キース・アウト
(キースの逸脱)

2002年6月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。










 
  


  


2002.06.06

日本の高校生・「達成感」持てる教育に

[沖縄新報 6月5日]



 

日本の高校生の73%が「自分は駄目な人間だと思うことがある」という。その比率は米国の48%、中国の37%と比べ、突出している。自己否定的な次代の担い手と大人はどう向き合うのか、問われている。


 東京にある財団法人日本青少年研究所がこのほどまとめた「高校生未来意識に関する調査」には、こんな比較もある。「私は他の人々に劣らず価値のある人間である」との問いに、日本の高校生は62%が否定的な回答をした。同じ質問に対し、米国では89%、中国では96%が肯定的回答をした。衝撃的な数字だ。


 経済低迷で自信を失った大人の心が高校生に投影されているのか。あるいは「個性重視」と言いながら優等生であることを求め、型にはめたがる大人へのいら立ちや反発が潜んでいるのか。胸に手を当ててみよう。われわれは、子どもたちを冷静かつ正当に評価してきたのだろうか。


 今回の調査では、日本の高校生の六割が塾や予備校に通う一方で、過半数が自宅ではほとんど勉強しないことが分かった。「計画をやり遂げる自信がある」という日本の高校生は38%にとどまり、米国の86%、中国の74%と比べ、極端に低い。

 人は誰もが大きな可能性を秘めて生まれてくる。人間の数だけ人格があるのと同じく、人間の価値も人それぞれである。人間が他の動物と大きく違うのは、知恵や道具を用いて一見不可能に見えることも可能にする能力がある点であろう。

 近年、戦後教育の見直し論議がかまびすしい。奉仕活動とか勤労観をはぐくむ教育の推進などが指摘されるが、われわれはもっと根源的なところで子どもたちと対話を深める必要がないか。して良いこといけないこと、人生の目的、他者への愛は自らを大切にすることから始まるということなど、子どもを導くのは親、大人の責任である。

欠点を指摘する「減点型」教育から、子どもが「達成感」をもてるような「加点」思考の教育に、大人自身が転換しなければならない。



日本の高校生の73%が「自分は駄目な人間だと思うことがある」という。その比率は米国の48%、中国の37%と比べ、突出している。自己否定的な次代の担い手と大人はどう向き合うのか、問われている。

それは大変だというので急いでニュースソースを見たらなんということはない、20年前の高校生だって自分のことを高く見積もってはいなかった(「自分は駄目な人間だと思うことがある」20年前は68.5%)。それでもこの国はそこそこやってきたのである。
(以下、下の表を参照)

約4.5%の増加分はアンケートから「なんとも言えない」という選択肢がなくなったせいかもしれない。
いや、20年前は高校3年生だけだったアンケートを1年生から3年生まで割り振ってしまったからこうなったのかもしれない。就職や進学を控えて否がおうにも現実的にならざるを得ない3年生と、まだ半分は雲の上みたいな1年生とでは意識もだいぶ違いそうだ。
「自分は駄目な人間だ」と思いながら深刻にならずにいられるのはやはり一年生だからだ、とそんな言い方だってできそうだ。
あるいはまた調査対象が20年前は男子の方が32%も多かったのに、今回は逆に女子の方が32%も多い、そのことが原因なのかもしれない。
いずれにしろ素直には信じがたい調査ではある。


「私は他の人々に劣らず価値のある人間である
についても
、記事は日本の高校生は62%が否定的な回答をした。同じ質問に対し、米国では89%、中国では96%が肯定的回答をした。衝撃的な数字だ。
と書いているが、肯定的な答えを書いた生徒だって20年前の29.5%から37.6%へと増えているのである。

確かにアメリカ・中国における肯定的な回答は高いが、すべての生徒の9割余りが「自分には価値がある」と叫ぶ国の文化を、単純に良しとするわけにはいかない。この場合の「価値」が何を意味するか分からないが、もし米中の高校生たちが極めて優れた社会的価値があると信じていたとすれば、それはとんでもない思い上がりというものであろう。私は日本の高校生たちの奥ゆかしさの方が好きだ。


その他、
なぜこの20年の間にアメリカの高校生は自分たちを極めて高い価値のあるものとみなすようになったのか(33%→60.7%)など疑問も多い。どれを考えても、単純に読み取れる資料ではない。


しかしそれが沖縄新報から見ると、極めて意味の明確な数字となるらしい。
 経済低迷で自信を失った大人の心が高校生に投影されているのか。あるいは「個性重視」と言いながら優等生であることを求め、型にはめたがる大人へのいら立ちや反発が潜んでいるのか。胸に手を当ててみよう。われわれは、子どもたちを冷静かつ正当に評価してきたのだろうか。

あるいは「個性重視」と言いながら優等生であることを求め、型にはめたがる大人へのいら立ち
おいおい、本気で優等生であることを求める大人なんて保護者の中にだっていないぞ。ましてや教師は「全員が優等生なら優等生は一人もいない」と考えるような人々だ。
たしかに型にははめたがっているが、学校が子どもを「平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民」(教育基本法)という型にはめることを止めてしまったら、何のための公教育なのか。
教育基本法に描かれるような人間にしたくないというなら、独自に犯罪者を養成すればいい。
個性重視だって、人間としての道を外れるものまで許容しはしなかったはずだ。


欠点を指摘する「減点型」教育から、子どもが「達成感」をもてるような「加点」思考の教育に、大人自身が転換しなければならない。
もっともである。
しかしその「欠点を指摘する『減点型』のものの見方」は、メディアが常にし続けてきたことだ。そのことをお忘れなく。



以下参考資料(なお、「高校生未来意識に関する調査」の詳細については
http://www1.odn.ne.jp/youth-study/reserch/mirai/gaiyo.htm
を参照のこと。




調査対象の基本的属性
日本 アメリカ 中国

1980年

2002年 1980年 2002年 2002年
1.男 57.0 43.0 45.7 48.9 43.3
2.女 43.0 57.0

49.9

51.2 56.7
無回答 0.0 0.0 4.4 0.5 0.0
実数 7239 1250 28240 947 1226
学年
日本 アメリカ 中国
1980年 2002年 1980年 2002年 2002年
1.高一 33.1 27.0 33.0
2.高二 36.4 47.1 34.8
3.高三 100.0 30.5 100.0 25.9 .32.2



C.私は他の人々に劣らず価値のある人間である
  日本 アメリカ 中国
1980年 2002年 1980年 2002年 2002年
1.よく当てはまる 7.7 11.0 33.0 60.7 73.1
2.まあ当てはまる 21.8 26.6 53.5 28.6 23.3
3.あまり当てはまらない 20.5 46.3 4.3 6.8 2.4
4.全然当てはまらない 7.7 15.5 0.7 2.9 0.6
なんとも言えない 42.0 - 5.0 - -
無回答 0.3 0.6 3.5 1.1 0.5




J.自分はダメな人間だと思うことがある 
  日本 アメリカ 中国
1980年 2002年 1980年 2002年 2002年
1.よく当てはまる 12.9 30.4 5.9 11.9 11.1
2.まあ当てはまる 45.6 42.6 37.0 36.4 25.8
3.あまり当てはまらない 16.5 19.4 32.4 26.9 37.6
4.全然当てはまらない 8.0 7.4 14.5 23.7 24.7
なんとも言えない 16.7 - 6.0 - -
無回答 0.3 0.3 4.2 1.2 0.8



ついでに、同じ内容に関する別の新聞社の扱いもみてみる。

高校生像を数式で解いてみよう[福島民報 6月7日]
 高校生諸君へ正直に問う。本当にそう考えているのか。4人に3人、正確には73%が「自分は駄目な人間だと思うことがある」と。

 これは文部科学省の外郭団体・財団法人日本青少年研究所が、つい最近発表した日本、米国、中国の高校生合わせて2400人を対象に行った調査で判明した日本の若者像である。48%の米国、37%の中国と比べると隔たりが大きい。

 他の調査項目でも「計画をやり遂げる自信がある」という日本の高校生は38%にとどまり、米国の86%、中国の74%にこれまた負い目を背負う。さらに「あまり誇りに思えるようなことはない」と答えた割合も日本は53%で米国24%、中国23%よりはるかに高く、日本の高校生は自信喪失人間が数値の上で目に付く。

 だから日本の高校生は「自己否定的である」と一刀両断に決めつけていいのだろうか。あるいは、日本の若者は自分たちがこれからの社会をつくっていくとの意識が薄いため、社会への不満が強いのだろう、と即断していいのだろうか。

 数字は必ずしも正鵠(せいこく)を射ているとは限らない。同時に人間の五感をマヒさせる呪的要素も潜んでいる。一直線的な数字信仰の裏側には往々にして目に見えない本音が黙然と張り付いていることを忘れてはなるまい。

 不適当な例を許してもらえば、交通事故で1人が死亡した時には、新聞やテレビではその人の住所、氏名、年齢、職業等々が報じられる。旅客飛行機が墜落して多くの犠牲者が出たとしたら、「100何人犠牲」というようにひとくくりの悲しい数字でしか報道されないのが現実であろう。

 同じように先に挙げた青少年研究所の「日本の高校生『自分は駄目』7割」と調査結果を公表しても、高校生1人1人がどんな心の状態の時に調査項目に記入したのか。その肉声は伝わってこない。 しかし、調査結果をアタマから否定するつもりはさらさらない。半信半疑どころか「六信四疑」程度の率で調査の数値を受け取っている。良風も吹かず良識も踏みにじられる、いいかげんな時代にはいいかげんな反応しかしない。その現状を日本の高校生は純な心のアンテナで受信したのではないだろうか。

 先日、三島町の三島中学校の鶴見常夫校長は簡単な数学の式を使って地域文化論を解き明かしてくれた。その式とは、分母に「地域」、分子には「若者」を代入する。若者を地域で割れば、解答が得られる、という。鶴見式解法によれば「分母の地域がグラグラしていいかげんになると、分子の若者も方向を見失い、荒廃した荒野を歩き回るようになっていく」。これが鶴見校長の解答だ。

 この鶴見公式は応用範囲が広い。例えば、分母に「老年熟年者」、分子に「現代の若者」を挿入して、鶴見式にならって分子を分母で割る。公認されている正解は「いまどきの若者は、私の若いときに比べて礼儀もわきまえず、本も読まない」。

 そこで高校生諸君、分母の「老年熟年者」が若者時代に、当時の老年熟年者から何と言われていたか。ぜひ解いてくれたまえ。答えを導き出せば、自信がもりもり湧く。(渡辺 紀士見)






2002.06.06

学校の森

[沖縄タイムス 6月6日]




本紙教育面エッセーを執筆する高山厚子校長の金沢小学校=東京都板橋区=を訪れたのは五月上旬。けやきの新緑が芽生え、心地よい気分になった。約二千本の木々が学校を囲むという「学校の森」は評判通りだった。
都会の学校とは思えないほどの静けさ。豊富な木々を教材にする環境教育に力を入れてから七年。取り組みは全国に知られ、子どもたちには自慢の学校だ。授業、生活面でもいい影響が出て、欠席児童も少ない。

授業時間を知らせるチャイムを鳴らさないノーチャイム制だから、ゆったりとした学校の空間が漂う。子どもたちは自分で考え行動するようになり、上級生が下級生に「授業だよ」と声を掛け合うなど交流の場も生まれている。

高山さんが取り組むのは、地域の人たちを学校運営に参画させること。荒れる学級があると、親に授業を見てもらい、教師と一緒に対処してもらう。「みなで子どもを育てよう」という考えからだ。


旧羽地村出身の高山さん。父親も中学校長だった。最近、父を知る恩師から「お父さんと同じことを東京でしているね」と電話をもらった。戦後まもない廃虚の沖縄で父親は木々を植えることに懸命だった。「植樹じゃないよ。子どもたちの心を育てる“育樹”だよ」と言いながら。

親から子へ。山原の自然の恵みが継承されている。高山さんの話を聞いて、そんな感慨を持った。(銘苅達夫)




基本的には問題のなさそうな記事である。
しかし気になる。

ノーチャイム制だから、ゆったりとした学校の空間が漂う

どこの学校が行ってもノーチャイム制だと気持ちにゆとりが生まれるのだろうか?
子どもたちは自分で考え行動するようになり、上級生が下級生に「授業だよ」と声を掛け合うなど交流の場も生まれている。
どこの学校でも時間の管理は重要な仕事だが、チャイムを鳴らさないことで本当にそれは達成されるのだろうか? そんなに簡単なことだったのか。

荒れる学級があると、親に授業を見てもらい、教師と一緒に対処してもらう。「みなで子どもを育てよう」という考えからだ。
その程度で収まることを、なぜ学校単独ではできないのか。


学校が落ち着いているのは事実だろう。
しかし記者の取材は甘くはないか?
チャイムをなくしたから子どもたちが落ち着いたのではなく、子どもたちが落ち着いているからチャイムを止めることができたのではないか。

荒れた学級があると・・・にしても、ゆったりとした学校の空間が漂うと表現されるような学校では、そもそも「荒れる」の概念が違うのではないか。


もしかしたら児童の落ち着きも、森やノーチャイムのおかげではなく、
全国に知られ、子どもたちには自慢の学校だ。という一種の選民意識によるものなのかもしれない。

子どもを考えるというのはそういうことである。










2002.06.11

障害児就学指針
共に学ぶ場を広げよう


[沖縄タイムス 6月9日]




心身に障害があっても、養護学校でなく普通の学校で学びたいと希望する子どもや保護者らが、待ち望んでいた朗報である。
 那覇市教育委員会は、養護学校への就学を判定された障害児でも、市の幼稚園や小中学校への受け入れに道を開く指針をまとめた。
 障害のある子に地域の学校で学べる機会を広げる学校教育法施行令の改正を受けての試みである。県内では初の指針策定で来年度から実施される。

 これまでも保護者と教育委員会で話し合い、車いすに頼る子どもらが普通学校で学ぶケースは増えていた。
 差別のない社会を目指すノーマライゼーションの浸透や、障害のある子もない子も共に学ぶ教育の在り方が世界のすう勢となっている背景があり、後押ししたのだろう。
 その意味では、障害のあるなしにかかわらず子どもたちが一緒に学ぶ教育に、行政がやっと追いついたといえるのではないか。

 とはいっても、障害のある子を普通学校へ通学させるまでの、保護者や関係者らの活動や苦労は並大抵ではなかったはずだ。
 指針ができたとはいえ、障害児が普通の学校で学ぶには、なお越えなければならない多くのハードルがあることに変わりはない。

 障害児の普通学校への通学を実現するには、安全の保障、保護者やボランティアらの支援、スロープやトイレなど学校の施設設備の整備など条件をクリアする必要がある。
 仕組みに魂を吹き込み、有効に活用するのは行政の責任である。市教委はヘルパーや専門家の派遣、教員の加配など早急に県に要請するとともに、教職員の啓発など受け入れ態勢づくりにも万全を期すべきだ。

 また、早急に障害児の実態を調べ、来年四月には希望する児童が学べるよう着実な一歩を踏み出してほしい。
ハンディがあっても普通学校へ進みたい子どもは那覇市にとどまらない。ほかの市町村も対応を急ぐべきだ。



この記事に否定的なコメントを書くのは心苦しいことである。
しかし学校におけるノーマライゼーションの現実的な意味は、現場の教師が記述しておくべき内容だろう。批判があれば、伺いたいところである。


さて、
記事にあるような「養護学校への就学を判定された」障害児が、シンディーの勤務校では3年前から障害児学級に入級しているのだ。
入学したときは2歳児相当でトイレットトレーニングも十分できておらず、母親と担任の識別も困難であった。

この3年間(正確には2年2ヶ月)の成長は大きく、トイレのことはほとんど心配しなくて済むし、まだなかなか視線は合わないものの、促せばあいさつもできるようになった。
それが養護学校ではなく普通学校を選んだ成果かどうかはわからない。養護学校の方がさらに大きな成長が見込めたという人もいるが、実験のできることではないのでよく分からないのだ。


障害のある子を普通学校へ通学させるまでの、保護者や関係者らの活動や苦労は並大抵ではなかったはずだ。と、そのことは間違っていない。
しかし普通学校へ通学することが決まったとたん、
並大抵でない苦労は現場の職員が負うことになった。

その子のために職員が増やされるわけでなないから、障害児学級の担当職員がその子の分も見る。しかし同じ教室の一方で足し算やひらがなの練習をする子を見ながら、他方で様々な遊び(三輪車乗りやら積み木遊び、動物とのふれあい等保育園の未満児クラスに似た活動)を通して学習する子の面倒を見なければならないのだ。
時に、猛然とダッシュして校地の外に出てしまうので、休み時間に自分がトイレに行く際にも、誰かを探して児童を託してから出かけるようになる。


それではとてもやっていけないので、2年目から空き時間の教師が交代で障害児学級に入り、二人体制でクラスを見ることにした。
しかし比較的豊かな空き時間のあった音楽家庭科専科の教諭も一週間の空き時間がわずか三時間になってしまい、授業(特に家庭科)の準備もできないと嘆いている。理科の専科教諭も同じである。

しかし、本当に困ってしまったのは保健室だった。
昨年から障害児学級の補助に入るようになった専科の職員は、それまで空き時間を怠け貪っていたわけではない。
生徒指導委員会が作成した計画に従い、貴重な空き時間を保健室に通う不登校児の学習指導に使っていたのである。
それが昨年からは行けなくなってしまった。
不登校の子の学習は養護教諭が見ているが、健康診断やら内科検診などが繰り返し入るため指導はどうしても連続性を失う。現場では「彼(不登校児)が教室へ戻るような強力な指導は、もうできないだろう」と言っている。


さて、その他の教師にとってはどうだろう。
無論影響を受けない職員もいる。
ただし直接的な影響は受けないのに怒っている職員もいる。

話題の子が入ってくるまで、普通教室から何人かの児童が障害児学級に通い、そこで個別指導に近い形の学習指導を受けていた。
それは勉強の分からなくなってきた児童にとっては貴重な学習の場であり、そうした指導を受ける子は、大抵はクラスでビリの成績を取らなくなっていた。非常に効果の高い学習体制だった。
しかしそれが今は、普通教室の片隅で小さくなっている。

担任教師は当然その子に寄り添うように指導するが、40人近い一斉指導の中では自ずと限界がある。
学級担任というものは我儘だから、自分のクラスの子が本来なら受けられるはずの恩恵を受けられないことにいらだつ。


さて、学校におけるノーマライゼーションについて、
そもそも心身に障害があっても、養護学校でなく普通の学校で学びたいと希望する子どもや保護者(シンディーの学校の場合は本人の意志は確認しようがないから保護者のみ)は、いったいどうした理由で普通学校で学ぶことを希望したのだろう? そしてそれは学校職員の負担やそれに伴う他の子の犠牲に見合うだけのものなのだろうか?



しかしいっぽう、見方を変えれば、これは非常に単純な問題だという側面も持っている。
つまり
金を増やせばいい、それだけのことなのだ。
養護学校相当の子を普通学校に入れるために、教員一人を加配すればいい。臨時採用なら年間500万円も必要はないだろう。校舎の棟々にエレベータを設置するだけで、相当数の車椅子の子を受け入れることができる。それらは是非行われるべきことだと私も思う。

しかし、沖縄タイムスは
 仕組みに魂を吹き込み、有効に活用するのは行政の責任である。
という。
身勝手な言い分だ。

声高々と正義を語り、行政に要求を突きつける以上、マスメディアもまた苦いものを飲み込まなくてはならない。


職員の加配、エレベータの設置といってもそれはすべて税金を使って行うことである。そうである以上、学校のノーマライゼーションを強く主張するメディアは、相応の増税を訴えるかどこかの予算を削ってでも学校予算を増やすような相応の負担増を新聞購読者に求めなければならない。

「主張はする、しかし苦しいことは行政任せ」では、その正義感は余りにも安っぽすぎるではないか




 



2002.06.18

絶対評価
試み生かす環境整備を


[沖縄タイムス 6月16日]




 新学習指導要領の導入に合わせて、本年度から、公立小中学校ではこれまでの相対評価に代わって絶対評価が取り入れられる。

 ややもすれば、知識の詰め込みとの批判が強かったこれまでの学習に対して、新指導要領は基本を確実に習得させ、自分で課題を見つけて学び、考える、いわゆる「生きる力」を重視している。
 確かに新しい学習の在り方には、児童・生徒が目標のどこまで頑張ったか、一人ひとりの到達度を中心に見る絶対評価が適しているといえよう。
 相対評価ではクラスで「5」の成績は全体の7%と決まっていたが、絶対評価ではそれぞれの目標を達成すれば全員「5」ということもあり得る。子どもたちにとっても励みになる。

 だが、絶対評価に多くの課題が伴うことも忘れてはなるまい。
 評価の基準を統一しなければならないのは言うまでもない。学校や教師によって評価の方法がまちまちになっては、絶対評価そのものへの信頼さえ失ってしまう。
 絶対評価は、児童・生徒の努力が反映されるなど長所とされる点も多いが、半面、教師の主観が入りやすいとの指摘も聞かれる。

 学校では、評価基準の参考集などを基に共通理解を図ることが迫られる。教師によって評価が甘かったり、辛くなったりしたのでは混乱が生じる。
 また教師にとっては、意欲や関心、態度も評価の観点となるだけに、普段から子どもたちへの目配りがより大切になるはずだ。

 どのようにして客観的な評価を確立していくのか、学校や教師の役割と責任はこれまでにも増して重くならざるを得ない。児童・生徒や父母への説明責任も求められる。
 そのためには、少人数学級の推進や教師が抱える一般事務をIT化で効率化を図るなど、教師もゆとりを持って日々の授業に望めるようにする環境整備が欠かせない。

 小中学校では今まさに一学期の評価に向け教師が試行錯誤のさなかであるはずだが、すでに絶対評価の波紋も広がっている。
 東京都の私立高校が、推薦入試の新しい選抜資料として統一テストを来年度入試から実施する方針を打ち出している。

 選抜の材料としては、絶対評価の調査書(内申書)では不十分と判断したためとされる。
 都教委はいち早く反対を表明したが、動きは他府県に広がりかねない。受験生や父母の動揺を招かないためにも、教育行政は対策を急ぐべきだ。


 
相対評価ではクラスで「5」の成績は全体の7%と決まっていたが、絶対評価ではそれぞれの目標を達成すれば全員「5」ということもあり得る。子どもたちにとっても励みになる。
 この期に及んでまだこのような世迷いごとを言う。全く不勉強で無知蒙昧な癖に影響力だけは抜群にある、それがマスメディアの恐ろしさだ。

絶対評価は
それぞれの目標を達成すれば全員「5」
などというあいまいなものではない。


絶対評価が評価するのは、もっと一般性の高い基準、具体的に言えば学習指導要領の内容との差なのである。

つまり学習指導要領の示す内容をクリアしないと、それが何人であっても「2」以下であるということ、そしてその指導要領の示す基準はきわめて高いということ、それが今回の評価の特徴である

具体的に例を上げて見てみよう。

例えば、
中学校3年生の数学で、
「数と式」における指導用要領の内容は右の通りである。

(1) 正の数の平方根について理解し,それを用いることができる   ようにする。
   ア 数の平方根の必要性と意味を理解すること。
   イ 数の平方根を含む簡単な式の計算ができること。
(2) 文字を用いた簡単な多項式について,式の展開や因数分解  ができるようにするととも  に,目的に応じて式を変形できる  ようにする。
   ア 単項式と多項式の乗法及び多項式を単項式で割る除法の計算ができること。
   イ 簡単な一次式の乗法の計算ができ,次の公式を用いる簡単な式の展開や因数      分解ができること。
       (a+b)の2乗 = aの2乗 + 2ab + bの2乗
       (a-b)の2乗 = aの2乗 - 2ab + bの2乗
       (a+b)(a-b)= aの2乗 - bの2乗
       (x+a)(x+b)= xの2乗 + (a+b)x + ab
(3) 二次方程式について理解し,それを用いることができるようにする。
   ア 二次方程式の必要性を知り,その解の意味を理解すること。
   イ 簡単な二次方程式を解くことができ,それを利用できること。

これが高すぎる規準かどうかは意見の分かれるところであろう。しかし確実にいえることは、この規準にあわせたテストで、「ほぼ満足」といえる点数はおそらく80点であり、掛け算九九もおぼつかない生徒を抱える私のクラスなどは、半数以上が80点を取れないだろうということである。つまり半数以上は「1」か「2」なのである。

また「4」と「5」はそれぞれ「十分に満足できる状況」と極めて満足できる状況」と言いうるレベルなので、「4」は3人、「5」は一人が順当だろう、というのが私の目算である。
相対評価で7%、2〜3人が「5」を取れたことを考えると、極めて成績は低くなってしまう。


しかも
絶対評価は結果がすべてであり、どんなに努力しようとも相当に高いこの規準をクリアしない限り、「3」以上を取ることは決してないのだ。
絶対評価は、児童・生徒の努力が反映されるなど長所とされる点も多いが
と、どこをどう解釈したらこのような過ちが生まれるのか?

教師の主観が入りやすいのは評価項目に態度・関心など点数化の難しい項目を入れるからであって、それさえなければ絶対評価は極めて客観的な評価である。