キース・アウト
(キースの逸脱)

2002年7月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。










 
  


  


2002.07.08

【日曜論壇】計算ずくの反抗

[福島報 7月7日]



 

 先日、たまたまテレビを見ていたところ、町なかをわがもの顔に走りまわっているいわゆる「暴走族」のひとりに、リポーターがインタビューをしていた。「君たち、なぜこんなことするの」「楽しいからだよ」「楽しいからって君、まわりの人は大変迷惑してるんだよ、眠れないし、病気の人もいるし。そういうことは考えないの」「関係ねえな」「関係ないってことはないでしょう。人がどんなに迷惑しても、自分だけ楽しければいいって言うの」「そうだよ、こいつをブッ飛ばしているときだけは、生きてるっていう気がするからさ」

 私は、ことばに窮したリポーターのいかにもきまじめそうな顔と、まだおさな顔を残しているのに妙に狡猾そうなニタニタ笑いを浮かべた「暴走族」の少年の顔とを見くらべながら何ともやり切れぬ思いをした。

 だが、これだけのことなら、嘆かわしいが近頃よくある話だ。それに轟音を撒き散らしながらバイクをブッ飛ばしているときだけは生きている感じがするという少年の気持ちは少しはわからなくはなかった。一種の閉塞状態にある現在のような社会にあっては、それはおのれの生命感を蝕もうとするものに対する本能的な反抗とも思われるからである。

 だが、それだけに、ヤッと気を取り直したリポーターが、「それじゃ君たちは、これからもずっとこういうことをやってゆくつもり」とたずねたときの少年の返答には本当に驚いた。「こんなこと続けるはずねえだろ。はたち過ぎてからこんなこと続けてるのはダサイんだよ。いずれ、どこかへつとめて、女房もらって、子供作って、カッコよく暮らしてゆくよ。こんなことやれるのは今のうち」こんなことを言いながら相変わらず彼は例のニタニタ笑いを浮かべていたが、私にはそういう彼の顔がひどく醜悪なものに見えた。反逆するならすればよい。進んで世間に組み込まれるというのなら、それはそれでよい。だが、計算ずくの反抗ほど、私の神経を逆なでするものはないからである。

 そう言えば、昔、こういうことがあった。当時は、大学での学生運動が盛んな頃で、学生諸君が、何かと言うと、授業粉砕とか期末試験粉砕とかを叫んで暴れまわっていた。私は、つとめ先の大学で、学生委員をやらされてしょっちゅうそういう諸君と付き合っていたのである。あるとき、彼らが期末試験粉砕を叫んで、教室に石灰を撒いたり、爆竹を鳴らしたりしたために、試験は中止の止むなきに至った。幸い、騒ぎは午前中でおさまり、午後になって試験を再開したので、自分の担当課目の試験の監督のために教室へ行ってみると、驚いたこと、午前中、白い上っぱりを着込んで、爆竹を鳴らしたり、石灰を撒き散らしたりしていた顔見知りの学生が、上っぱりをぬいで、のんびりした顔つきで席についていた。「何だ、君、試験を受けるのかい」ときくと、彼は別に困ったような様子もなく、「ええ、一応」と答えたものだ。何が「ええ、一応」だと思ったが、午前中試験を粉砕しておいて、午後試験を受けることに矛盾も感じていないような彼の様子を見ていると、何を言う気にもならなくなった。反抗は必ず何らかの犠牲を伴うものだ。それがあってはじめて、反抗はおのれの生命と存在の証しとなる。それがない反抗など、単なる茶番に過ぎぬ。  (粟津則雄 いわき市立草野心平記念文学館館長)


計算ずくの反抗と言うほどのこともなかろう。
そもそも彼らが
積極的に暴走族という生き方を選んだという見方が間違っている。

小さな子どもの頃、保育園児や小中学生だった頃、普通の子どもがそうである程度に満ち足りた日々を送っていたなら、暴走族になどならなかった。
一つひとつの選択は主体的に行ったかのように見えても、全体としてそんなつもりはなかった、そのことを彼ら自身は良く知っているのだ。

「こんなこと続けるはずねえだろ。はたち過ぎてからこんなこと続けてるのはダサイんだよ。いずれ、どこかへつとめて、女房もらって、子供作って、カッコよく暮らしてゆくよ。こんなことやれるのは今のうち」
は、若いチンピラに共通するファッションである。

20年前の暴走族だって、
「二十歳過ぎたら後を若いモンに譲って、オレは普通の生活に戻る」と言っていた。

今、援助交際という名の売春にウツツを抜かす少女たちも、そんな生活を続けるつもりはない。
聞いてみればいい。
「そんな二十歳過ぎのババアになってもこんなバカやってるわけないジャン。適当に男見つけて、普通のお嫁さんやってるって!」
そう答えるに決まっている。

問題は、なぜそうした甘い子どもが育ってきてしまったかということだけである。









2002.07.17

「細まゆ」処分

[琉球新報 7月16日]



 栃木県の中学校柔道大会で、まゆを細くしていた選手六人が失格になった。「相手を威嚇し、不快な思いをさせる」のが失格の理由
▼対戦相手の選手たちは、細いまゆに威嚇され、不快な思いを抱いていたのだろうか。同県中体連柔道専門部は「ルールにのっとって競技することの重要性を教えるため教育上失格にした」とも説明している。まゆそりを禁止事項として明文化しているというが、こと細かに規制しなければならないのか、疑問だ
▼「線引きは難しい。大会に出場させるのが教育的配慮」と言う他競技の関係者、「細過ぎるからは主観的な判断。才能ある選手も柔道をやめてしまうのではないか」と心配する顧問教師
▼一方で「選手に反省が見られない場合は仕方がない」と言う声もあり、処分をめぐって意見が分かれていることを地元の下野新聞は伝えている
▼筆者が三十数年前に通っていた中学校の教師は、髪が伸びている男子生徒を見つけるとしかりつけていた。当時の男子は皆、丸刈り。今は長髪も認められている。時代は移り変わるもの。性別、年齢を問わず茶髪も珍しくない
▼なんでもあり、というわけにはいかないだろうが、「細まゆ」処分が「教育的」だったのかどうか、考えさせられるケース。栃木県だけの問題ではない。

対戦相手の選手たちは、細いまゆに威嚇され、不快な思いを抱いていたのだろうか。

と、それを取材するのがメディアの仕事ではないか?
私はそうは思わない、だから対戦相手も思わないだろうというのは僭越であろう。
この論理に則れば、非行グループの異形も奇異な言動もみな「不快な思いを抱いていたのであろうか」で済む。

筆者が三十数年前に通っていた中学校の教師は、髪が伸びている男子生徒を見つけるとしかりつけていた。当時の男子は皆、丸刈り。今は長髪も認められている。時代は移り変わるもの。性別、年齢を問わず茶髪も珍しくない
長髪は自然に認められたものではない。茶髪も進んで認めたわけではない。学校は常に負け続け、ついに校内を茶髪が闊歩し、携帯が鳴り響くまでになった。それだけのことである。
時代が変わったのだから難しいことを言うなと言うなら、学力問題も不登校もイジメもみな問題ではない

「細まゆ」程度で目くじらを立てるべきでないと言う。
では、剃ってしまったらどうか?
刺青はどうか?
さらに柔道着に暴走族のロゴを入れるのはどうか?

それらがダメだとして、ダメな理由は時期尚早ということか?
そういうものなのか?








2002.07.17

新方式の通知表・子の顔を思い浮かべて

[琉球新報 7月16日]



 確かに「イチ、ニー、サン、1、2、3」の行進曲では、やる気がなくなる。教育の目的は子どもたちの学ぶ意欲と才能を引き出してやることである。
 新学習指導要領の実施に伴い、小、中学校の評価方式が、クラスの中で、子どもがどのくらいの位置にあるかを示す従来の「相対評価」から目標とする学習内容の到達度をみる「絶対評価」に改められた。
 これまでは、例えば中学校は「5」は上位7%などと人数枠が決まっていた。本人はそれなりに頑張って点数が上がっても、クラスの他の子どもの点数が上がれば、評価は変わらなかった。
 「絶対評価」は、その子どもがどこができて、どこができなかったかということも分かるので教師の次の指導にもつながる。どの単元の、どの部分ができなかったか、子どもの課題をはっきりさせ「指導に生かす」という意味ではより教育的である。
 絶対評価では、「5」に人数制限があるわけでなく、努力次第では全員が5を取ることだって可能。
 だが、教師は苦労しそうだ。単元ごとに「関心・意欲・態度」「思考・判断」「技能・表現」「知識・理解」の四つの観点から評価の基準を作り、A(十分満足)、B(おおむね満足)、C(努力を要する)という三段階で評価し、学期末に、各教科ごとに全体としての到達度を示す「評定」を小学校で三段階、中学校では五段階で出さないといけない。

 一人ひとりの子どもを丁寧に見ていかないといけない。決まった割合で「5、4、3、2、1」に振り分ける相対評価と違い、教師の負担は増えるだろう。現場の教師には戸惑いがある。当初、二〇〇三年度からだった指導要領実施が一年前倒し実施され、新たな評価についての現場の習熟が十分とは言えない。

 とはいえ、評価は指導のスタートである。教師の指導の成果と子どもの努力が見える通知表を手にして、来学期に意欲を燃やす子どもと父母の顔を思い浮かべてほしい。もうすぐ夏休みだ。

いよいよ1学期の終わり。
ここまで来て分かったことは、結局メディアの取材能力(取材しているとして)は、この程度であり、彼らに絶対評価は理解できないということである。

これまでは、例えば中学校は「5」は上位7%などと人数枠が決まっていた。本人はそれなりに頑張って点数が上がっても、クラスの他の子どもの点数が上がれば、評価は変わらなかった。

しかしこれは裏返せば、

本人はそれなりにいいかげんでも、クラスの他の子どもの点数が下がっていれば、評価は変わらなかった。
という大変お気楽な評価でもあった。

みんながやらないでいるおかげで、授業がほとんどわからなくても「3」はもらえる。だったらそんなにがんばることはないじゃないか。
いわゆる学力低下はこうした形で続いていたのである。


もう10年も前のことであるが、「7・5・3」という言葉があって、
授業の内容がのわかっている子が
小学生で7割
中学生で5割
高校生にいたっては3割しかいないということである。

つまり相対評価のもとでは、「分かっていない7割」の中にいても「3」の成績を取っている生徒が山ほどいたということである。(正確に言えば「3」の生徒は全員「分かっていない」グループの中にいる)。

しかしいうまでもなく、絶対評価の中では、この生徒たちは全員「2」以下なのである(なぜなら、彼らは全員目標に達していないからだ)。


もう「7・5・3」をはるかに越えて、もしかしたら3・2・1以下になっているのかもしれない。
となると、絶対評価の中で「3」以上を取れるのは、クラスに数人かもしれないのだ。

子の顔を思い浮かべたら、絶対にできない、それが絶対評価なのである。








2002.07.19

給食当番でマスク忘れ、「テープで口に紙」の罰

[読売新聞 7月19日]




 茨城県那珂町の町立小学校で、2年生担任の女性教諭(34)が、給食を配ぜんする際に着用するマスクを忘れた児童に対し、粘着テープで口に紙をはり付けてマスクの代わりにさせるなどの罰を与えていたことが、18日わかった。学校側は「罰則の意味が強すぎ、教育上ふさわしくなかった」として保護者に謝罪、同町教委は「明らかに行き過ぎ」として再発防止を指導した。

 同校の説明によると、この女性教諭は5月上旬、マスクを忘れた配ぜん係は紙に輪ゴムを付けてマスクの代わりに着用させ、2回目からは紙と粘着テープで口を覆うとの罰を発案。5月7日から31日にかけて、児童12人に輪ゴムで「紙マスク」を着用させ、このうち3人には紙と粘着テープで口を覆わせていた。

 6月になって女性教諭が同僚に話したのをきっかけに問題が発覚。校長が注意したうえで、児童12人の家庭を回って保護者らに謝罪。町教委やPTAにも報告した。


こんなことが悪いのは百も承知である。
しかし生徒の忘れ物にいらだつ教師の気持ちもひしひしと伝わってくる。

いくら言っても効果がない→罰を設ければ良くなるだろうと考える→しかし一回で良くなるわけはないから罰を2段階にする→そしてその目論見は軽く崩される→罰が実行に移される→酷いしっぺ返しを受ける・・・

マスクを忘れた配ぜん係は紙に輪ゴムを付けてマスクの代わりに着用させ
は実にユニークで親切な対応だった。
しかしそれでも忘れ物はなくならないのだ。

非人間的な罰は悪いに決まっている。しかし罰なんて最初から人間的にものではなかった。

「罰はいけない、それはあたりまえだ。しかし、だったら忘れ物はどうすればいいんだ!」という悲鳴は、日本全国の学校から聞こえてきそうだ。

(それにしても2年生の給食袋の中にマスクのないことに心痛まない親が1クラスにのべ12人もいるということも、私たちにとっては驚きである)







2002.07.19

「生活体験を課題に」

[紀伊民報 7月19日]



“夏休み”あけごろに子どもたちも親も気にしているものに「一研究」という宿題がある。昔のように先生の指示で勉強させる宿題ではなく、自由な研究の成果を一つ提出する課題で、どこの学校でも「右へ倣え」といった感じである。

 ▽とくにどんな一研究をどう進めたらいいのかの指導を入念に行って、納得と意欲をもって夏休みに入るというほどの余裕もなさそうである。だから「何をしよう」「何かしなけりゃ」と、どこかにひっかかって夏休みが経過し、あと少しの日数のころ、親の方がいらいらしはじめてわいわい騒ぐ。

 ▽休み後の展示会などを拝見しても、「親子共作」と感じるものが少なくない。それもわるいとはいわないが、「妙にひっかかって夏休みがすっきり面白くない」なんてかなりの親子から聞かされるのは感心しない。

 ▽ある大学教授の首都圏を中心にした、一都五県の小四から中二までの調査がある。家の掃除を手伝わない子が61%、洗濯・干すなどしない子77%、買いもののお手伝いをしない49%、包丁やナイフを使って果物の皮をむかない58%、家人に起こされないと起きない46%など。

 ▽こういった日ごろの怠慢を実体験させて、親と共同の評価を課題にする。できれば二学期以降へ、その習慣をもちこせるようにするなど、完璧(かんぺき)でなくとも挑戦させてやりたいと思う。親御さんの本気の協力がもらえるような手だてもほしかろう。とにかく実体験を少し気長にやるには夏休みが好機である。先生も何かときぜわしい学期末だろうが、一人ひとりの児童・生徒と話し合ったり、親御さんと協議したりして、二学期にある成果が期待できる手だてをしてほしいと思う。「夏休みの宿題だぞ」と課題を与えっぱなしでは何の力にもならない。


保護者に対してこうしたレベルの高い要求を行う記事が書かれるようになったというだけでも感慨である。
「妙にひっかかって夏休みがすっきり面白くない」なんてかなりの親子から聞かされるのは感心しない。
それが当然というものであろう。
その当然が、メディアの上では当然ではなかった。

どこの学校でも「右へ倣え」といった感じである。
「夏休みの宿題だぞ」と課題を与えっぱなしでは何の力にもならない。


は、結局、
学校批判・教員批判をしないと記事に収まりがつかないというご愛嬌だが、この程度なら許してやろう。

さて、夏休み前の懇談。
良いアイデアである。生徒指導の面から釘を刺しておきたい生徒も何人かいる。
しかし一学期のまとめ・夏休みの過ごし方・一研究の進め方といった内容で懇談会を開きますと言ったとき、仕事を休んで学校に来ることに、どれだけの保護者が肯定的な想いをもってくれるだろうか?

子の教育のうち、面倒なことだけはすべて学校にお任せという保護者は少なくない。
家庭訪問すら潰してしまうのだから。








2002.07.31

中教審答申・強引すぎる奉仕推進策

[琉球新報 7月31日]


 中央教育審議会(中教審)が奉仕活動を学校の教育計画に位置付けて参加を事実上義務化し、単位として認定したり、入試や就職の際に評価するなどの推進策を文部科学相に答申した。

 学校の教育計画に位置付けることに対して異議を唱えるものではない。しかし、これを単位化したり、入試や就職で“特典”とすることには疑問がある。答申では地域や学校ごとの活動状況を全国調査して公開し、競争を促すことまで提案している。奉仕の競争である。

 そして奉仕活動を「対価を目的とせず、自分を含め地域や社会のために役立つ活動」としている。一方では奉仕の程度を評価したり入試、就職の特典とするとしながら、もう一方で「対価を目的とせず」という。理解に苦しむ。

 もともと「対価を目的とせず」に人の目に見えないところで奉仕活動をする生徒も学生もいる。

 こうした、人たちは他人や学校などの組織に知られたり、見られなくてもいいと思いながら奉仕活動をしているだろう。むしろ、知られたくないと考える人だっている。

 他方、すでに高校入試などではボランティア活動を評価する仕組みがあり、入試までは一生懸命ボランティア活動をするが、入学して以後はまったくこうした活動をしない生徒もいると聞く。

 中教審の答申は対価を目的とせずにボランティアに励む人たちの行為をねじ曲げ、ボランティア活動から遠ざけることにならないか。なぜなら、本人の「知られなくてもいい」とする意向と、まったく別のところで「入試や就職のために一生懸命やっているのでは」と“評価”される恐れがあるからだ。

 馬を水辺に連れて行くことはできても、飲む気のない馬に水を飲ませることはできないという故事がある。学校教育の中に奉仕活動を位置付けるのは水辺に連れて行くことと理解できる。だが、今回の答申は無理やり水を飲ませるようで、強引すぎる。



結局マスメデァにとって大切なのはエリートだけなのかもしれないと思うことがしばしばある。
考えてみれば、絶対評価に関する記事の中に再三あらわれる
ある子が心機一転、一生懸命勉強してこれまで六〇点しか取れなかった科目で一〇〇点取っても、一〇〇点の子がたくさんいると、「5」になるとは限らない。7%という枠があり、人数制限があるからだ。これに対し、絶対評価は目標にどこまで到達したかの評価だから、クラスの順位とは関係なく、極端に言えば、全員が「5」ということもあり得る。[沖縄タイム7月19日社説]
にしても、
「一念発起で60点を100点に引き上げられるような子は異常なほど優秀な子だ」という認識はまるでない。

ついでに言うと、テストで100点をとっても「5」にならない子というのはよほど特殊な子で、彼はおそらく授業に参加していない。ただそこにいるだけで、教科担任が何を言っても何もしないような子だ。そういう子だけが100点を取りながら「5」を落とす。
しかし、
沖縄タイムスは、こうしたペーパーテストエリートが「5」をもらえない社会は間違いだと考えているのだ。


同様に、

 もともと「対価を目的とせず」に人の目に見えないところで奉仕活動をする生徒も学生もいる。

 こうした、人たちは他人や学校などの組織に知られたり、見られなくてもいいと思いながら奉仕活動をしているだろう。むしろ、知られたくないと考える人だっている。

とおっしゃるこの子たち。それは道徳的エリートである。
自分の行った善行の痕跡が残ることさえ許さない無償の行為は、普通の青少年に一律に求めるべきでないほど質の高い。

それほど高いボランティア精神の持ち主たちが、果たして
本人の「知られなくてもいい」とする意向と、まったく別のところで「入試や就職のために一生懸命やっているのでは」と“評価”される恐れがある
といった理由で自らの行為を投げ出すだろうか?
一般にエリートはひ弱だといわれているから、もしかしたらそうした「徳」が新しい制度によって崩れることを、琉球新報は本気で恐れているのかもしれない。
しかし私はそんなエリートたちに興味はない。
私が心惹かれるのは、圧倒的な数の、「普通の人々」である。

さて、
馬を水辺に連れて行くことはできても、飲む気のない馬に水を飲ませることはできない
まったくその通りだ。

今回の中教審の答申は奉仕活動にまったく関心をもたない馬を、奉仕活動の川に無理やり引っ張っていこうというものである。

そこで水を飲ませてみても飲まない馬はまったく飲まないだろう。それは事実だ。
しかし一部の馬は飲む。
阪神大震災という大河を前に、たくさんの馬たちが大量の水を飲んだように、一部の馬は確実に飲む。

そして飲まない馬の一部も、
川を見、水を口に浸す経験を持つことで、そこに川があり水が某かの心地よさを持つことを知る。
今は時機ではない。しかし、彼の馬は水のありかと味を知っている馬である。他の馬とは違う。


私は、教師としての幾多の面倒や苦労を引き受けても、この奉仕活動の義務化に賛成する。
曽野綾子の言うように、私たちは50年待った。今この道を選ばないで、後何年待てばいいのか?
私たちの馬が、自主的に社会に働きかけるのを、フール・オン・ザ・ヒルのように見ているのは、もうウンザリである。