キース・アウト
(キースの逸脱)

2003年3月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。













  



2003.03.03

乱れる生活習慣・家庭から速やかな改善を

[琉球新報 3月2日]


 

 那覇地区学校保健会が二〇〇二年度に市内十八校の小学校五年生を対象に実施した「朝食の大切さ」に関するアンケートと、〇一年に四―六年生を対象に行った生活実態調査で児童の生活習慣の乱れが明らかになった。

 〇二年調査によると「朝食を毎日食べる」のは74%だが、そのうち四割は「少ししか食べない」と回答。就寝時刻は午後九時前に寝るのは5%強で、児童の四割が「十時から十一時」、25%が「十一時から十二時」と答え、「十二時すぎ」も4%いた。〇一年調査では、学校生活で「よく眠くなる」が39%、「勉強する気が起こらない」が23%、「体がだるい」が19%もいた。

 夜更し、少ない朝食量、学校での居眠り、学習意欲低下という悪循環が、子どもの心身を蝕(むしば)みつつある。大人はこの現実を真剣に受け止め、各家庭がまず速やかな改善策を講じなければならない。

 文部省が〇〇年に全国の小中高校二百一校を対象に行った「児童・生徒の心の健康と生活習慣に関する調査」で心の健康と生活習慣には相互関連性があるとの結果も出ている。心の健康度が低い者ほど「朝食を食べなかった」「朝食を一人で食べた」「きのう家族との会話がなかった」「寝る時間が決まっていない」と回答する割合が高い。逆に心の健康度が高いほど「家族に相談する」「学校の体育の時間以外に体を動かしている」「すぐに眠りについた」「今朝すっきり目がさめた」とする割合が高いと分析されている。

 心の健康度は単純に評価できるものではないが、この調査は示唆に富む。昨年から学校週五日制が施行され、児童・生徒は「疲労」が蓄積されやすい環境に置かれている。これに夜更かし、欠食・少食という悪習慣が加われば、心身の健康維持が困難なのは容易に想像がつく。

 心豊かな子どもは労せずして生まれるものではない。親子の対話が必要だ。子どもの生活習慣と心の健康について早急に全県調査を実施、社会全体で対策を考えねばならない。


「朝食を毎日食べる」のは74%だが、そのうち四割は「少ししか食べない」と回答
といった呑気な言い方でいいのか?
小学生の4人にひとりは「必ずしも毎朝朝食を摂らない子」たちなのだ。
そして4人にひとり以上は11時過ぎまで起きている。

不況はいよいよ子どもたちが食べられないといった深刻なレベルに至った、という話ではないだろう。
その子たちが深夜まで働かされているわけでもない。


この数字の示すところは、保護者の四分の一が、すでに真面目な意味での子育てに興味を失ってしまっているということだ。

心豊かな子どもたちを育てたければ家庭の生活習慣を立て直せというのは本質的な議論ではない。
心豊かな子どもを育てたいとそもそも考えているのかどうか、そこから問い直されるべき段階に来ている。

 






2003.03.08

広がる「学校評価アンケート」 長岡京の小中学校

[京都新聞 3月7日]




 京都府長岡京市内の小中学校で、保護者を対象にした「学校評価アンケート」を実施する動きが広がっている。アンケートの項目や対象者、結果報告の仕方など実施校ごとに多彩だが、関係者は一様に「保護者の評価を、教育活動の一層の充実につなげたい」と話している。

 本年度、同市小中学校長会は開かれた学校づくりを進め、教育の充実に生かそうと外部評価を試行的に導入する方針を決定。アンケートはその一環で、三学期に入って神足小や長岡第三小、長岡第六小など複数の学校で取り組みが始まった。
 同市下海印寺の長岡第五小では2月中旬、同小育友会の運営委員125人を対象に、教育効果や教職員の姿勢、教育環境など18項目にわたる質問に意見欄を付けた初のアンケートを実施した。8割を超す回答率だったという。育友会総会が開かれた6日、「教育活動を振り返って」と題し、アンケート結果の説明会も開催。9割を超す保護者が「子どもが学校を楽しんでいる」という認識を示していることなど、集計結果が報告された。アンケートに回答した1年児童の保護者は「伝えたいことをいっぱい書きました。今後も続けてほしい」と期待を寄せていた。


一昨年のブームは「総合的な学習」、
昨年が「絶対評価」、
そして今年のブームは「学校評価」である。
これは間違いない。

しかし結局「総合的な学習」は教科教育を減らしてまで行うべき学習かどうかが疑問視され、絶対評価に至っては早くも形骸化しようとしている。
学校評価も遠からず無意味なものとなっていくはずだ。
そうした労多くして益の少ない仕事に、教員は昨年一昨年同様、本来の教科教育や道徳教育をおろそかににしながら、膨大なエネルギーを費やすことになる。


なぜ学校評価が無意味になるかというと、学校が多様な地域・保護者のニーズのすべてに応えられるはずがないからである。
その結果、必ず強い意見が通るようになる(強い意見とは、「声の大きな意見」と「多くの人々がそう信じる意見(=世論)」のふたつである)。
そして強い意見ばかりが通るとなると、常識的な人々は徐々に引き始める。マンネリ化したアンケートとその反応という儀式が延々と続き、教頭や教務主任の仕事を圧迫し続ける。



最近、私の学校ではPTA理事会で「毎年の家庭訪問を廃止したら」という意見が出され、あっという間に「家庭訪問は新しく担任になった教諭のみ、しかも玄関先で家の場所確認を行うだけ」ということになってしまった。
そこには「仕事を休みたくない」「家の中を見られたくない」「掃除は面倒だ」といったわがままな保護者側の気持ちしかなく、「一年の最初の時期に、お子さんについてじっくりと計画を立てましょう」とか「教師と保護者が子どもに対する認識をそろえなおして、一年間を始めましょう」といったまっとうな意見は出てきようがないのだ。

もちろんここには学校のキャラクターの問題もある。
どんな意見が出てきたところで、説明できるものについては信念をもって説明し、突っぱねればいいはずだった。
しかしもはや保護者と対立することは、自らの首を締めかねない時代になっている。



最近、小泉首相は「世論に従って政治を誤ることもある」と言い放って世間の批判を浴びた。しかし私もそう思う。
これだけ情報化の進んだ社会では、「世論」はほとんどマスコミそのものだからである。



かつて「不登校」は、学校の管理主義や受験中心主義が生んだ悲劇だった。不登校の児童・生徒は、昔の鉱夫が地下に持ち込んだカナリヤと同じで、学校の不正に対して警鐘を鳴らすべく家庭に籠もった過敏な過敏な子どもたちだと説明された。
そしてそうした子どもたちにすべき対応は「登校刺激を与えずじっくりと待つ」がすべてだった
その結果どうなったか。


学校は多くの管理システムを投げ出し受験競争も少子化の中で自然消滅した。不登校の子は必要な援助も与えられずに家庭や民間機関に丸投げされ、ほとんどが無為のまま大人にさせられてしまった。その上で、不登校は減るどころか増える一方なのだ。
最近では、「不登校に対する社会の容認が増加の一因」と言われるまでになった。
それはないだろう。
私たちの自然の思いに反して「社会の容認こそが不登校をなくす決め手だ」と語ったのは誰だったのか?


全体として教育に関する極端な考えは何回かの揺り戻しを経て落ち着くべきところに落ち着くだろう。しかし忘れてはいけない。その最中にいる子どもたちは、一回きりの人生を歩み始めてしまっているのだ。

「伝えたいことをいっぱい書きました。今後も続けてほしい」
と言い放った保護者よ(そんな人が本当にいたとしてだ)、覚えておくがいい。
あなたの発言のいちいちが実現されることの恐ろしさを、あなたは分かっていない。








2003.03.12

民間校長の自殺 何が追い込んだか

[中国新聞 3月12日]


民間から登用された尾道市立高須小の慶徳和宏前校長が、校舎で自殺した。子どもたちのショックは計り知れない。遺書などからは、学校運営に悩んだ末の選択だったことがうかがえる。学校現場の閉鎖性を打破し、活力を生み出すために一昨年からスタートした「民間登用制度」だが、サポートやフォロー体制が十分だったかどうかなど、さまざまな問題点が浮かび上がってくる。

 慶徳前校長は昨年春、広島銀行東京支店の副支店長から「民間人校長」として高須小に赴任。経済三団体を通じて企業に依頼し、希望者を募った中から、広島県教委が面接で合否を決めた人だ。

 利潤を求め、効率が優先される民間企業の手法。組織管理には有効だが、時間をかけて人をはぐくむ教育の世界とは、なじまない部分もあって、当初から懸念されていた。教育人としての適性を判断する材料は、どの程度あったのだろうか。

 高須小は児童数七百十七人、教職員三十四人の大規模校で、「初任地としては荷が重かった」との指摘もある。銀行とは大きく決定システムや指示系統が違う環境で、いきなり職場の責任者。だが、就任前に受けた研修はわずか二日間だった。教諭としてのクラス運営など実務経験もまったくない中で、学校をどう動かしていけばいいか、トレーニング抜きで不安がないはずはない。

サポート面でも、一番の相談相手である教頭は、民間登用で同じ時期スタートした尾道商高では二人置いていたのに、高須小では一人だけ。その教頭も五月に病気で倒れ、交代した教頭も年明けの二月に病気で倒れた。揚げ句に今回の悲劇である。この一年に、一体何があったのだろうか。教職員、PTA、市教委、県教委との関係はどうだったのか。徹底的に洗い出す必要がある。

 他校の校長との関係では、「入学式などのあいさつはどのようにしたらいいのか」など、相談したこともあったようだが、民間からの校長にこれまでのやり方を言ってもと、アドバイスを控える向きもあった。

 「どちらかと言えば、きちょうめんで、責任感の強いタイプ」と市教委。教頭が倒れた昨年五月から心身が不安定になって通院。十一月の人事調書では「転任希望」と書いている。PTAの役員らにも「校長になったのを後悔している、辞めたい」と漏らしていた。この時点で、市教委や県教委が、何らかの手を打つことができなかったのだろうか。

 広島県内の民間人校長は、亡くなった前校長を含め、全国の都道府県で最多の六人に上る。「幅広い人材の活用」をめざす民間登用自体は、開かれた学校へ向け望ましい方向だが、制度導入を急ぐあまり、おろそかにした点はなかっただろうか。

 実効を上げるためには、事前に研修を積み重ね、信頼されるだけの知識や情報を身につけなければならない。一人のリーダーの力だけでは、学校を変えていくにも限度がある。サポートのためのシステム作りが欠かせない。問題が出てきた場合のフォローも必要だ。

 民間登用を今後も続けるには、性急に形だけ求めてはならない。今回の教訓を重く受け止めたい。



利潤を求め、効率が優先される民間企業の手法。組織管理には有効だが、時間をかけて人をはぐくむ教育の世界とは、なじまない部分もあって、当初から懸念されていた。
本当だろうか?
中国新聞はそんな懸念を持っていたのだろうか?


実をいうと中国新聞にはアリバイがある。
2003年2月9日付けの社説「尾道の公募校長 基礎徹底を見守ろう」において次のように書いているからだ。

 校長の資質、能力は教育の実践と学校経営の両面で求められる。県教委が民間人登用に踏み切ったのも経営能力が不足しているという判断があるからだ。そこを補うために中国地方では、広島についで岡山県教委も今春、民間人を二人登用する。今やトレンドの雰囲気もあるほどである。

 しかし、民間人登用が学校経営で実績を挙げ、プロパーの教師に研さんと意識改革を迫ったとしても、教育が素人の民間人で足りるとは思えない。陰山校長の採用は、
民間人登用をそろそろ打ち止めにする時であると考えるきっかけになるのではないか。


しかし他紙はそうではなかった。
多くの新聞の論調は、とにかく民間の血を入れれば何とかなるだろうという、それだけである。

福島民報の3月4日づけ社説「民間人校長 高校に風穴を」はその端的な例といえる。

「校長先生と会えるのは入学式と卒業式、学期の初めと終わりぐらいで、年に数回しかない。よく顔を覚えておくように」。今から30数年前の高校の入学式で、担任からこんなことを言われた記憶がある。15歳の少年にとって高校の校長は威厳があって、近寄り難かった。校長室のドアも固く閉ざされていたイメージが残っている。

 生徒には雲の上の存在といえる校長だが、新年度から県内で新しい「血」が入る。元自動車部品会社部長の綱田直正氏(東京都出身)と元食品会社部長の八巻義徳氏(飯舘村出身)。県教委が県立高校に初めて登用する民間人校長である。53歳の綱田氏は郡山高、51歳の八巻氏は福島南高の校長に、それぞれ就くとみられている。

 公立の小中高への民間人校長の起用は文部科学省の諮問機関である中央教育審議会の答申を受け、平成10年度から始まった。教員免許や教育経験がなくても校長になれる制度で、綱田、八巻の両氏は全国から集まった39人の応募者のなかから選ばれ、校長候補者として昨年10月から学校現場や県教育庁などで研修を積んできた。

 文部科学省によると、民間人校長は新年度の着任予定も含めて全国の公立小中高で50人に達している。出身業種は銀行、自動車メーカー、商社、電力会社、マスコミなどさまざま。経営不振などを経験した企業の出身者もいるという。いずれも長引く不況下、し烈な戦いをしてきた企業戦士たちだ。

 教員は人を教育するという神聖な職業であり、常に教育者として正しさを求められている。その一方で、仕事の場の大半が学校現場のため、一般社会と隔絶され「閉鎖社会」的な側面もある。品行方正であるべきはずだが、不祥事も後を絶たず、今年度は2月末までに飲酒運転や体罰などで58件の懲戒処分があった。これは過去最多だった昨年度の33件を大きく上回っている。

 教員が資質をより問われる時代になり、県内の教育界では改革の大きなうねりがきている。民間人校長とともに、やる気のある教員を育成する評価制度も県教委の改革の目玉のひとつだろう。評価で優秀と判断された教員には人事、給与面で優遇することなどが柱で、県教委は16年度からの導入を目指している。

 民間人校長も評価制度も、キーワードは「企業感覚」だと考える。倒産もリストラもない学校現場。平穏であれば波風は立たないところで、いかにして企業並みの効率的な学校運営をするか。そして教員が自己の能力を高めながら、どのように切磋琢磨(せっさたくま)するか。企業では昔から当たり前のようにやっていることに、学校現場がようやく肩を並べる形だろう。

 綱田、八巻両氏には改革の「一番手」として期待がかかる。ともに海外勤務をしたことがあり、民間の競争社会の第一線で働いてきた。その経験をどう生かすか。2人が学校現場に風穴をあければ、次に控える評価制度にも加速がつくはずだ。民間から教育界へ転身するこれからの道は決して順風満帆ではなく、戸惑いもあるだろうが、先駆者として頑張ってほしい。そして校長室のドアはいつでも生徒たちのために開け放ってほしい。


いかにして企業並みの効率的な学校運営をするか。そして教員が自己の能力を高めながら、どのように切磋琢磨(せっさたくま)するか。企業では昔から当たり前のようにやっていることに、学校現場がようやく肩を並べる形だろう

なんとも虚しいような気はしまいか。






2003.03.14

不登校対策「子に応じて登校促す」 静観の姿勢を転換−−文科省が中間報告

[毎日新聞 3月14日]



 不登校の児童・生徒への対応を検討している文部科学省の専門家会議は13日、中間報告をまとめた。92年に旧文部省の専門家会議がまとめた「登校を促すと状況を悪化させることもある」という見解が誤解されているとし、子供の状態に応じて登校への働きかけをすべきだと提言した。子供たちの学校復帰を目指して自治体が設置している「適応指導教室」の運営を、フリースクールなどの民間機関に委託することも提案した。専門家会議は一般から意見を求め、来月中旬に最終報告をまとめる。

 報告では、不登校の解決目標を「登校させるだけでなく、子供たちの社会的な自立を目指すこと」と定義。将来の進路を開くため、進学や就職の指導や情報提供も必要だとして「ただ待つ」のでなく「早期の対応」を求めている。

 92年の専門家会議の報告では「不登校はどの子にもおこりうる」「登校を促すと状況を悪化させることもある」という考え方を打ち出した。今回の報告は、この考え方は妥当としながらも、教師が誤解して登校を促すことを一切しなかったり、子供とのかかわりを控えてしまう例があると指摘。ケースに応じて登校を促すことが重要とした。学校の取り組みとして、不登校の子の個別記録をつけたり、家庭訪問やきめ細かい教科指導などを挙げた。都道府県や市町村が設けている「適応指導教室」の充実も提言した。【澤圭一郎】

ふざけるな!!
教師が誤解して登校を促すことを一切しなかったり、子供とのかかわりを控えてしまうと?

ここ10年、いや92年の専門家会議報告が出されるずっと以前から、教師は
登校を促すと状況を悪化させることもある」という考え方と戦ってきた。

私ひとりをとっても、精神科医やカウンセラー、相談員たちとなんど張り合ってきたことか。
「なぜあなたはそんなに子どもを学校に来させたがろのか」

「学校に行くことにどんな意味があるのか」


「登校刺激を与えることがどんどん子どもを追い詰め学校に行けなくしている」


「教師であるあなたたちが学校に来させたがっている間は、この子は絶対に学校に行かない」

それはさながら心の専門家たちと子どもを奪い合っているようなものだった。

もちろん私たちは容易に引かなかった。
しかし保護者は違う。
そして保護者が折れれば、私たちの出る幕はなくなる。

「お願いします、帰ってください。手紙も困ります、友だちを呼びに来させるのも困ります。もちろん電話もしないでください」
学校の匂いのするものは一切ダメ、担任の家庭訪問などとんでもないこと・・・。
そうした中で、私たちは屈辱を噛み締めながら撤退した。

それを教師が誤解してとは何事だ!!


マスコミが強力に詰め寄って当時の文部省に認めさせた「不登校はどの子にもおこりうる」
という考えは、不登校に関する根本的な研究の手足を縛った。

首を締められ続ければ死は「だれにでもおこりうる」。その場合、死んだ人間の生育暦・環境・個性は一切関係ない。「だれにでもおこりうる」というのはそういう意味だ。

言い換えると「原因は外部にあるのだから、子ども本人を調べたり研究してはならない」ということである。問題は「学校」だけであり、個性を問題とする研究はすべてつぶされなくてはならない。

そこから、
「登校拒否の発生には、学校体制や社会の特質も関与していると思われるが、この点の研究は少ない」
「こうした中で、学校因を重視す研究や主張があり、そのほとんどはわが国から出されているといえる」(以上、稲村博著『不登校の研究』(1994年、新曜社、8755円)

という状況は生まれた。つまり、学校を原因とする不登校は、日本でしか起こらないのである。

「失われた10年」
流行の言葉である。
しかしこの10年間、何もしてもらえないまま社会に出されてしまった昔の子どもたちは、今どうしているのだろう?

それが教師の誤解からとは!!









2003.03.18

島根県の学力テスト/客観的な評価も求めたい

[山陰中央新報 3月17日]




島根県教育委員会は、県内の小中学生を対象に学力テストを実施することにした。新学習指導要領の導入に伴う児童生徒の学習到達度を調べるためで、同県教委として独自の学力テストを行うのは初めてである。

 ゆとりの教育を目指す新しい学習指導要領に対しては、学力低下を招くとして懸念の声が広がっている。新指導要領に基づき昨年四月から学校五日制が実施されてからは、その上に学力格差を心配する声も出始めた。

 知識偏重の詰め込み教育が緩和されて、ゆとりが与えられる。そのこと自体は望ましい。しかし、ゆとりをどう活用するかによって子どもたちの学力に差がついてしまうのも事実である。

 特に学校五日制を義務付けられていない私立学校と、五日制に拘束される公立学校とで実質的な授業時間数に差が出る。休日の塾通いがそれに輪を掛ける。
 このことは義務教育段階で私学のウエートが大きい都会地と、公立中心の地方とで学力格差が広がりかねない可能性をはらむ。 

 そうした漠然とした不安が児童生徒を持つ県内の父母の間に広がっている。その不安を少しでも解消するために学力テストを生かすことはできないだろうか。

 学力テストの結果を他の都道府県と比較できるようにして、島根県の小中学生の学力を客観的に示す。全国的な位置付けを明らかにすることによって、都会地と比べて本当に学力格差があるのかどうか、手掛かりをつかむことができる。それは今後の教育指針に生かせる一方、不要な不安を取り除くことにも役立つ。 

 無論いたずらに競争をあおることは避けなければならない。一口に学力テストと言っても、すべての都道府県が実施しているわけでもなければ科目や問題も異なる。

 そうした中で客観的な位置付けを求めるといっても、無理があるかもしれない。
 しかし教育効果を挙げるためには、学力テストを通じて学習到達度を測る絶対評価だけでは十分ではない。その達成度を他と比較しながら、全体の中での位置を明らかにする相対評価の視点も必要ではないか。そのために学力テストを活用することを検討してほしい。

 県教委によると、学力テストは小学校六年生と中学校三年生を対象にし、県全体の児童生徒数の二割に相当する三千人に受験させる。科目は国語や算数(数学)、英語など主要教科。来年一月をめどに実施し、その後は二年に一回程度、定期的に継続したいという。

 各教科ごとに新学習指導要領に沿った到達目標をどこまで達成したかを調べる。その結果を分析して学習成果をチェックするともに、今後の学習指導に役立てるのが狙いだ。

 同じような学力テストは本年度中に全国二十五都府県が実施しており、中国五県で実施していないのは島根県だけとなっている。

 今回の学力テストについて県教委は、教科ごとの学習到達度を調査するのが目的なので、他府県との比較は考えていないという。

 しかし、それでは到達度そのものは明らかにできても、島根県の小中学生の達成度を客観的にどう評価するか、その物差しがない。自己満足だけに終わる頼りなさを多くの父母が感じているのではないか。



ゆとり教育の右手には学校問題がある。
不登校始めとする、(いわゆる)学校問題は息詰まるような学校の状況が一因なのであり、子どもはそこから開放されなければならない。それが「ゆとり教育」を必要とするひとつの大きな理由である。

そしてもう一方の手、その左手が握っているのは「個性教育」である。
さまざまな試みにもかかわらず、学校に子どもを任せるとみんな同じような人間にされてしまう。
この国にいるはずのエジソンもアインシュタインも、みな普通の秀才に創りかえられてしまう。
そうした恨みが「ゆとり教育」を生んだ。
子どもの個性を大切にするためには、学校の影響をある程度制限していかなければならないのだ。

ところで、年端も行かない子どもたちの「個性」とは何か? それは簡単に言えば、家庭の教育力の差なのである。
つまり「ゆとり教育」は最初から「差をつける」ことが目的なのだ。

知識偏重の詰め込み教育が緩和されて、ゆとりが与えられる。そのこと自体は望ましい。しかし、ゆとりをどう活用するかによって子どもたちの学力に差がついてしまうのも事実である。
・・・・・・・・今ごろ何を言っているのか。


私は学力テストに反対ではない。しかしこのテストの先にあるのが「比較」と「競争」であることを覚悟しない賛成は偽善である


教育は信念である。親も子も全てが満足するような八方美人の教育というものはないのだ。









2003.03.21

英語教育の充実・「習うより慣れよ」だ

[琉球新報 3月18日]


 文部科学省が先進的な英語教育をする「スーパー・イングリッシュ・ランゲージ・ハイスクール」(スーパー英語高)を二〇〇五年までに百校指定することや年間一万人規模の高校生が海外留学することなどを目指す今後五カ年の行動計画を公表した。

 「習うより慣れよ」ということもある。教科書などで教わるのもいいが、自分で直接体験して語学力を高めることもまた、効果的だ。

 この視点からは高校生が海外留学して、英語漬けの生活を送るのもいい。文科省では二〇〇三年度に約千人の旅費を一部補助することにしており、歓迎したい。

 国際化の進展により、これから英語力はますます大事になってくるだろう。スーパー英語高は昨年十三都道府県で公私立含めて十八校が初めて指定された。同校では英語以外の教科も英語で授業したり、大学や海外の姉妹校と連携して「使える英語」を修得できる授業の在り方が研究されている。

 現状の英語教育では中学から大学まで十年近く学んでも、実社会で英語ができない人が多い状況を打開する一歩と位置付けている。

 確かに、これまでの英語教育では文法の学習に偏る傾向が強く、会話能力を育てる方はおろそかになっていたことは否定できない。大学を出てから民間の英会話スクールに通い中学や高校で習った「英語」を再び習う人がいかに多いことか。

 むろん英語を学ぶ本人の努力次第でいくらでも英語力は向上する。しかし、英語を教える側の力量によってもまた、教わる側で大きな違いが出てくることも確かだ。

 文科省はすべての英語教員が英検準一級の英語力を持てるように国や自治体が五年計画で集中的に研修を実施するという。

 今回の文科省の取り組みはむしろ遅いくらいではある。スーパー英語高などによる研究や実践の成果が学校における英語教育の質の向上やすそ野の拡大に生かされていくことを期待したい。


悪いことではない。
しかし私のように田舎に住んでいる者からすると、中学から大学まで十年近く学んでも、実社会で英語ができない人が多い状況が、それほど悪いものかどうか分からない。

英会話に精通するよリ、他にやることがあるだろう、というのが私の思いである。

インターネット時代なのに英語が読めないばかりに外国のサイトから情報が取れない。そうした悲しみはあっても、この一年、英語が話せなくて困ったことは一度もないのだ。

「英語の聞き取りができれば、字幕を読まないでも外国映画が楽しめる」
そうは思うが、そのために貴重な時間が何百時間も失われるのはわりに合わない。


まず読めること、できれば書けること、それができて初めて会話に進む、といった旧来のやり方ではなぜいけないのか?
英会話なんて、英語に能力があり、英語の好きな人にやってもらえばそれでいいじゃないか

・・・・・・・・・・・・・とそこまで考えて分かることは、結局

スーパー英語高というのはエリート校と同じ意味であり、
年間一万人規模の高校生が海外留学もエリートのための教育だ、
ということである。
メディアにそうした認識はあるのだろうか。

スーパー英語高などによる研究や実践の成果が学校における英語教育の質の向上やすそ野の拡大に生かされていくことを期待したい。
おめでたい話である。
エリートたちに有効な教育法が裾野で生きることはめったにない。