キース・アウト
(キースの逸脱)


2001年8月


by   キース・T・沢木












 
  




2001.08.02


<中高生国際調査>米、仏、韓に比べ、日本の子は将来に悲観的

[毎日新聞8月1日]


 日本の中高生は、欧米や韓国に比べて将来に悲観的で、生活にも満足感が薄いことが、文部科学省所管の財団法人「日本青少年研究所」が31日発表した国際調査結果で分かった。「結婚は必ずしなければならない」と考えている生徒も、日本は2割と最低で、特に女子生徒は9割近くが「結婚しなくてもよい」と答えている。

 調査は昨年7月、東京とソウル、ニューヨーク、パリの4都市で実施。中学2年と高校2年の計約3700人(各国約900〜1000人)が回答した。

 「学校生活」が満足と答えたのは米国74%、フランス59%、韓国41%、日本32%。「社会全般」の満足は米国72%、フランス54%、韓国19%に対し、日本はわずか9%。家庭生活や自分自身への満足度も、日本は最低だった。「21世紀は希望に満ちた社会」と答えたのも米国86%、韓国71%、フランス64%に対し、日本は34%だった。

 「結婚は必ずしなければならない」と考えているのは米国で8割、韓国5割、フランス3割に対し、日本は2割。日本の女子生徒は86%が「結婚しなくてもよい」と考えている。「結婚前の純潔は守るべきだ」と答えたのは韓国と米国が7〜8割を占めたが、日本は4割、フランスは2割。日本の男子生徒は「守るべき」と「そう思わない」がほぼ半数だったが、女子生徒は6割が「そう思わない」と答えた。 【澤圭一郎】

無愛想な記事である。ただし見出しは「将来に悲観的」。
「日本の子は現状に不満足」でも「貞操観念(!)がない」でも「結婚に否定的」でも良いものを、これを選んだところに主張があるとも言えなくはない。
しかし「将来に悲観的」は事実だろうか?

私はそうは思わない。
千石保氏が「『まじめ』の崩壊」(1991:サイマル出版)で示したように、もはやこの国では「まじめ」であることや前向きであることは否定され尽くしている。
現状に満足することや「21世紀は希望に満ちた社会」などという前向きな考え方、「結婚」や「貞操」といった自己抑制的なものに同調することは、まったく流行らないのだ。
そうした国にあって、このようなアンケートを取れば、結果は火を見るより明らかだったと言える。

ニーチェの「神は死んだ」はつとに有名な台詞だが、その後に続く「私たちが殺してしまったのだ」はあまり知られていない。

その言葉に合わせるなら、
『まじめ』は死んだ。私たちが殺してしまったのだ
ということになる。

「真面目であること」「堅実であること」「重々しいこと」や「ストイックであること」は消費に繋がらない。
メディアが「軽いこと」「不真面目であること」「ノリノ良いこと」「享楽的であること」などを評価し広めようとしていた時期、それに敢然と立ち向かわなかった私たちにも罪がある。



ところで、他の人々はこの記事をどう読んだろうか?
私はあわててフレッドを初めスーパーティーチャーズの仲間、飲み友達や妹夫婦、年老いた両親等に片っ端聞いてみたが、驚きはむしろ 「結婚は必ずしなければならない」と考えている中高生が米国で8割「結婚前の純潔は守るべきだ」と答えた中高生が米国が7〜8割を占めたというアメリカの子どもたちの健全さの方にあった。
日本の子どもたちは・・・マア、そんなものだろう、という反応が大半であったといえる。







上と同じ調査を、産経新聞はどのように見たか。



主張 国に夢と誇りもつ教育を

[産経新聞8月1日]


【中高生の意識】
 日本の中学・高校生が外国の中高生に比べて享楽志向が強く、国や社会への貢献意識が希薄であることが、日本青少年研究所(文部科学省所管)の調査で分かった。これまでの教育に何が足りなかったかを反省する材料の一つとしたい。

 調査では、「国のために何か貢献したい」と考える中高生の割合が米国と韓国で七割以上だったのに対し、日本は四割しかなかった。これは、国に誇りをもてるような歴史教育や国旗・国歌の指導が十分に行われてこなかったからではないか。

 歴史教育は、日本に生まれた子供たちが先人の歩みをありのまま学ぶことによって、日本の歴史と伝統文化を愛し、同時に外国の歴史と伝統文化にも理解を示す豊かな心をはぐくむための学習である。しかし、歴史教科書をはじめ、多くの教育現場では歴史の光よりも影の部分が強調され、バランスを欠いていたことは、これまでも繰り返し指摘してきたところである。

 国旗・国歌についても、それが「侵略のシンボルである」などという理屈をつけて一部の教職員グループが反対運動をしている国は、おそらく日本だけだろう。

 近年、そのような教育観はさすがに改められつつある。歴史教科書問題では、近隣諸国からの外圧が加えられるたびに、それに屈しない国民意識も強まっている。国旗・国歌の指導徹底もはかられようとしている。こうした教育正常化の流れに期待したい。

 調査結果では「人生で最も大切な目標は何か」という問いに、「楽しんで生きること」と答えた中高生の割合は日本が六割以上で最も多く、「高い社会的地位や名誉を得ること」は1・8%と最低だった。学校教育で、子供たちの努力を正当に評価しない“悪平等”や「ゆとり」教育が行き過ぎた結果ではないかと思われる。

 明治以来、日本の学校教育はいい意味での競争原理が働いていた。家が貧しくても、努力すれば立身出世がかなうという夢が勉学の動機にもなっていた。今は、そうした教育を塾にまかせているのが現状である。学校は本来、楽しいところではなく、勉強するところではなかったのか。この点では、ひたすらゆとり教育を推し進めてきた文部科学省が最も反省すべきだろう。

 調査では、「国のために何か貢献したい」と考える中高生の割合が米国と韓国で七割以上だったのに対し、日本は四割しかなかった。 これは、国に誇りをもてるような歴史教育や国旗・国歌の指導が十分に行われてこなかったからではないか。

産経新聞だからということもあろうが、それにしてもいきなり「国家・国旗の指導が十分に行われてこなかったからではないか」というのは乱暴ではないか。

その他
学校教育で、子供たちの努力を正当に評価しない“悪平等”や「ゆとり」教育が行き過ぎた結果ではないかと思われる。
ひたすらゆとり教育を推し進めてきた文部科学省が最も反省すべきだろう。
等、産経新聞は学校・文部科学省批判にやたら熱心だ。しかし本質的なことを忘れている。

学校も文部科学省もこの五十数年間、ただの一度も主体的な判断で動いたことはないのだ。
その学校や文部科学省にいくらツバを吐いたところで、人々の歓心は買えても本質的な問題解決にはならない。

学校や文部科学省は常に「世論」という名のマス・メディアと各種圧力団体の力に屈しながら今日の体制をつくってきたのである。
学校や文部科学省を批判する前に、まずこちらを叩かなければならない。


イヴァン・イリイチは「脱学校の社会」の中で次のように言っている。
学校教育の基礎にある一つの重要な幻想は、学習のほとんどは教えられたことの結果であるとすることである。しかしたいていの人々は、知識の大部分を学校の外で身につける。
 その通りだ。

 現代の子どもが学校よりも遥かに大きな影響をメディアから受けているという事実を、産経新聞は受け入れなければならない。
 まずテレビを見よ。次いで雑誌を見よ。そしてそこから子どもたちが何を学んでいるか、沈思黙考せよ。



 


2001.08.05

ゆとり教育で計算力低下?
中2、75年と比較 定着率19ポイント減、「自信」も失う

[朝日新聞8月3日]


 数学の基礎力の定着を狙った「ゆとり教育」が、逆に定着率を低下させている――東京理科大の澤田利夫教授(数学教育)らが中学生千数百人に数学の問題を解いてもらう調査をし、そんな結果が出た。

 ゆとり教育は、中学校では81年実施の学習指導要領から始まり、93年の改定で本格化。来春実施の新要領では内容が約3割減ることから「学力が低下する」との批判が出ている。文部科学省は「基礎を徹底して確実に定着させるので、学力は低下しない」などとしている。

 澤田さんらは昨年末、11都道府県の二十数校から中学2年生を選び、国立教育政策研究所が75年に実施した全国規模の学力調査と同じ問題を解かせた。75年当時も今回も、問題ごとに自信があるかどうかを尋ねており、正答に占める「自信あり」の割合を定着率とした。「たまたま正答する場合もあるので、本当に身についているかどうかをみるには定着率の方がより適している」という。

 17問の平均正答率は60.7%から52.3%に低下。定着率は73.8%から54.8%へと大きく下がっていた。方程式では定着率が20ポイント以上落ちた。小学校レベルの加減乗除計算は正答率はそれほど変わらないものの、定着率では十数ポイント下がっているのがほとんどだ。

 澤田さんは「このまま新指導要領が実施されれば、定着率はますます下がり、さらなる学力低下につながる。宿題やドリルなどで学習時間を増やす対策が必要だ」と話している。

学力低下は間違いないところだ。
それは我々の実感と一致する。
しかし学力低下の実感は昨日今日に始まったものではない。もう30年近くも、私たちはこの問題を危惧してきたのだから。

しかし私たちが生徒の学力低下に深刻な危惧を抱き始めた時代、それは同時にメディアに煽られた「世論」が強力に学習内容の削減、ゆとりの創設、知識に偏らない学習を求め続けた時代でもあった。

今、ようやく文部科学省が重い腰を上げ、ゆとり教育が制度として定着し始めたとき、メディアはいとも簡単に「ゆとり教育」を批判する側に回ってしまった。まさにマッチポンプのワザといえる。


さて、朝日新聞のこの記事だが、
1975年との比較において数学の定着率が下がったからといって、それが「ゆとり教育」と関係していると考えるのはあまりにも無謀だ。

1975年は戦後文化がピークに達した年として、私たち教員の間ではつとに有名である。
高校進学率がほぼいっぱいになって横ばいに移る75年。カラーテレビなどの家電製品が行き渡り、新しい買い物が生活を根本から変えてしまうダイナミズムが失われた75年。高度成長期の終焉が明確に意識されるようになった75年。
その1975年と比較して定着率が下がったからといっても、原因が「ゆとり教育」にあると考えるのはあまりにも短絡的である。

要するに、朝日新聞は政府を批判したいだけなのだ。
それが事実であろうとなかろうと、自分だ言い出したものであろうとなかろうと、とにかく政府を批判さえしておけば販売部数があがり、収益が増える・・・と、それしか考えていないのである。







2001.08.21

不登校増加 支え合う関係づくりを

[朝日新聞8月20日]


 小中学生の不登校に歯止めがかからない。長野県教育委員会のまとめでは、はっきりしたきっかけや理由をつかみづらいケースも目立っている。県内は夏休みが明け、二学期が始まるころだ。あらためて学校や子供たちの現状を見直してみたい。
 二〇〇〇年度の不登校の小中学生は全国で十三万四千人余に上った。少子化が進むなかで、前年度を約四千人上回っている。中学生はほぼ一学級に一人の割合だ。県内は百四十四人増え、二千五百十二人だった。全国、県内とも過去最多である。
 不登校に対する意識が変わり、学校を絶対視しなくなった事情があるとしても、深刻な状況だ。フリースクールなど多様な道を整えるとともに不登校の増加を食い止める努力がなお求められる。問題を掘り下げ、粘り強く取り組まねばならない。
 一つの要素として、ここでは子供同士のつながりに目を向けたい。大人の力だけで対応しようとしても限界がある。悩みや迷いを抱えた際、何より心強い支えとなるのは友達の存在だ。仲間との信頼感や温かい励ましは困難を乗り切る力になる。
 現状は心もとない。最近の子供や若者をめぐっては人間関係の希薄さやコミュニケーション能力の乏しさがしばしば指摘される。時には友達関係がかえってストレスを生じるもとにもなる。こうした傾向は不登校の広がりと無縁ではあるまい。
 核家族化や少子化などで子供たちが体験を通して人との関係づくりを学ぶ機会は減った。通信手段の発達はコミュニケーションの幅を広げる半面、直接的な付き合いをさらに希薄にする心配も伴う。適切な後押しの必要性を一段と感じる。
 既にさまざまな取り組みが全国的に始まっている。例えば「ピア(仲間)・サポート・プログラム」と呼ばれる活動も一つである。ゲームや特定の場面を想定して役割を演じるロールプレーイングを通し、対人関係を築く力などを高める試みだ。
 二学期は年度の中間であり、期間も長い。腰を据えて打ち込みやすいときだ。子供同士の支え合う関係づくりへ、どんなことができるか、あれこれ試みる好機でもある。それぞれ可能性を探ってほしい。
 運動会や文化祭など、さまざまな行事も繰り広げられる。互いに触れ合い、きずなを太くする機会に生かさない手はない。力を合わせ、何かをやり遂げれば、連帯感や仲間意識も高まる。貴重な体験の場を上手にサポートすることも期待したい。


すべての不登校児がそうだというつもりはない。
しかし多くの不登校の子たちと触れ合って驚くことは、その人間関係づくりのあまりの拙さだ。

ある子はいきなり相手の懐の一番奥まで突っ込んでしまう。昨日ちょっと優しくして上げただけなのに、もう十年来の親友のような親しげで乱暴な言葉づかいで擦り寄って来る。「オイ、オイ、そこまで親しくするつもりはねェんだよ」とさりげなくサインを送ると、心理的には30mくらいふっ飛んで引いてしまう。

別の子は「中学なんて結局スポーツができなきゃ人間じゃないんだ。勉強なんかできたってバカにされるだけ。運動さえできれば他が何もできなくてもみんなに大切にされ英雄扱い、それが中学でしょ」と真顔でしゃべる。
それは確かに一面の真理ではある。しかしすべてではない。

また別のある子は、「○○する人〜!」と声がかかっても、そうあるべきタイミングで「は〜い」と声を挙げられない。それは他の子からすればまったく簡単なことなのだ。しかしなぜかできない。

そうした人間関係づくりのまずさ、人間関係の希薄さやコミュニケーション能力の乏しさに注目する見方は20年前にもあった。特に現場教師の間では、まずそれを前提として考えようという機運があった。
しかし社会には、そうした実感を受け入れる雰囲気は全くなかった。

不登校の原因を個人の資質に求める考え方は徹底的に蔑まれた。
それは管理教育と過激な受験競争の犠牲であり、学校がそうした態度を取り続ける限り、不登校はなくならないことが繰り返し強調された。

「不登校の分類」といった、ある程度科学的な考え方も「不登校を個人の責任に押し付けるもの」だとして厳しく指弾された。
そして、世論に屈した当時の文部省は「不登校は誰にでも起きうるもの」という、きわめて非科学的な見解を発表せざるを得なくなったのだ。

これは恐ろしい決定である。なぜなら、文部省自らが「不登校は個人の資質や生活環境とは無関係であり、したがって今後、個人を対象とした研究してはいけない」と宣言したからである。

事実、その後多少とも科学的な調査を行おうとする研究は片端潰された。
「文部省も『不登校は誰にでも起こる』といっているのに、なぜあなた(研究者)は個人の特殊性に触れようとするのか」
「その子が特殊な子だから不登校になったという考え方は、文部省の見解に違反するではないか。そこをどう考えるのか」
・・・結局ここが問題なのだ。

少なくともそれから10年間、「不登校の研究」は実質的に凍結された。
その代わり原因とされた「管理主義教育」は大いに後退し、大量の校則が廃棄された。
髪を真っ赤に染めて厚化粧し、ピアスつけて学校に通うなど、10年前ですら予測できなかった。
しかしそれですら認められるつある。
小学校でも管理の全くできない状況が生まれ、学級崩壊という言葉まで使われるようになった。


激しい受験体制についても、「ゆとり教育」が繰り返し叫ばれて学習内容が削られるとともに、入試にもさまざまな工夫がなされ、参考書と角を突合せずとも高校や大学に入れるようになってきた。そして何よりも少子化が、厳しい受験体制を緩和してしまった。

管理教育も厳しい受験体制もずっと後退した。子どもを鍛え・育てるための多くのシステムや方法を教師は泣く泣く放棄した。
そして、今
最近の子供や若者をめぐっては人間関係の希薄さやコミュニケーション能力の乏しさがしばしば指摘される。時には友達関係がかえってストレスを生じるもとにもなる。こうした傾向は不登校の広がりと無縁ではあるまい。
・・・・・・信濃毎日新聞は何をとぼけたことを言っているのか。

既にさまざまな取り組みが全国的に始まっている。
・・・それはないだろう。
不登校を人間関係不全の問題として取り組む方向は、キミたちのために10年以上も遅れてしまった。
そして多くの子どもたちが、ほとんど何の援助も得られないまま、学校を後にしてしまったのだ。



 




2001.08.24
中学生の不登校、全国ワースト1から22位に
 昨年度、189人減の590人 /鳥取

[朝日新聞8月23日]



 99年度まで2年連続で全国一だった県内中学生の不登校出現率が、昨年度2・65%に低下し、全国順位も22位に落ちたことが、県統計課が発表した学校基本調査の速報値で判明した。

 調査によると、昨年度1年間で30日以上欠席した生徒は961人で前年度比111人減。内訳は病気が268人(同35人増)、不登校が590人(同189人減)、その他103人(同43人増)だった。
 ただ、長期欠席の分類の基準があいまいなため、不登校の数字は上下しやすいという。また、県内の長期欠席生徒の出現率は4・32%で全国3位となっている。不登校の出現率は99年度に過去最高の3・37%に達し、県教委は昨年度から有識者らによる不登校対策委員会などで不登校出現率の低下を図っていた。

この記事から「有識者を中心にして不登校出現率の低下を図り、教師が努力すれば不登校は減少する」という結論に至らないで欲しい。

記事中の「長期欠席の分類の基準があいまいなため、不登校の数字は上下しやすいという」が実はミソで、単位数字のトリックで出現数を下げることだってできるのだ。

その代表は「保健室登校」である。
不登校の現実に触れた人なら誰でも知っているが、保健室登校までならさほど難しくないのだ
(家庭から保健室までの距離は、保健室から教室までの距離に比べたら十分の一もないだろう)。
したがって、完全不登校の子には保健室登校を働きかけ、不登校になりかかった子は保健室で留め、いずれにしろ学校の片隅にでも繋留させる形で引き止めておけば、「不登校の出現率」は下がるのである。

不登校全国一は○○県、県内でトップは△△市、あるいは市内における不登校第一位は××中学・・・、そういった話は毎年のように聞かされ、にもかかわらず2〜3年後にはあっさりと汚名返上がなされてしまうのには、そうしたヒミツがあるのだ。


保健室登校も不可能な場合はフリースクールを薦めて、そこでの出席数を学校の出席にカウントしても不登校率は下がる。
そして汚名返上ということで、教師の中に指導の禁じ手である「登校刺激」を与える不届き者が出てくることも不登校率低下に役立っているはずである。

わずか1年で不登校生徒24%減少という魔法はここから生まれる。
しかしそれは本質的な解決ではないのだ。




 



2001.08.28

校内暴力の増加  何にいらだっているか

[沖縄タイムス8月28日]





 児童・生徒の暴力行為、とりわけ校内暴力が増えていることが、文部科学省の問題行動に関する調査(速報値)で分かった。
 最近の子どもたちは我慢が苦手で、いわゆるキレる傾向が広がっていると指摘されてきた。ささいなことにもかっとなり、他人に暴力を振るってしまうというのである。

 なぜなのか。その背景に何があるのか。子どもたちは何にいらだち、何を訴えているのか。そのようなことを解明する努力がなければ、有効な対処策を講じることも難しいだろう。

 同調査によると、公立の小中高校生が二〇〇〇年度に学校の内外で起こした暴力行為は、前年度より10・4%多い約四万四百件だった。
 そのうち校内暴力は、約三万四千六百件と11・4%増え、校外の約五千八百件(4・6%増)を件数、増加率とも大きく上回っている。
 いずれも、過去最多である。いじめはやや減少したが、不登校の児童・生徒数もこれまでで最も多くなった。

 一概には言えないだろうが、学校がストレスを蓄積する場になっているのなら、深刻である。
 虐待の多発が社会問題化するなど、家庭機能が喪失しつつある中、学校生活がイライラを募らせる原因になっているとすれば、子どもたちの負担はあまりにも大きい。

 暴力への傾斜は一段と強まっている。教員に対する暴力、生徒間の暴力、器物損壊はどれも二けたの増加率である。
 注目されるのは、教員への暴力が際立って増えていることだ。

 文科省は「社会性や耐性のない子が教員に手を出すケースが目立つ」とし、「先生にしかられても我慢できない子が増えた」と分析している。

 問題は、どうして教員への暴力が増えたかだ。その解明が急務だろう。中学では、子どもたちの関心や意欲、態度などを評価する「観点別評価」が採用されている。
 子どもたちが、教員に内面まで管理されていると感じ、いったんマイナス評価を受けた子は学校に生きにくさを感じているかもしれない。その不満を教員への暴力で訴えているのであれば、制度の見直しが必要だろう。

 いらだちや、不満をできるだけ早く受け取ることも重要である。現に、スクールカウンセラーを配置した小中学校では、暴力行為の増加を抑える効果を挙げているという。

 家庭や学校が子どもたちと向き合い、抱えている問題をきちんと受け止める努力が求められている。


 そもそも文章が堂々巡りのムチャクチャである。
 しかし繰り返し読むうちに分かって来るのは、要するに、
 学校がストレスを蓄積する場になっているのなら、深刻である。
という仮説があり、学校生活がイライラを募らせる原因になっているとすれば、子どもたちの負担はあまりにも大きい。という仮説を重ね、さらに 子どもたちが、教員に内面まで管理されていると感じ、いったんマイナス評価を受けた子は学校に生きにくさを感じているかもしれない。
と仮説を重ね、その不満を教員への暴力で訴えているのであれば、制度の見直しが必要だろう。と結論を得ているだけのことなのだ。

まず学校が悪い、教師が考え直さなければならない、という前提でものを考えるからこういうことになる。その視点から見ると、 なぜなのか。その背景に何があるのか。と百万編問いかけても答えは見つからないだろう。
 文科省は「社会性や耐性のない子が教員に手を出すケースが目立つ」とし、「先生にしかられても我慢できない子が増えた」と分析している。
と書きながら、自ら書いたことの意味が見えないのだから。

ストレスというのはストレス要因(ストレッサー)とストレス耐性の関数である。
校内暴力が増えた原因を探ろうとすれば、まずストレスの要因が増えたか、それとも些細なストレス要因にも耐えられない子どもが増えたのか、そこから話を始めなければならない。

既に文部省(文部科学省?)は答えを与えている。
それを無視してストレス要因が増えたのだと主張するなら、メディアは何がどう増えたかを明らかにする必要があるだろう。

つい2・3年前まで華やかだった「厳しい受験体制・学習過剰論」は既に消えた。
学級崩壊が話題となり「新しい荒れ」が問題となる昨今、それでもなお子どもを管理するなと主張するなら、さらに徹底した分析をしなければならない。

それは「管理過剰説」を主張する沖縄タイムスの仕事である。