キース・アウト (キースの逸脱) 2003年1月 |
by キース・T・沢木
サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。 政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。 落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。 ニュースは商品である。 どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。 ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。 かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。 甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの、本物そっくりのまがい物のダイヤ。 人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄 。 そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。 |
2003.01.07
変革迫られる教育 共感得る未来像の提示を
[沖縄タイムス1月5日]
開かれた学校への一歩新しい年も教育を取り巻く厳しい環境は変わらない。
昨年四月、完全週五日制がスタートし、公立小中学校では新指導要領が導入された。しかし、学校現場からは逆に「忙しくなった」との声も聞こえる。授業時数や学習内容の削減による学力低下を心配する父母の不安や批判も、依然根強いものがある。
二○○三年度から地方が独自に少人数学級を編成する道も開かれる。すでに小学校で実施している市町村もあるが、増える教師の給与は全額市町村で負担しなければならず、地方財政を圧迫することから少人数学級がどの程度増えるか予断を許さない。
県では高校再編の取り組みが具体化する。統合や新設など計画は固まっても、どのような学校をつくりあげるかはこれからだ。まず、教職員や生徒、父母と地域社会で話し合いを積み上げ、共通認識を図る作業が求められる。
検討が進む高校通学区の変更も含め、高校教育のありようが見直しを迫られているといえよう。
編成整備によってどのような学校をつくり生徒を育てようとしているのか、教師や生徒、父母らの共感を得られる未来像をまず描かなければなるまい。
そのためにも開かれた学校づくりが欠かせない。学校評議員制はじめ授業に地域の人材を活用する連携も進んでいる。先生の意識改革を含め、学校自体の取り組みも問われる。
高校入試の合否判定基準が一斉に公開された。受験生への学力試験の点数の開示方針も含め、開かれた教育への一歩にしてもらいたい。
新しい動きもある。五日制による授業時数減の影響を少なくしようと「二学期制」導入の動きも生まれている。来年度から浦添高や、公立中学校では初めて東風平中が取り入れる。
普通学校へ入学を希望する障害のある子どもたちの道が広がりつつあることにも期待が集まる。学校施設の安全対策やヘルパー、ボランティアなど支援体制が整えば普通学校での受け入れが可能なケースも多いのではないか。
受け入れの学校や教育行政は環境整備を図り、普通の学校で学びたいとする子どもや保護者の希望を前向きにかなえてほしい。
現実と乖離する中身
今年は教育基本法をめぐる論議も欠かせない。中央教育審議会は昨年十一月に中間報告をまとめた。「新しい時代を切り開く心豊かでたくましい日本人の育成」が報告を貫くテーマとなっている。
個人の尊厳や平和を希求する今の基本法の理念に対し、愛国心や道徳心を重視する原則や理念が際立っているといわざるを得ない。
改正の動きは学校現場で日の丸・君が代の国旗と国歌が強いられている状況とも無縁ではない。見直しが森喜朗前首相の主導でレールが敷かれたことに照らし合わせれば政治的色彩も透けて見える。
現教育基本法に明示されていないとする伝統や文化の尊重も、学習指導要領に基づいて教えられているのは明らかである。
家庭の責任や役割についても、「新たに規定することが適当」としているが、それで親の自覚が高まると考えているのだろうか。現実と乖離(かいり)した内容といえよう。
学校現場では、いじめ、不登校、学級崩壊など危機的状況に直面し苦悩している。この現実を直視し、教師や子どもの視点から問題解決に取り組まなければならない。
改革は待ったなしだが
いま求められているのは、教育の閉塞(へいそく)感を基本法のせいにしないで、自由で自主独立の精神にあふれた子どもを育てることである。
教育改革は待ったなしで取り組まれる。しかし、一つ一つの試みがどの方向を目指し、何をどのように変えようとしているのか十分明らかになっているとはいえない。
「ゆとり教育」を掲げる文部科学省も、学力低下の批判を浴び学力重視に軸足を移したりしている。県教育庁の進める施策も一本道とはいくまい。
いま学校がどんな課題を抱え、どう解決を図ろうとしているのか。学校はできる限り父母や生徒にも明らかにする試みが問われる。
変革の一歩は、教育行政や学校の情報公開によって、父母や地域が同じ問題意識を持つことだ。
完全五日制もダメ、
学習内容の削減もダメ、
少人数学級もあてにならず、
高校再編もこれから。
つまり文部科学省が始めたことは全部ダメ。
いま求められているのは、教育の閉塞(へいそく)感を基本法のせいにしないで、自由で自主独立の精神にあふれた子どもを育てることである。
と意気は高いが、自ら提案することと言えば学校評議員制を中心とした住民参加と情報公開だけである。
(自由で自主独立ということが十代で達成できる目標なのか、という問題は別にしておこう)。
とにかく今やっていることは全部ダメだから、やっていないこと・実験的なことは全部マルとなる。
かつては学校五日制がそうだったし「ゆとり学習」もそうだった。
「内容を精選して子どもの負担を減らせ」という考えも別に文部科学省が言い出したことではない(政府はそんなに優しくない)。
総合的な学習も絶対評価も、メディアが手放しで持ち上げたものだ。
(ただし、それも現実となるまで)
そして今は、二学期制・普通学校への障害のある子どもの入学、といったことが教育に関する報道のトレンドらしい。
その中にだって問題があるが、「全部マル」である以上、細かな検討や報道はしない。。
例えば二学期制のために
期末テストの回数が減ってテスト範囲が飛躍的に拡大し生徒の負担が増えること、
教師側から見ると、それは学習意欲への刺激や学力確認のチャンスを失うことだということ。
通知票による保護者への学力説明の機会が一回減ること、
不登校の子を始めとして、新学期に「仕切りなおし」を求めようとする子にとって、やり直しの機会が1回減ること。
それらに関しては一言も触れていない。
障害のある児童・生徒が普通学校に通うことは好ましいとしても、それには
たった一人の子どものために学校中にスロープをつくり、エレベータを設置するといった予算措置を取らなければならないこと。
障害の程度によっては、その子のための教員を増やさなければならないこと。
そしてその費用は増税、または現在使われている予算のどこかを切り崩して振り向けなければならないこと。
予算措置が取れなければ教員の多忙にさらに拍車がかかり、車椅子の上げ下ろしや体育の授業において生徒自身の命が危険に曝されること。
そういったことは一切説明されない。
(学校施設の安全対策やヘルパー、ボランティアなど支援体制が整えばと書いているが、それがどの程度の予算を必要とするのかについては一顧だにない)
誤解のないよう説明しておくが、私は基本的に二学期制にも障害のある児童・生徒の受け入れにも賛成である。
二学期制については、現在も内容的に二学期制である技術家庭科や社会科からは非常に説得力ある説明がなされている。
校務におけるもっとも辛い仕事のひとつがテスト制作と採点であるから、それが一回減ることは非常にありがたいことである。
障害のあり児童・生徒の受け入れについても、それが学校全体に与える精神的効果は計り知れない。経験的に、私はそれを知っている。
しかし同時に、それらにはコストがかかり、場合によってはリスクもあることも知っているのだ。
そうしたコストやリスクに関する説明が一切ないままに、新しいものを賞賛し続けるというのはマスメディアの常道である。
しかしそれはメディアにとって、
(マア イイサ。ソレガ実現シテ、後デ問題ニナッタラ ソレモ にゅーす ネタ サ・・・・)
ということなのだろう。
「ゆとり教育」を掲げる文部科学省も、学力低下の批判を浴び学力重視に軸足を移したりしている。
のうのうとおっしゃるが、その軸足を強引に移動させたのがだれだったのか、知らないとは言わせない。
そして今日、二学期制や障害児の積極的受け入れにコストやリスクも考えず賛成した、そのことを私も覚えておこう。
2003.01.11
普通学校入学・受け入れ態勢は万全か
[琉球新報 1月10日]
心身に障害を持ち、これまで養護学校など特殊教育諸学校への入学対象とされてきた児童生徒が、今春から普通学校で健常者と机を並べ、一緒に学ぶという光景が見られそうだ。
本紙が県内五十二市町村の教育委員会を対象に実施した「統合教育」に関する電話アンケート調査だと、十五自治体(八市三町四村)で計二十九人の障害者が新年度、普通学校への入学を認められた。
那覇市教委が普通学校への障害者受け入れに向け、県内初の指針をまとめたのが昨年六月だから、急速な門戸の開放である。
健常者と一緒に学びたい、学ばせたいと願い続けてきた親子にとっては朗報であろう。対象者がいながら対応しない市町村教委にもこうした受け入れが波及し、全県的な広がりになることを期待したい。
ただ、普通学校への受け入れに当たっては課題も少なくない。
二十九人を迎える関係自治体の新年度予算をみると、ほとんどがヘルパー配置やスロープの設置、トイレの改築など必要最小限の整備にとどまっている。
「普通学級で学ばせたい」と願う父母らの意向に反し、特殊学級を開設して対応する自治体も見られた。これでは望ましい統合教育の環境と言えないだろう。
まずは、校内施設の見直しなどハード面の整備を急ぐことだ。車いすを使う子も、エレベーターなどの設備が整っていれば大丈夫だろう。コンピューターを使って意思疎通ができる子なら、健常者に囲まれたクラスでも十分に溶け込めよう。
次に、定数より多めに配置する加配教諭の導入など、ソフト面の拡充が求められる。専門的指導者の派遣も必要だ。
ところが、こうした施設整備や人的支援にはかなりの予算が掛かることから、及び腰の自治体が目立つ。介護へルパーを全額負担する自治体がある半面、保護者に半額負担させる自治体もあり、「保護者の意向を最優先させた」という割には十分な対応になっていない。
確かに、市町村財政はひっ迫し、十分に対応できない面がある。しかし、統合教育の推進は、曲がりなりにも学校教育法施行令を改正して導入した施策である。
財政にゆとりがある自治体では普通学校への就学がかない、財政難のところではあきらめろ、というのでは新たな格差を生むだけで、制度の趣旨も生かされまい。
統合教育をうたうなら、政府の責任で予算措置をすべきだ。それに障害者と早い時期から学ぶことは、健常者にとっても間違いなくプラスになる。バリアフリーは普通学校から始めたい。
沖縄タイムスに噛み付いたら琉球新報がいい記事を書いてきた。
そうだ。主張とはこういうものでなければならない。
何かを主張してそれに伴うコストやリスクを背負わないとしたら、それは単なる煽動だ。
その意味で
統合教育をうたうなら、政府の責任で予算措置をすべきだ。
という言葉には花がある。
障害者と早い時期から学ぶことは、健常者にとっても間違いなくプラスになる。
これもその通りである。
統合教育という理想のために、
たった一人のためであっても学校にエレベータを設置しよう、
教員の加配をしよう。
そしてそのためなら、予算を傾斜配分したり、
あるいは増税したりすることがあってもそれに耐えていこう。
こう言いきってこそ、主張に真実味が伴ってくる。
琉球新報よ
誉めてとらす!
2003.01.14
[岐路の日本]「戦後思潮のゆがみを正す時だ」
◆教育を再構築せよ
[読売新聞 1月14日]
【理念倒れの「教育改革」】受験が子供たちを息苦しくし、そのストレスが成長をゆがめている。受験のための画一的な授業が、子供たちから創造性を奪っている。個人の尊重という理念も受験競争で実現できなかった……。
戦後の教育では、長らくそう信じられてきた。詰め込み授業が批判され、「ゆとり」や「個性化」が教育改革のスローガンとなったのには、そうした認識が背景にあった。
今や、少子化で、受験競争は緩和された。教科内容、授業時数の削減で「ゆとり」は実現し、履修科目の選択拡大などで「個性化」への道も開かれた。
本来であれば、子供たちは、「ゆとり」を生かし、自立した「個」になっていなければならない。自ら学び考える学習に意欲を燃やしていていいはずである。
しかし、現実はどうだろうか。
不登校の小、中学生は昨年度、過去最高となり、暴力行為も増加している。
「うそをつく」「授業をさぼる」などの行為を、「してはいけない」と考える中学生の比率は、日本、アメリカ、中国三か国のうち、日本が最も低い。
文部科学省の全国学力調査で、子供たちの学力低下も明確になった。学習意欲の低さ、学校外での学習時間の少なさは国際的にも目立つ。
【「個人」強調の弊害】
戦後教育の欠陥が、あらゆる面で浮き出てきている。
戦後、教育理念の中心概念となってきたのは「個人」だ。「教育の憲法」と言われる教育基本法は、「個人の尊厳」「人格の完成」を高らかに掲げた。「ゆとり」「個性化」もそこからきている。
だが、基本法でいう「個人」は抽象的でありすぎて、実際には力にならなかった。むしろ、「ゆとり」や「個性化」の過度の強調が、弊害を生んだ。
学校では、子供の学力差を直視せず、「できないのも個性」との言い方すらされた。「指導より支援」とされ、教えるべきことも教えない事態も招いた。
日本青少年研究所の調査で、日本の子供は「自己決定」を最高の価値観としていることが分かった。だが、少女売買春を持ちかける少女らが「自分で決めた」と強弁する姿からは、未熟な思いこみしか伝わってこない。
個人の尊重は大切だ。だが、現実にはそれが個人偏重となり、悪平等主義と結びつき、教師の教育放棄、子供の身勝手といった形のひずみを生んできた。
問われるべきは、自己決定ができ、自発性を発揮できるような個人を、どのようにして形成するかだ。
「規範の外在性」という言葉がある。自分の外にある規範を取り込み、内面化することの大切さを示している。学習も先人が蓄積してきた知識体系を身につけなければ、進みはしない。
GHQ(連合国軍総司令部)のコントロール下で制定された基本法には、個人をどのように形作っていくかという道筋は示されていない。
【基本法改正が急務だ】
同法からは、愛国心、伝統、宗教、家族などが、抜け落ちている。日本人としてのアイデンティティー形成が、意識的に排除されている。
日本人のナショナリズムを抑え込むための措置だった。だが、個人を超える大事なものがあることを知らないままで子供が自らを律するのは難しい。
自らの文化の基盤を軽んじては、独創性も身につけにくい。
中教審が昨年末、同法改正に向けた中間まとめを発表した。抜け落ちていた要素を取り入れ、子供に愛国心や伝統を尊重する心を植え付けようとしている。遅きに失した感は否めないが、歓迎すべき動きである。
改正については、「いじめなどを解決する決め手にはならない」との反対意見もある。だが、様々な教育課題について対症療法を施すのではなく、根本から教育を立て直すには、基盤となる理念がどうしても必要となる。
日本人としてのアイデンティティー形成なくして、子供たちは、自らの判断基準を持ちようがない。それこそ自信と誇りのない根無し草になってしまう。
よって立つ国家と文化を確認し、その上で他の国と他文化を尊重する態度を養うことが大切だ。
土台のないところに抽象的な個人を打ち立てようとした、砂上の楼閣とも言うべき構造こそ、戦後教育にゆがみをもたらした根本原因である。
基本法の改正が、急務だ。早急に法を改正し、しっかりしたバックボーンを持つ個人を育成していく手だてをつくすことである。
個の確立や体系的な知識の獲得が難しい、今の国際化、情報化時代にこそ、それが求められる。
読売新聞が絶望的な記事を書いた。
右手の行ったことを左手が批判し、しかも「その右手は私のものではない」と強弁する。
受験が子供たちを息苦しくし、そのストレスが成長をゆがめている。受験のための画一的な授業が、子供たちから創造性を奪っている。
私たちはそんなことは言わなかった。
マスコミがそう書きたてていた時、私たちが見ていたのはロクに勉強もしないで日々遊び暮らしている子どもたちだったからだ。
また、私たちには、
40人もの生徒を抱えながら「画一的」でない授業、というものを想像することが難しかったし、自由にすれば自然に身につく「創造性」というものも理解できなかった。
しかし「受験が子供たちを息苦しくし、そのストレスが成長をゆがめている。受験のための画一的な授業が、子供たちから創造性を奪っている」と言う批判は、圧倒的な力で私たちを押しつぶそうとしていた。
戦後の教育では、長らくそう信じられてきた。
詰め込み授業が批判され、「ゆとり」や「個性化」が教育改革のスローガンとなったのには、そうした認識が背景にあった。
それはその通りだ。しかしそう信じた最初の人々はメディアの関係者だったし、その考えを積極的に広めたのもメディアだった。
私たちは、子どもたちを目の前にして「この子たちに、これ以上のゆとりがなぜ必要なのか」と本気で首をかしげていたし、子どもたちが「生徒」という画一性を捨て、どんどん「個性化」していくことに強い恐れを感じていた。私たちは、学校にいるのは「生徒」だけであってよいと思っていた。少なくとも授業中は、「学ぼうとする者たち=生徒」でなければならないと信じていた。
しかしメディアは、ゆとりと個性化を教育改革のスローガンにせよと頑固に働き続けた。
日本青少年研究所の調査で、日本の子供は「自己決定」を最高の価値観としていることが分かった。だが、少女売買春を持ちかける少女らが「自分で決めた」と強弁する姿からは、未熟な思いこみしか伝わってこない。
「自主性」という言葉で子どもたちの「自己決定」を最大の価値だと教えたのもメディアだったはずだ。私たちはそんなことは、少しも好きでなかった。
子どもの自己決定をそのまま尊重していたら、子どもは正常に育つことを止めてしまう、
それは私たちには自明だったが、メデイアにとってはそれこそが教育改革の決め手だった。
つい数年前(例の酒鬼薔薇事件のおきるまで)「子どもの権利条約」はもっともホットな話題であり、子どもの「意見表明権(12条)」を十分に認めない教員は無能呼ばわりされたではないか。
しかし、そうした一切について、メディアは忘れることができる。
自分たちが際限もなく世論をミスリードしたことを、メディア自身はその力を使って消すことができるのだ。
そして
学校では、子供の学力差を直視せず、「できないのも個性」との言い方すらされた。「指導より支援」とされ、教えるべきことも教えない事態も招いた。
個人の尊重は大切だ。だが、現実にはそれが個人偏重となり、悪平等主義と結びつき、教師の教育放棄、子供の身勝手といった形のひずみを生んできた。
そうだ。キミたちの手にかかれば、常に、全ては教師が悪いのだ。
基本法の改正が、急務だ。早急に法を改正し、しっかりしたバックボーンを持つ個人を育成していく手だてをつくすことである。
違うだろ。
早急に行うべきは、自らの立場を明らかにし、責任を持って発言する、成熟したマスメディアの構築である。
教育基本法をいくらいじってもムダだ。幼稚なメディアの手にかかれば、どんな高邁な理念も容易に捻じ曲げることができるからだ。
2003.01.17
[新教育の森]先生は今/学校に行けない/
[毎日新聞(熊本) 1月16日・17日]
◇運営、指導巡り疎外感
県立高校、公立小中学校で、01年度病気休職した教諭は県内で49人。うち、精神疾患が28人を占める。休職者数は過去に01年度を上回ったことはあるが、精神疾患が占める割合は年々増加している。特に小中学校教諭に多く、01年度は28人中25人に上った。
「行きたくない」
沖野未央子先生(仮名、20代)は、そう思いながらハンドルを握っていた。全校の先生が自分の授業を見に来る日だった。行かなければ……。でも、行きたくない。
気付くと、県北の勤務する中学がある町を通り越し、福岡県まで来ていた。大事な授業をすっぽかした。
非常勤講師から本採用になって10カ月。00年2月のことだった。
学校の建物を見るのさえ嫌になり、2週間ほど休んだ。医師の診断は「慢性疲労症候群」だった。
2年目は担任をはずれたが、授業をするのが精いっぱい。3年目は1年生を担任したが、6月に授業の準備が間に合わず4日休んだのをきっかけに、学校に行けなくなった。そして、01年12月に正式に休職した。
■ □
大学生の時、経済学部にいたが「理想を追求できる」と、教職課程を選んだ。卒業後、2年間は非常勤講師として高校で教え、採用試験に合格。県北の中学に赴任した。
「個性をはき違えるな」「髪型をどうこう言う前にすることがあるだろう」
丸刈り校則にも逆らう生徒はなく、従順さに驚いた。校則や先生に反発してきた自分を思い、不自然さも感じた。だが、生徒と接してみると、頭ごなしの指導に納得してなかった。だから、生徒の声に耳を傾けた。
衣替えの前、暑くなると先生たちは半そでなのに、生徒たちは学生服を脱いではいけない。「私の授業では、脱いでもいいよ」。冬は教室でコートを着ることも認めた。
周りの先生からは「甘い」「初任で学級運営もできないくせに」と言われた。代休をとったら、呼び出されて正座させられた。
「代休はとるし、眉毛はそるし、スカートは短いし」
先輩教諭からは、生徒に怒るような理不尽な怒鳴り方をされた。
学校が、社会からかけ離れた別世界のように感じた。若い先生はおらず、相談相手もいなかった。職員の中で完全に浮いていた。(16日分)
◇職員構造にストレス
県北の中学の沖野未央子先生(仮名、20代)は、生徒指導の方法を巡り学校で孤立していた。
「生徒指導で認めてもらえないなら、授業で頑張ろう」。授業なら、実力で評価してもらえると思った。
だが、力めば力むほど、完璧に準備ができない自分が許せなかった。準備不足だと、生徒に申し訳なく思った。どんどん自分を追い詰めていった。
授業という最後の支えが崩れた時、学校に行けなくなった。
01年12月、休職した時は完全なうつ状態だった。
■ □
「どうしてこうなってしまったんだろう」。いろいろ考えた。
最初は自分自身の問題だと思った。「頑固だし、協調性も欠けていたかな」と。だが、国立菊池病院の精神科医、下原宣彦医師に言われた。
「昔は校長、教頭だけが上に立ち、他の教諭は同じ立場という平たい職員構造だった。今は主任制度などでピラミッド型になってしまった。あなたは、その一番下でストレスをためてしまった」
思い当たることがたくさんあった。職員会議では校長に右に習え。教諭間の仲間割れも激しかった。特定の先生を「ダメ扱い」し、「あんな役立たずになるな」と言われた。
みな自分の仕事に追われ、職員室でも先生同士で話すことはほとんどない。本音で話せる先生もいなかった。今でも“世間とかけ離れた世界”だと思う。
でも、悩んだ末、復帰することにした。「子供が好きだから」
■ □
下原医師は「先生は横のつながりがなく、非常に孤独になっている。教師の不祥事続きで、上からの管理もきつく、ストレスがたまりやすい」と教師の現状を分析する。
「相談する人もいないから、自分で抱え込んでストレスとなり、うつ病になる」
ベテランの男性中学教諭も言う。「どこかプツンと切れたら、私だって出勤しなくなってしまう。放り出してしまえたら、どんなに楽だろう」(17日分)
「昔は校長、教頭だけが上に立ち、他の教諭は同じ立場という平たい職員構造だった。今は主任制度などでピラミッド型になってしまった。あなたは、その一番下でストレスをためてしまった」
「先生は横のつながりがなく、非常に孤独になっている。教師の不祥事続きで、上からの管理もきつく、ストレスがたまりやすい」
「相談する人もいないから、自分で抱え込んでストレスとなり、うつ病になる」
見事に定式的である。
こうした書き方をしておけば誰もが納得してくれる。
しかし、事実は多数決で決まるものではない。多くの人々が納得するかどうかは、「事実」の裏づけではない。
いじめや不登校についてもそうだが、医者が学校現場に駆けつけて事実調査をしたという例はつとに聞いたことがない。事実関係は患者や相談者から取材ずるだけで、あとは新聞や雑誌から見た知識で味付けし仕事を終えてしまう。
少なくとも人の心を扱う部門では、「その人が言った」という事実と「その人が言ったことは事実である」ということとは区別されてしかるべきなのに、そんな様子もない。
みな自分の仕事に追われ、職員室でも先生同士で話すことはほとんどない。本音で話せる先生もいなかった。
この教諭がそう感じたのは事実である。しかし語られた内容が事実かどうかは別問題だ。もしかしたらそれは、彼女自身が言うように、
頑固だし、協調性も欠けていた
ためだったのかもしれない。
私には一つの教師像が浮かぶ
彼女は理想に燃え、苦労の末、教員になった。
自分自身の経験から、旧態然たる教育界に新風を吹き込もうと情熱の全てを傾けはじめるが、周囲はそれを理解しない。
自分は正しい道を進んでいるのに、周りの人々はそれを方向違いの努力としか思ってくれない。
生徒に良かれと思ってすることは同僚から嫌われる。
休日出勤をしたら代休を取るのは当然の権利なのに、自分たちが取らないばかりか代休を取る者に非難の目を向ける。
どんな化粧をしようがどんな服装をしようが個人の自由なはずなのに、「眉をそるな、ミニスカートははくな」と理不尽な言いがかりをつけられる。
「生徒指導で認めてもらえないなら、授業で頑張ろう」。授業なら、実力で評価してもらえると思った。
だが、力めば力むほど、完璧に準備ができない自分が許せなかった。準備不足だと、生徒に申し訳なく思った。どんどん自分を追い詰めていった。
そして一番大切にしていたはずの授業を、4日間すっぽかした・・・
服装など厳しい教師も甘い教師もそれぞれ生徒を大切にしていることには変わりない。
強いて言えば前者が将来のその子を大切にしたいから今を厳しくし、後者は目の前のその子を大切にしたいと考え校則を緩やかに考える、そうした違いがあるだけである。
校則が間違っていると考えるならその改正に向けて精一杯努力すべきであろう。そうした努力もせずに独断で校則を捻じ曲げれば、それはまっすぐに他の教師にはね返ってくる。
大変な努力をし、生徒と対決しながら支えてきた校則が「だって○○先生はいいって言ってたよ」の一言で危うくなる。まさか「○○先生はダメな先生だから許している」とは言えないだろう。「○○先生には○○先生の考え方がある」では法の普遍性を失わせることになる。
40人近い生徒を抱えながら全員が納得するような「完璧な授業」などない。誰もそんなことはしていないし可能とも考えていない。
教師は年間のトータルで生徒を高めれば良いのであって、毎時間毎時間に完璧を期すれば生徒の方が息が詰まってしまう。
それにしても・・・
人はいつからこんなふうに他者の評判を気にしながら生きるようになったのか。
他者を見返し、他者に認められることはそんなに重要なことなのだろうか?
しかしそうした心の持ちようしかない大人をつくり上げてしまったのも、私たち(「私たち教師」ということではない)であることには違いない。
2003.01.18
生徒が教師を採点
[中国新聞 1月16日]
福山市立駅家南中学校が、生徒による授業採点を二学期から始めている。全校生徒三百六十二人が、数学、英語、美術など九教科の教諭や非常勤講師合わせて二十四人の教師全員の「授業態度」を、学期ごとに点数で評価する。
大学で学生が授業を評価するのは珍しくないが、中学生の例は聞いたことがない。「中学生に評価する力があるのか」「そんなことをすれば教師が生徒に迎合し始めるのではないか」といった見方もある。
評価項目は六つ。先生はチャイムの前に教室に来ているか▽忘れ物点検をしているか▽毎時間の授業のねらいをはっきりさせているか▽分かったかどうかを班ごとに確認しているか▽私語などでうるさい時に注意しているか▽授業はわかりやすいか。具体的である。
駅家南中は開校十五年目。福山市北部郊外の住宅地にある。校則もつくらず、チャイムも鳴らさないユニークな教育をしてきたが、次第に学校が荒れ始め、五年前から「学校を変える」取り組みを続けている。
今回の授業採点も学校再生の取り組みの一環。同校ではこれまでに、教室やトイレに花を▽ あいさつをしよう▽クラブ活動を活発に―などを生徒会の活動として取り組み、それを校風にしてきた。
「授業は教師と生徒が一緒につくるもの。採点は、生徒が当事者として授業を見つめ直す作業でもある。生徒自らきちんとやらないと評価はできない」と高橋秀典校長。二月に行う三学期の採点では評価項目を二つ増やす。
この記事の新鮮さは内容にあるのではない。表現にこそある。
つい数年前まで、校則のない学校・ノーチャイムはメディアの理想であった。それがこの記事では学校の荒れの原因とされる。
もちろん、校則もなくチャイムによって時間に区切りも与えない学校は、生徒の意識がよほど高くない限り荒れる。そしてそれほどの高い意識を持った生徒で学校中を満たすには、教師はあまりにも無力なことも、分かりきったことである。
そんなことは校則の廃棄やノーチャームがもてはやされた時期であっても同じだったが、メディアはまったく考えなかった。
さて、今年の学校の目玉商品は「学校の自己評価・自己採点」である。
昨年は絶対評価と評価規準、その前は学校五日制への対応、さらにその前は総合的な学習と、ここ数年、教師は新しい学校づくりに忙殺されてきたが、平成15年度はこれによって本来の仕事を脇に置くことになる。
自己評価・自己採点といっても自己満足的なものはできないから当然アンケートを取ることになる。生徒、保護者はもちろんのこと地域の人々の意見も聞き、それに答えていく。出された意見のとおりにする必要はないが、そのいちいちにきちんと対応していかなければならないのは確かであろう。
しかし、
先生はチャイムの前に教室に来ているか▽忘れ物点検をしているか▽毎時間の授業のねらいをはっきりさせているか▽分かったかどうかを班ごとに確認しているか▽私語などでうるさい時に注意しているか▽授業はわかりやすいか。
生徒はできるだけ休み時間が長い方がいいし、忘れ物点検なんてまっぴら。分かったかどうか班ごとに確認されれば自分の至らなさが暴露され、友だちからは突き上げられる。私語は迷惑よりむしろ楽しみだし、授業がわかりやすいかどうかなんてどうでもいいことである。
そう考えると、この評価規準は腐るに決まっており数年を待たずして消えてしまうはずである。
「中学生に評価する力があるのか」「そんなことをすれば教師が生徒に迎合し始めるのではないか」
といった不安は当然のことである。
こうした評価に意味があるのか? といった点では記事に賛成するが、しかしこれは元を質せばメディアがリードした世論の圧力のもとで生まれたものである。
メディアこそ「生徒が教師を採点する」という新しい試みに積極的な評価をすべきなのだ。しかるにこの冷ややかな態度は何なのだろう?
学校の自己評価・自己採点も、学校五日制やゆとり教育や総合的な学習、絶対評価のように、すでに支援の対象から批判の対象へ移ってしまったのかもしれない。
しかし学校において、それは今年から本格的に取り組む大変な事業なのである。