キース・アウト
(キースの逸脱)


2001年7月


by   キース・T・沢木













  


2001.07.08

大半の人たちは現場の実情に無知である

[福島民報論説 7月5日]


 吹きまくる小泉旋風にあおられてか、このところ教育改革の声が弱い。国立大入試で合否判定ミスが相次いで発覚したり、刃物男が小学校を襲ったりと暗い「負の部分」ばかりが目に付く。
 そのうえ少年の暴力事件、器物破損、喫煙、授業妨害といった反社会的行為を繰り返し、学校を混乱に陥れている。これらを治療する処方せんすらも見いだせないでいるではないか。加えて、やれ学力低下だ、やれ学校の教育力は落ちるばかりだなどの意見が大手を振ってまかり通っているのは傍観者的無責任論と言ってもいいだろう。
 独断専行を承知で言うなら、文部科学省はじめ大学の教育学専攻学者や評論家、それに自戒を込めてマスコミも一般の親も子供たちの気持ち、学校の現状をまったく知らないのではないか。これからの日本を背負う人材はどう育てるべきか、という高邁(こうまい)な意見は次々に出されはする。でも、子供たちがぶち当たっている問題には人ごとのように論評するだけだ。つまり、大半の人たちは現場の実情に無知であると、断言してもいい。


・・・・・・と、ここまでは良し。

 こうした中でユニークな教育法を取り入れている小学校がある。京都市立桂坂小学校である。この小学校の隣は「国際日本文化研究センター」。ここには世界からさまざまな分野の専門家が集まり日本や日本文化を研究している頭脳集団だ。桂坂小に電話したら、吉見薫教頭が次のような話をしてくれた。
 「5年前、当時の校長だった村田喬子先生が『日文研(国際日本文化研究センター)の先生方に自分の学校で授業をしていただきたい』と所長で臨床心理学の第1人者である河合隼雄氏に頼んだ。そうしたら前所長の哲学者梅原猛先生はじめ多くの賛同を得た」
 この試みの模様は『小学生に授業』と題して小学館文庫に収録されていると、吉見教頭が教えてくれた。この中で、河合氏は「日文研の教授連に小学校の授業をさせるとは、校長先生の柔軟な発想に感心してしまった」と述べている。
 授業は6年生と5年生で45分間。10月か11月に年1回だが、現在も「継続中」である。この経験を河合氏はこんなふうに述懐している。
 「1000人以上の聴衆の前でも困らずに講演する者ばかりだが、小学校の授業となると生まれてはじめてだから緊張するのも無理はない。子どもたちの素直な反応が、教える側にいろいろなヒントを与えてくれるのである。小学生の授業ができないようでは、日文研の教授は務まらないなどというジョークが所内で聞かれるようになった」
 第1回目の授業は梅原猛氏が担当した。ドイツの哲学者ニーチェの人生論を出発点にして、「学問の楽しさ」をかみ砕いて教えている。先の吉見教頭は「ことしは子供たちを日文研へ行かせて研究者の仕事ぶりを学ばせたい」と意欲を示していた。
 本県でも、福島、郡山、いわき、会津若松にそれぞれ特色ある大学がある。県内の大学の教授はぜひとも小学校で授業してもらいたい。大学と小学校の交流は必ずや「何かを得るもの」がある。(渡辺 紀士見)


なんとも尻切れトンボな話ではないか。
要するに、日本や日本文化を研究している頭脳集団の実力を高めるために、小学生が年1回ボランティアをやらされているという話だった。

 


2001.07.19

<過激映像番組>21〜22時台、「青少年に配慮を」のテロップ

[毎日新聞7月19日]




「保護者の皆様、この番組は児童、青少年のテレビ視聴に配慮が必要な場面があります。ご注意ください」。10月以降、民放の番組の冒頭に、こんなテロップが登場する。日本民間放送連盟(民放連)は19日の理事会で、児童、青少年対策として午後9時台、10時台の番組のうち、内容によっては各局の判断で保護者向けに注意を喚起するテロップを表示することを決めた。果たしてテロップに効き目はあるか?

 民放連によると、性表現や暴力表現の場面がある映画やサスペンスドラマなどが対象で、各局ごとに保護者に知らせる必要があると判断した場合、番組冒頭で表示する。テロップの文言は各局が判断して決める。10月の番組改編期からの実施を予定している。

 民放連は「あくまでも、これまでも進めてきた自主的対応を充実させるもの。こうした番組を極力編成しないのが原則」としており、テロップが過激映像の“免罪符”になる可能性については「テロップを出せば何でも放送していい、ということにはならないよう申し合わせた」と話している。

 民放ではこれまでにも、サスペンスドラマを週末の日中に再放送した際に、こうしたテロップを冒頭に表示した例がある。 【油井雅和】


テロップが過激映像の“免罪符”になる可能性については「テロップを出せば何でも放送していい、ということにはならないよう申し合わせた」と話している。
・・・・・・何と空しい言い方だろう。

ある作家は「性と暴力が繰り返し小説のテーマになるのは、そこに人生を観るからだ」と言った。
しかしマスメディアが性と暴力を扱うのは「金になるから」という、まことに志の低い動機をおいて他にない。
そしてよほど強い法規制を行わない限り、メディアがこの低い志を捨てることはないのだ。

テレビに比べると新聞はまだいい
一部の週刊誌は新聞よりよく、一部の月刊誌はその週刊誌よりマシである。

しかし基本的に、マスメディアはすでに悪魔に魂を売って久しいのだ。







2001.07.21


教諭の暴言で小6児童が不登校=体育で「ぶっ殺すぞ」−

[時事通信社 7月21日]




 愛知県東郷町の町立小学校で5月下旬、体育の授業中に、男性教諭(44)が自分が受け持つ学級の児童(12)をマット上に倒した上、暴言を吐いたため、児童が不登校になっていることが21日、分かった。教諭と学校は事実を認めて謝罪したが、両親は警察に被害届を出す意向も示しているという。
 同町教育委員会によると、教諭は5月29日に体育館で授業中、この児童が友人から借りた靴を投げて返したのを見て、靴を投げ付けたと思い、「いいかげんにしろ」と注意。さらに、マット上に倒し「ぶっ殺すぞ」と声を上げた。児童の親が翌日に抗議。その後、校長らを交え話し合い、学校側はこの学級に教務主任を配置することなどを提案し、理解を求めてきた。しかし、児童は6月5日から学校を休み、7月にいったん登校するようになったが、20日からの夏休み直前から再び不登校になったという。 
普通、子どもは友だちに会うために学校に来る。
検して勉強するために来ているのではない。
ましてや、担任に会いたくて学校に来るものはほとんどいない。
そのことを前提として、
さて、
そこで、
だ。
マット上に倒した上、暴言を吐かれたので不登校になったと言うこの少年は、いったいどのような友人関係を持っていたのだろうか?

「いいかげんにしろ」「ぶっ殺すぞ」といわれただけで、簡単に捨ててしまうことのできる、その程度の友だち関係だったということなのだろうか?
それとも教師の方が、新聞には書けないような、さらに悪辣なことをしていたのだろうか?

担任が代わってもなお癒されない心の傷とは、どのようなものなのだろうか?
そしてその子は12歳になるその年まで、ついに一度も「いいかげんにしろ」「ぶっ殺すぞ」といった言葉にめぐり合わずに来たのだろうか?