キース・アウト
(キースの逸脱)

2002年11月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。













  


2002.11.07

学生新生面 隣の花は赤く、芝生は青い

[熊本日日新聞10月7日]

 


 隣の花は赤く、芝生は青い。隣のものは自分のものより良く見えるという心理を表した言葉だ。「うちの米の飯よりも隣の麦飯」とさえ言われる。教育のシステムも、花や芝生と同様に隣の方が良くみえるものらしい。世界の教育事情を見ると、そう思う

▼「ニューズウィーク」の近刊も特集しているが、欧米は点数を競う画一的な教育を、アジアは創造力を大事にする自由教育を、それぞれ改革として進めている。十年前は、まったく逆のことが行われていた

▼画一的な詰め込み教育をしていた日本、韓国、中国などは、創造性豊かな人材を生み出す欧米の自由な教育にあこがれた。日本で始まった「総合的な学習」は、自由な教育の代表例だ

▼一方、アメリカやイギリスは、学力水準のそろった国民を育てるアジアの教育に注目した。大量の宿題を出し、統一学力試験を行って結果を比較する。成績を伸ばせない教師は解雇される。イギリスの教育相が十月に辞任したのも、統一試験の成績が悪かったことが影響したという

▼どの国でも批判が出ている。アジアでは学力低下を心配する声が出始めた。欧米には「テスト漬けは本当の教育ではない」と訴える親がいる。少し前まで、日本でもしばしば聞かれた文句である

▼社会の変化が激しい先進国ほど教育の方法に迷う時代である。結果的に、同じ国内でも地域や子どもの特性に合わせる教育へと分化が進むのでは。九日には熊本県PTA研究大会が開かれる。大会テーマは「責任を持とう、子どもの未来に」。自分の足元を見すえた論議が望まれる。隣を見るのはほどほどにして。



私たちはどのようにして海外の教育事情を知るのか。
まさか年間数百万の観光客たちが学校視察をして学んでくるわけではないだろう。
私たちのほとんどは、メディアを通して以外に、外国の教育事情を知る方法がない。
すなわち、私たちの判断はメディアの判断そのものである。


日本で始まった「総合的な学習」は、自由な教育の代表例だ
それはその通りだ。
しかし
創造性豊かな人材を生み出す欧米の自由な教育(それが事実かどうかは別にして)にあこがれた。のは私たちではない。

ここ10年であろうと40年であろうと、
保護者の願いは一貫して高い学力だった。普通の親たちは一度ですら「もう学力はいらない」といったことはない。
実際、「総合的な学習」に似た教育はあちこちで実験的に行われていたが、どこもはなはだしく不興で、保護者たちは恐れ、憎んだ。
教師も教師で、ほとんど勉強していなかった子どもたちを前にして、数学や国語の時数を減らすというアイデアに慄いていた。

そうした私たちの姿を、極端な受験主義、学力中心主義と激しく糾弾し、欧米の教育へのあこがれを恋愛にも似た切実さで訴え続けたのはマスメディアそのものだった(少なくとも新指導要領が発表されるまでは)。


自分の足元を見すえた論議が望まれる。隣を見るのはほどほどにして。
は,もうブラックユーモアを通り越して、ほとんど悪魔のあざ笑う声である。


私タチハ、マンマト オ前タチヲ ハメテヤッタ。
オロカ者メ。
足元ヲ見ヨ。
隣ヲ見ルノモ、ホドホドニ・・・








2002.11.20

無気力感募らす子どもたち急増 
福岡市調査
友人関係希薄に


[西日本新聞10月20日]



 友人らとの人間関係が希薄で、無気力感を募らせる子ども―福岡市が市内の小、中、高生を対象に五年ごとに実施している意識調査で、こんな青少年像が浮かび上がった。他人との深い付き合いを避け、慢性的な疲労感や学校での疎外感を訴える声も目立つ。

 調査は昨秋、小、中、高生各五百人と保護者千五百人を対象に実施。回収率88%。このうち無気力感については、やる気や疲労感など具体的な五つの設問にして中高生に尋ねたところ「よくある」「ときどきある」の合計が前回より増加。

 「何もやる気がしない」が高校生で22・6ポイント増の67・5%、中学生で22・1ポイント増の50・8%に上った=グラフ=のをはじめ、「何となく不安」という思いを高校生の54・7%(前回比9・6ポイント増)、中学生の47%(同13・1ポイント増)が抱いていることが分かった。

 背景として人間関係を上手に取り結べない子どもの増加を指摘する声がある。調査でも「一人きりが楽」という答えが高校生で半数を超え、三―四割が「学校での競争に疲れた気がする」「取り残されたような気がする」と回答。

 さらに「友達とは争ったりしたくない」「気の合わない人との付き合いを避ける」という答えが半数前後を占め、無難な付き合いを望む傾向を浮き彫りにした。

 調査した同市子ども企画課は、無気力感を生む要因として「友人とうまくコミュニケーションがとれないことや、リストラや不景気といった社会状況を敏感に感じとっていることが考えられる」と分析している。

 ▽秦政春・大阪大大学院教授(教育社会学)の話 現場の教師が「無気力の荒れ」と表現する現状を示すデータ。背景にはストレスがある。子どもは塾などで忙しく、周囲とコミュニケーションをとろうにも機会自体が減っている。学校五日制の導入で「地域活動を」といわれるが、それも子どもを管理すること。短い時間でもホッとできる時間が必要だ。



どうしてこんなくだらないコメントしかとって来れないのだろう?
今どき「子どもは塾で忙しく」などと正面切っていう人はほとんどいない。
塾通いは減っているし、受験圧力は決定的に減少しつつある。

確かに塾に忙しい子もいるが、大半の子どもは学校外の時間の大部分をテレビとテレビゲームに費やしているのだ。
塾を辞めさせ勉強を止めさせても、浮いた時間はそのままテレビやテレビゲームに振り向けられる。それは火を見るよりも明らかである。

また、
「背景にはストレスがある」には同意するが、子どもが抱える最大のストレスは(おそらくこの人が想定しているだろう)受験や不景気といった社会状況ではない。
現代の子どもたちにとっては、人間関係そのものがストレスなのだ。

したがって、
「短い時間でもホッとできる時間」とは煩わしい人間関係から離れ、好きな仲間だけと、あるいは一人ぼっちで過ごす時間のことである。

そうした時間をより多く確保すること、それが問題解決の糸口とはとても思えない。


誰のコメントを取るのか、それはマスメディアの判断である。
したがって秦氏の考えが西日本新聞の考えであり判断なのであるが、それにしてもレベルが低い。






2002.11.26


これが最後の『ゆとり教育』論争

[雑誌『文芸春秋』12月号]


寺脇  実は私自身、三つの小学校の教壇に立って、総合学習の授業をしたんです。ある小学校は五年生に、コミュニティについて教えた。まず、自分の住んでいる地域はどんなところで、そこをよくするためにはどうしたらいいのか、を考えさせる。子供たちは真剣に考えるわけですが、そこへ私が「自分の地域だけがよくなればいいのかな」と突っ込む。当然そうではなく、日本全体、あるいは世界全体をよくしなければ、自分の町も住みよくならない。
 そこで、「では、いまの君たちにそれだけの力があるのかな」と聞く。当然ないわけです。日本全体のことを考えるためには、学力を含めた大きな力が必要だし、世界全体を知るには、外国語ができなければ話にならない。当然、難関大学に、受験勉強をして入って、そこで専門の勉強をする、といったことも視野に収めなければならない。 また別の小学校では、「学校の前を流れている川が汚い。これを何とかしよう」というテーマを設定した。ここでも、「川はつながっているんだから、ここだけきれいにするなんてことは可能なのか」とやる。最終的には地球全体の環境をよくしなければならない、と分かる。そのためには、やっぱり勉強して力をつけなければならない、と子供たちは実感するわけです。

和田 おっしゃることは100%正しいと思いますが、ではIEA(国際教育到達度評価学会)の調査で、一日1.7時間まで下がってしまっている日本の子供の勉強時間が、二・五時間に上がる、といった具体的成果を示して頂きたい。それなら、私だって、「これまで言っていたことは間違いでした。寺脇さんの政策論が正しかった」と頭を下げますよ(笑)。

寺脇 そこにはすぐ答えが出せませんから、きちんと調査しなければならないと思います。ただ私のような素人が一回授業をやっただけで、3校とも子どもたちが口々に「勉強しなけりゃいけないね」と言い出したので、かえってこちらが「おお」と驚いたぐらいです。



新聞におもしろい記事がないので月刊誌から採った。
文芸春秋12月号。学力問題の一方の旗頭である和田秀樹の対談集の中の一つ、「これが最後の『ゆとり教育』論争」の一節である。

私は文部科学省の指導によって働く一介の教師である。したがって
自分の指示者がアホであると思うのは気が重い。多分、そんなところから、気に染まない文教政策が発表されても、できるだけ「意見は違ってもあちらにはあちらなりの高邁な思想がある」と信じようとしてきた。
しかし、それは間違いだったのかもしれない。

私のような素人が一回授業をやっただけで、3校とも子どもたちが口々に「勉強しなけりゃいけないね」と言い出したので、かえってこちらが「おお」と驚いたぐらいです

こんな言い方をされれば私だって「おお」と驚く。

寺脇ほどの有名人(しかも文部科学省の役人だ)が来校するとなれば、学校の気の使い方は尋常ではない。
「きちんとお話を聞くんですよ」
「体を動かしてはいけません」

「たった一時間ぐらい辛抱できなければ笑われますよ」

教師たちは口をすっぱくし、渋面をつくってしつこいほど話したはずだ。

子どもの方だって、何がなんだかわからないがとにかく「有名らしい」人が来るというので期待は高まる。さらにカメラを持ったマスコミらしい人が何人もウロウロしているとなると、それだけで効果は抜群だ
話が多少つまらなくても、「今におもしろくなるはずだ」「今におもしろくなるはずだ」と思っているうちに、一時間なんてあっという間に過ぎてしまう。

その間、優秀な児童数人が妙に迎合的な気分になってそれらしい発言をする。
何しろカメラがこちらを向いているのだから、できるだけ講演者の意に添った発言をし、テレビに映るチャンスをものにしなければならない。

寺脇が「おお」と喜んだ背景にはそれだけのものがあるのだ。

私だって新しい学校を移ったばかりの最初の一ヶ月は、相当にうまい授業ができる。
とにかく相手は私という人間を知らないから、緊張して授業を受けてくれる。問題は、それからだ。

子どもたちが口々に「勉強しなけりゃいけないね」と言い出したので
そんなことは簡単だ。

難しいのは、そう言った子どもたちを、実際に2時間3時間という苦しい、真剣な学習に向かわせることだ。

それにしても、この程度の男に振り回される私たち、虚しいものである。






2002.11.28


女子中学生転落死、足場けった同級生に4千万賠償命令

[読売新聞11月27日]



富山県朝日町立朝日中学校で1999年1月、教室のカーテンを直していた1年生の女子生徒(当時13歳)が、同級生の男子生徒に机の上にいすを乗せた足場をけられて転落し、死亡した事故で、女子生徒の両親が、町と県、男子生徒とその両親を相手取り損害賠償を求めた民事訴訟の判決が27日、富山地裁であった。


永野圧彦裁判長は、「善悪を分別する能力があった」として、男子生徒に、4178万円を支払うよう命じる判決を言い渡した。一方、原告側が学校設置者の町や、教師の給与負担者の県に求めた損害賠償は、「教師の応急措置は適切だった」などとして退けた。


判決などによると、日直当番だった女子生徒は、レールから外れたカーテンを直していたところ、男子生徒に足場をけられて転落。割れた窓ガラスで右足の動脈を切る大けがを負い、2か月後に死亡した。


女子生徒の両親は、女子生徒が事故当日まで8日連続で日直当番を務めていたことについて「担任教諭が適切な対応をしなかったことが結果的に事故を引き起こした」と主張、事故後の応急処置についても「養護教諭が患部に刺さったガラス片を抜くなど、的確な止血処置が行われなかった」として、県や町の責任を追及していた。


これに対し県や町は「カーテンを直す行為は日直当番の仕事ではなく、女子生徒の行為や、足場をけられることは予見できなかった」などと争っていた。


ちょっとした軽い気持ちが、4000万円。
子どもに見せるべき貴重な記事だ