キース・アウト
(キースの逸脱)

2002年10月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。













  


2002.10.07

大学生・大学院生、勉強は授業を含め1日3時間

[読売新聞10月7日]


 

 大学生や大学院生の勉強時間は1日平均2時間59分にとどまり、小・中学生を含む学生全体で最短であることが、総務省の社会生活基本調査で7日、分かった。「ゆとり教育」で学力低下が懸念される小・中学生よりも大学生の方が心配な実態が明らかになった。

 それによると、学校での授業を含めた1日平均の勉強時間は、中学生が5時間26分(96年の前回調査比3分減)でトップ。以下は高校生が5時間21分(同2分減)、10歳以上の小学生が4時間41分(同1分増)、短大・高専生が3時間5分(同4分減)、大学・大学院生が2時間59分(同2分増)の順だった。

 土曜日の勉強時間は小学生が55分、中学生が1時間27分、高校生が1時間40分で、いずれも前回より15分前後増えた。

 総務省統計局は「ゆとり教育への不安もあり、週休2日制で空いた時間を余暇よりも勉強に充てたのではないか」と分析している。教育評論家の尾木直樹氏は「勉強をほとんどしない大学生が増えており、大学の国際競争力の低下や機能不全を招いている」と話している。

 調査は1976年から5年ごとに行われ、今回は昨年10月、全国の10歳以上の男女約20万人を対象に実施した。



私にはこの記事の意図がわからない。
大学生や大学院生の勉強時間は1日平均2時間59分にとどまり、小・中学生を含む学生全体で最短であることが、総務省の社会生活基本調査で7日、分かった。
というが、そんなこと5年も前から分かっていたはずのことである。
なぜなら1996年の調査で、そう出ているのだ。
それとも5年前の調査内容は秘密にされていたのか(そんなことはない)。

そればかりでなく、今回の数字を見れば誰だって、
「大学生・大学院生が不勉強なのは5年前とは変わらないが、中高生が学習時間を減らしたのに対し、わずか2分とは言え学習時間が延びたのは喜ばしい」
と判断できるはずだ。

さらにまた、
5年前と言えば子どもたちの学習過剰が懸念され、マスコミで盛んにゆとり教育が叫ばれていた時代でもある。
そう考えると、中高生の学習時間が減ったこともまた喜ぶべきことであるはずだ。



いや、そうではない。この記事の中心的な問題は、
土曜日の勉強時間は小学生が55分、中学生が1時間27分、高校生が1時間40分で、いずれも前回より15分前後増えた
と、そこにあるのだと言う人がいるかもしれない。
総務省統計局も
「ゆとり教育への不安もあり、週休2日制で空いた時間を余暇よりも勉強に充てたのではないか」と分析している。

しかしちょっと待て。
たかが勉強時間が15分増えたからと言って、それでゆとりが失われたと言うつもりなのだろうか?
以前は土曜日に3時間以上の学習をしていた、それが55分に減ったと言うのに。

他の数字を見てみるがいい。
この子たちは
同じ日、
テレビ・ラジオ・新聞・雑誌に3時間01分(3時間16分:以下カッコ前は中学生、カッコ内は小学生)
休養・くつろぎに1時間48分(1時間26分)
趣味娯楽に1時間30分(1時間56分)
スポーツに1時間17分(1時間08分)
を費やし、
9時間(9時間18分)眠り、
家事だけは35分(同じ)しかしない
そういう子たちなのだ。

学習時間を15分程度伸ばして
小学生が55分、中学生が1時間27分
にしたところで何が問題なのか?
どれだけ余暇を増やせば、人は満足してくれるのだ?


参考
http://www.stat.go.jp/data/shakai/







2002.10.10

社説 英語教育改革 かぎ握る日本語の表現力

[熊本日日新聞10月9日]



 遠山敦子文部科学相は「英語が使える日本人育成のための戦略構想」をまとめた。

 グローバル化する二十一世紀を生きる子供たちに、国際共通語化した英語による意思伝達力を身に付けてもらうのが目的。これまでのクイズ形式の受験英語から、会話ができる英語教育への転換を狙っている。

 映画字幕翻訳家・戸田奈津子さんら有識者で構成する「英語教育改革に関する懇談会」(一月〜五月開催)の提言をベースにまとめた。六つの戦略と三十の行動計画で構成する。

 戦略構想は「生徒たちが高校卒業段階で日常会話ができること」「大学卒業段階では、仕事で英語が使える」などを柱に設定している。

 特に英語教員には英検準一級や、国際コミュニケーションのための能力試験(TOEIC、九百九十点満点)で七百三十点、米国の大学留学のための試験(TOEFL、六百六十七点満点)で五百五十点レベルを求めている。教員採用時に参考にするよう教育委員会に求めていく。

 その実現のため来年度から五カ年計画で中学・高校の全英語教員六万人に集中的な研修をするという。

 生徒に対しては、英語を使う機会を増やすため、中学高校の英語の授業で週一回以上は、外国人教師が教える体制を目指す。そのためJETプログラムで招く外国語指導助手を、今の八千四百人から将来は一万千五百人程度に増員。指導助手の正規教員への採用も促進する。年間一万人の高校生は留学も体験させる。

 大学入試も二〇〇六年度の実施を目標に、センター試験でリスニングテストを取り入れるほか、生徒が取得した英語の資格により、英語の入試を免除する「外部試験の結果活用」も導入する。

 文科省は来年度の概算要求に必要経費を盛り込んだ。かつてない力の入れようである。特に注目に値するのは、外国人教師に正規教員になる道を示している点だ。

 日本人の英語力はTOEFL平均で百五十六カ国・地域で百四十四位、アジア二十三カ国同で二十二位と低い。国が日本の英語教育に危機感をもつのは理解できるし、こうした戦略を進めるのは、むしろ遅きに失した感さえある。

 ただ忘れてはならないのは、英語の前に子供たちの日本語によるコミュニケーション能力が低下している点だ。通訳者で立教大教授の鳥飼玖美子さんや戸田奈津子さんは「英語の前に、自分の考えや気持ちを日本語で述べる力がなければ、英語で言えるわけがない」と強調している。

 英語は論理的な言語だ。最初に結論を言い、理由を具体的に説明する能力が問われる。小さいころから日本語で論理的に話す訓練ができていなければ、英語が話せても、国際会議などで相手を説得することは難しい。それに語学の修得には向き、不向きに加え、日本で生活する際、どれほど必要かとの問題もある。

 そうした観点から、生徒に一様に高い英会話能力を求める教育を押しつけるのではなく、論理的な表現のできる国語力修得や、英語に関心の強い子供の能力を伸ばす視点が必要ではないか。


 地域的な視点で考えると、アジア諸国に近く、国際化に力を入れているはずの九州には、外国語学部のある国立大学がない。その結果、語学修得をめざす学生が関東、関西に出ていく人材の流出も起きている。

 今回のソフト面の改革着手は大きな前進だが、人材を九州内で受け入れていくハード面の整備も、同時に推し進めていく必要がある。



地方の航空管制塔の見学に行ったことがある。

巧みに英語をあやつって飛行機を離着陸させる管制官に、「やはり英語ができないと勤まらないんでしょうね、この仕事」と言ったら「そんなことありません。専門的な会話だけですからまったく難しくない。
私、普通の会話はできませんから」とサバサバした答えをいただいた。


「生徒たちが高校卒業段階で日常会話ができること」
という目標の恐ろしさはそこにある。

私たちは日常どんな会話をしているか
日本人拉致の問題がどうのこうの、貴乃花の復活がどうのこうの、ノーベル賞がどうのこうの・・・・・・政治経済、スポーツ・音楽・美術・映画、隣のおばさんの噂話から担任の悪口まで、何でもかんでも話題となってしまう、それが日常会話だ。

「生徒たちが高校卒業段階で日常会話ができること」
その遠大な目標に向かっていくとき、何が獲得され何が犠牲にされるだろう?


日本人の英語力はTOEFL平均で百五十六カ国・地域で百四十四位、アジア二十三カ国同で二十二位と低い。


それは事実だが、だからといってそれが日本人の能力の低さや英語教育の不備を示すものではない。そもそも言語としての構造がまったく異なるのだ。

そのまったく異なるものを獲得しようとすれば当然ムリがくる。


なぜ、全ての高校生が英語をしゃべれなければならないのか?

インターネットの時代であるから読み書きができることは望ましいが、何故通訳を介しての会話であってはいけないのか。

英語による日常会話の獲得のために犠牲にされるほかの学問の勉強(通訳以外はそれが職業の中心的な能力を培うのだが)のことを考えても、それは成し遂げられなければならないものなのか。

私は幸いにして教師だからAET(アメリカン・イングリッシュ・ティーチャー)との交流があるが、それを除くと過去十数年間、英語を話す外国人と接触したことがない。

民間企業に勤める私の友人たちはほとんど英会話ができないが、それで困ったという話はつとに聞かない。



しかしそれでもなお、英会話は日本人が獲得しなければならない重要な能力なのだろうか?








2002.10.12

<絶対評価>「3」以上増え「2」「1」減る 東京都教委調査

[毎日新聞10月9日]



 東京都教委は10日、今年度からスタートした「絶対評価」が、生徒の学力を適正に反映しているかを検証するため、都内の公立中学3年生の1学期の全成績表の調査結果を発表した。相対評価の時と比べて5段階で「3」以上をつける割合が増え、「2」「1」が減る「インフレ傾向」がみられた。全教科に「1」がなかった2校をはじめ計9校を指導した。

 2学期制の学校などを除く630校、約7万5000人分の成績表を調べた。

 必修9教科の分布を平均すると、「5」=9・7%(相対評価7%)「4」=25・2%(同24%)「3」=41・8%(同38%)「2」=17・5%(同24%)「1」=5・8%(同7%)。主要5教科の平均でみると「5」が10・8%を占め、特に数学が12・5%と高かった。実技4教科の平均は8・3%で、入試で重視される主要5教科に「インフレ傾向」が目立った。しかし、同教委は「概ね適正に実施している」と判断している。

 同教委が指導したのは、相対評価と全く同じ割合の教科があった2校や、「5」「4」の割合が80%以上の教科があった学校など。うち1校は数学で6割に「5」、3割に「4」をつけ、「2」「1」がなかった。

 公立小中学校の評価は今年度から、集団の中のどの位置にいるかを示す相対評価から、学力が目標に達しているかどうかをみる絶対評価に移行した。教師の主観が入りやすく、学校ごとに評価のばらつきが出るとして、入試の資料には適さないとの指摘が出ている。





東京都教育庁が絶対評価の調査 「5」「4」やや増加 [朝日新聞10月10日]


東京都教育庁は10日、今年度から絶対評価が導入された公立中学校の3年生の1学期の成績をまとめ、全国で初めて公表した。従来の相対評価と比べ、5段階評価で「5」や「4」の割合がやや増え、「2」や「1」の割合がやや減った。

国語や社会など9教科全体でみると「5」が9.7%、「4」が25.2%、「3」が41.8%、「2」が17.5%、「1」が5.8%だった。従来の相対評価では「5」「1」が各7%、「4」「2」は各24%、「3」は38%と決められていた。

絶対評価の導入で「5」や「4」が極端に増え、高校入試の際に調査書による判断が難しくなるとの懸念もあったが、同庁は「各校で評価基準をつくるなどの対応をしており、懸念された偏りはなかった」とみている。


ただ、7校で「5」を半分以上つけたり、全教科で「1」をつけなかったりする例がみられた。また、2校が相対評価による配分率と同じ割合で絶対評価をつけていた。同庁は、特異なケースは個別に検証し、改善を図る考えだ。



まったく同じ数字に対する評価が毎日と朝日で分かれた。

毎日はこれをインフレと見、朝日はおおむね妥当な数字と考えるらしい。そのことが紙面に表れている。

東京都教育庁は「2」「1」がなかった学校や。全教科で「1」をつけなかったりする学校を指導したというが、これは解せない。


新指導要領は最低基準であり、全ての児童生徒はそれをクリアしていなければならない(寺脇研談話)からである。

特別な指導体制が必要な児童生徒は別として、全ての者は「3」以上の実力をつけられなければならない。それが現行指導要領の趣旨である(と寺脇は言った)。


つまり「1」や「2」があるということは、指導を終了しないまま1学期を終えてしまったということに他ならない。


さて、どうしよう。





 


2002.10.26

<中教審>いじめ5年で半減 基本計画で数値目標検討

[毎日新聞10月24日]


 教育基本法見直しに合わせ、中期的な教育施策を定める教育振興基本計画を審議中の中央教育審議会(文部科学相の諮問機関)の基本問題部会は24日、11月にまとめる中間報告をめぐり大詰めの審議に入った。「5年間でいじめや校内暴力の半減を目指し、学習環境づくりを推進」などの数値目標を、基本計画で打ち出す案が検討されている。

 同日、中間報告の素案が示された。5年間の計画期間中に達成すべき政策目標として、他に「国際的な学力調査でトップクラスを維持するため、確かな学力の育成」「奉仕・体験活動の機会を充実させ、小中学校で全員が体験することを目指す」なども例示した。

 一方、教育基本法見直しで、「国を愛する心」との表現が盛り込まれる方向になっていることに対し、部会で「偏狭なナショナリズムとならないようにすべきだ」などの意見が出ていた。このため、素案には「国を愛する心、伝統、文化の尊重が、国家至上主義的考え方や全体主義的なものになってはならないことは言うまでもない」との文言が追加された。(毎日新聞)



画期的なできごとである。
何が画期的かというと、
いじめや校内暴力の解決がとりあえず「半分でいい」、しかも「5年」もかけていいからである。

皮肉ではない。
これまで学校について要求されることは全て建前の世界であった(そうでなければならない面もあるが)。「いじめ」はあってはならないことであり、半減はおろか1件ですら存在してはならなかった。

警察なら「非行を半分に減らします」とか「薬物犯罪を20%削減」などといった言い方で残りの半数、あるいは80%が当面はなくせないことを明示できた。それが現実というものだ。

しかし学校はそうではない。
学校に要求されることは、
「いじめ」撲滅、体罰を含めた罰の禁止、指導要領に示された水準の全員のクリアなど、とてもまともに考えられない内容ばかりだったのだ。

今日始めて万引きをしたような生徒についてはかなりレベルの高い指導ができるだろうが、すっかり犯罪者めいた子どもの指導は非常に厄介である。そうした差異を無視して、全て解決しようとするから何もできなくなるのだ。

なんでも数値化することで、学校の教育力は今後も下がり続ける。
しかし、数値化でよい方向に向かうものもあるのかもしれない。