キース・アウト
(キースの逸脱)

2002年1月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。










 
  




2002.01.04

小中高生の一斉学力テスト、40年ぶり実施検討

[読売新聞 1月3日]



 文部科学省は、今年4月からの新学習指導要領実施を受け、5年生以上の小学生と中高生の原則全員への学力テスト実施の検討を始める。新指導要領が学習内容を大幅に削減したため、学力低下への懸念が強まっていることが背景にあり、実現すれば、約40年ぶりとなる。ただし、テストでは、単なる知識や技能だけでなく「自分で考え問題解決できる力」も測るよう設問に配慮。結果についても序列化につながりかねない全集計は行わず、学校や児童生徒が自己評価や目標設定に活用できる新たな調査を目指す。しかし、かつて訴訟にまで発展した「学力テスト」復活として教職員組合など現場では反対も予想される。

 同省では国立教育政策研究所、外部の専門家らによる検討協議会を3月にも設置するとともに、中央教育審議会や保護者、学校関係者の意見を踏まえ夏までに結論を出す。実施が決まった場合、一斉テストの形で来年1―2月に行われる。

 全国一斉の学力調査は、1956―66年度に小中高(高校は62年度まで)で実施。さらに、中学校では61年度から4年間、全員調査を行った。しかし、教職員組合を中心に「競争を持ち込む」「序列化につながる」との批判が起き、国の教育権を問う訴訟にまでもつれこんだことから中止された経緯がある。

 同省は新指導要領の導入前の学力把握のため、今月末から小学5、6年と中学で「教育課程実施状況調査」(高校は2003年から)を行うが、これは43万人規模。しかし、新指導要領の実施とともに、成績評価が「相対評価」から、「絶対評価」に変わるため、生徒・児童にとって自分の成績が全体のどのあたりに位置するのか把握でき、学習の目標設定に役立つ指標の必要性が出てきた。学校にとっても、学習指導上、客観的な指標が必要で、調査対象を全員に拡大する検討を始めることにした。

同省内では、基本的な知識・技能だけでなく、意欲や関心、実践的な問題解決能力なども測ることが出来るようテスト内容の改善を進めており、正解が複数あるなど、点数化しない問題も開発しつつある。

 同省内では「全員実施になっても、かつての学力テストのようなトラブルを避けるため、個別の結果は、自治体や学校単位で把握し、苦手な点を克服するよう目標設定などすれば良い」との意見が出ている。


政治というのは妙なものである。
あっちの意見こっちの考えにすべて反応していくとまったく不思議な怪物をつくってしまう。

ただし、テストでは、単なる知識や技能だけでなく「自分で考え問題解決できる力」も測るよう設問に配慮。
結果についても序列化につながりかねない全集計は行わず、
学校や児童生徒が自己評価や目標設定に活用できる新たな調査を目指す。

正解が複数あるなど、点数化しない問題も開発しつつある。
「個別の結果は、自治体や学校単位で把握し、苦手な点を克服するよう目標設定などすれば良い」との意見が出ている。

もちろん言っていることは分かる。しかし「点数化しない」「全集計を行わない」テストをつくり、しかも意味あるものにし続けることは可能なのだろうか?


私は一斉学力テストに反対しない。
学力向上が国民のコンセンサスなら一斉テストによる評価は絶対に必要である。しかも情報公開の流れからすると、個人の成績は個人に開示され、学校の成績は地域全体に開示されなければならない。
そうなると当然、
生徒個人には保護者や教師の学習圧力が、

学校には地域全体からの学習圧力が加わる。
学力向上はそうした形で果たされる。


問題は、「生徒個人に対する学習圧力」という苦い薬を飲みたくない(または、飲ませてはいけない)」とする考え方である。
その部分を我慢しないと、
「児童生徒は一向に努力せずまったく苦しい思いをしないまま学校や教師の努力だけで達成される学力向上」
という夢物語
が生まれる。

そしてその夢が果たせない時(もちろん果たせないだろう)、
「学校への無理な夢を膨らませ、それが失敗すると失望が広がり、学校に対する敵愾心が生徒と保護者の双方で高まる。そのことによって学校はさらに指導力を失う」
といった悪循環が繰り返される。

小泉純一郎は「痛みを伴う構造改革」を旗印に総理大臣となった。
教育改革もまた甘い汁だけでは済まないのだ。


 


2002.01.11

新指導要領元年 ほしい「できる教師」

[中国新聞 1月10日]


 広島県教委は新年度から、指導力不足の教師を判定する第三者機関(検討委員会)を発足させる。子どもと信頼関係が築けないなど指導力に問題がある教員を、学識経験者や法律、医療などの専門家に判断してもらい、研修させたり、転職、免職にする際の判断に公正を期す試みで、全国では大阪府教委に次ぐ。

 他の中国四県教委も、ほぼ同じ方向へ向けて対応を進めており、広島市教委も「教職員人事管理システム研究会」で検討を始めた。

 「落ちこぼれ教師」問題が深刻さを増し、先送りできなくなったのも確かだが、試みの真の狙いが学校で今、最も求められている教師の資質・能力の向上にあることは間違いない。遅まきながらも、各教委が本気で「実力のある教師」「できる教師」の確保、養成に取り組み始めたものと評価したい。

 新学習指導要領によって新学期から、学校は完全週五日制となる。授業時間が義務教育で二割、各教科の学習内容も三割減る。その代わり、子どもが自ら課題を見つけ、解決する能力(生きる力)を育てる「総合的な学習」が導入される。

 ところが、変革の二本柱は問題を抱えている。一つは授業時間と教科内容の削減による学力低下への懸念である。さまざまな議論を呼び、世論に押された文部科学省はとうとう「指導要領は教える最低限を示したものだ」と従来の解釈を変更した。指導要領以上の内容を教えてもかまわないと言うのである。

 このため、学校はゆとり教育の中で基礎基本に徹しながらも、学力維持にも努めるという二重の役割を担うことになった。

 しかし、指導要領には教える上限の禁止条項が付いたままだ。例えば、小学六年の算数は帯分数を含む計算を扱わない。それを教えようとすれば、教科書を補う教材研究や教材づくりが必要になる。しかも、指導要領を超えてどこまで教えるのか、あるいは教えないのか。その判断や内容、範囲は校長以下の現場の教師にそっくり委ねられる。

 もう一つの「総合的な学習」には教科書も教科免許もない。学習は個々の学校、担当教師の腕次第のところが多い。当分、学級ごとに手探りが続くだろう。既に試行している広島市の中学校長は「マニュアルに頼るデジタル型より、手作りのアナログ型教師が求められる」と言う。ここでも教師は頭の切り替え、意識改革を迫られよう。
≪新指導要領で学ぶ小学校算数の例≫
■加・減算(カッコ内は旧要領)
 3桁までの自然数(4桁以上)
 真分数に限る(帯分数まで)
 小数第一位まで(第二位以上)
■乗・除算
 2桁掛ける1桁(3桁と2桁)
 3桁掛ける1桁(3桁と3桁)
 2桁掛ける2桁
 3桁割る2桁(4桁を割るか3桁で割るか)
 乗数が真分数(帯分数まで)
 除数が真分数(帯分数まで)
 小数第一位まで(第二位以上)
 学力低下への対応、総合的な学習の定着のいずれもが、頼りは教師一人ひとりの力量、優れた指導力である。だからこそ、新しい時代にふさわしい教授技術や社会の一員としての幅広い視野と見識を備え、創意工夫し、熱意をもって指導する「できる教師」が一人でも多くほしい。

 「できる教師」を育成、確保する責任は教委にある。広島市21世紀教育改革推進総合プランは「採用、評価、研修などで教師の力量向上につながる施策が必要」と行政に注文している。広島県教委の人事管理システム研究会の最終報告は春にも出る。教師の資質向上を促し、向上に処遇で十分にこたえる総合的なモデル制度をぜひ、まとめたい。





 「落ちこぼれ教師」問題が深刻さを増し、先送りできなくなったのも確かだが、試みの真の狙いが学校で今、最も求められている教師の資質・能力の向上にあることは間違いない。
・・・・・・どうしてそうなるんだ?
真の狙いも何もない。広島県教委がやろうとしていることは、誰が見ても「落ちこぼれ教師」対策だと思うが、どうなんだろう?
 そもそも「落ちこぼれ教師」という言葉が何の前提もなく使われることが気に入らない。広島県教委がそんな言い方をするはずはないので、とりあえずこれは中国新聞の造語と考えるが、指導力に問題のある教師を安易に「落ちこぼれ」などと呼んでもいいのか?
人権の牙城であるマスメディアとしての見識を疑う。

ついでに言っておくが、20年以上前、
学業成績がまったく振るわない児童生徒たちを「落ちこぼれ」と呼び始めたのはマスメディアだった。
それをあたかも教師たちが言ったかのように錯覚させたのもマスメディアだった。
そして「それは『落ちこぼれ』ではなく『落ちこぼし』だ」と言って激しく教師を追求したのもマスメディアだった。
では聞こう。教師を『落ちこぼした』責任を、メディアはどこに求めるのだ?



メディアは公務員や政府の悪口を言ってさえいれば金になる呑気な商売である。
しかし大仰に国の行く末を嘆き、学校の無能を並べ立て、教師の悪口を叫び続けても、結局は学校と教師に期待する以外の何のアイデアも浮かばない。
 学力低下への対応、総合的な学習の定着のいずれもが、頼りは教師一人ひとりの力量、優れた指導力である。
まったくその通りだ。
教育は、最後は人であり、良き教師はわれわれみんなで育てていかなくてはならない。

だからこそ、新しい時代にふさわしい教授技術や社会の一員としての幅広い視野と見識を備え、創意工夫し、熱意をもって指導する「できる教師」が一人でも多くほしい。
これもその通りだ。
しかしそれを
 「できる教師」を育成、確保する責任は教委にある。
とはなにごとだ。

メディアは教師を潰す。
ごくわずかで例外的な教師をことさら取り上げて、全国数十万の前向きな教師の意欲を挫く。
その上で
 「できる教師」を育成、確保する責任は教委にある。

何たる破廉恥であろう。





2002.01.15

成人式大荒れ・大人の自覚ない者がいる

[琉球新報 1月15日]


 那覇市の成人式は、逮捕者が七人も出る大荒れになった。
 他人に迷惑をかけない、ということが大人としての第一歩である。
 そのような無自覚な若者が自分が目立ちたいだけで、せっかくの成人式をぶちこわしにしようとすることは、極めて残念なことだ。
 こういう若者は厳しく罰せられるべきだ。また、成人式の”鏡開き”の場所取りは、先輩から後輩へ強制され、祝儀名目で金の受け渡しもあるようなので、この際、警察は厳正に取り調べ、悪習を断ってほしい。
 公費、税金を使っての成人式がこうも荒れたのでは、開催する意義も当然、問われるだろう。騒いだのは、一部の新成人らで、大多数の新成人にとっては、それこそ迷惑なことだが、「来年からは中止すべきだ」と考える市民の声も強くなってくるだろう。

 昨年の成人式で、高松市では禁止されている酒やワインを持ち込んで騒ぎ、祝辞を述べる市長にクラッカーを鳴らしたり、投げつけるなどした新成人五人が同市の告発で、威力妨害の罪で逮捕された
 群馬県太田市では清涼飲料水を振りまいて騒ぎ、十三人の女性の晴れ着を汚した。元暴走族の仲間ら六人が名乗り出て、市長に謝罪、晴れ着の弁償を約束した。
 那覇市では、会場の市民体育館の門扉を壊す出来事もあった。

 今年、那覇市では、荒れる成人式を想定して、機動隊を配置するなど、これまでにない警備態勢となった。
 その中で、禁止された酒だるで鏡開きをしようと強引に車を乗り入れ、警備の警察とトラブルになり、逮捕者が出た。

 成人式は、二十歳の新成人を祝福、激励する場で、新成人には大人の仲間入りをし、社会的責任を担う自覚を新たにしてもらう場である。
 目立ちたがり屋のパフォーマンスでは済まされない。主催者の那覇市だけでなく、同じ新成人の仲間にも大きな迷惑だ。
 このルールを無視した行動が、成人式の在り方ばかりか、必要性までが問われてくる。これから成人式を迎える後輩たちから、成人式に参加する機会さえ奪うことになるかもしれない。自己中心主義の若者たちが増えてきたといわれるが、そのような世相が成人式にも表れている。

 昨年の成人式で、騒ぐ新成人らに「静かにしろ」「出て行け」と一喝した高知県の橋本大二郎知事が「彼らもこの日を恥ずかしく思い出すときが必ず来る」と忠告しているが、今回騒いだ新成人らは、一日も早く反省、二十歳の自覚を持ってほしい。
 新成人には、成人式の意味をそれぞれが自覚し、新たな社会への一歩を踏み出してほしい。


荒れる成人式の記事はどの新聞社も大同小異である。どこの記事を採っても良かったのだが、「自覚を持ってほしい」「踏み出してほしい」と、他人頼み観徹底して何もアイデアがないと言う点で一番アホらしい琉球新報を採用した。

目立ちたがり屋のパフォーマンスでは済まされない。主催者の那覇市だけでなく、同じ新成人の仲間にも大きな迷惑だ。
などと紙上でいくら叫んでも大した意味はない。
なぜなら14日のテレビニュースで、沖縄で暴れた少年の一人がはっきりと宣言していたからだ。
自分さえよけりゃいいっツーの!!
つまりこの子に対して「自分さえよけりゃいいのか?!」といった普通の叱責は何の意味もない。

人間としての道徳的前提を共有しません!!
実にユニークな発想であり、まさにメディアが望んだ子たちではないか。


成人式の日は「キース・アウト」の誕生日である。
18歳で高校を卒業する際、着ぐるみを着て卒業式に出たら「ユニークな卒業風景」「個的な若者」と褒めてくれたマスコミが、そのわずか2年後に掌を返したように批判する。同じように儀式でバカをやっただけなのに、年齢が20歳になったというそれだけの理由で、批判派に鞍替えする。
そうした無節操にキレてこのページができた。


昨日、一昨日のテレビでは、こんな若者のために公費を使って成人式を行う意味があるのか、止めてしまえ、といった無責任な発言が相次いだ。
若者の無軌道をメディアに乗せて煽り、自らの懐を暖めたのは誰だったのか?
そうした反省もしないまま、またぞろ政治批判である。

いいだろう。次が楽しみだ。
こんな若者のために公費を使って学校を維持する必要があるのか。
そうした発言の出てくる日を待つ。



 



2002.01.27

「ゆとり教育の修正に戸惑い

[熊本日日新聞 1月25日]



 宿題を増やし、放課後の補習も必要。理解の進んでいる子どもには発展的な授業を。遠山文科相は先日、全国都道府県教委連合会の総会で子どもたちの学習意欲を高めるよう訴えた。

▼学習内容の三割減と探求型の授業、完全週五日制。四月の新学期から「ゆとり教育」がスタートするというのに、今さらどうして学力重視へ軌道修正なの?と首をかしげたくもなる。

▼新学習指導要領によって、中学理科の教科書から電力を計算する公式や元素周期表が消えた。小学三年理科ではタンポポなどの野草の写真、図が不必要とされた。「学習量の大幅削減は、学力低下につながる」との懸念に、文科省は基礎基本を徹底することで学力はかえって確実に身に付く、と反論していた。


▼世界の十五歳の子どもを対象にした経済協力開発機構の学習到達度調査で、日本は学力面についてはトップクラスだった。だが論述式問題で無回答が目立ったうえ、家庭での学習や読書時間の少なさが指摘された。学力低下批判に加え、学習意欲の薄れが文科省を慌てさせたのかもしれない。

▼確かに「ゆとり」と「詰め込み」の線引きは難しいが、文科省の方針転換は唐突すぎる。探求型と知識重視型の学習という異なる原理の混在。教育学の専門家は「批判をかわすために、根本的な議論をしないままに変更した。木に竹を接ぐようなものだ」と手厳しい。

▼文科省のぐらつく考えに、最も戸惑っているのは現場の先生たちだろう。習熟度別の授業を本気で考えているのなら、まず教員数の確保など学校教育の全体像を見直さなければならない、と思うのだが…。

「放火魔に消火の不手際をなじられる消防士」そんな図が浮かぶ。
今さらどうして学力重視へ軌道修正なの?
と言ったって、あれだけメディアに非難されて何の手も打たないというわけにもいかないだろう。

教育学の専門家は「批判をかわすために、根本的な議論をしないままに変更した。木に竹を接ぐようなものだ」と手厳しい。
その専門家というのはおそらく熊本日日新聞の記者だろうが、批判したのはまさにメディアの記者たちなのであって批判に耐え切れずに方針変更をすればこんな書き方でまた批判をする。

もちろん「根本的な議論」を始めれば、
「これだけ問題が山積している中で、いつまでも議論を続けていていいのだろうか」と語ればいいだけの専門家だ。

ジャーナリズムというものはもっと高尚なものと思っていた。
大宅壮一たちは草葉の陰でどう思っているのだろう?










2002.01.28


「謝らせたかった」 集団心理が暴行加速<ホームレス襲撃>

[毎日新聞  1月28日]

 

 東京都東村山市のゲートボール場で25日深夜、ホームレスの無職、鈴木邦彦さん(55)が暴行を受け死亡した事件で、逮捕された同市立中学2年の少年らが「(鈴木さんに)謝らせたかった」などと供述していることが、28日分かった。「他(の少年)がやるので悪いとは思ったが、殴ってしまった。死ぬとは思わなかった」と供述する少年もおり、警視庁少年事件課は集団で襲ったことで特異な心理状態になり、暴行がエスカレートしたとみている。一方、少年らが事件前に2回にわたって鈴木さんを襲っていたことも分かった。

 これまでの少年(逮捕3人、児童相談所通告1人)らの供述などによると、4人のうち3人が24日午後、図書館で騒いでいたため鈴木さんから注意を受け、トラブルになった。この際、少年の一人が鈴木さんに殴られたという。

 翌25日午後3時ごろ、そのうちの一人が偶然、鈴木さんを見つけ、後を付けてゲートボール場にいることを突き止めた。少年は、他の2人らに電話などで連絡し、同6時ごろと7時ごろの2回、数人でゲートボール場に押し掛け、鈴木さんと小競り合いになった。

 その後、少年らはいったん塾に行くなどしたが、さらに仲間に加勢を頼んで、同9時過ぎに寝ていた鈴木さんを起こして連れ出し襲った。その際、他に2人のホームレスが寝ていたが、少年らは「おじさんたちは寝ていていいよ」と声をかけたという。

 調べに対し、少年らは「なかなか謝らないので暴行した」などと、涙を流しながら供述しているという。

 同課は28日、逮捕した少年3人を傷害致死容疑で東京地検八王子支部に送検した。児童相談所に通告された少年は、同相談所が保護している。


以前にも書いたかと思うが、こうした事件を見るたびに私は私自身の感覚の狂いを感じる。
心の隅に「どうしてそれが悪いの?」という囁く感覚である。

私はなんとなく子どもたちの言い分がわかるのである。

ねえ聞いてよ、ひどいと思わない?
もちろん人殺しは悪いことだしその前の「人を殴る」ってことだって悪い。そんなことは分かっている。でもそれ以上に悪いことだって世の中にはたくさんあるよね。
今回のことはたまたま死んでしまっただけで、最初から殺すつもりなんてなかった。言ってみれば事故のようなものだ。そんなの、本当の「悪い」ってこととは違うと思うんだ。

事件の始まりを見れば分かると思うけど、まず図書館の係りの人が、そして次に「あの人」がボクたちの心を傷つけた。
最初仕掛けたのは向こうなんだ。
それは確かに、図書館で騒いだボクたちも悪かったけど、あんな叱り方ってないよね。
ボクたちが怒るのも無理ないでしょ?

マ、係の人ならそれが仕事なんだからしかたないけど、「あの人」関係ないのにシャシャリ出て来て、どういうつもりだったんだろう?
そういうのって、ちょームカツクと思わない?

で、ボクたちの心を傷つけた「あの人」に謝ってもらおうと思ったんだけど「あの人」頑固で、絶対に謝ろうとしない。

そういうのもムカツクよね?
むかつくボクたちの気持ち、分かるよね。

ねぇ、「あの人」どうして死んじゃったのかな。
ボクたちも途中でやめればよかったのかもしれないけど、死んじゃうなんて酷すぎるよね。
これじゃあ、ボクたちの人生台無しだよ。
ねぇ、ボクたちこれからどうなっちゃうんだろ?

あの人、ホームレスだったんでしょ?
ボクたち、まだ14歳なんだよ。




 



2002.01.29

学力低下不安  惑わず、着実な対応を

[沖縄タイムス 1月29日]




 公立の小中高校で四月から始まる学校五日制や新学習指導要領(高校は二○○三年度から)の実施を前に、学力低下を心配する声が波紋を広げている。
 五日制導入で授業時数がさらに減ることへの不安や、「生きる力」を身に付ける「総合的な学習の時間」が、子どもたちの学力低下に拍車を掛けるのではないかという懸念である。

 学力問題にはいろいろな視点がある。どう定義するかでテーマも複雑になる。学力を、読み書きや計算など狭義の基礎学力と見るのか、意欲や思考力、表現力までも含めた広義でとらえるかで事実認識や対応も違ってこざるを得ない。

 学力低下の不安が高まる中で、遠山敦子文部科学相は十七日、「学びのすすめ」と題するアピールを出した。

 確かな学力向上をめざし、児童・生徒の理解度に応じた授業の展開や放課後の補習、宿題の奨励など学校現場へきめ細かな取り組みを求めている。

 文部科学省が、ゆとり路線から学力重視へと事実上軸足を移したとも受け止められるものだ。

 だが、補習や宿題が学力の向上にある程度役立つとしても、子どもの学習意欲が高まったり、学ぶ習慣が身に付くとは思えない。肝心なのは学校現場の対応である。

 県教育庁が、期末テスト後の短縮授業見直しや家庭訪問の夏休み実施などを試み、授業時数を確保するよう県立高校に通知を出したのも、学力低下批判が背景になっている。

 完全五日制の導入で、公立校の授業時数がさらに削られることへの父母の不安は確かに大きいだろう。

 県内の三私立高校は、これまで同様に土曜日の授業を行う方針だといわれるだけに、格差が広がってはいけないとの思いがあったのではないか。

 とはいえ、授業時数の確保だけにこだわってはなるまい。生徒が、学校生活で窮屈な思いをしては、学習意欲の面では逆効果になってしまう。

 問題は学力低下の不安だけではないだろう。心配されるのは、生徒が学習意欲を失い、自主的な学習時間が一層減ることだ。

 各校では、学校や生徒の実態に即したカリキュラム編成に努めることが迫られる。どうすれば生徒の興味と関心を引き出す授業を展開できるか、教師の力量も問われることになる。

 これから中高一貫教育の導入など、新たな高校の在り方が模索される。現場の自由裁量が広がる新学習指導要領や五日制導入を、魅力ある学校づくりへ生かしたい。


25日の熊本日日と同じ趣旨なので取り上げるまでもないような記事だが、一箇所だけ気に入ったので採用した。
それは次のくだりである。

生徒が、学校生活で窮屈な思いをしては、学習意欲の面では逆効果になってしまう。

メディアは自由の味方である。何がなんでも自由を叫ばなければ仕事にならないと思っている。

そして子どもは自由にしておけばしておくほど、健全で健やかに育つという迷信が生まれる。