キース・アウト
(キースの逸脱)

2002年4月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。










 
  


  


2002.04.09

「ゆとり教育」を生かそう

[奥羽日報 4月8日]




県内のほとんどの学校で八日、新学期が始まる。春の日差しを体いっぱいに受け、子どもたちが思いを新たに校門をくぐる。

 同時に、公立学校で毎週土曜日が休みになる完全週五日制と、学習内容を三割、授業時間を二割削減する新学習指導要領が実施される。学校での時間を減らし、家庭、地域で過ごす時間を増やして、社会全体で子どもたちの「生きる力」を育てようという「ゆとり教育」の実験が本番を迎える。

 学力低下への不安も広がっているが、二十一世紀を担う子どもたちに身につけて欲しい「生きる力」とは何か、その力をつけるために必要な「ゆとり」とは何かについて、大きな視野で考える機会にしたい。

 不安材料がいくつかある。一つは、学力低下への心配だ。

 ゆとり教育は、受験中心の詰め込み教育、画一的教育を改めるのが狙いだが、知識の量を問う大学入試改革は進んでいない。二〇〇四年の入試以降、国立大学受験はセンター試験の受験科目が増える。土曜日も授業できる私立学校との学力差が開く懸念もある。

 県内の教育現場には、戸惑いながらも、土曜日に自習教室として学校を開放する動きも出ている。授業時間減と学力の維持・向上という相反する課題をどう調和させるか、工夫が求められる。

 子どもをいい大学、いい会社に進ませたいと願う父母も、学力低下に不安を抱いているが、一方で大企業が倒産したり、リストラで解雇されたりするのも現実だ。学校での成績、学歴という狭い意味の学力は、世の中を生きる万能の通行手形ではなくなった。

 これからは、自分自身で生きる道、生き甲斐を探す自己決定能力を育てることがより重要になるだろう。家庭では、増えた休みの使い方を見守りながら、こんな話題を話し合う時間を多く持ちたい。

 学校から開放された二日間の子どもたちの居場所をどうするかも考えなければならない。小学生を持つ共働きの家庭では、家に子どもだけ残る、と心配している。

 市町村や教育委員会で、児童館の開放時間を延長したり、留守家庭児童のためのクラブ増設に取り組もうとしている例も、県内にある。地域の人たちに協力してもらい、子どもたちが伸び伸びできる自然・社会体験の場などを用意できれば、ゆとり教育もより生きてくるはずだ。

 今回の新指導要領の目玉として「総合的な学習の時間」が新設された。教科の枠を取り払い、学校が独自にテーマを設定して、子どもたちが自ら調べたり考える力を養うとともに、学ぶ喜びを知ってもらうことを目指している。

 教育現場からは、テーマ選びや授業計画づくり準備などの負担が大きい、とのため息が出ている。学力対策にも腐心しなければならず、ゆとり教育は教師からゆとりを奪う、との指摘もある。教育行政の支援が必要だ。

 ゆとり教育の旗を振る文部科学省が揺れている。放課後の補習や週末の宿題を奨励し、土曜日の補習も認める方針を打ち出し、教育現場を混乱させている。

 こうした対応をみていると、国の方ばかり向いた教育ではなく、目の前にいる子どもたちときちんと向き合う、という教育の原点を見据える大切さを痛感する。

 −これからは、毎日土曜日が休み。うれしいな、と小学生だったら思うだろう。でも、今は休みが増えたら部活や塾通いで、もっと忙しくなる。本当の「ゆとり」の意味を考えて欲しい−。

 これは、全国紙に載った埼玉県の女子中学生の投書。投書は「私たちは実験台です。新しいことを試されます」とつづっていた。この実験が、子どもたちのために成功するよう、知恵を絞りたい。

これが果たしてまっとうな文章だろうか?
ここまで分かりにくくなるとむしろ悲しくなる。地方紙とは言え、地域の数十人だけが目を通すミニコミ紙ではないのだ。

  1. 学力低下への不安も広がっているが、二十一世紀を担う子どもたちに身につけて欲しい「生きる力」とは何か、その力をつけるために必要な「ゆとり」とは何かについて、大きな視野で考える機会にしたい。
  2. 不安材料がいくつかある。一つは、学力低下への心配だ。

番号をつけた二つの文が離れた位置にあるのならまだわかる。しかし1・2はひとつながりの文なのだ。
筆者は、
「学力低下への不安も広がっているが『生きる力』の育成こそ大事だ。だがそれを考えるうえで一番の不安は学力低下だ」と、
そんなふうに語る。


  1.  学校から開放された二日間の子どもたちの居場所をどうするかも考えなければならない。
  2. でも、今は休みが増えたら部活や塾通いで、もっと忙しくなる。

どうすりゃいいんだ?いったい。

マ、要するに、土曜日の受け皿は必要だが部活や塾はダメで、
児童館の開放時間を延長したり、留守家庭児童のためのクラブ増設に取り組もうとするのはいいと言う主張なのだろうが、部活や塾で苦痛を味わっている子どもたちがどれほどいるのか、そのことはまったく考えていない。
現実はどうであれ、私はそう考えるのだからそうなのだ、それだけのことである。
これが日本のマスコミの実力か思うと、ほんとうにかなしくなる。
 




 



2002.04.13

頼りない“総合学習”

[紀伊民放 4月11日]


 この4月から公立校で「総合学習」という授業が本格的にはじまる。ほとんどの小中では移行措置としてすでに行われてはきた(本紙でも一部紹介)が、どうも評判がよくない。

 ▽教育現場だけではなく、父母や教育関係者からも疑問の声があがり、本格的にはじまる前から「失敗するのが見え見え」「5年で消えてゆく運命」「学力低下の引き金」「普通の学校の普通の先生には無理」とかの主張が目立ってきた。文部科学省自体も、新指導要領は実施直後から随時見直す方針を表明するなどぐらつきを見せる。

 ▽筆者は以前から、小中での「子ども中心主義」の教育効果自体に疑問を持っていた。それだけに総合学習にいう「児童生徒の無限の可能性」だの「自主性に委(ゆだ)ねる」などは、理念先走りの空虚な実験のように見える。そりゃみごとにこなせる先生もいるだろうが、ごく少ないと見る。

 ▽出発時から筋道の見えにくい「総合学習」というものが、もし「手にあまるやっかいごと」になり、「イベント主義」「体験主義」との批判で破綻(はたん)していくことになれば、ちょうど実験期に当たった児童生徒こそ大迷惑である。

 ▽そんな頼りないことを、文部科学省が号令かけて国をあげてやっていいのだろうか。その不安を予測して私立では必ずしも同調しない傾向にある。都内のある教育者が、「号令をかけた役所の方々の子弟が、公立を避けているように見えるのは思いすごしだろうか」とつぶやいていたのが印象にのこる。

 ▽教科の内容を3割も削ってまで強行する価値があるとは到底思えない。最も知的吸収力が旺盛で貴重なこの時代に、もっと落ちついて基礎基本をしっかり身につけさせることこそ可能性に迫る力とつながり、自分で見つけ、生きる力と結ばれてゆくものであろう。教科そのものに総合学習の理念を生かす営為こそ本来の道筋と主張したい。




筆者は以前から、小中での「子ども中心主義」の教育効果自体に疑問を持っていた。それだけに総合学習にいう「児童生徒の無限の可能性」だの「自主性に委(ゆだ)ねる」などは、理念先走りの空虚な実験のように見える。

筆者君、キミはいつそのことを語った?
知識偏重、受験中心主義、考える力をつけない学校教育、制度疲労をした学校教育、これからは生きる力だ、

児童生徒の無限の可能性をつぶすな、子どもの自主性を育てることこそ教育の行うべきことではないか等々と、全マスメディアが結束して当時の文部省や学校を叩き続けていたとき、キミは何をしていた?

ふざけるな紀伊民放!

王様が裸だと分かってから、
「そんなこと、私は前々から主張していた」と言う。

それは卑怯者のやることだ。



 


もうひとつ


ゆとり教育の建前化

[山梨中央新報 4月11日]



 新学期から学校完全週五日制が実施された。教科内容を大幅に減らして、子どもたちにゆとりを与える。その中で自ら学び考える力を身に付けてもらう。教育の在り方としては理想の姿が描かれている。しかし現実には「学力の低下を招くのではないか」といった批判や懸念が、あちこちから噴出している

▼学力低下の懸念は、うがってみると学力格差への懸念につながるようだ。完全週五日制といっても私立学校は強制されない。学校側の判断にまかされている。公立の学校だけが土曜日を休んで、私立では土曜の授業を続ける。その結果として、公立と私立の間で学力格差が広がる懸念

▼私立学校の少ない島根県内では目立たないが、大都市では中高一貫教育を含め、私立側の学力優位が進んでいる。完全週五日制は、学力の「私高公低」に拍車を掛けるのではとの懸念が広がっている。せち辛い見方をすれば、父母たちが抱く学力低下の懸念は「みんなで低下すれば怖くない。しかし、うちの子どもだけがそうなるのは困る」という将来の大学受験に向けての不安に行き着くのではないか

▼この問題を父母たちがどうみているかは、子どもたちの土曜日の塾通いがバロメーターとなりそうだ。完全休日となった土曜日に塾通いが増えるようでは、ゆとり教育は建前に終わる。ゆとりが乱塾に吸収される可能性は大きい。その一方で家庭や地域に受け入れ態勢ができないまま孤立する子どももいる

▼学力低下と隣り合わせで建前化するゆとり教育。それは私学との学力格差を伴いながら、公教育を形がい化させる。何のためのゆとりか。視線をあらため子どもたちに向ける。


この問題を父母たちがどうみているかは、子どもたちの土曜日の塾通いがバロメーターとなりそうだ。
と、そういわれても困る。
土曜日の塾通いは全体として確実に増えるからだ。

年間を通じて土曜日が休みとなれば、塾もお稽古事も土曜日の午前中から時間を設定する。
もともとがゼロだったところに子どもがたくさん来るわけだから、どう見ても塾通いが増えるに決まっている。それを見て鬼の首を取ったように言われても困る。

同じ時間、同じように地域の活動に参加する子どもも増えてくる、外でふらふらする子どもも増えてくる、同じように塾に通い始める子も増える。
それらはみな、学校が休みになったからだ。


何のためのゆとりか
そうだ。
私もそう思う。

管理教育や知識偏重主義、過酷な受験戦争というとうに実体のなくなった概念を持ち出して「ゆとり」を強要したマスメディアの先輩諸氏に聞いてきてほしい。


 





2002.04.17

ひきこもり8割が男性平均年齢26.6歳
 600家族調査


[毎日新聞 4月16日]


 成人後も自宅などに長期間閉じこもり、社会活動に参加できない「大人のひきこもり」が深刻化している実態が16日、教育評論家の尾木直樹さんが実施した約600家族の調査で明らかになった。

調査は、全国引きこもりKHJ親の会(埼玉県岩槻市、奥山雅久代表)の会員を対象に1〜2月、記入方式でアンケートし、585人の回答を分析した。厚生労働省は昨年、保健所などに寄せられた相談をもとに実態調査をしたが、家族を対象にした大規模な調査は初めて。

 それによると、ひきこもっている人は約8割が男性で、平均年齢は26・6歳。20歳代が約6割を占め、30歳以上も約3割に上った。最高年齢は47歳。厚労省の調査では、20歳代が約4割、30歳以上は約2割だった。

 親も高齢化しており、50歳代が約6割、60歳代が約2割。70歳代の母親が、ひきこもっている30歳代の娘と孫の面倒をみていたり、70歳代の父親が40歳代の息子を世話しているケースもあった。

 利用したことのある相談機関は、病院・診療所が約6割、家族の会が約5割、保健所が約3割だった。相談が役立ったと答えた人の約6割が家族の会を挙げ、病院・診療所は約3割、保健所を挙げた人は約1割と少なかった。

尾木さんは「解決への展望がない中で、親も孤立して混乱している。公的機関の相談体制を充実させるなど、社会的に支援する必要がある」と指摘している。

 

基本的に、私には「ひきこもり」と「不登校」の区別がつかない。
学校という「行くべき場所」がある時期の「ひきこもり」を、不登校と言うのだと私は思う。少なくとも一部の不登校はそうだ。

不登校について、メディアはかつて厳しい受験競争と管理教育、そして登校を強制する学校や教師の無理解が原因であるとして激しく攻撃した。

20年の闘争を経て、学校は破れ、多くの校則を捨て、様々な点で自由化を進め、無数の管理手法を放棄した。
受験においても「輪切り」と言われた厳しい選別が放擲されたが、その成果が見られる前に、少子化によって「厳しい受験競争」そのものが消滅してしまった。
そして「不登校の児童生徒には登校刺激を与えてはいけない」という指導方針は(一部を除き)徹底されるようになった。
その結果、不登校を含む学校の状況はどうなったか。


今、推定100万人、最高齢47歳というひきこもりを生み出してしまったこの社会に対して、メディアはこう語るべきではないか。

「引きこもり100万人を生み出した背景には、厳しい生存競争と社会の管理主義にある。
また、ひきこもる青年・中年に対する社会の無理解も原因の一つに上げられるだろう。

今や入社試験によって厳しく人間を選別するという非人道的、差別的な社会のあり方を考え直すべきときである。
だれでも自由に企業を選べる社会、それこそが理想的な社会であろう。

そして管理主義。
本来は自由であるべき出社時間をタイムカードまでつくって一秒の遅刻も許さない、そのくせ退社時間を過ぎても働かなければならにという矛盾。
書類が締め切りに間に合わない、決済が遅れる、不渡りを出す、そのたびに繰り返される怒号と叱責、これが人間の生きる場として正しいものであろうか。

100万人の「ひきこもり」はその意味で社会に警鐘を鳴らす者である。
私たちはその無言の声に耳を傾け、その意を汲んで社会を変えなければならない。それが企業家としての人間のもっとも行うべき正しい道である。



 




2002.04.20

社説「丸刈り」論議 校則改正のシステム必要

熊本日日新聞 4月19日]




 宇土市の鶴城中が校則違反の長髪だった生徒を卒業式に出さなかった問題は、本紙の「読者の広場」でも論争を呼んでいる。その内容は「ルールには従うべき」という支持派と「子どもの心情を考え、学校の校則管理を見直すべき」という批判派にほぼ二分される。校則論争は古くて新しいものだ。これまでも繰り返されてきた。今回も同じであり教師の積極的な発言が少ない点に注目をしたい。

 学校教育には、子どもの個性を伸ばし、社会に適応するための社会性の定着を図る、などの目的があるはずだ。子どもの個性の育成を重視すれば、画一的な校則運用は批判されがちだ。社会性の定着に力点を置けば、ルールの順守が肯定される。ただし、学校現場はその調和に苦労しており、ことに教師は疲労しているというのが現実だろう。教師からの発言が少ないのも、こうした背景があるためと思われる。

 激しく変化する時代にあって、学校教育の対応は遅れている。この影響もあり、学校教育に必要性を感じる生徒と感じない生徒の層が分かれつつある。それらが混在する公立中学校の運営は困難さを増している。必要性を感じない生徒にとって、学校に自分の「居場所」を見出すことが難しく、校則に違反することで自分の存在を主張しようとする。この事態は、外部から「学校の崩壊」として強い批判を浴びる。

 この事態を予防するためにも、学校は細かな校則を設け、その順守状況を見て生徒の学校に対する感情を測りたがるようだ。「校則の順守ぐらいのことは社会でも要求される。その練習をしつつ、勉強に専念するのが本人のため」という教師としての「愛情」も加わる。

 鶴城中の場合、長髪が許される熊本市内の中学校から転校してきた生徒が丸刈りを強制する校則に疑問を持った。校則違反で存在を主張するケースとは違う。それでも学校は卒業式に出さなかった。その心情も推測はできる。卒業式には一、二年生も出ており、校則違反の生徒に対する教師の態度を見ている。例外を認めると、在校生のさまざまな校則違反への誘因になる、と教師たちは心配したはずだ。校則に疑問を持つ生徒の個性や自由への意識を大事にしようとする保護者と在校生の目を気にした教師の間にズレが生まれた。

 学校側の対応がすべて正しいとは思わないが、学校と教師が置かれている環境は校則論議の中でも理解されるべきだろう。学校に教師を増やしたいし、トラブルを調整するスクールソーシャルワーカーもほしい。保護者や地域の協力も望まれる。疲労した教師を批判するだけでは改革のエネルギーは生まれない。

 四月からは新しい理念を盛り込んだ学校教育が始まっている。ここでも自由や個性が重視され、総合的学習や習熟度別の学習も導入された。しかし、学校の「貧しい環境」の中では、それらが子どもの学力格差を拡大し、一層の学校離れを招いてしまうことも心配される。

 学校には細かな校則があり、妥当性が疑わしいものが含まれるのも事実だ。校長の裁量権を理由に校則の順守を求めることが可能な時代ではない。学校は校則の設定経過や必要性について説明してほしい。

 また、校則について生徒や保護者から異議が出た場合に備え、改正を論議するためのシステムを整備しておくべきだ。この運用も、設置が進められている学校評議員が中心となとなり、地域住民、法律の専門家などの意見を反映できるようにするのも一つの方法であろう。

もしかしたらメディアは十分に学校の状況を判っているのかもしれないと思うときがある。

常に学校や教師が叩かれる記事しか目にしてこなかった私には、以下のような文はフッと涙さえ浮かんできそうになるものである。

  • ただし、学校現場はその調和に苦労しており、ことに教師は疲労しているというのが現実だろう。教師からの発言が少ないのも、こうした背景があるためと思われる。
  • 「校則の順守ぐらいのことは社会でも要求される。その練習をしつつ、勉強に専念するのが本人のため」という教師としての「愛情」も加わる。
  • 学校側の対応がすべて正しいとは思わないが、学校と教師が置かれている環境は校則論議の中でも理解されるべきだろう。学校に教師を増やしたいし、トラブルを調整するスクールソーシャルワーカーもほしい。保護者や地域の協力も望まれる。疲労した教師を批判するだけでは改革のエネルギーは生まれない。

しかし

例外を認めると、在校生のさまざまな校則違反への誘因になる、と教師たちは心配したはずだ。

と極めてまっとうな話をした直後に、

校則に疑問を持つ生徒の個性や自由への意識を大事にしようとする保護者と在校生の目を気にした教師の間にズレが生まれた。

と書かれると、やはり教師は個性や自由の敵であり、単に在校生の目を気にして戦々恐々と働くばか者としか見られていないことに改めて気づく。メディアは結局こんな書き方しかできないのだろうか?

この(学級崩壊という)事態を予防するためにも、学校は細かな校則を設け、その順守状況を見て生徒の学校に対する感情を測りたがるようだ。

フー、

全体としてこの20年間に校則は驚くほど削られ、もはや必要最低限にまで縮小された。

これでもまだ多すぎるというのか。



 



2002.04.21

社説=奉仕活動 自発性を重視してこそ

信濃毎日新聞4月20日]


青少年の奉仕活動をどう促したらいいか。中央教育審議会がまとめた中間報告は、高校での単位認定などさまざまな方策を提言した。あくまで子供や若者の自発的な取り組みが基本である。一律に押しつけるような方向へ傾いてはならない。

 中間報告は奉仕活動について「より良く生き、より良い社会をつくることにつながる」と指摘し、きっかけや後押しを与える仕組みづくりを求めた。単位認定のほか、入試での評価や活動に応じた公共施設の割引制度などを具体策に挙げている。

 文部科学相の諮問を受け、昨春から検討してきた。論議の出発点は首相の私的諮問機関「教育改革国民会議」の最終報告である。小中学校で二週間、高校で一カ月間の奉仕活動を全員が行うよう提起していた。

 奉仕活動をはじめ、青少年の多様な体験は、社会性や豊かな人間性をはぐくむうえで大切だ。幅広い触れ合いを通して社会への興味や関心を高めたり、理解を深めていく余地がある。自らの力で何事かを成し遂げる充実感や喜びも得難い。

 問題は、どう自主性を損なわずに広げるかだ。国民会議は一時、奉仕活動の義務化を打ち出し、波紋を呼んだ。国が号令をかけ、一斉に進めるような性質のものではない。この点をあらためて強調したい。今回の審議に危うさも覚えるからだ。

 中間報告の示した方策は、事実上の義務化につながる心配がある。例えば、高校入試の評価対象にボランティア活動などの実績が加わった場合、生徒は取り組まざるを得なくなる。後押しやきっかけづくりという狙いをそれ、強制の色彩を帯びる。

 ボランティアは本来、自発的な活動だ。見返り目当ての取り組みが広がり、ボランティア精神をゆがめるようだと社会にとってもプラスにならない。逆に「見返りほしさの活動と同一視されたくない」と意欲をなくす人が出てくることもあり得る。

 学校での奉仕活動については既に昨年の学校教育法改正で、充実に努めることが盛り込まれた。国民会議の提言とは距離を置いた格好だ。国会審議では、地域の実情に沿って対応することを確認している。この基本をこれからも崩すべきでない。

 一人ひとりの意思を丁寧にすくい上げ、主体的な活動を引き出していく努力が大事だ。「総合的な学習の時間」の新設などを契機に、多様な体験を促す試みは各地で始まっている。地域主体の取り組みを適切に支援するのが国の務めである。


「概念がまったく一致するものが国内に存在する場合、外国語は生き残れない」という原則がある

簡単に言ってしまうと、「ゴリラ」という外国語はもともと日本に存在しなかったために日本に定着することができたが、「キャット」はまったく同じものが「猫」という名で存在したため定着することはできなかった、ということである。


 一方に「奉仕活動」という言葉がありながら、「ボランティア」が日本語の中に入り込み定着した背景にはそうした概念の差がある。語の定義の問題ではなく、実感として「奉仕活動」と「ボランティア」はことなっていりのだ。

(「奉仕活動」はおそらく「ボランティア」の訳語である。こういう場合も通常はどちらか一方しか残らない。「自動車」は残ったが「カー」は消えた。一旦は定着したかのように見えた「電子計算機」も、ソレが「計算機」の枠を超えてしまって以来「コンピュータ」と元の名で呼ばれるようになった。同じものをあらわす語は、同時に二つ生き残ることはない)



では、「奉仕活動」と「ボランティア」の差は何かというと、それはまさに信濃毎日新聞のいう通り、

ボランティアは本来、自発的な活動だ。

ということになる。「自主性」が二つを分けるのだ。
奉仕活動が「仕え奉る(たてまつる)活動」であって一向に強制して構わないのと異なり、ボランティアはその自主性において「奉仕」とは別物なのである

したがって政府がボランティアを強制するとしたらそれは欺瞞であるが、奉仕活動を強制するのはまったく別の議論であろう。


中央教育審議会は奉仕活動を義務化しようとしている。
私はそれでいいと思う。


奉仕活動の義務化の問題は、まさに
青少年の多様な体験は、社会性や豊かな人間性をはぐくむうえで大切だ。幅広い触れ合いを通して社会への興味や関心を高めたり、理解を深めていく余地がある。自らの力で何事かを成し遂げる充実感や喜びも得難い。
という信濃毎日新聞が説明するような考えの人々の中から主張されてきたものである。
奉仕活動は役に立つだろうという推測では、文部科学省もメディアも一致している。

しかしそれにも関わらず、メディアは奉仕活動を拒否する。
なぜか?

論拠は次の2点である。

  1. 義務化された「奉仕活動」が、ボランティア活動のフィールドに踏み込み、まじめで誠実なボランティアの活動を陳腐化してしまう。衷心から行っているにもかかわらず、義務化されたために仕方なくやってる連中と混同されたり、成績目的やっているのではないかと誤解され気の毒である。
  2. とにかく強制はいやだ。一律に押しつけるような方向へ傾いてはならない。

ところで現代の若者について、奉仕活動を必要とする児童生徒と、熱意をもってボランティア活動に取り組む子と、どちらが多いのだろう? ボランティアに勤しむ誠実な青少年諸君にはそのボランティア精神を持って屈辱に耐えていただきたい。日本はそこまで病んでいるのだ(正確に言えばまだ病んでいない。だから今しかない)。


2については曽野綾子の言葉を援用する。

 昔一人の善意に溢れる進歩的教師に会った時、彼はこう言った。

 「ある日生徒が来て言うんだよ。『先生、ドアからだけ出入りできるもんじゃねえな。窓からも外へ出られるんだな』って。ほんとに子供っつうものは、おもしろいことを発見するもんだ」

 これが自由な教育を考える一つの姿勢だったのだ。物事には、簡単な約束、つまり強制される認識の部分が必ずある。ドアはその外側に歩いても安全な平面があることを約束している。しかし窓はそうではない。そこから脚を踏み出せば、数十階下に転落するかもしれない。運動場は歓声を上げて走ってもいいところだ。しかし教室は静かに座って教師の言うところを聞く場所だ。これらも強制的に場の意義を納得した上で、自発的に受け入れる認識である。それだけの約束ごとさえも、五十五年間、教師たちも親たちもしつけられなかった。個の確立は何年待てばいいのだ。

 既にあちこちの教育の場で「やや強制的な奉仕活動」は行われている。奉仕活動というものはやっていない人ほど反対する。経験すれば多数の人がそれなりの楽しさを発見する。「他人への思いやりが自己を取り戻すきっかけになるというのは幻想というべきだ」と上坂氏は言うが、私は全く反対の体験者を実に数多く見て来たのである。