キース・アウト (キースの逸脱) 2001年10月 |
by キース・T・沢木
サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。 政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。 落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。 ニュースは商品である。 どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。 ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。 かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。 甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの、本物そっくりのまがい物のダイヤ。 人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄 。 そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。 |
2001.10.03
学校の常識は非常識?
[山梨中央日報10月2日]
授業中の子どもたちがやかましいからといって「学級崩壊の兆しあり」なんて親が言うのはとんでもない誤解。授業参観での親同士のおしゃべりだって相当にうるさい。昔の授業が静かだったのは単に先生が怖かったからで、子どもたちが騒ぐのは「また(その話)か」という条件反射の場合が多い
▼テストを時間内に仕上げることに意味があるのだろうか。「よく考えなさい」と言っておきながら「早くやりなさい」という矛盾は学校の至る所にある。学習は全般的に「早さ」を要求し、急がせる必要のないことまで急がせる。回り道をするほど学ぶことは多いのに
▼こんな具合に「学校の常識」を疑ってみよう、と訴えているのが名古屋市の小学校教員岡崎勝さんだ。岡崎さんの学校現場でのキーワードは「面白がる」。面白がって時間を共有することが、うるさい子どもと付き合う第一原則であると、近刊の「楽しくやろう!子育て改革」(KTC中央出版)に書いている
▼「つらくても我慢してやる」ことがしつけとして押しつけられ「楽しい」ことが価値の中心に置かれていない。岡崎さんは、子どもたちが渇望する「楽しい授業」への転換のために常識を疑ってみようと、発想の転換を勧めるのだ
▼教室はうるさいくらいでちょうどいい、テストの点数だけが成績ではない、友達がたくさん必要だというのは親の独り善がりの考えに過ぎない−こんな調子で先生や親たちの常識と建前をひっくり返してみせる▼人生はテストにできないことを試されることの方が多い。「いい子」とは常に「いい子」を否定しながら育つ子どもである−岡崎さんの意義深い言葉。
こんな話がまかり通るようでは世も末だ。
テストを時間内に仕上げることに意味があるのだろうか。
この言葉を深くうなづきながら読む新聞読者が何人いるのだろう?
テストはもちろん時間内に仕上げなくてはいけない。
それは会社の仕事を時間内に間に合わせなければならないのと同じく重要なことだ。
約束の場所へ時間内に行くことは重要である。
契約通りに支払いを入れて不渡りを出さないことには意味がある。
すべて時間内に何かを行うことには意味があるのだ。
教師はそれを常識とする。
「よく考えなさい」と「早くやりなさい」は矛盾しない。
「よく考えなさい」は「深く考えなさい」の意であり、「時間をたっぷり使いなさい」の意で使う教師などひとりもいない(学校はそんなに暇ではないのだ)。
そもそも「よく考えなさい」は50分のテストを30分で切り上げてしまう生徒に対して使うもので、80分も100分も考えなさいという意味ではない。
学校にとってそれが常識である。
教室はうるさいくらいでちょうどいい
なるほど。学級崩壊も「新たな荒れ」もまったく問題ないわけだ。
しかし学校はそんなふうには考えていない。
学校には「真面目がよい」とする癒しがたい常識がある。
「平等は自由に優先する」という考え方も根強い。
教師にとって生徒はいつまでも教育すべき何者かであり、
いつの時代にあっても常に未熟なものとされる。
教師たちは思う。「多くの子どもたちは『勉強はできないよりできた方がいい』と思っているだろう」と。
人間は意味もなく差別されたりいじめられたりしてはいけない。それも学校の常識である。
私たちは教師であって、したがって普通の企業人以上の倫理が要求されている、私たちはそれらを当然のことだと思ってきた。
私たちの常識は、挙げて行けばキリがない。
そうした教師の常識が非常識だったとすると、いったいどうなるだろう。
しかし、さ・て・と・・・・・、
先生や親たちの常識と建前をひっくり返し に、学校に行こうか!
2001.10.15
「総合学習」
学校の力量が試される
[沖縄タイムス10月14日]
公立の小、中学校では、来年四月から新学習指導要領が導入され「総合的な学習の時間」が本格実施となる。
生きる力を育てる「総合学習」は、これまでの知識習得を主とした詰め込み的学習を百八十度転回させるもので、新指導要領の目玉と言えよう。
生きる力を、中央教育審議会は「自ら学び、考え、主体的に判断する能力」と位置付ける。総合学習は、体験的学習によって、子ども一人ひとりに自らの頭で考える力を身に付けさせる狙いを持つ。
しかし、来年度からは完全学校週五日制もスタートする。授業時間は大幅カットとなり、教科の学習内容も約三割減らされる。
理科離れや算数の計算力不足を示すデータなど、子どもの学力低下が指摘されて久しい。授業時間と教科学習の中身の減少は、さらに学力の低下に拍車を掛けるのではないかと懸念する声が、父母の間に根強い。
文部科学省は、生きる力の育成はこれからの国際的な教育の方向性と一致する、と説明する。
一方で、基礎・基本の徹底にとどまらず、「できる子」には発展的な内容の特別指導を行う方針も決めている。全国でモデル校を指定し、教員を増やして補助教材や指導法の研究を行う計画のようだ。
軸足が微妙に揺れているが、文部科学省にはまず、総合学習の推進を足固めする取り組みが求められているのではないか。
ちなみに総合学習は、小学三年から中学三年の学年に位置付け週二、三時間の授業となる。テーマに何を取り上げるかも、地域や学校の特色に応じた課題としている。
指導要領には、例えば国際理解、情報、環境、福祉などを挙げているが、それ以外の活動も差し支えないとなっている。
ある意味で、指導方法や時間割など学校の自由な裁量と創意工夫に任されていると言えよう。
地域とのつながりも深まる。
総合学習を先行して実施している学校では、小学校で英語指導を取り入れたり、車いすで買い物などを体験させる実践もあった。
インターネットを活用し地域の名所などを調べ、ホームページで紹介している中学校もある。
児童・生徒の興味や関心をいかに引き付け、学ぶ手だてや態度を身に付けさせられるか。
総合学習の成否は学校や教師の力量にかかっているとも言えよう。
分かりにくい文だが要約するとこうなるのだろう。
「来年から総合学習が本格的に始まる。同時に学校5日制も始まるので親は学力低下を心配しているが、ヤッパ総合学習の方が大事じゃないか。いろいろなやり方があると思うが、結局学校や教師が頑張ってこそうまくいくもであるからとにかく教師には頑張ってもらいたい」
ナルホド。
ところで、文部科学省にはまず、総合学習の推進を足固めする取り組みが求められているのではないかというときの、「求めている」のは誰なのだろう?
まさか保護者ではあるまい
(学力の低下に拍車を掛けるのではないかと懸念する声が、父母の間に根強いとわざわざ書いているのだから・・・)
政財界からそんな声があがっているとは、聞いたことがない。
となるといったい誰なのだ?
もうひとつ。
総合的な学習への熱意がサッパリ高まらない状況で教師の力量が問われると言われても、教師は戸惑うだけだ。
町内マラソンにいやいや出されたら町のおじさんに「ウチの班の勝敗はアンタにかかっている」と応援されているような、妙にしらけた感じなのだ。
2001.10.18
[子供かけ込み相談室]生活の約束事守らない不登校の子
[毎日新聞(鳥取)10月17日]
◆Q
中学1年男子の母親です。夏休み明けごろから学校に行ったり行かなかったりで、最近は、ほとんど行けない状態が続いています。学校とも話をして、「本人のペースに合わせてみよう」ということにしました。ただ、昼夜が逆転したり、生活が乱れるのが心配なので、朝はキチッと起きて家族と一緒に食事をとること、休むときは自分で学校に連絡を入れることなどを約束させました。しかし、なかなか朝も起きられず、電話連絡も自分で出来ません。どう対応すればいいでしょうか。
◇押し付けは効果なし まず、のんびり付き合ってみては
◆A
不登校が始まり、ある程度冷静になれたように見えても、やはり、学校に行けるようになってほしい。行けないならせめて生活リズムを守ってほしい――。そう思うのは親としては仕方のないことですね。
しかし、親の思い通りに動いてくれないのも事実です。その度にイライラすると、かえって悪循環。分かってはいるけれどもまた怒ってしまう。この繰り返しは、多くの親が体験しているものです。
中には、「明日は必ず学校に行こうね」とか、「せめて放課後だけでも学校に顔を出そうね」とか約束を取り付けることがあります。でも、ほとんどの場合、約束は守られません。
大人からすると、「約束を破るとはけしからん」となるわけですが、子どもからすると、大人が勝手に約束しただけ。「ウン」と言わないといつまでも説教が続き、最後は勝手に握手して「約束だぞ」と言って去っていったなどは、よくあるパターンです。
子どもに無理矢理させた約束は、ほとんど守られることはありません。その時、大人はどうすればよいのでしょうか。「約束を守らなかった」と怒ると、結果的にはますます人間関係は悪化します。逆に、怒らずに何もしないと、適当に答えることに慣れてしまう。どちらも、あまり勧められないですよね。
それならいっそのこと、守れもしない約束でもめるよりは、のんびりと子どもと付き合うところから始めてみてはいかがですか。
本日の一言「大人は勝手に約束して、勝手に怒っている?」
【回答者=県立精神保健福祉センター所長・原田豊】
約束違反を責めるのもいけないし放置するものいけない。だとしたら約束なんて止めてしまえば?
と、そういう趣旨なのだろう?
しかしカウンセリングというのはこれでいいのだろうか?
対立の回避、
問題の棚上げ(もしくは先送り)、
勝ち負けを決しないこと、
だらだらと時間を過ごす中で自然に問題が消えるよう願うこと
・・・そうしたことは、本当に臨床心理学の科学的成果なのだろうか?
のんびりと子どもと付き合うところから始めてみてはいかがですかと、まるでリゾート地の観光宣伝のような口ぶりだが、それで救われる人は何%ほどだろう?
これが科学だ、というなら引き下がってもいい、私は極めて非科学的な言い方をするだけである。
やりたいこと貫いてほしい
いかなる意味においても、子どもと真剣に対決しない生き方は、私は嫌いだ。
2001.10.23
やりたいこと貫いてほしい
ノーベル化学賞の野依教授大いに語る
[朝日小学生新聞10月22日]
(略)
野依先生にインタビューをしたのは、愛知県名古屋市北区杉村小6年の中井早織さんと、愛知県日進市南小5年の山崎未早希さんです。聞きたいことをたくさん書きこんだノートを手に、先生の部屋をおとずれました。「試験を受けるみたいだなあ」。先生は顔をほころばせながら歓迎してくれました。
「ノーベル賞、おめでとうございます。感想を聞かせてください」。山崎さんがまず聞きました。「自然科学の研究者にとって最高の賞なので、光栄に思っています。この部屋にいたら、電話がかかってきて知らされました」
つづいて中井さんが、「先生はどんなことを研究しているのですか。その研究はどんなところに役立っているんですか」と質問。先生は、「化学というのは、物質について研究する学問のことで、いろんなものは炭素や水素といった原子が集まってできていて……」と、つくえの上の模型を使ってくわしく説明します。
「研究の成果は、薬、農薬、においのもとになる香料やテレビの液晶画面に使われています。自分のつくったものが世の中で役立つことに、生きがいを感じています」
「子どものころは何に興味がありましたか」。山崎さんの質問には、「小学校にあがったのは戦争が終わった年。テレビもないころで、外で遊ぶことに夢中だった」と野依先生。「山の方にある学校に通っていたので、帰るとき、森の中を探検した。うちに帰るのがいつもおそくなって、お母さんを心配させていたんだ」
この自然の中での体験は、科学の理解にもむすびついているといいます。「たとえば、川にもぐって遊んだことが浮力を理解するときに生かされるんだよ」
中井さんは、ノーベル賞を取ってみたいと思ったことがあるそうです。そこで「ノーベル賞を取るには、どうしたらいいですか」と質問。
野依先生は「うーん、むずかしい質問だねー」とわらいながらも、こまり顔。その後、まじめな顔になって「まず、本当にやりたいことをやりなさい。だれかにやらされるのではなく、自分でおもしろがってやれることなら、うんと力が出るからね」。やったことが、世界中の研究者から、すばらしい、役に立つ、とみとめてもらえることも大事だといい、「そのためには、世界にはばたいて、世界中の人と友だちになることです」とアドバイスしました。
「もし小学校の先生だったら、どんな実験をしたいですか」という中井さんの質問には、「色をパッとか えたり、大爆発させたりして、みんなをびっくりさせたい。化学の力はすごいからね」と、ちゃめっ気もたっぷり。ふたりを実験室につれていき、実験器具やコンピューターなどを見せてくれました。
インタビューを終えて、山崎さんは、「きびしい人と新聞に書いてあったので、おこられちゃうかと思ったけど、やさしい先生だった」。中井さんは、「『人間は自然の一部だから、自然を学ぶ理科は、みんなが好きなはず』ということばが、心にのこった」と話していました。
「まず、本当にやりたいことをやりなさい。だれかにやらされるのではなく、自分でおもしろがってやれることなら、うんと力が出るからね」
表題にもなっている言葉だが、教授の言う「本当にやりたいこと」の中身には、すでに枠がある。
好きなことといっても、ひたすらテレビを見たりTVゲームをしてたりしていてもいいというわけにはいかない。
自然の中での体験は、科学の理解にもむすびついているといいます。「たとえば、川にもぐって遊んだことが浮力を理解するときに生かされるんだよ」
つまりノーベル賞を取るためには「自然の中で、本当にやりたいことをやる」というところから始めなければならないのだ。
しかし表題を念頭に記事をさっと読むとき、そんなことは心に残らないだろう。
残っているのは次のような思いだけである。
ああ、やはり子どもに何かを押し付けてはいけないんだ。
まず第一に、好きなことを存分にやらせなくちゃな。
本当にそれでいいのか?
2001.10.28
暴走族の8割が「親から期待されていない」と感じ、半数は友達がほしくてグループに入ったことが、大阪府警暴走族対策室が逮捕、補導した暴走族108人を対象に初めて独自に行ったアンケート調査から分かった。孤独感から仲間を求める若者像が浮かび、府警は「『摘発したら終わり』ではなく、関係機関と連携し、少年たちの内面を重視した対策に取り組みたい」としている。
さびしい?暴走族「親の期待感じたことない」8割
[読売新聞 10月27日]
調査は、今年6月から3か月間に集団で暴走行為を繰り返したとして共同危険行為で摘発した14―24歳の男性に行った。
それによると、85%が中学生のころに暴走族に興味を持ち始め、グループに入った動機については半数近くが「友達や先輩に誘われた」「仲間がほしかった」と回答。相談できる相手は「友達や先輩」が半数に上り、「恋人」も2割を占めた。また、8割が親の期待を感じず、家庭内のしつけについても9割が「親は放任状態」「しつけは厳しくない」と答えた。
他の犯罪に手を染めるグループも目立ち、58%が窃盗や恐喝、傷害などの犯罪で逮捕、補導された経歴を持つ。3人に1人は「暴走族と暴力団はかかわりがある」と答えた。
「カラーマーゾフの兄弟」の有名な一場面『大審問官』は、「人間はイエスが期待したほどにはしっかりした存在ではなかった」が重要なモチーフである。
同じように、
個性の時代、独創性の時代といわれても、現代の子どもはメディアが期待するほどに個性的でも独創的でもないし、そうでありたいと願ってすらいない。
よほどの才能に恵まれそれを確信できる者でない限り、子どもたちは大勢から外れることを好まないのだ。
その中にあって、否応なく大勢から外されてしまった子どもたち、
勉強がサッパリ分からなくなってしまった子たち、
「毎朝きちんと起きること」「忘れ物をしないよう準備を行うこと」「授業を普通に受けること」「委員会やクラスの仕事を果たすこと」、そうしたことに耐えられなくなった者たち、
その他、小学生らしい、中学生らしい、高校生らしい普通の生活について行けなくなった者たちは、孤独だ。
同級生の多くは彼を置き去りにして本流を進んでいてしまった。
自分を受け入れてくれる集団はもはや自分の周辺にはない。
親や教師は普通の意味で子どもに期待するのをやめてしまった。
(それは彼が繰り返し裏切り続けたからだ。)
親や教師はもはや普通の躾さえしようとしない。
(彼の身勝手を超えて押さえつけるほどの躾を行う気力は、もう失せているのだ。)
今、彼には大勢いの仲間と恋人がいるが、それとて全体の中では少数である。
彼らは寂しいに違いない。
仲間も恋人も、本気で自分を守ろうとはしてくれない。
悪い道から本気で引き出そうとしてくれる者は誰もいないのだ。
個性的でなくても良い。独創性に欠ける者であっても良い。
私の教え子たちには、少なくとも片足を大勢に置いたまま、人生を送ってほしいものだ。