キース・アウト
(キースの逸脱)

2003年2月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。













  


2003.02.05

高いレベルの学力持つ子ども少ない 文部科学白書分析

[朝日新聞 2月4日]


 

文部科学省は、今年度の「文部科学白書」をまとめ、4日の閣議で報告した。「教育改革」の特集の中で「学力」をテーマとし、「日本は高いレベルの学力を持つ子どもの割合が少ない」と分析。同省が「確かな学力」を身に着けさせるために数多くの向上策に取り組んでいることを強調している。

 白書は、経済協力開発機構(OECD)が実施した世界各国の学力調査や、昨年末に結果を公表した小中学生45万人対象の全国調査の結果を詳しく紹介。「全体として我が国の子どもたちの学習状況はおおむね良好」とした。

 そのうえで、(1)学習内容を十分理解できていない子どもが少なくない(2)高いレベルの学力を持つ子どもの割合が国際的に見て少ない(3)勉強は大切だと認識しているが必ずしも好きではない傾向がある(4)学ぶ習慣が身に着いていない(5)自然体験、社会体験など子どもの学びを支える体験が不足している――との「問題点」を挙げた。

 同省は「基礎基本をしっかり学び、自ら考え、自ら行動できる『確かな学力』の育成が必要」と繰り返し説明。教科の内容を3割程度減らした今年度からの新学習指導要領について、身に着けるべき「最低基準」だと改めて強調したほか、宿題や補習などの実施を説いた文科相のアピール「学びのすすめ」の実践を促している。


以前のことになるが、
「個性教育」の掛け声は、結局、制度として「飛び級入試」を残しただけだった。

「ゆとり教育」も(普通の子が20年以上も前からほとんど勉強していなかったことを考えると)結局、エリートたちが詰め込み教育に忙殺され、本来期待される創造性や独自性を開発できないでいることへの産業界の苛立ちを反映したスローガンでしかなかった。

そして今、

「学力低下」の問題も「エリート養成」の問題へとシフトされようとしている。

普通の人は誰も、わが子の低学力の問題がエリート教育の充実へと進むなどとは夢にも思わなかっただろう。
しかしこの問題は最初からそうした性質を持っていた。

河合塾の調査によれば、95年の段階ですでに低学力の生徒の学力低下はこれ以上下がれないほどに下がってしまっていた。したがって2000年以降持ち上がった学力問題は「授業がわからない子たちの問題」では、まったくない。「落ちこぼれ」の問題は20年以上前から続いているもので、その意味では今新たに別の名で問題を立ち上げる必要はなかったのだ。

学力低下の問題は「中位および中上位の生徒の落ち込み」という実感をもとにして立ち上がり、戦後一貫して叫ばれてきた「エリート教育の不足」を一気に解消しようとするものである。

マスメディアはそのお先棒を担いできた。

マスメディアの背後には常に大企業がいる。そのことを忘れてはいけない。







2003.02.16

「少年の短歌から」

[紀伊民報 2月15日]




 《息白く車いす降り大地踏む地球の奥の熱さ感じる 中野考博》 青森県養護学校1年16歳の歌だ。車いすに乗っている足には、いつも器具の感触しかなかった。それが今、降り立った大地のなんと暖かかったことか。地球の奥深くにある、マグマの熱さえ伝わってくるのを感じたのである。

 ▽この少年はいつでも大地を自分の足で踏んでいる人にはわからない、大きな地球の抱擁を確信したにちがいない。北国の、息が白くなるような凍(い)てつく大気の中で降り立った、自然とのふれあいの感触が、生きている自分の存在を確かなものにする。それは明日への力を約束するものでもあった。ハンディに負けない少年の力強い息吹が感じられてさわやかだ。東洋大学が毎年募って選定する「現代学生百人一首」は若者の喜びや悩み、愛が凝縮している。

 ▽自己の内面を見つめた歌もある。 《「変われる」と思う自分はいるけれど変わろうとする自分がおらず 郡司諭》 埼玉県18歳高校3年生の歌である。誰かが力を与えてくれたら「変われる」かもしれないが、自分から意欲的に「変わろう」とするパワーがないのに気づく。

 ▽後ろ向きの歌のようだが、よく読むと、そういう受け身に終始する自分を突き放して、冷静な目で観察している自分がいる。この子はここからが出発点、歩くのは自分の足だ。これもまた悩みながら生きる現代の若者の姿である。

「変われる」と思う自分はいるけれど変わろうとする自分がおらず
よい歌である。

子どもというのはすべからくそういうものだ。
変わろうとする気持ちはある、しかし一歩足を踏み出したり努力し続けることはなかなかできない。
誰かが背中をポンと押してくれたり、一緒に歩きながら励ましてくれさえすれば何とかなりそうなのに、そうした人は今はいない。

非自立的といえばその通りだが、だからこそ子どもとも言える。


教育が話題になるときしばしば語られる「子どもは納得さえすれば何でもする」や「本人がその気にならなければダメだ」は最も本質的な誤解である。
実際には「納得してもなかかなできないのが子ども」であり「その気になっても行動を起こしたり持続したりできないのが子ども」なのだ。
映画「マトリックス」の台詞を借りるとこうなる。
「君にも分かる時がくる。道を知ることと実際に歩むことは違う」

したがって、教師や親の仕事は納得させたり教えたりすることが中心ではない。そうした子どもの傍らに立って、ポンと背中を叩いたり,、励ましたり叱ったりしながら常に見守って子どもの願う方向に支えていってやることである。

子どもは深いところでいつも、「もっと良くなりたい、みんなから、世界中のできるだけ多くの人から『すごいヤツだ』『すてきだね』と言われたい」と思っている。それだけは信じられる。その方向に子どもを振り向けてやることが、悪いことであるはずがない。








2003.02.20

川崎の市立小 小1に過激な性教育
性器名を記入させる 指導要領を逸脱

[産経新聞 2月18日]


 川崎市の市立小学校で一月下旬、一年生に性教育を行い、男女の性器の名称を児童に記入させていたことが十七日、分かった。同校の校長は「市内の小学校では、以前から性器の名称を教えている」とし、問題は名称を書かせた点とするにとどまった。しかし文部科学省は「学習指導要領では性に関する指導は三年生以降で、性器の名称を教える内容も定めていない」としている。

 学校や関係者などによると、この授業は生活科の保護者参観で行われ、女性教諭が男女の裸の絵を黒板に張り出すとともに、同じ絵が書かれたワークシートを児童に配り、空欄部分に性器の名称を記入させた。

 その後、「ペニス」「ワギナ」と名称を教え、それらの機能を児童に質問。「おしっこ」との答えが返ってくると、「そうだけど、もう一つあるので、続きはまた教える」と言って終了した。

 小学校学習指導要領は「体は、思春期になると次第に大人の体に近づき、体つきが変わったり、初経、精通などが起こったりすること。また、異性への関心が芽生えること」(三、四年の保健)、「人は、母体内で成長して生まれること」(五年の理科)を指導するよう定めているだけで性器の名称は教えず、一年生段階では性教育自体しないことになっている。

 この学校の校長は産経新聞の取材に対し、「川崎市立の小学校では、以前から一年生の授業で名称を先生が口に出して言っている」と説明。授業を行った教諭は校長に対し、「名称を記入させた点は微妙な問題だったかもしれない。授業の狙いについて事前・事後に説明した方がよかった」と釈明したという。

 同小は十九日、一年のクラスで学校関係者に公開する形で性教育の特別授業を実施する予定だが、「名称を児童に記入させることはしない」としている。

 この問題について川崎市教委は「性教育は各校の実態に応じて地ならし的に一、二年生の授業でも取り組んでもらっているが、名称を児童に書かせるのは問題があったのではないか」と、名称を教えることは妥当で、書かせたことが問題との立場だ。

 しかし、文科省学校健康教育課は「学習指導要領では、小学校一年生段階では健康への関心などを高めるのが主眼で、全学年を通して性器の名称を教える内容は定めていない」としている。

注目すべきは「行き過ぎた性教育」ではない。

サブタイトルにある通り、
指導要領を逸脱した内容が学校で教えられることに産経新聞が強く嫌悪感をあらわしたということである。

「学習指導要領では性に関する指導は三年生以降で、性器の名称を教える内容も定めていない」
という文部科学省のコメントを取り
「学習指導要領では、小学校一年生段階では健康への関心などを高めるのが主眼で、全学年を通して性器の名称を教える内容は定めていない」
としつこいまでに学習指導要領の枠を強調する。

そこには指導要領を最低基準とする考えは微塵もない。

歓迎すべきことである。

もともとが指導要領を最低基準とすること自体が無茶なのだ。あんな高いハードルを、すべての児童・生徒が越えるというのは不可能である。

指導要領は教えるべき最大基準でよい。
授業日数や時間も、基準を上限としてその枠を超えないように注意すべきだろう。
その上で、子どもたちの学力が低下したところで一向に構わない。
産経新聞にはそこまでの腹積もりがある。

感動した!








2003.02.22

日本語力の向上 伝わる言葉を話すために

[熊本日日新聞 2月20日]




 日本人同士の会話なのに、言葉がうまく伝わらない、何度も聞き返す、そんな経験がないだろうか。この傾向が、若年層に広がっている。日本語で意思を伝える能力が落ちていることに、原因があるようだ。

 こうした危機感を背景に、文部科学相の諮問機関「文化審議会国語分科会」が、これからの時代に求められる日本語力に関する中間報告をまとめた。

 子どもたちの日本語力向上のため、学校教育の中で新聞を要約して感想や分析を付ける「情報作文」の導入や、意見発表、討論、グループ討議などを取り入れることの重要性を訴えている。

 日本の教育は長年、子どもたちに、考えさせることより、暗記させることに重点を置いてきた。その結果、自分の意見を素早くまとめて論理的に話す能力や創造力に欠け、外国語を話す能力にも悪影響を与えているといわれる。

 専門家の間では何度も指摘されてきたことだが、今回、国語分科会が対応策を含め、具体的に提言したことを重く受け止める必要がある。

 中間報告は、国際化や情報化が進む中で、意思を伝える能力がますます重視され、日本語の重要性が増すとの認識を強調。特に若い世代には、適切な言葉を使って、同世代・異世代間で円滑な人間関係を築いていく力が必要と明言した。

 社会問題化しているいじめや不登校、家庭内暴力、少年非行なども日常の意思疎通が不十分なことと関係が深い点を指摘し、「言葉で伝え合う能力の育成は、子どもたちの教育の喫緊の課題」と言い切っている。

 日本語力向上の具体策として中間報告は、国語が教科の中核であることを認識し、特に小学校段階で一層の充実を図ることや、あらゆる教科を通じ、発表力や文章をまとめる力の向上が急務としている。

 特に中学校では毎週、新聞を持ち寄り、整理、要約して意見を書く「情報作文」を取り入れ、三年間継続することが有効と提言。「伝え合う」能力を育てる演劇を導入する必要性も説いた。文学作品の採用が多い教科書の内容に、疑問を投げかけたことにも注目したい。

 日本語の乱れについて昨年末、国立国語研究所が、わかりにくい外来語を日本語に言い換える提案を発表した。この中で官公庁が安易に使う六十三語を対象に、「デイサービス」を「日帰り介護」、「ワーキンググループ」を「作業部会」、「インターンシップ」を「就業体験」、「リニューアル」を「改装」などとするよう提案した。

 これには東京・杉並区の山田宏区長が素早く反応し、区役所に「わかりやすい言葉検討チーム」を置き、カタカナ語を言い換える用語集を作る考えを示した。区民に優しい広報実現のためだ。こうした動きが熊本県内の自治体にも広がればと思う。

 もう一つ考えておきたいのは、国際語としての日本語への対応だ。日本語を学ぶ外国人をひどく混乱させるものに和製英語の存在がある。

 特に英語圏の人の場合、「ナイター」(正しくはナイト・ゲーム)のように、英語でも日本語でもない単語や、「マンション」(英語で「大邸宅」の意味)のように本来の意味とまったく異なる“英語”を覚えることに、苦痛を感じる人が多い。

 国語分科会は中間報告を基に議論を重ね、一年後の答申提出を目指す。論議の高まりを機に、日本語について社会全体で真剣に考えていく必要がある。その際、日本語を国際語としてとらえ、育てていく視点も忘れてはならない。



熊本日日新聞が言う
文部科学相の諮問機関「文化審議会国語分科会」による中間報告が検索できなかった。代わって拾えたのが「これからの時代に求められる国語力について―審議経過の概要―」(2003年1月28日付け:以下「概要」と略す)である。同じ審議会が半月あまりで別の答申をしたとも思われないのでまずこれに間違いないと思うが、もし「中間報告」が他にあるにしても、全く異なったものになるはずもないから、これを下敷きにしてコメントしてもかまわないだろう。
さて、その上でだ。

この「概要」のどこをどう読めば熊本日日新聞のような記事になるのか。

例えば「概要」の中に確かに
「情報作文」の導入はあるものの、むしろ強調されているのは
基本的に「話し言葉」によって成り立ち「声に出す」,ことが不可欠であり,正に「伝え合うこと」がその中核である演劇
である。審議委員に脚本家や演劇評論家・女優がいることもあってか、その肩の入れ方はむしろ異常であり、その異常な肩入れを無視して「情報作文」を取り上げるのはこれも異常である。

また、「概要」は国語力が衰えた原因を、

日本の教育は長年、子どもたちに、考えさせることより、暗記させることに重点を置いてきた。その結果、自分の意見を素早くまとめて論理的に話す能力や創造力に欠け、外国語を話す能力にも悪影響を与えているといわれる。

などという非科学的な話にもっていってはいない。

専門家の間では何度も指摘されてきた
と言ったって、それはマスメディアの選んだ専門家の間だけで語られてきたことで、 国語力が衰えたのは誰が考えたって読書量の激減に原因がある。

「概要」は端的にそのことを語っているが、新聞は語らない。
暗記中心の学習を原因にすればその先にある学校教育を叩けばいいだけだが、読書の不足を原因にすればさらにその先にあるテレビやゲームメーカーを叩かなければならなくなる。
特に地方において新聞社とテレビ局が不可分の関係にあることを思えば、新聞が「教育」そのものより企業を大切にするのは当然なのかもしれないが。


「概要」は熊本日日新聞が大きく取り上げている和製英語について一切語っていない。言うまでもなく「和製英語」は国語の問題ではなく英語の問題である。
日本語が国際語だという話も寡聞にして知らない。

それよりも何よりも、
文学作品の採用が多い教科書の内容に、疑問を投げかけたことにも注目したい。
というのはどこからの引用なのか?
審議委員に藤原正彦(お茶の水大学教授)がいることを考えれば、天地がひっくり返ったって文学作品を減らせなどという結論が出るはずはない。藤原はもう20年も国語に古典文学を戻せと主張している急先鋒なのだ。審議会が文学排除に傾くなら、決然として辞任し論文のひとつも書きかねない。
熊本日日は我田引水にもほどがある。


熊本日日新聞は「概要」が一言も触れていないことについて、あたかもそれが強く書かれているような記事を平気で掲げる。

しかしその一方で、書くべきことは平然と無視される。

「概要」の12ページ「(4)国語力を高めていくためのその他の方策について」の第6項目には

「○カタカナ語などを含めた官公庁の各種文書の在り方や公の場でのアナウンスなどについても,今後検討すべきではないか。

とある。それは熊本日日新聞も取り上げた。

しかしその直前の第5項目には次のような記載もあるのだ。
○国語に与えるマスコミの影響についてどう考えていくべきか,しっかりと考える必要があるのではないか。

国内各メディアは、これをどう考えるか?