キース・アウト (キースの逸脱) 2002年2月 |
by キース・T・沢木
サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。 政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。 落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。 ニュースは商品である。 どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。 ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。 かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。 甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの、本物そっくりのまがい物のダイヤ。 人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄 。 そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。 |
2002.02.05
中高生は疲れている
[福島民報 2月5日]
4月からの完全学校週5日制で休みになる土曜日に、中学2年生の39%、高校2年生の48%が「ゆっくり寝たい」と答えている。年齢が上がるにつれて回答率が高くなる傾向にあるという。「10代から疲れていてどうする」と一喝したくなった。
だが、文部科学省のこの調査結果と同時期に公表された将来推定人口の数値を読み直したら、考えが変わってしまった。日本の少子高齢化はさらに進み、2050年には65歳以上のお年寄りが35・7%を占めるようになる。お年寄り1人を支える働き手は現在の3・8人から1・5人に減る。厳しい予測である。あと10年もたつと、働き手の最前線に立つのが中高生。「今の休日ぐらいはゆっくり休み、そのときに備えて力を蓄えてほしい」と声を掛けてやりたい。
きょうは立春。厳しい寒さは当分続くだろうが、暦のうえでは春が来た。永井荷風は「人生に春ほどいいものは無い。新しい楽しみを見出すのが此(この)時節だ」と書いている。春は万物をはぐくみ、人の心をのびやかにしてくれる。人生の春といえる10代にも通じるところがある。
週5日制は、週末に家庭や地域での体験を通し、子供たちに「生きる力」を育てることが主眼のようだ。新しい楽しみを見つけ、厳しい現実に立ち向かえるたくましさを身につけてほしい。それには休息も必要だ。
日本の少子高齢化はさらに進み、2050年には65歳以上のお年寄りが35・7%を占めるようになる。お年寄り1人を支える働き手は現在の3・8人から1・5人に減る。厳しい予測である。あと10年もたつと、働き手の最前線に立つのが中高生。「今の休日ぐらいはゆっくり休み、そのときに備えて力を蓄えてほしい」と声を掛けてやりたい。
「オレたちを将来支えてくれる若者よ、ご苦労さん。今のうちにゆっくりしておけや。」と悪意さえ感じられる。
永井荷風は「人生に春ほどいいものは無い。新しい楽しみを見出すのが此(この)時節だ」と書いている。春は万物をはぐくみ、人の心をのびやかにしてくれる。人生の春といえる10代にも通じるところがある。
違うだろ。
キミの十代はそんなにのんびりとしたものだったか?
よおく思い出してみるがいい。
キミの十代は尊大と卑屈、傲慢と不安が激しく交錯した疾風怒濤の時代ではなかったか?
子どもをだますのもほどほどにしてほしい。
週5日制は、週末に家庭や地域での体験を通し、子供たちに「生きる力」を育てることが主眼のようだ。新しい楽しみを見つけ、厳しい現実に立ち向かえるたくましさを身につけてほしい。それには休息も必要だ。
なんという投げやりな、いいかげんな言葉か。
やりきれない。
2002.02.06
土曜も「授業」…埼玉・深谷市
[読売新聞 2月6日]
完全学校週5日制の今春実施に伴って埼玉県深谷市は新年度から、同市立小中学校計19校で児童・生徒の希望者を募り、毎週土曜日に学習指導を行うことを6日までに決めた。
"公立の塾"とも言える土曜学習は、週5日制に対応した同市独自の教育プログラムの一つとして打ち出されたもので、初年度は教材や学費はすべて市が負担する方針で、3月市議会で予算措置する。 同教育プログラムは、週5日制と授業内容が削減される新学習指導要領の導入に伴って、基礎学力の低下に危機感を持った市側の強い意向で計画された。
計画によると、目玉となる毎週土曜の学習指導は、午前中に各学校で行われ、1クラス2人ずつの講師を配し、教科書に沿った指導をする。講師は教員免許を持った非常勤職員や教職員OBが主体で、月に2回は各校の教師も指導に参加する。授業の補充的な側面が強いという。
さらに、夏や冬の長期休暇には、市内の8か所の公民館で講師を招いて週2回の学習会を開催する。また、土、日曜日のいずれか週1回は英会話教室を計画、小学生は原則、保護者同伴で、講師には外国人を起用する。
新井家光市長は「自主的に勉強する子供をサポートし、全体的な学力向上を図りたい」と話している。
これらのプログラムに対し、教育専門家からは「文部科学省の『ゆとり教育』に逆行するのではないか」と指摘する声も出ている。大田堯・東大名誉教授(教育学)は「5日制になったのは、本来ゆとりをもたせるためであり、子供の人間形成に教育上必要があるとして導入された。地方の教育委員会がやるべきことは、学校の勉強を補強するのではなく、子供たちの遊び場などの環境を整えることではないだろうか」と話している。
一方、文科省は休日の活用について、「各自治体で受け皿づくりに取り組むのは評価できるが、休日に学校を開くというプログラムは聞いたことがない。授業の延長ではなく、学校や家庭、地域の中で、子供たちが自然体験やスポーツに親しむことを期待したい」とやや渋い顔だ。
中学1年の女子をもつ同市の主婦(36)は「週休2日で、授業はどうなるのかと心配していた。分からない授業がある場合、補習的に教えてもらうのは歓迎だ」。畜産農家男性(41)は「理想を言えば、子供たちが自由に活動することだが、実際に遊び場は少ない。家に閉じこもるよりは、学校に行ったほうがいいのかもしれない」と、父母側には歓迎、賛成派が多いようだ。
思った通りの方向が出てきた。
特に注目すべきは、
基礎学力の低下に危機感を持った市側の強い意向
という部分である。
相手を非難しようとする場合、有利な戦いを展開するには、非が全面的に相手にあった方がいい。
マスメディアはこの点においてかなり図々しい。
戦いの前哨として、何の反省もなく責任を押しつけてくるからである。
市が危機感を持ったのは学力低下についてではない。
「学力問題に対応しないと次の選挙は知らないよ」
と、無言の圧力が行政のトップに脅しを抱えたからである。
しかし一度でも対応を図れば、散々それを言い立てたメディアはさっさと看板を下ろし、またぞろ学力中心主義批判の狼煙を上げればいいのである。
メディアは何でも反対するダダッ子である。
しかしそれにしても、何の定言もなく圧力に屈する市も市だ。
政治はもはや国民の依存心に果てしなく応えていくことが仕事となった。
公務員とは、そうした甘えた人間をつくるのが仕事だ。
週休2日で、授業はどうなるのかと心配していた。分からない授業がある場合、補習的に教えてもらうのは歓迎だ
それはそうだろう。
子どもの勉強を見てやるなどという面倒は学校がすべきことであって親の仕事ではない。
そんなことは誰かが私たちのためにやってくれるはずのことである。
・・・日本人はもはや人間としての最低の自立も失おうとしている。
今日はもうひとつ大切なニュースがあった。
埼玉県志木市は不登校の子どもの自宅に教師を派遣して、学校に来なくても出席扱いにする制度を、4月から全国に先駆けて実施することにした。(NHK)
学校は果てしなく国民の要求に応える。
そして、学校に行かない方が有利な教育(専門の学校教師によるマンツーマンの指導)を受けられる、という可能性まで生まれてきたのだ。
2002.02.06
アンケートで高校中退の実態明らかに
[四国新聞 2月6日]
高校の特色を知らずに入学し、学習意欲がわかず、相談できる先生もいなかった―。
「中途退学等対策委員会」が実施したアンケート調査で、県内の高校中退者のこんな実態が明らかになった。委員会の「高校中退問題についての報告書」では、アンケートの生の声を中退防止の方策として形にした。
調査は、一九九九年度に公立高校を中退した四百六十一人のうち協力を承諾した百四十人を対象に昨年六―八月に実施。七十二人(回答率51・4%)から回答を得た。
学校選択にあたり、49・9%は「高校の特色を参考にしなかった」とし、50・0%が「学力検査の結果」で進学先を決めていた。また、「志望の高校でなかった」(41・7%)学生の八割は「中退時に高校生活への不適応感を抱いていた」という。自らの経験から、中学校の進路指導では「高校生活や勉強の内容、各校の特色を教えて」とする声が多かった。
学習面では「授業は理解でき、勉強嫌いでもない」とする回答が41・7%あり、同委員会は「学習面への不安でなく、授業に関心がわかずに学習意欲を失うケースが少なくない」と分析している。 中退理由は(1)高校生活が合わない(2)進路変更(3)非行・問題行動―など。退学後の進路は「希望通り」が45・8%、「希望通りでない」が20・8%。中退したことは58・4%が肯定的にとらえている。
中退の時期は、普通科では進路に応じた学習が始まる二年時、専門学科では入学直後がトップ。いずれも「専門的な学習」が中退の引き金になった格好だ。
中退を相談したのは、(1)家族(2)友人・先輩(3)高校の先生―の順。先生は37・5%にとどまり、33・3%は「心配して相談に乗ってくれる先生はいなかった」と学校側の対応にも課題を残した。
中学校の進路指導では「高校生活や勉強の内容、各校の特色を教えて」とする声が多かった。
何を甘えたことを!といった発想はこの記事にはない。
とにかく、「やってあげなかった」大人が悪いのだ。
大人は子どもの前にすべてを用意しなければならない、とそういうことらしい。
「心配して相談に乗ってくれる先生はいなかった」と学校側の対応にも課題を残した。
待っていたけど先生は声をかけてくれなかった。
なるほど、子どもとは気楽なものだ。
ただ待っていれば誰かが何かをしてくれる、そういう人生を送ってきたのだだろう。
そしてメディアもそうした生き方を支持してくれる。
さあて、明日は生徒のために何を用意してやろうか。
他人の子どもだから精一杯大切にしてやらなければならない。
しかし、私は、自分の子のためには美田を残さない。
これでウチの子の勝ちだ。
2002.02.11
社説=指導要録開示 情報共有の発想を広く
[信濃毎日新聞 2月10日]
県立高校の指導要録などについて長野県教育委員会が原則全面開示する方針を決めた。時代の流れに沿う判断である。成績や評価などの個人情報を伏せるのでなく、生徒本人や親と共有して指導に生かす。そんな考え方を浸透させていきたい。
指導要録は一人ひとりの学習状況などを学校が記録し、保管するものだ。県教委はこれまで生徒の行動や性格を記す「所見欄」など一部を非開示としてきた。これを改め、四月以降に作る記録は本人の求めに応じて原則全面開示することにした。
個人情報保護の観点から、当然の決定と受け止める。自分についての情報は自分で自由に手に入れ、必要なら訂正したり、削除できる仕組みが広く求められている。教育にかかわる情報も例外ではない。
大阪府教委など全国的には既に全面開示に踏み切っている自治体がある。県内では上田市教委が二〇〇〇年四月に制度として位置付けた。情報を学校側が独占するのではなく、共有してこそ教師と子供のきずなを強めるのに役立つとの判断だ。
こうした発想をさらに広げるときである。県教委が開示する対象には県立高校入試に関連して中学校から提出される調査書や指導要録の写しも含まれる。市町村教委にはこれを機に、小中学校の指導要録について開示の制度を整えるよう求める。
全面開示の趣旨を徹底することが大事になる。教育の原点に立ち返り指導要録の在り方を再考したい。
開示をめぐり、しばしば指摘される一つは、指導要録の記述に影響しないかという問題だ。「開示を前提にすると、教師がマイナス評価を控えるなど指導要録が形がい化する」といった声が少なからずあり、非開示の理由に挙げられてきた。
何のための指導要録か―を鮮明にしておく必要がある。一人ひとりの成長を見守り、支えるために何をどう記すか。この視点を確かにして本人や親が見るかどうかで記述の内容が変わる余地を少なくしたい。
もう一つ、焦点になってきたのは教師と子供のかかわりだ。「消極的な評価を記していた場合、信頼関係が損なわれる」との見方も非開示の背景にあったことを見逃せない。
記録を見せないことで表面的に良好な関係を保てたとしても、それは信頼関係とは異なる。良い面であれ克服すべき課題であれ、評価の中身は日ごろから本人や親に伝えてあるのが本来の姿だ。この点もあらためて押さえておかねばなるまい。
指導要録の開示については今更議論する必要はない。
情報公開の原則から、開示はなされるべきである。
また開示後、一部の保護者と係争に入り、裁判に訴えられるようなことにならないための最大限の配慮をすべきことも、教師として心得ておかなければならない。
保護者との争いに割かれる時間的エネルギー的な損失を度外視しても、いざ裁判となればしばしば担任のクラスを自習にし、弁護士と相談・資料の作成そして裁判への出席といった膨大な無駄に時間を費やさなければならない。その間の児童生徒の学習はどのように保障すればよいのか。
従って、要録記入上の最大の留意点は、いかなる意味でも係争に持ち込まれない、ということである。
決して
情報を学校側が独占するのではなく、共有してこそ教師と子供のきずなを強めるのに役立つ
などといった知ったかぶりの甘言に乗せられてはならない。