストを読んでみても、今回のような事件が避けられたかどうか疑問は残る。
監視カメラや金属探知機を置く例を紹介している。フランスの小学校は玄関にカギをかけ、外部からの出入りを閉ざす。  米国の学校をルポした写真家の田中克佳氏の著書「学校で殺される子供たち」は、学校内での銃の乱射事件を防ぐ手だてとして
 極端な例のある欧米とは社会状況が大きく異なる日本でも、学校の安全をめぐる論議が一層高まることは必至だ。地域に「開かれた学校」の理想との兼ね合いの中で、どう両立を図るかを考えたい。(朝日新聞)

朝日は監視カメラや金属探知機の導入を訴えているのか?

 旧文部省は教育委員会に来訪者の確認と安全対策の徹底を指示したが、現場にはどの程度、浸透していたのだろうか。すべての学校、教育委員会でもう一度、安全確保策を点検すべきだ。
 児童が在校中は校内に不審者を侵入させないことだ。警備員の配置と巡回に要する費用の負担は、国や自治体にとってそうむつかしいことではないだろう。
 奪われた幼い命の重みをすべての大人が、わがことと受け止めたい。(読売新聞)

門を開きながら警備員を巡回させても何の意味もないだろう。にもかかわらず読売は警備員の配置を本気で訴えているのだろうか。しかもすべての学校に警備員を配置するのにいったいどれくらいの資金が必要と思うのだろう。

簡単には答えを見いだせない。校外からの出入りに対し、監視を強めればいいといった事柄ではないからだ。学校が閉鎖的になり、地域の目が届かなくなれば、かえって危険が増す恐れもある。犯罪者の侵入を完全に遮れるものでもあるまい。
(中略)
 むしろ、学校をさらに開かれた場とすることで安全を図っていく余地がないだろうか。父母や地域住民の姿が日常的に校内で見られれば、犯罪者は入りにくくなるはずだ。不審者などの情報を学校の内外で共有することも重要なポイントである。 (信濃毎日新聞)

放っておいても「父母や地域住民の姿が日常的に校内で見られれば」という状況は生まれない。いくら学校開放をぶち上げたとしても、そう簡単に人は来てくれない。
およそ200日間、常時数人の大人が校内のあちこちにいてもらうためには組織化が必要になる。しかしそうなるともうそれは自警団であって、保護者や地域の人々に多大な負担を課することになるだろう。
二ヶ月に一遍の、朝だけの交通巡視にさえ不満をもらす保護者たちに、そんなことを押し付けられるはずがない。
そもそも信濃毎日新聞の記者たちは、自分の子の学校のために毎月一回ずつ休みを取って、8時間勤務の学校巡視に参加してくれるのだろうか?

そんなことは無理だからと考えた社説氏もいる。
産経新聞は

 本来、学校というのは教育上からも開かれたものであり、地域のコミュニティーの核である。不審者の侵入を一〇〇%阻止することは不可能だ。だが、事件の多発に対抗するためには、学校管理者は地域住民、地元の警察と密接に連携し、安全にいっそうの注意を払うことが求められる。地域住民は、学校の安全に無関心であってはならない。一人一人が安全について、気概を持つことを心がけて欲しい。(産経新聞)

と、「気概」で問題を解決しようという暴挙に出た。

日経新聞は

 京都の事件を教訓に文部省は学校の児童らの安全確保へ向けて「警察などとの不審者情報の交換」「緊急連絡体制の整備」などの点検項目を全国の教育委員会などに指示してきた。悲惨な事件の犠牲になった人々には言葉もないが、来訪者のチェックや危機管理のネットワークなどひときわ高度な安全策を急ぎたい(日経)

と、お茶を濁す。


中日新聞に至っては、自分たちがしてきたことも省みず脅しをかける。

 訪問者の確認はもちろん、学校周辺での不審な人物への注意、防犯カメラの設置、警備会社の活用と、打つべき手はいろいろあるはずだ。
 今は神経過敏といわれるくらいでちょうどいい、物騒な時代だ。学校だけが別世界ではあり得ないと、教職員、保護者、教育行政当局者は覚悟をしてもらいたい。(中日)

覚悟してもらいたいって・・・

 しかし、学校開放だけは手放したくない。
 せっかくのおいしいニュースソースがなくなることには我慢がならないからだ。

 いずれにしても、今度の事件は、難しい課題を提起した。「地域に開かれた学校」を目指す取り組みへの影響である。
 事件の発生が、そうした流れにブレーキになる側面は避けられないかもしれない。
 しかし、この種の事件は、学校の門を閉ざしても、なくなるものではない。それを承知の上で、学校の安全を守る対策を考えなければならない。(沖縄タイムス)


学校管理の面からも事件は難問をつきつけている。閉鎖的な学校空間を家庭や地域に開いて教育の新たな担い手とするという観点から、全国の小中学校などでは父母の自由な授業参観や教育に対する地域社会の参加をすすめている。少子化や生涯学習の時代を背景に、文部科学省も学校を成人を含めた地域の拠点として位置付けて活用策を探ってきた。外部者による凶悪犯罪の続発によって学校がその扉を閉じれば「開かれた学校」は実現できない。 (日経新聞 )








2001.06.18

教育関連3法案・現実を踏まえた対応で

沖縄タイムス 6月17日]



 問題を起こした子どもの出席停止や、「奉仕体験活動」などを盛り込んだ教育改革関連三法案が十四日の衆院本会議で可決され、今国会で成立する見通しとなった。
 昨年十二月の教育改革国民会議の提言を受けて、「教育国会」をもくろんだ森前政権の置き土産である。

 法案の中身はいずれも学校現場と密接にかかわっている。しかし国民会議の論議は、学校現場の実情を十分踏まえたものとは思えない。

 国会の審議も、一部を手直ししたとはいえ依然として課題を積み残したままと言わざるを得ない。

 子どもの出席停止について、本人に弁明の機会を設けるよう求めた付帯決議をした。

 とはいえ、出席停止の子どもの学習をどう講じるのか、具体的な支援態勢が取れるかについて心もとない。「排除」の論理が独り歩きしないか、との懸念も払しょくもできない。

 「奉仕体験活動」の充実では、実施期間や内容について学校の判断にゆだね、義務化は見送られた。また、「ボランティアなど社会奉仕活動」と自発性を持たせた表現に修正された。だが、小中高校へ積極的な導入を提唱しており、奉仕体験を強いることにつながりかねない。

 いま求められているのは、子どもが試行錯誤したり、あるいは安心して失敗できる体験の機会を、増やすことであろう。

 子どもとの関係がうまくつくれないなど、指導力不足の教員の配置転換についても、学校や教育委員会が恣意(しい)的に運用しないように国が指導することを求めている。

 配置換えを公平、公正に認定する第三者機関の設置とともに、指導力不足の教員を切り捨てるのではなく、どう支援していくかという視点も忘れてはなるまい。

 三法案が学校現場に与える影響は大きい。県や市町村教育委員会は、地域や学校の実情をきちんと踏まえ対応すべきだ。


メディアは政府のやることに反対さえしていれば「こと足れり」ということなのか?
潰すばかりで建設的な提案というものがない。


学校現場の実情を見よ!
血税で造った学校をことごとく破壊し、校舎内をバイクで乗り回し、教師に尋常でない暴力を振るう中学生。
同級生を恐喝して金を巻き上げ、授業妨害の限りを尽くし、学校中に恐怖を撒き散らす中学生。
現在でも教育委員会を通して出席停止を申し渡すことはできる。にも関わらず彼らはなぜ大手を振って校内にいるのか。

答えは簡単である。教師がそれをしたがらないのだ。
教師たちは自らの敗北を認めたがらない。いつか生徒が立ち直ってくれるだろうと、愚直とも言える辛抱強さで待ち続けているのだ。
その間、他の生徒の学習権がいかに侵されようとも。

出席停止の生徒の学習権をどうするかなど、寝言にも言ってほしくない。
守られるべき人権とは、自らがまず守ろうとし、自分と同じように他に対しても守ろうとする者の人権だけなのだ。

学習なんて何年にもしたことがなく、する気もまったくない子の学習権が、本当に守るに値するものなのか?
他の生徒の学習権を奪う者の、そんな生徒の学習権をそこまで守らなければならないとしたら、殺人犯が自由権を奪われる事実を糾弾せよ!
「刑務所の中に閉じ込められる哀れな殺人犯の気持ちを考えてみよう」と大見出しで記事にしてみるといいのだ。

奉仕体験活動についてはもう話す気力を失った。
「奉仕活動」がダメなら「社会貢献活動」でも「社会活動」でも何でもいい。
とにかくあの子たちには社会に出て働く経験が必要なのだ。
額に汗すること、人々と交わること、人間の真摯な営みに触れることが今こそ必要なのだ。

体験的な学習を支持しながら、なぜこれに反対するのだ?


最後に、
酒鬼薔薇聖斗も黒磯事件の犯人も、大分一家6人殺傷事件の少年も、みんな人生を誤った。
安心して失敗できる体験という言葉で思い出すのは、まずそのことである。
私は子どもに失敗を犯させたくない。そこにキミたちとの決定的な違いがある。