キース・アウト
(キースの逸脱)

2002年8月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。










 
  


  


2002.08.07

体罰なき指導 教職員の意識改革から

[沖縄タイムス 8月7日]


 

 体罰のない生徒指導を目的に、学校現場の改善策を議論してきた「教員の悩み・体罰に関する対応策検討委員会」(会長・新里里春琉大教授)が報告書をまとめている。
 報告は、教職員の意識改革を強く求め、体罰のないモデル校設置を提起している。また教員の多忙さが問題解決を妨げているとして、学校行事や校務の削減も提言する。


 二年前、県内では教諭による生徒への暴力事件が相次ぎ、大きな問題になった。これを受けて昨年、県教育庁は七年ぶりに「生徒指導の指針」を改訂し、体罰によらない指導の徹底を求めた。


 教諭向けにリーフレットを作成し「教職員の悩み相談事業」もスタートさせた。教育庁は「不祥事を重ねるのは自殺行為。体罰、暴力は一切駄目」と、人権意識の高揚に教育界あげて取り組むよう呼びかけてきた。


 このあと、体罰、暴力行為で処分を受ける教諭は次第に減少したが、まだ行き過ぎた体罰により裁判で損害賠償を命じられたり、処分される教諭もいる。


 「体罰は恐怖と痛みによる行動の強制」との指摘がある中で、こうした行為がなくならないのは何とも残念だ。


 対応策検討委員会では「体罰による指導はありえない」と強調し、校長がリーダーシップをとってあらゆる教育機会を通じて人権尊重の理念を身につけさせるよう提案する。


 新里会長は「多忙さゆえに問題が深刻化している。教員にはゆとりが必要」とも指摘している。


 教職員は学習指導、学級経営、校務処理、人間関係などさまざまな悩みも抱える。学校行事の整理などで負担を軽減し、カウンセリングを充実させることが必要だ。


 県内には、体罰を容認する傾向が見られる。しかし体罰は、教師が指導を自ら放棄したものと言わざるを得ない。


 報告書の指摘はもっともだ。要は、教職員が共通認識を持ち、学校が一体となって体罰を許さない取り組みをどうつくり上げるかである。



体罰については久しぶりなので取り上げたが、言いたいことがさほどあるわけではない。

要は、教職員が共通認識を持ち、学校が一体となって体罰を許さない取り組みをどうつくり上げるかである。
ほんとうにそうだろうか? 

私はそうは思わない。

体罰をなくす決め手は、体罰以外の罰の整備である。


罰なしで教育をするには、生徒たちはあまりにも子どもである。
しかし、小中高生が子どもであるのは当然ではないか。



 






2002.08.07

高校生の4割「図書館で本借りない」…文科省調査

[読売深部 8月7日]




 「図書館で本を借りたことがない」「宿題や授業でしか本は読まない」という子どもがそれぞれ2割前後いて、中学・高校教師の8割は「子どもの国語の学力が低下している」と感じている――。そんな実態が、文部科学省国立教育政策研究所の研究者が行った「読書教育に関する調査」で明らかになった。読書離れの傾向は学年が上がるに連れて深刻になっており、教師の多くは「大人や教師が本を読まなくなった」ことを原因に挙げた。同時に行った漢字の書き取り調査では、小学4年で習う「積む」を書けない高校生が5割近くに上った。

 調査は、有元秀文・同研究所総括研究官のグループが昨年度、全国の小学4年以上高校2年までの2120人と小中高の教師259人を対象に行った。

 児童生徒への質問では、「楽しむ読書」は71%が好きと答えたが、22%はそのために図書館で本を借りたことが全くなかった。中学生はこの数字が30%、高校生は41%にも達した。

 「宿題や授業でしか本は読まない」は全体で18%だが、高校生は33%。「教科書より厚い本を読んだことがない」も全体では16%だが高校では23%いた。

 「国語の授業で本を読むのが好き」は全体で49%と半数を割った。家にある本は「20冊から100冊」が48%で一番多かったが、「1冊から10冊」も21%いた(高校生は28%)。

 教師に学校の取り組みを聞いたところ、「詩や文章の暗唱を毎日している」と答えたのは小学校の3人のみ。「朝の読書」など、決まった時間に全員が本を読む取り組みは、小学校の61%が1週間に数回か毎日実践していたが、中学では17%、高校では6%だった。

 また、小学校教師の41%、中学、高校はともに78%が「自分のころに比べ国語の学力が下がったと思う」と答え、「高学年でも単語でしか話せない」(小学)、「日本語が通じない」(中学)、「あまりに字が書けない」(高校)など、国語力の“崩壊”を嘆く声が数多く寄せられた。

 その原因については、「大人や教師が本を読まなくなったから」が39%、「教師が厳しい指導をしなくなった」22%、「家庭教育が厳しくなくなった」19%の順(複数回答)。自由記述に、テレビゲームの弊害を挙げる声も目立った。

 有元研究官は、「国語の学力低下は明らか。読解力、語彙(ごい)、文章力の低下には本を読まなくなったことが影響している。家庭の問題もあるが、教師の努力不足も大きい」と話している。

 子どもには書き取りなどの国語力調査も行ったが、小学4年で習う「積んだ」が書けたのは小学生35%、中学39%、高校生54%。1年で習う「川下」を、小学生の18%が間違えた。


教師に学校の取り組みを聞いたところ、「詩や文章の暗唱を毎日している」と答えたのは小学校の3人のみ。「朝の読書」など、決まった時間に全員が本を読む取り組みは、小学校の61%が1週間に数回か毎日実践していたが、中学では17%、高校では6%だった。
               (略)
 その原因(国語力の崩壊の原因)については、「大人や教師が本を読まなくなったから」が39%、「教師が厳しい指導をしなくなった」22%、「家庭教育が厳しくなくなった」19%の順(複数回答)。自由記述に、テレビゲームの弊害を挙げる声も目立った。


こうした記事を読むとショックを受ける。
子どもたちが本を読まなくなったといわれて久しいが、その原因を
「大人や教師が本を読まなくなったから」などというふざけたものに求める方向は今までなかったものだ。

従来、子どもの活字離れの原因はテレビやテレビゲーム、コンピュータや携帯電話といった子どもを取り巻く生活環境の変化に求められた。それが普通の感覚であった。
むろんそれは違っていてもいい。違うことを証明すればよいだけのことだからだ。

しかしそうしたごく普通の成果実感をもとにしたアンケート項目を立てず、あえて大人の責任を問う項目だけにしたのは、それが「読書
教育に関する調査」だからだろうか?
それにしてもおそまつである。

 子どもの活字離れの原因を「大人や教師の活字離れ」に求めようとすれば、今度は「なぜ、大人たちは活字離れを起したのか」「その原因は子どもの活字離れと同じではないか」とい問題に突き当たってしまう。その疑問に解を与えなければ研究とはいえない。
また、そもそも「大人は本を読まなくなったのか?」そのこと自体も検証されなければならない」。
(ちなみに、30代以上の読書量は増えているというのが普通のデータの示すところである。実感としても大人の読書量が増えていることは、私たちの親世代(現在の老年層)を考えればすぐに分かることであろう)
これが文部科学省国立教育政策研究所の研究者という重大な肩書きのついた者の行う研究だろうか?



また

教師に学校の取り組みを聞いたところ、「詩や文章の暗唱を毎日している」と答えたのは小学校の3人のみ。

と、まるで暗唱させて来なかったことが教師の不手際であるかのように書くのも解せない。
第一、暗唱させることが国語力の上昇に繋がるかどうかはこの記事を見る限り検証されていない(私は、繋がると信じているが)。

第二に暗唱こそ、暗記中心・知識中心の無意味な学習とししてメディアの激しい攻撃にさらされ、教員が泣く思いで手放してきた学習法だったはずなのだ。

それは学校の不手際だったのか?
教師が本気で反省すべきことなのだろうか?


いずれにしろ中高での「朝の一斉読書」はまだ緒についたばかりである。
小学校での成果も、10年を経てようやく成果の見えてきたものだった。
今後に期待しよう。







2002.08.16

学力向上計画・不安解消にならない

[琉球新報 8月16日]



 文部科学省は新学習指導要領の実施に伴う「学力低下不安」を払しょくするため、次々と新たな計画を打ち出している。今回は「学力を飛躍的に向上させる総合計画」だ。

なぜ、このように追加的な措置を取らざるを得ないのか。それは文部科学省に教育を「国家百年の大計」とする認識が不足していることに根本の原因があるからだろう。

明確な展望と施策を欠いて、疑問や不安が高まると、たちまち、政策変更かとも受け止められるような姿勢に終始していては国民の信頼は得られない。

四月からスタートした学校週五日制導入に際し、五日制実施が私立校全体にまで行き届かないことから、学力が低下するのではないかとの不安が父母を中心に高まった。


そうすると、遠山敦子文科相は一月に「学びのすすめ」を発表。理解度の低い子には放課後の補習、進んでいる子には内容を深めた発展的な授業を各教育委員会に求めた。

さらに、学校週五日制の始まる直前になって、それまで補習は絶対に認めないとしていた、かたくなな姿勢を翻し、校長の裁量による土曜日の補習を認めた。

そして、今回の「学力を飛躍的に向上させる計画」は子どもの関心や能力に合わせた学習計画を意欲的に進める重点校を小中校で現在の二倍の約千七百校に増やし、新たに高校でも一県につき約五校の重点校を設けるという。

これらの学校では教員の数を増やし、少人数による個別指導を徹底する。このほか、情報技術(IT)など子どもが授業以外で自主的に取り組む学習活動を支援。教員の研修も充実させ質の向上を図る

これらの実現のため、来年度予算概算要求で三十億円を盛り込むことにしている。

「学力を飛躍的に向上させる」ために指定されるこれら小中高校では、確かに父母の不安解消に応えられるかもしれない。

週五日制を導入しない私立校との学力差を埋めることにもなろう。

だが、指定されないほとんどの公立校の父母の不安は置き去りにされたままになるのではないか。

文科省はこの不平等をどう説明するのか。指定校による成果を各教育委員会ホームページや研修会など通して、すべての学校、教員で共有するなどという、従来の”空念仏”では通用しない。

なぜなら、教員定数の増員や学校支援などの成果の前提条件が、指定される学校とそうでない学校では雲泥の差があるからだ。

今回の計画は父母だけでなく、教員の間でも不公平感を生むことになりかねない。



たとえその手際が悪かったとしても、消防士は放火犯からその消火方法について非難されてはいけない。それは当然のことである。

なぜ、このように追加的な措置を取らざるを得ないのか。
それは「もう勉強はたくさんだ。受験戦争で子どもの首をしめるのはやめよう」ということで世論を束ねたはずのマスメディアが変節し、「学力はどうなっている。学力こそ大切ではないか」と責め立てたからである。
それは
文部科学省に教育を「国家百年の大計」とする認識
を持たせないというメディアの、強烈な意志の成果とも言ってよい。

しかも今回の転換が非難を受けるのは、教育理念の問題ではなく、単に指定校と非指定校の間に不公平感が広がるからなのだ。
とにかく何かを非難していないと仕事をした気になれないらしい。

他者を非難した論理で自己を縛らない者を不誠実と言う。

琉球新報よ。

教育における百年の大計を我らの前に見せよ。



 




2002.08.17

「秋休み」にも前向き  
文科省、長期休暇分散に取り組み

[朝日新聞 8月16日]

観光地が込み合う真夏を避けて家族で旅行したいのに、子どもの学校の夏休み期間に縛られて計画をたてにくい。そんな悩みを解消しようと、政府は、小中学校の夏休みをずらしたり、秋休みを設けたりするなど、長期休暇の分散に本格的に取り組むことにした。交通渋滞の緩和や親の有給休暇の取得率向上などにもつなげたい考えだ。

北日本などを除き、小中学校の多くは毎年7月20日ごろから8月末まで一斉に夏休みをとる。冬休みも年末年始の2週間とする学校が大半だ。しかしこの時期は、海外旅行のツアー価格が跳ね上がり、行楽地への渋滞も発生するなど、家族旅行がしにくい面がある。サラリーマンの有休取得率は00年に5割を切った。

このため、政府は6月に閣議決定された「経済財政運営の基本方針2002」で、学校休暇の分散化を各地の教育委員会に推奨することを決めた。7月に開かれた副大臣会議でも、各省庁が協力し、分散休暇の効果や実例などの情報を集めて各教委に提供していくことを申し合わせた。

一方で、学校で2学期制が導入され始めたのに伴い、秋休みも広がってきている。


仙台市は今年度から、市立の全小中学校で夏休みを7月21日〜8月25日にする代わりに、10月の体育の日の翌日、翌々日を休みにして土曜から5日連続の秋休みを設けた。金沢市も04年度から全小中学校で導入する予定で、今年度から始めたモデル校4校は、学校ごとの判断で夏休みを短縮し、10月前半に4〜6日間の秋休みをとる。山形県山辺町は、町内の8小中学校全校で9月末に週末と合わせて3日間休む。

高校でも、静岡県内の13校が週末を含む3連休を導入、鹿児島県では県立高校2校が9月26〜30日を秋休みとしている。

海外では、フランスが全国を3ゾーンに分けて冬休みや春休みを1週間ずつずらしたり、ドイツでは州によって夏休みの開始日が1カ月以上ずれたりする例がある。

休みの分散について文部科学省初等中等教育局教育課程課は「スポーツの全国大会などの日程に影響が出る可能性があるが、一度に利用できる人数が限られる体験施設などは利用の機会が広がる」とし、「長期休暇の決定は各教委の判断だが、多様化を進める国の方針を伝えていく」という。

まとめ役の内閣府の担当者は「日本は欧米に比べ長期休暇が少なく、家族が一緒にすごす時間も短い。学校休暇を柔軟にすることで、大人も休暇を取りやすい環境が整っていけば」と期待している。



サラリーマンの有休取得率が5割を切ったのは学校の夏休みのせいではないだろう。昔から夏休みはこの時期だった。
政府の景気対策の失敗、サービス労働を当然とする企業のツケを学校にまわしてほしくない。

学校の休みをいじれば社会が変わるというアイデアはドイツの発明である(フランスよりも早いと思う)。しかし日本にも前例があり、平成1992年、遅々と進まぬ週休二日制を進めるために、いきなり学校の土曜休を決めたのは自民党政府だった。

バブル全盛の当時、「日本人は働く過ぎる。フェアではない」というアメリカの要求に応えて、政府が打ち出した方策が学校五日制だった。(当時の)文部省に判断させればまた研究期間だの研究指定校だのとやっているうちに瞬く間に5年10年はたってしまう。そこで当時の自民党政府は「自民党文教部会」で方針を決定し、法改正によって月一回の土曜休を実現してしまった。
まさにクーデター的で、準備不足を理由に当時の日教組ですらこれに反対したが間に合わなかった。

私は秋休みが嫌だと言うわけではない。
2学期制を考えると、むしろ当然のことと思う。
しかし
学校五日制がスタートしたときと同じく、「先生が休みたくて休みにした」とか「日教組の圧力によって実現した」といわれるのが面白くないのである。

まとめ役の内閣府の担当者は「日本は欧米に比べ長期休暇が少なく、家族が一緒にすごす時間も短い。学校休暇を柔軟にすることで、大人も休暇を取りやすい環境が整っていけば」と期待している。
本当に夏休みを増やしたいんだったらドイツのように「政府および地方公共団体、各企業および各種団体等は35日間の夏休みを与えなくてはいけない」と法文化してしまえばいいのだ。
また実効的な方法としてはそれしかないだろう。



 


2002.08.17

公立30万教室を冷房化へ

[読売新聞 8月16日]


 文部科学省は16日、今後10年間で公立小、中、高校の普通教室約30万室に空調設備を導入する「教室冷房化計画」を来年度から実施することを決めた。

 自治体向けの補助事業を新設するもので、初年度分として3万教室分にあたる100億円を概算要求に盛り込む。都市部を中心に教室が高温化して授業の効率が下がっているほか、学力向上のための補習や、地域への学校施設開放などで夏休み中の教室利用が増えていることが理由。教室の冷房化には以前、財政当局の反発が強かったが、最近の酷暑や、政府全体の「秋休み」推奨などもあり、理解は得られると判断した。

 昨年8月に同省が全公立小中学校を調べた結果では、冷房設置率は普通教室ではわずか5%で、コンピューター教室の71%、保健室58%、職員室54%などと比べ著しい差があった。同省施設助成課は「最近の夏の教室の暑さは常軌を逸していて、学習に集中出来る状況ではない。家庭の冷房普及率も9割近くに達しており、子どもが学校生活の多くを過ごす教室とのギャップが大き過ぎる」としている。

 計画では、自治体の要請に応じて設置費用の3分の1を補助する。空調の方式は、昼間の電力使用量がほとんど増加しない夜間電力活用型(蓄熱式)を指定、環境への影響を出来るだけ抑えるようにするという。公立小中高の全普通教室のうち、寒冷地や既に冷房化した教室を除くと約30万教室あり、10年間で事実上、全教室の冷房化を終了したい考えだ。

 ビルや舗装道路などが熱を蓄える「ヒートアイランド現象」により、最近の都市部の気温上昇は激しく、夏休み前でも室温が30度を超える教室が5割以上あるという教職員組合による調査結果もある。子どもが不調を訴えるケースが続出したため、東京都の千代田区、中央区などでは既に全普通教室を冷房化している。

 同省では、コンピューター教室など、特別教室の冷房設置費の3分の1を助成する制度を1994年度に創設、97年には普通教室への拡大を旧大蔵省に要求したが、「児童生徒の体に良くないとの意見もある」などとして拒否された。このため現在、普通教室への設置は沖縄県と、騒音で窓が開けられない空港周辺などを除き、全額が自治体の負担になっている。

 今回、同省では、〈1〉夏休み前後の勉強の能率が著しく下がっている〈2〉完全学校5日制の実施や学力低下不安などにより、夏休みに補習を行う学校が増えている〈3〉地域住民に学校施設を開放する際、冷房がないと事実上使用出来ない――と強調。遠山文科相自らが全普通教室の冷房化に強い意欲を見せている。


上の記事と並べて見ると非常に合理的な方策に見える。
しかし
、学校にエアコンが入ったら夏休みそのものが消えてしまう可能性については考えないのか?

政府が、そしてマスメディアが読み違えているのは、親たち(特に仕事をもつ親たち)の意思である。

本気で家族と共に過ごす時間を多く持ちたいと願う親がどれほどいるか。
年休を取ってまで子どもと一緒にいようとする親たちがどれほどいるのか。


一度マジメに調査してみるといい。


非常に多くの親たちの真剣な願いは、子どもを家庭や地域、特に家庭に帰してくれるなというものなのだ。







2002.08.23

台形面積、円周率も復活…文科省が指導事例集

[読売新聞 8月23日]



 文部科学省は22日、教科書の範囲を超えた「発展的学習」や、基礎をじっくり学ぶ「補充的学習」の参考となる教師用指導事例集の小学算数版を公表した。新学習指導要領にもとづき作られ、今春から使用されている教科書から消えた「台形の面積の求め方」や「3けた同士の掛け算」などが復活し、内容を削減しすぎたと批判の強い新要領を事実上修正している。同省は「要領を理解した子どもには発展学習が求められる」としており、事例は多くの学校が習熟度別授業などで取り組むことになりそうだ。

 発展的内容は14例あげられ、前の教科書にはあったが現行の教科書で削られた台形の面積(前は5年生で学習)など5事例が復活した。中には、3けた同士の掛け算(同4年生)のほか、小数点2位以下を含む乗除(同4、5年生)もあり、円周率(3・14)を使う筆算にも取り組めるようになっている。

 新要領は円周率について、5年生で「3・14を用いるが目的に応じ3を使う」とし、現行の教科書にも3・14は載っている。だが、小数点2位以下の乗除が消えて、筆算では主に3を使い、3・14で計算する場合は電卓を使うようになったことで、「円周率は3と教える」との“誤解”が定着した。電卓の使用も教師らから不評で、同省は今回さりげなく復活させた形だ。

 このほか、2年生で習っている「足し算の式」を1年生で先取りすることや、今回の例では5年生向けの「多角形の角の大きさの和」など前の教科書にない内容もある。

 子どもが主体的に取り組めるよう工夫したとし、6年生向けに江戸時代の算術書にある「油分け算」の紹介と実践といった興味を引く課題も盛り込まれた。今後、小学理科、中学数学、理科の事例集も作られる。

 新学習指導要領は、「ゆとり教育」を打ち出し、学習内容を大幅に削減したが、「学力低下につながる」との批判が実施前に強まり、同省は昨年、「指導要領は最低基準」と解釈を変更、施策を学力向上重視に転換した。しかし、この方針は教科書検定に間に合わず、今春から使用されている小中学校の教科書では、要領を超えた記載がことごとく削られている。

 その後、同省は、今春までに発展的学習資料を作ると言明したが、公表が遅れた。次回の教科書検定では発展的記載を容認することを既に明らかにしている。




新指導要領の方向に私も反対である。

教育学や心理学は今日まで様々な学習方法を開発してきたが(プログラム学習やらコア学習やら発見学習やらあれやこれや)、しかし
万民に効果の保障された学習法は反復学習(何度も繰り返してやりましょう)と過剰学習(一つ上の学習もやってみましょう)しかなかったのである。


私は99点と98点との1点差はさほどではないが、100点と99点との間には天と地ほどの違いがあると思う。

なぜなら99点、98点、97点は100点分の学習をした子がミスで1〜3点を失った結果であるのに対し、100点を取る子はほとんどの場合、120点分以上の学習をしているからである。
無論、彼らもミスを犯す。その結果、彼らは抽象的な意味での118点や115点、102点だったりするのだが、実際には100点が上限である以上表記も100点なのである。

過剰学習というのはそういうことである。
2桁同士のかけ算の力を本物にしたかったら3桁同士のかけ算まで学習しなければならない。
そこまで学習してしかし(人間なので)3桁同士のかけ算を忘れてしまい、「2桁なら計算できる子」が残るのである。


だが、
しかし、
とにかく学習内容を減らせと言ったのはマスメディアである。そして(もしマスコミが国民の声を拾っているとしたら)普通の国民である。
わずか3年前ですら、国民の教育に関する関心は「いかに子どもから学習の重圧を減らすか」というものであった。
その声に従った指導要領が発表されたとたん、手のひらを返したように学力問題を持ち出すのは卑怯の極みである。

文部科学省(当時は文部省)には学習指導要領の試案を示し、社会の批判を待って改定に踏み切る、という考えはなかったのだろうか?

今にして思えば痛恨の極みである。



 





2002.08.28

学習指導要領「2本立て」より環境整備

[福島民報 8月26日]


県内の小中学校は、きょうから2学期が始まる。学び舎は真っ黒に日焼けした児童生徒で久しぶりに活気を取り戻す。実りある2学期を望みたいが、現場の教師には新たな「手引」に戸惑いを隠せないでいる。

文部科学省の迷走が続くからである。今年4月から「ゆとり教育」を取り入れた学習指導要領でスタートしたばかりだが、今度は「発展的学習」の指導資料を公表、小中学校へ配布する、という。新しい要領のもとで実施してわずか1学期。方向転換とも言える「第2の指導要領」がお目見えした。

詰め込み教育との反省から、ゆとりを重視し教科内容を3割削減、併せて学校週5日制に移行した。だが、あまりに薄くなった教科書に父母から「ゆとり」は「ゆるみ」になり学力低下を招く、との批判が相次いだ。こうした批判に応える形で今回、新しい教科書で削減した内容が復活した。公表した指導資料は小学校算数で14項目が盛り込まれたが、教科書で消えた「台形の面積」など5項目が再登場した.

文科省のぶれは今回ばかりでない。遠山敦子文科相は「子どもの学習意欲が低下、家庭での勉強時間が減っている」として1月に「学びのすすめ」を提唱。さらに土曜日の補習も容認、学校週5日制の実施を前に矛盾する姿勢をのぞかせていた。最近では学習指導要領を「最低限の基準」と位置付け、そして今回の指導手引である。鳴り物入りでスタートした学習要領に第2の指導要領を追加した格好で、指導要領の「2本立て」が出現した。

4月の実施前から学力低下などが心配されていたが、早くも新要領の“ほころび”が表に出てきた。危ぐしているのは親だけではない。高松市で開かれたタウンミーティングでは小学6年生が「勉強しないと国が遅れる」と発言し、遠山文科相が豆鉄砲を食らう場面があった。本紙ひろば欄には郡山市の高校生が「週5日制のゆとりは平日の授業時間が増え逆に忙しくなった。2日間も休むと学力の低下が進むだけ」という投書が舞い込んでいる。

こうした声を払しょくさせる狙いが今回の指導資料だが、「ゆとり路線」を事実上修正した、と言えよう。習熟度に応じて発展的な学習を、という手引だが、「これが学習指導要領に代わって新たな基準になる」と受け止める教育関係者が多い。ならば基礎基本をしっかり教え、さらに「できる子」には削減教科書を超える指導が求められてくる。落ちこぼれを防ぎ、それぞれの子どもの進み方に合わせた本来の授業である。


そうした授業を実現させるには少人数学級が近道だろう。本県では今春から小中学1年を対象に30人学級を導入した。その効果を見るアンケートなどはまだ集計していないが「教室内の子どもに目が届くようになった」という現場の声が届いている。30人学級は来年度、小学2年生まで広げる方針。こうした少人数学級を全学年に拡大すべきだろう。そのためには人とカネが必要だ。

国民の批判に押され次々と「指南書」を打ち出すより文科省は学習環境を整えることだ。地方で広がりつつある少人数学級を後押しする予算編成がなにより求められる。




記事は、
あまりに薄くなった教科書に父母から「ゆとり」は「ゆるみ」になり学力低下を招く、との批判が相次いだ。
というが、実際の保護者で教科書を比較検討した人はほとんどいなかった。
批判を相次がせたのはメディアとそれに踊らされた人々だけであって、ふつうの保護者は大して関心もなく、学校に直接文句を言ってきた人もほとんどいなかった(ごく少数の保護者は周りの子たちの学力が上がらないと考え、欣喜雀躍したかもしれないが)。


「発展的学習」の指導資料の提示は文部科学省の敗北宣言であり、2年余り続けてきたゆとり戦争には、メディアの一方的勝利に終わった。
福島民報には、一方にそういった意識が明確にあるようで、
内容を大幅に削減した新指導要領と「発展的学習」の指導資料の2本立てを、
基礎基本をしっかり教え、さらに「できる子」には削減教科書を超える指導が求められてくる。落ちこぼれを防ぎ、それぞれの子どもの進み方に合わせた本来の授業である。
と歓迎の様相をみせている。

そのために
そうした授業を実現させるには少人数学級が近道だろう。
というのも間違っていない。というより二重の規準を実現させるのは、能力別の少人数学習しかない
新指導要領の低いハードル(あちこちに決して低いとは言えない部分もあるのだが)を越せない子は少数であり、
「発展的学習」の指導資料が本当に必要な子も少数だからである。

さて福島民報よ。
お願いだから今から約束してくれ。

キミがいう
本来の授業
基礎基本をしっかり教え、さらに「できる子」には削減教科書を超える指導が求められてくる。落ちこぼれを防ぎ、それぞれの子どもの進み方に合わせた本来の授業
能力別少人数学習が定着したとき、

一つでも上のクラスに上がろうと非常な勉強を強いられた子どもたちを、学校は何とかすべきだ、などといったふざけたことを絶対に言わないと!










2002.08.28

生徒の暴力行為・まだ高水準

[琉球新報 8月26日]



 公立の小中高校生が二〇〇一年度に学校の内外で起こした暴力行為は前年度より5・3%減少した。現行の調査方式となった一九九七年度以降、初めての減少だ。

 調査をまとめた文部科学省は「スクールカウンセラーの配置など、子どもの悩みや葛藤を受け止める体制づくりが功を奏した」としている。増加傾向から歯止めがかかったように見えるが、過大評価は避けねばならない。

 暴力行為の件数は三万八千二百三十件と依然高水準にあり、減少の幅はまだ小さい。児童、生徒数の減少も考慮に入れなければならないからだ。これらの数字は学校が把握し、教育委員会へ報告したもので、いじめは学校が把握していないケースも多いといわれる。また、どこまでを暴力と判断するかは学校によっても差があろう。

 学校は子どもたちにとって楽しく学び、生き生きと活動ができる場である。一人ひとりが大切にされる場でなければならない。

 「暴力の背景にあるいらいらやストレスをうっせきさせる子どもたちの状況が好転しているとは思えない」と専門家が指摘するように、子どもたちを取り巻く環境は、高水準にある暴力行為に象徴されるように課題が山積している。

 ここ数年、家庭や学校で「突発性攻撃的行動及び衝動」いわゆる「キレる」行動を示す子どもが増えたといわれる。それは、耐性欠如型、耐えることのできない性格の子どもに多い。その要因は、家庭内の不適切な養育に起因するのが多いといわれ、家庭教育の在り方が問われている。児童・生徒の多様な能力、適性などに十分対応できない学校の在り方も問われている。

 これらの課題を解決するためには、学校、家庭、地域社会が連携することが最も大切だ。

 文科省が成果が出ているとするスクールカウンセラーの配置はもちろん教育相談体制を充実し、少人数学級の推進などさらに施策を強化すべきだ。



これらの数字は学校が把握し、教育委員会へ報告したもので、いじめは学校が把握していないケースも多いといわれる。また、どこまでを暴力と判断するかは学校によっても差があろう。
生徒の言葉づかいを借りて「オマエ、マジか?」と聞きたい。

把握しきれないイジメがあることも暴力の規準をどこに置くかといった問題もむかしからずっと変わらないものである。であるなら、調査の数字として見えるものが減った以上は見えないものも減ったと考えるのが普通であろう。それにあえて異を唱えるなら、見えないいじめが増えていることを明らかにしあければならない。できもしないことを言ったり、ありもしないことをことさら書き立てるのはまさにイジメである。


さて 「暴力の背景にあるいらいらやストレスをうっせきさせる子どもたちの状況が好転しているとは思えない」
と名も知らぬ専門家が指摘が正しいなら、問題解決は環境の整備ということになる。
つまり子どもをいらいらさせるもの、子どもにストレスを与えるものを排除していくしかない、ということになる。
その論法で、管理教育も過剰な受験競争も排除されてきた。にもかかわらずまだ不足だというなら、何を排除すべきか明らかにする必要があるだろう。

しかしそれにも関わらず琉球新報は
耐性欠如型、耐えることのできない性格の子どもに多い。その要因は、家庭内の不適切な養育に起因するのが多いといわれ、家庭教育の在り方が問われている。
と、問題を子どもの性格、家庭の養育態度にすりかえていく。
いったい何が問題だというのだろう?



これらの課題を解決するためには、学校、家庭、地域社会が連携することが最も大切だ。
そんなのはあたりまえである。

必要なのは連携すべき者が誰であるかを特定することではなく、連携して何をするかである。

しかしメディアはそれも考えない。そんなことは自分たちの仕事ではないと思っている。