キース・アウト
(キースの逸脱)

2001年12月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。










 
  


2001.12.06

「応用力トップ」  それでも楽観できない[沖縄タイムス12月5日]
 まさに、今の日本の子どもの姿を映し出しているのではないか。知識や技能をこれからの実生活で生かす応用力がどの程度身に付いているかについて、経済協力開発機構(OECD)が欧米やアジアなど三十二カ国の十五歳の男女約二十六万五千人へ初の調査を行っている。
日本の高校一年生は、読解力では八位だったが数学の応用力は一位、科学も二位とトップクラスにある。
学力低下が論議となっているだけに、知識応用力がトップレベルとの結果に意外な気がしないでもない。
だが気がかりな点も多い。自分で学習する時間や、趣味で読書している生徒の割合が最低のレベルにとどまっている。読解力テストでは、白紙回答が三割近くと際立って多かった。論理をまとめ自らの言葉で表現するのがどうも苦手のようだ。
読書の代わりともいえる、雑誌やマンガを週に数回読む生徒は五割を超え最高だった。全体的にトップ層の割合が少ないのも目立っている。
この調査結果をどうとらえるかもさまざまである。
文部科学省は「知識面や活用ではおおむね良好だが、勉強時間は最低で、学ぶ意欲や知的好奇心をはぐくむ必要がある」と分析する。
学識者の間でも見方が割れている。知識を生活に生かす実践力が付いたとして、来年度から本格的に始まる総合学習の時間でさらに応用力を伸ばすのを期待する声がある。
逆に、考える力が試される問題ではトップレベルに達していないことに触れ、試行錯誤や困難に向かうことを避けたがると危ぐする意見もあった。
また、自主的学習の時間や読書量が少ないことを指摘し、個性重視を掲げながら相変わらず横並びの教育が幅をきかせているとの批判も聞かれる。
ともあれ今回の調査は、生徒に一応の基礎学力がついたとはいっても、学習意欲や知的好奇心という広い意味での学力では、決して楽観できない状況にあることを示している。
絶句する。まさか沖縄タイムスが本気で日本の教育を絶賛することはないだろう。しかしそれにしては、「応用力トップ」と見出しを打ってから。

まさに、今の日本の子どもの姿を映し出しているのではないか

と書けば、誰がどう見ても文部科学省の協賛記事にしか見えない。そんなはずはないと記事を読み進んでも、「応用力」トップがどう問題なのかさっぱり分からないのだ。

読書の代わりともいえる、雑誌やマンガを週に数回読む生徒は五割を超え最高だった。全体的にトップ層の割合が少ないのも目立っている。
などと言っているが、「雑誌やマンガが週に数回読む生徒が最高」はいいことなのか悪いことなのかさっぱりわからない。一般的にも記事の流れも「これは困ったことだ」という方向だと思うが、「読書の代わり」になるとなれば話は別だろう。そうであるなら、子どもたちにはもっと雑誌やマンガに触れてもらわなければならない。

また、私に言わせれば「
自主的学習の時間や読書量が少ないこと」こそ、横並びの教育を放棄し、個人の自由に任せた結果だと思うが、沖縄タイムス氏はそうは考えない。

自主的学習の時間や読書量が少ないことを指摘し、個性重視を掲げながら相変わらず横並びの教育が幅をきかせているとの批判も聞かれる。


どういうアンポンタンがどこでこんなアホを言い、沖縄タイムスのどのボンクラが取り上げようと決断したのか、聞いてみたいものだ。
沖縄タイムスは時おりこうした、全く意味不明な記事を書く。


ただし、この調査に安心はしない、という点では私も同じである。
この件に関してもう少しマシな記事は読売新聞にあるが、そこでは次の点が上げられている。

 
さらに、「宿題や自分の勉強をする時間」は参加国中最低で、「英国など先進国と比べても突出して短い」(文科省)という。「趣味で読書をしない」割合も53%と最も高く、「自分から読書しないが読解力はある」という矛盾した結果が表れた。[読売新聞 12月5日]

また、毎日新聞は同日の記事に「分数ができない大学生」などの共著がある慶応大の戸瀬信之教授(数学)の言葉として次のようなものを揚げている。

「15歳の春にほぼ全員入学試験を課すのは日本や韓国くらいだ応用力とはいえ、数学や科学は基礎学力があるほうが有利だから、日韓が上位に来るのは当然。20年前の生徒なら、さらに結果はよかったのではないか。


 
高校入試が日本と韓国だけかどうかは知らないし、応用力とはいえ、数学や科学は基礎学力があるほうが有利だからという論理もむちゃくちゃだが、日本語の性質上(小学校の1年生でも、自分のしゃべる言葉を全て文字にできる、など)、15歳までの学習は日本が圧倒的に有利なのは間違いないと思う。
読書が嫌いでも読解力はある、という矛盾はそこから解くことができるはずだ。



 



2001.12.08


校則違反に累積罰則 米国「寛容なき指導」に基づき導入
―県立牧園高校/鹿児島
[毎日新聞12月6日]


10段階の最後で退学−−服装違反で指導/指導3回で注意/暴力いじめ警告
牧園町の県立牧園高校(丸山文男校長、278人)は来年1月から、生徒が校則違反を犯すたびに10段階のペナルティーを科し、最終段階で退学とする「ゼロ・トレランス」方式を導入する。米国の「寛容なき指導」の考え方に基き、全国でも珍しい試みだという。【吉田博治】

ゼロ・トレランスは約10年前、米国で荒廃した教育現場の立て直し策として取り入れられた。牧園高校によると、学校に規律が戻るなど成果を挙げているという。

同校では1学期、一部の生徒が授業中に歩き回ったり教諭に反抗するなどし、教諭らから「授業にならない」との声が出た。このため9月、校長の提案で導入が決定。生徒、保護者にもそれぞれ説明会を開き、異論は出なかったという。

具体的には、ペナルティーは(1)指導(2)注意(3)警告(4)放校――の4段階で、(1)〜(3)はさらに3段階に分ける。例えば服装違反や無断欠席の場合、(1)の指導をし、3回の指導で改まらなければ(2)の注意へと進む。喫煙は1回目でも注意、暴力やいじめは警告。暴力を振るった生徒は更に2回の違反で基本的には放校となる。放校では自主退学か転校を迫られ、応じない場合は退学となる。

ペナルティーは担任や生徒指導教諭の報告を基に職員会議で決定する。生活態度に改善が見られた場合は累積の罰則は下がるという。

丸山校長は「学校に規律を確立し、明るく学習できる環境をつくるのが目的。社会に出る前に、ルールに違反すると罰則が与えられることを教える必要がある。生徒の自覚を促すのが前提なので、柔軟に運用したい」と話している。

ルール透明化は評価−−鈴木敏之・文部科学省児童生徒課長補佐の話
指導を繰り返して改まらなければ、最終的には退学に至るという方法は特殊ではないが、学校の実情を踏まえ、通常は内部での取り決めをオープンにしたということだろう。保護者にきちんと説明して理解を得、ルールを透明化した点は評価できる。
さ・て・と・・・・
この記事、、横に読んでも縦に読んでも斜めに傾けても主張が見えない。
吉田博治記者はゼロ・トレランスに賛成なのか不賛成なのか・・・・。
「賛成だけど、学校のやることだから賛成って言いたくない」
というところだろうか?



学校が集団生活の場である以上、規律は必要である。
規律をつくれば、それを守らせる強制力がなくてはならない。
そしてその強制力がうまく機能するかどうかは、その規律と強制の双方の合理性にかかっている。

あの先生ならOKだがこの先生はアウトだ、というような指導の揺らぎは、結局のところ、規則の効力そのものを失わせる。

また、おそらくゼロ・トランスは体罰撲滅にも効力を発揮するだろう(他に有効な罰があれば、職を賭けて体罰に走る必要などないからである)。

あとは、報道に見られるような「米国式」「寛容なき」「ペナルティー」といった言葉にナイーブに反応する
抵抗勢力とどう戦うかだけが問題となろう。

結局、世間もメディアもドライな指導より「愛の指導」の方が好きなのだ。
泣いて鉄拳を振るうような教師が好きなのは、むしろこの人たちなのかもしれない。


 



2001.12.22


漫画を読む子ほど学力が高い[四国新聞12月21日]


 漫画を読む子ほど学力が高い―と聞いて驚くのはもはや昔の人だろう。OECD(経済協力開発機構)の調査で日本の高校一年生の学力は世界トップクラス、愛読書は漫画だった。

 OECDの調査対象は世界の三十二カ国。その中で日本は数学、理科の活用力ではそれぞれ一位と二位、読解力は八位だが、上位との差はほとんどない「二位グループ」で、全体としては世界のトップクラスだったという。

 この調査は記憶や知識でなく、思考力や応用力をみるのがねらいだから、いわゆる「最近の若者の学力低下」論は覆されたといってもいい。さぞ文部科学省は喜んでいるだろうと思ったら、意外に控えめな反応らしい。

 「宿題や勉強する時間」は参加国中で最低。「趣味で読書をしない」率はもっとも高い53%(平均31%)。勤勉で読書に励む生徒という理想のイメージからはほど遠い結果だったから、素直に喜べないのかもしれない。

 気になる点は、自分の言葉で書くことを求める論述問題で何も書かない生徒の割合が飛び抜けて高いこと。分からないことに手を出さない、という失敗恐怖が原因との分析もあるが、ちょっと安直。

 面白いのは漫画に関するデータ。週に数回、漫画を読む生徒が59%で各国平均(14%)を大きく上回ったのは予想通りだが、読む回数が多いほど読解力が高いという結果も出た。ちなみに東大生の愛読書トップも漫画だ。

 日本の漫画は世界でも例のない独自の発展を遂げた文化だから、今さら驚くのも奇妙かもしれない。しかしこの結果を文科省が真剣に分析した気配はない。次回は各国文科省を対象に調査した方がよさそうだ。


ある科学者が、ノミの足を一本ずつ切除しながらジャンプさせるという実験を行った。
2本、3本と足の数を減らしながらそのたびに「跳べ!」と叫んだが、6本抜いたところでついにジャンプしなくなった。
そこで科学者は一つの結論に達した。
「ノミは足を全部取り去ると、耳が聞こえなくなる」

「論述問題で何も書かない生徒の割合が飛び抜けて高い」
のは

「分からないことに手を出さない、という失敗恐怖が原因との分析もあるが、ちょっと安直」
と書きながら、

「日本の高校一年生の学力は世界トップクラス」「愛読書は漫画だった」
だから
「漫画を読む子ほど学力が高い」
というのはあまりにも安直ではないか。

こういう記者に調査を提案されるのだから文科省も気の毒である。



 



2001.12.22


教員免許改正  風通し広げる手だてに[沖縄タイムス12月28日]


 中央教育審議会は、懲戒免職になった教員の免許を取り上げることや、教職十年目の全員に研修を求める中間報告をまとめ遠山敦子文部科学相に提出した。
 意外だが、免職になってもよほど悪質なケースでなければ免許は取り上げられず、教員の資格はそのままだった。現在はたとえ免許を失っても、二年後に申請すれば再取得できるという。

 今回の報告が、教員免許の在り方について一層の厳しさを求めたのは、教員によるセクハラなどの事件が相次いで、社会的信頼が揺らいでいるのと無縁ではあるまい。

 全体の資質向上へ、教員の自覚は必要だし、組織としての学校の問題意識も問われよう。その意味で、十年目の教員にあらためて教師としての自分を見詰め直す研修を行うのはうなずける。

 ただ忘れてならないのは、事件を起こした教員個人の問題にとどめてはならないことだ。いじめや不登校、暴力、学級崩壊など学校現場はいろいろな矛盾や問題にさらされている。

 多くの教員は悩み、イライラを募らせつつあるのではないか。学校が閉塞(へいそく)感に覆われているともいえよう。

 いま教育現場に必要なのは風通しを良くするシステムだろう。新しい風を取り込んで学校を元気にする。学校の開放を進める学校評議員制や民間人校長の導入もスタートしているが十分とはいえない。

 指導力を高めて苦手な分野の克服を目指す十年目研修も、大学や民間企業などを活用することで教員が外の世界に触れる仕組みにしたい。

 報告はほかに、社会人の採用を促す特別免許状の学歴制限や有効期限の廃止▽中学校や高校の数学や理科の教員が小学校でも授業できる免許の弾力化▽教員の他校種の免許取得の促進▽特殊教育免許の総合化の早期検討―などを提言している。

 特別免許状は、専門知識や熱意はあっても教員免許のない社会人に教育委員会などの推薦で教員資格を与えるものである。

 だが、これまでに活用されたケースはあまりに少ない。学校に社会での実績が評価された教員が増えれば、社会との風通しも良くなる。

 また、中、高校と小学校など違う校種の人事交流が広がれば、学校間の垣根は低くなるのではないか。

 文部科学省は、来年の通常国会に関係法改正案を提出するという。教員免許の見直しを、学校間あるいは社会との風通しを広げる手だての一つとして進めてほしい。


新聞記事というものはまったくうかうか読んでいられない。
この記事も、
中教審が懲戒免職になった教員の免許を取り上げることや、教職十年目の全員に研修を求める中間報告をまとめ遠山敦子文部科学相に提出した。
            ↓
事件を起こした教員個人の問題にとどめてはならない。いじめや不登校、暴力、学級崩壊など学校現場はいろいろな矛盾や問題にさらされている。 多くの教員は悩み、イライラを募らせつつあるのではないか。
            
で、ここまでは比較的いい流れだと思っていたのだが、いつの間にか学校開放の話になっている

アレ? 教員のイライラと学校開放がどこで繋がってしまったんだ?・・・・と改めて見返すと、

 多くの教員は悩み、イライラを募らせつつあるのではないか。学校が閉塞(へいそく)感に覆われているともいえよう。
という文があった。
確かに、何となく重苦しい雰囲気はある。
それを閉塞感と呼ぶなら「何となく違うような・・・」と思いながらも、敢えて喧嘩することもないところである。

だが、

いま教育現場に必要なのは風通しを良くするシステムだろう。新しい風を取り込んで学校を元気にする。

となると話が違う。
息ぐるしいときは窓を開けて風を入れようという保健衛生の話じゃない。

学校開放とか言って毎日が参観日のようになり、始終監視され、その上で学校の安全はどう確保されているかなどと朝から晩まで責められるような生活のどこから元気が生まれてくるというのか。

私は基本的に学校開放に賛成であり、それ以外に現在の学校を救う道はないとさえ思っている。しかしそれは児童・生徒を救うために私たちが積極的にストレスを引き受けようというものであって、私たち自身を救うものではない

外部の人間が学校に立ち入りしにくいことでイライラを募らせているのは誰なのだろう? 一陣の風が吹くように校内にさまざまな人間が入り込むことで一番すっきりするのは誰なのだろう? そう考えること、記事の真意が見えてくる。

自分の利益をあたかも相手の利益のように偽って押し付けることを「おためごかし」という。
下品な人間の、見境のない行いである。
子どもの頃、私はそう教えられた。


ついでにもうひとつ言っておこう。
私は、免許を持たない人間を積極的に教師として招き入れることに不賛成である。
臨時に10時間程度の授業を行ってもらうのはいい。しかし担任になりうる教員の一人として招聘するのはいかがなものか。
なぜなら、教師として生徒と五分以上の勝負をしていくためには、教科に関する専門的な知識・教育法がひつよなことはもちろんであるが、同時に教育法規や教育心理学、特に児童心理学および発達心理学に関する一定以上の教養が必要だからである。
教員免許を取得するということはそういった勉強を一応は履修しているという証拠である。

専門知識や熱意はあっても教員免許のない社会人
というものが私には分からない。
おそらくここで言う専門知識は教科に関する専門知識のことだろう。
しかしそうした人間が、記事の言う
いじめや不登校、暴力、学級崩壊など学校現場はいろいろな矛盾や問題にさらされている。

その矛盾や問題の答えを持ってきてくれるとはとても思えない。

民間人校長も悪くないアイデアであった。
少なくともスタートの時はそう思った。
しかしこれも、結局は地域の有力企業の役員リストラ対策に使われそうな気配である。

特別免許状が、そうしたものにならないように祈る。







2001.12.31


<教科書>学習指導要領の範囲外を容認 文科省検討[毎日新聞12月30日]


 小中学校で使われる教科書について、文部科学省は、学習指導要領の範囲を超えた内容を盛り込むことを容認する方向で検討を始めた。学習内容が削減され、学力低下への懸念が高まったことに配慮したもので、学習指導要領準拠を求めてきた教科書検定の方針を全面転換することになる。早ければ小学校では05年、中学校では06年から高度な内容を盛り込んだ教科書が登場することになり、全国一律に学習内容を規定した指導要領の拘束力は大幅に弱まる。

 学習指導要領は、児童・生徒に教えるべき内容を学年、教科ごとに定めた基準で、教科書検定もこれに沿って行われる。同省は教科書会社に指導要領厳守を求め、検定で指導要領を逸脱した記述を厳しくチェックしてきた。

 特に来年度から導入される新学習指導要領は、学校5日制が完全実施されるのに伴い、学習内容を3割ほど削減。小中学校の教科書の検定でも、学習内容の精選を徹底させるため、応用的な記述や発展的記述が「不必要」「不適切」とされた。

 しかし、学習内容の削減に対しては学力低下を懸念する声も強く、土曜も授業を行う一部私立校と公立校に格差が出るとの指摘もあった。同省は学校で行う授業では学習指導要領を「最低基準」と位置付け、これを超えた高度な内容を教えることを認めており、指導要領を厳格に適用する教科書検定との矛盾も指摘されていた。このため、同省も従来の方針を見直し、教科書にも高度な内容を盛り込む方向で検討を始めた。

 今のところ、指導要領からの逸脱を認めるのはコラムや欄外の記述などに限られる見通し。「兆より大きな数」(小4算数)や、圧縮空気でペットボトルのロケットを飛ばす「水ロケットの実験」(小4理科)など、昨年度の検定で削除された内容も、来年度から使われる教科書が全面改訂される際の検定では認められることになりそうだ。

 子供たちの興味を引く内容を盛り込んだり、理解の早い子に対応した発展的な記述も認められる見通しで、学習内容に対する規制がいっそう弾力化され、児童生徒に合わせた多様な授業展開が可能になる。 【澤圭一郎】

 ◆ 下村哲夫・早稲田大教授(教育法制論)の話 教科書検定で発展的記述を認めるのは一種の柔軟化で、大きな転換だ。指導要領をしゃくし定規に適用してきた検定が変われば、記述に幅が出て面白い教科書ができる。しかし、教師は高度な内容を教えたくなるので、「欄外は試験には出さない」などの歯止めも作ったほうがよいのではないか。

2001年を締めくくるにふさわしい記事とも思わないが、来年以降へのひとつの方向が示されているのでここに残しておく。

指導要領は最低基準だと文部科学省が言ったとき(正確には言わざるを得ないまでに追い詰められたとき)から、迷走は始まった。

私のようなタイプは、それによって
「これからはどんどん詰め込み教育もできる」
と考える(最低基準さえ満たしていれば何をやってもいいのだから)。
高度教育も可能だ。
ある意味、重苦しい天井が外されたとも言える。
指導要領が最低基準なら夏休みもいらない。
その間も子どもに勉強させれば、子どもと教員以外の全員が喜んでくれる。


別のタイプはしかし、「あら、ずいぶんやることが少なくなったのねぇ」と考える。

学校や学年の体制、教師個人の当たり外れが今まで以上に大きくなる。

人々よ避難せよ!! 
子の運命を学校任せにするのは危険だ。