キース・アウト
(キースの逸脱)

2003年5月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。













  


2003.05.04

放課後の指導・安易過ぎないか文科省

[琉球新報 5月4日]


 文部科学省が教員志望学生を小中学校に派遣し、放課後の個別指導に当たる「放課後学習チューター(個別指導員)事業」に四十三都道府県の二百八十四校を指定した。県内では中頭地区の七小学校が指定された。

 文科省は学力向上対策の一環としているが、真意を測りかねる。

 大学生が放課後の個別指導に当たるというが、そうなると指定された学校では放課後の自習を義務化せざるを得ない対応を迫られはしないか。学校完全週五日制が始まっており、教える内容も三割カットされているのが現状である。

 週五日制により、平日の授業時数も増えている。このような状況で放課後の自習を義務化すると、児童・生徒の負担が重くなるのは目に見えている。

 負担増になるのは子どもたちだけではない。現場の教師も同様だ。大学生が教えるといっても、任せっ放しというわけにはいかず、教師が付き添わなければならないだろう。

 文科省は「年齢が近いので子どもが気軽に相談できるのではないか。学生にとっても職業への意識を高められる」としている。

 あまりに安易な考えに見える。単に若ければいいというものではないはずだ。年配の教師の中にも子どもたちから十分信頼されている人は多かろう。当然、教える技術といったものも問われてくる。

 そもそも、週五日制の狙いは何だったのか。子どもたちにゆとりを持たせ、自ら学び考える力を養成することではなかったか。

 学校に国の指定という重しを付けて、学力向上を目指させる手法は、例えて言えば「サイドブレーキを引きながらエンジンを吹かす」ようなものである。

 もとより学生が教えるのが悪いという気はない。学校の創意工夫と子どもたちに放課後の自習意欲があれば、大いに活用すればいい。

 学力向上は官製のお仕着せでなく、学校独自の裁量に任せる方法にすべきである。

 学習心理学の学者たちはさまざまな学習法を開発したが結局定評のあるのは「反復学習(何度も繰り返しやる)」と「過剰学習(必要の枠を超えて行う)」の二つだけだった。
 したがって「学力向上」が至上命題ならこのふたつに取り組まなくてはならないのだが、ともに大変な手間と時間がかかる。
 週五日制により、平日の授業時数も増えている。このような状況で放課後の自習を義務化すると、児童・生徒の負担が重くなるのは目に見えている。
というが、そ
もそも学力向上が子どもに負担を求めない形で果たせるはずはないのだ。


 全てを家庭に負わせても効果を期待できず、本務職員にも時間的な余裕がないのなら(とにかく放課後は会議と出張の時間なのだ)、別の誰かを当てなければならない。しかしこの不況下、どこの自治体にも金はない。だったら仕方ないからタダで使える学生を雇う。

 非常に明快な論理と思うが、琉球新報にとって「明快」は「安易」と同じ意味しかもたないらしい。

 もとより学生が教えるのが悪いという気はない。学校の創意工夫と子どもたちに放課後の自習意欲があれば、大いに活用すればいい。
というが、子どもたちに学習意欲があれば学力問題など存在するはずがない。
 学習意欲を喚起させ苦しい自学自習を続けさせる方法がないから『学力向上』のため、自習を義務化するしかないのだ。
 しかしそんなことはメディアにとって何の意味もない。
 政府のやることは何でも嫌いなのだ。

 とにかく批判してつぶすことが目的で、そのための新しい提案などさらさらする気もない。

 学力向上は官製のお仕着せでなく、学校独自の裁量に任せる方法にすべきである。
 恐ろしいことをおっしゃる。

 学校独自の裁量となれば、考えられるのは放課後の会議を時間外に移すか、休日にボランティアの形で職員が授業を行うくらいなものだ(とにかく行き着くところは「反復学習」と「過剰学習」なのだから)。
 それは職員にとって、
 負担増になるのは子どもたちだけではない。現場の教師も同様だ。大学生が教えるといっても、任せっ放しというわけにはいかず、教師が付き添わなければならないだろう。
というレベルを遥かに超えた負担だ。


 マスメディアの編集室に「マスコミ版・ああ言えばこう言う辞典」が置かれることはない。メディアの体質自体が“ああ言えばこう言う”だからだ。
 とにかく何でもいい、文部科学省や学校がああ言ったらこう言えばいい。









2003.05.12

小中学生学力テストの正答率低下、原因は不明 文科省

[朝日新聞 5月12日]



 文部科学省は12日、全国の小中学生約45万人に実施した学力テストの結果を分析した報告書を公表した。前回テスト(93〜95年度)と同じ問題の多くで正答率が下回った小学校の算数では、「明確な原因は見いだせなかった」としつつ、基礎知識や思考力をつける指導が足りなかった可能性を指摘している。

 テストは昨年初めに、小学校4教科(算数、国語、理科、社会)と中学校5教科(数学、国語、理科、社会、英語)で実施した。

 12月に解答の集計結果を公表した後、教員や大学教授らでつくる教科別の委員会で分析を進めていた。各教科で、子どもたちが不得意な分野や領域の特徴的な問題を取り上げ、誤答の種類やその割合などを検討。その内容を踏まえ、教えるときの注意点をまとめた。


 小学校の算数では、三角形や円の面積計算や思考・判断を必要とする問題で正答率が低かった傾向をあげた。

 「基礎的・基本的な知識・技能の定着をはかる指導が疎かになっていたのではないか」「思考力の育成を目指した指導が不十分だったのではないか」と言及し、「児童が様々な考え方を試みたり数理的な処理の良さを実感したりできるようにすることが必要」と求めている。

 他の教科でも、「歴史的事象を網羅的に取り上げず、人物と歴史的事実を関連づけて扱うことが重要」(小学校社会)、「理科の学習と身近な現象や体験との関連を意識できるような工夫が必要」(中学校理科)などと、指導上の改善点を述べている。

 テストの実施主体の国立教育政策研究所は「正答率低下について『これが原因だ』との結論は現時点ではわかっていないが、子どもの弱点や誤り方の点検はできた。まず指導法の改善をお願いしたい」と説明している。分析はさらに続け、新たな内容がまとまれば公表する方針だ。

 文科省は、中央教育審議会に近く設ける教科別の専門部会で、分析結果に基づいた指導法の工夫改善を審議する。報告書は、全国の教育委員会に配布して教員の研修などでの利用を依頼するほか、市販を検討している。

 一方、文科省による全国規模のテストとは別に、独自のテストで子どもの力を把握しようとする動きは急速に広がっている。文科省の4月現在の調べによると、今年度中に独自に実施するのは都道府県・政令指定都市の43教育委員会(昨年度は27教委)。ほかに8教委が実施を検討中だという。


そもそも、テストの結果を見て「学力低下の原因」を探る、ということが可能なのか?
正答率低下について『これが原因だ』との結論は現時点ではわかっていないが、子どもの弱点や誤り方の点検はできた。
それがテストの本来の姿というものだろう。
テストで原因など分かるはずがない。

しかしそれでもなお「原因を調べよ」と圧力をかけるから「明確な原因は見いだせなかった」という答えが出てしまう。

さらにその上で、メディアはまんまと、

「基礎的・基本的な知識・技能の定着をはかる指導が疎かになっていたのではないか」
「思考力の育成を目指した指導が不十分だったのではないか」
「児童が様々な考え方を試みたり数理的な処理の良さを実感したりできるようにすることが必要」

と、
原因は不明だが、原因は教員の指導にある、というきわめて難解な結論を引き出すことに成功する。

文科省は、中央教育審議会に近く設ける教科別の専門部会で、分析結果に基づいた指導法の工夫改善を審議する。
となれば、もう子どもでも制度でも社会でもない、とにかく悪いのは教員だというところですべては落ち着く。


さて、この結論、いったん受け取ってみよう。
その上でどのような対応策が考えられるか・・・・・・・・・・・・・

答えは簡単である。
教員の指導が間違っていたから学力が下がったというなら、(学力の高かった)昔の指導法が正しかったに決まっている。

何のことはない。詰め込みだ押さえつけだと言われたあの頃へ、回帰すればいいだけのことじゃないか。


 



2003.05.15

【学力】低下は基礎的知識・技能不足の可能性 文科省分析

[毎日新聞 5月14日]



 文部科学省は12日、学力低下の傾向が裏付けられた昨年の小中学生の学力テスト(教育課程実施状況調査)について、教科ごとの詳細な分析結果を公表した。

 学力低下の原因は特定できなかったものの、基礎的な知識・技能や、日常生活に関連づけた理解力の不足を可能性として挙げた。そのうえで自治体や学校に指導方法の改善を求めたが、完全週5日制の実施で授業時数が減った現場からは「学校への問題の丸投げではないか」との批判も出ている。

 算数・数学では、小学生だけではなく、中学生も足し算・引き算より掛け算・割り算を先にする基本が十分に身についていないほか、考え方をみる問題の正答率が事前の想定より低いことを指摘。単純なドリル学習一辺倒ではなく、個々の児童生徒に応じて計算の技能をつけさせる指導を求める一方、さまざまな解き方を考えたり、算数・数学が買い物など実生活で役立つことを気付かせる授業も必要と述べている。

 社会や理科でも、基本的な用語や概念の定着に創意工夫を求めたうえで、校外学習やインターネットの活用で理解を深めるよう提言した。英語では聞き取りや英作文の結果から、英文の構造を理解できない中学生が多いと判断し、テスト問題にはなかった話す力も「良好とは言えない」と推測した。

 また、子供と教師を対象にしたアンケート調査の結果も分析した。国語では、教師は説明文より小説の方が児童生徒の関心を引き、理解しやすいと考えるのに対し、子供たちは小説を苦手に感じていることなどを例に、意識の隔たりを考慮する必要性にも触れた。

 テストは昨年1〜2月、全国の小学5、6年生と中学生計約45万人を対象に実施。小学生は国語、社会、算数、理科の4教科のうち2教科、中学生は国語、社会、数学、理科、英語の5教科のうち3教科を受けた。前回テスト(94〜96年)と同一問題の正答率は、延べ23教科のうち社会と算数・数学を中心に15教科で下がっていた。


先の朝日新聞と同じ内容の記事である。

しかし
(四則計算の混ざった式で)
足し算・引き算より掛け算・割り算を先にする基本が十分に身についていないから、
さまざまな解き方を考えたり、算数・数学が買い物など実生活で役立つことを気付かせる授業も必要と
いう、この考え方が理解できる人がどれくらいいるのだろうか?
普通、これはドリル不足だと、そうは考えないだろうか。

I love you.が書けないのは、SだのVだのといった
英文の構造を理解できないことからきていると本気で考える人がどれだけいるだろう?
私がI lone you.と言えて、決してI you love.と言わないのは、そう言うと非常に具合が悪い、強烈な違和感があるからである。S+V+OだのS+V+Cだのというのはみんな忘れてしまった、それが普通だろう。

しかし文部科学省はその当然のことが言えない。

行政が国民に負担を求めるのはもはやタブーだ。それが教育問題であっても、子どもや保護者に負担を求めることはできない。

現場からは「学校への問題の丸投げではないか」との批判も出ている。
となれば、あとは文部科学省がすべてを考えなければならなくなる。

どんな保護者のどんな子どもであっても、スズメの涙ほどの苦労もしないで学力を高める必殺技を。










2003.05.15

【教員】平均在校時間が9時間41分で最長 日教組調査

[毎日新聞 5月14日]


 日本教職員組合(榊原長一委員長)は12日、職場点検月間全国実態調査の結果を発表した。調査は1993年から隔年に行っていたが、今回は前回から3年後の2002年10月に実施、組合員のいる学校約4万分会の15%を対象に調査し、2554分会(校)から回答を得た。

 平均した組合員の出校時刻は午前8時3分、退校時刻は午後5時45分で、在校時間は9時間41分だった。在校時間はこれまでの調査で最も長くなった。

 02年10月の1カ月間の時間外勤務についての調査では、校長が時間外勤務を命ずることのできる「生徒の実習」「学校行事」「教職員会議」「非常災害」の4項目での時間外勤務は1人平均は5時間45分だった。しかし「採点・成績評価」「教材研究・授業準備」「生活指導」など4項目以外の時間外勤務は10時間3分だった。また自宅に持ち帰って仕事をした時間は8時間52分だった。日教組では「忙しくて時間内に仕事が終らないため、自主的に働く時間、サービス残業が増えている」と見る。

 また休憩時間は「あまり取れていない」(34%)「ほとんど取れていない」(40%)で、4分の3が休憩時間を十分に取れていないという結果だった。教職員の実感として「かなり多忙になってきた」も63%を占めた。多忙になった理由は「学校5日制全面実施への移行」が70%と飛びぬけて多く、次いで「会議が増えた」「研修が増えた」が各34%と多い。

 中村護書記長は「学校5日制が実施されたのに、仕事が精選されていないので余裕がなくなった。5日制移行や絶対評価の導入、学力アップなどの課題を抱え、会議や研修、授業計画の作成など仕事が増えている」と分析する。

 日教組は(1)仕事を精選し教職員を増やす(2)部活動の地域社会への移行など学校のスリム化――などを求めていくことにしている。



私はここに表された数字が非常に疑問である。
特に、
退校時刻は午後5時45分というのは驚異的で、私の周辺ではもっとも早く帰宅するグループの一部がこの時刻に学校を出ることができる。

私の場合、午前7時には出校し、午後6時半には退校する。
午前7時はそこそこ早い方であり、午後6時半はかなり早い方である。
特別の場合でない限り、若い独身の職員が8時前に帰宅するのはほとんど稀である。教頭は10時前に学校を出ることはない。

私は退校が早い分、持ち帰りの仕事も多いはずだ。
最低2時間は家で仕事をしている。
土日に仕事をする量は当然、さらに多い。

サービス労働は増えていない。
もともと限度ギリギリまでやっているから、新たに増えた分、別のところで減らしているからである。

もとより、都道府県、自治体によって教員の勤務状況が非常に異なっていることは知っているが、それにしても奇異な数字である。

調べてみよう。







2003.05.27

学校選択制と成績の公開

[熊本日日新聞 5月26日]




 東京都品川区は、区立中学校の新入生を対象に行った学力テストの成績を、中学校ごと、出身小学校ごとに集計し、六月に公表する。品川区はすでに小中学校を自由に選べる学校選択制を導入している。成績の公表は「教師が授業を工夫したり、保護者が学校を選ぶ際の資料の一つにしてほしい」と区教委は説明する。

 品川区内の小学生の四人に一人が私立中に入るという事情も影響しているとはいえ、品川区の教育改革は新自由主義的な色彩が強い。教育への市場原理主義の導入とも言える。消費者である保護者から選ばれるために、学校は成績という商品性を高める競争を強いられる。

 区教委が言うような効果もあるだろうが、学力の地域間格差が地域のランク付けにつながる心配もある。学力の低い児童が学校から敬遠される事態もあり得る。同じ手法を導入したイギリスで、そうした現象が起きている。いずれにしろ、教師のストレスが高まるのは間違いない。品川区外の学校への転出希望が増えた半面、転入希望は少ないという。

 児童生徒の学力状況を調べるのは必要なことだ。しかし、それをそのまま表に出すと、結局は点数だけで判断する教育観で学校と子どもを縛ることになりかねない。この手法が全国に広がるとも思えない。

解せない話である。

学校選択制は、
まず学校が「個性ある学校づくり」をすすめ、
それを児童・生徒・保護者が自由に評価し主体的に選択することによって、
学校間競争を高め、教育全体の質の向上をめざす

そういうものだった。

しかし例えば「心の教育」などといったものは教師自身にも評価しきれないから、保護者たちが比較できるのは「荒れていない」といった口コミ情報や学業成績だけということになろう。
中には「ウチの子だけのために教育をしてくれる学校」を求めて彷徨する人々も出てくるかもしれないが、基本は「荒れ」と「成績」しかない。

また、学力を高めてくれる学校を探して親たちが移動することは、
国内に眠るエジソンやアインシュタインを育て上げるという、「個性教育」のもうひとつの側面とも合致する。



かつて、それを世論(マスコミ)は強力に支持し、腰の重い文部科学省を動かした。
学力の地域間格差が地域のランク付けにつながる
のは当然というより、当初の目標だったはずだ。

しかし目標達成の動きがスタートするや否や、メディアは手のひらを返してこれに反対する。

右手の提唱したことを左手が否定する、いつものやり口である。







2003.05.28

≪特集:学校別成績公表≫
成績公表、やる気生むか 広島県の取り組み


[朝日新聞 5月26日]



学力テストの成績データは、どう分析し、どこまで公開するのが適当なのか。広島県では、小学5年と中学2年を対象にしたテスト結果を、県教育委員会が市町村別の一覧表にして公表している。その実情をみた。

 広島県のテストは正式には「基礎・基本」定着状況調査で、小5は国語と算数、中2は国語、数学、英語。県教委は昨年6月の実施分について、市町村別の平均正答率を8月、一覧表で初めて公表し、ホームページにも掲載した。

 正答率の差が大きかったのは中学数学。最高だった自治体は78.8%、最低は38.8%で、その開きは40ポイントだった。最高、最低の開きが最小だった小学校国語でも28ポイントあった。成績順には並べていないが丹念に見れば、どの自治体が良いか悪いかはすぐわかる。

 小学校の国語と算数が県平均を下回った県北部の町。隣町が上位だったこともあり、教育長は「ショックだった。点数に振り回されてはいけないが、それでも県平均ぐらいまでアップさせにゃいけんと思った」と話す。

 成績の公表直後、町教委は町内3小学校と1中学校の校長を緊急招集し、対策を話し合った。

 小学校では全学年で毎日、算数や国語のドリルの時間を15分設けた。計算や漢字の問題を、繰り返し解かせる。土日の宿題を増やし、やってこなかった子には学校でやらせることにした。全小学校で、水曜日は高学年の授業を1時間増やした。

 週に1度7時間目を作って補習にあてたり、校長、教師が総出で習熟度別学習に参加したりと、小学校ごとに取り組みを進める。校長の一人は「子どもにも教師にも負荷がかかるが、指導法を見つめ直すいい機会と受けとめている」と話す。

 県教委は各学校に、保護者向けに結果などを説明するよう求めた。

 福山市のある中学校のホームページ。図のように県平均、市平均、学校平均の成績を示し、領域別に正答率をグラフ化した。これからの指導法なども書き込んだ。これが県教委が示した公表形式のモデルで、同市内の多くの学校はホームページで掲載した。

 「子どもの弱い部分を客観的に把握し、各学校で改善計画を練ってもらうのが調査の狙い。公表は保護者、県民に対して説明責任を果たすためだ。学校間の点数競争にならないよう学校名は出していない」

 県教委指導第1課は説明するが、市町村別の一覧公表には悪影響を懸念する声もある。町村部では約6割で町村内に中学校が一つしかない。「事実上学校別の成績が並んでいる」という指摘だ。

 市部でも、ホームページを開いていけば、学校ごとの成績を比較することができた。

 ある教師は「平均点を上げるには、下位の子を引き上げるより、中位集団を鍛える方が早い」と話す。分からない問題を飛ばして点を稼ぐ方法も初めて教えた。「これでいいのか」と悩む。

 広島県教職員組合は昨年秋、「調査そのものに反対。まして生徒数の違いなどを無視した一律の公表はおかしい。学校間の競争をあおり、課題のある子の排除や公立校の序列化につながる」として、市町村別の結果公表反対の申し入れをした。

 今年のテストは来月17日。県教委は同様の方法で公表する予定だ。

                   ◇

●情報、当事者の共有で十分 藤田英典・国際基督教大教授

 各地の自治体が学力テストを実施するのは悪くない。学習指導要領や週5日制といった政策を検証したり、授業を改善したりするには、データが欠かせないからだ。

 だが、政策の検証が目的なら、全校の点数を集めなくてもできる。教育の改善のためなら、そのデータは学校をよくしようとする保護者や地域が知っておけばよく、広く公表する必要はない。当事者間での「情報の共有」と、不特定多数への「情報の公開」は、はっきりと区別すべきだ。

 広島のように自治体ごとに成績を公表すれば、地域間の点数競争が激しくなるだろう。それは1960年代、当時の文部省が行った学力テストが競争の過熱を招いたことを振り返れば明らかだ。

 東京都品川区は学校別の点数まで公開する。それを学校選択制の下で行うことで二重に深刻な問題をはらむ。テストは中学校に入ったばかりの時期に行われ、小学校ごとの点数も公表されるという。小中学校両方で学校格差が際だつことになる。

 テストの点数は序列や競争につながりやすい。それだけに、扱いには慎重さが求められる。(03/05/18付朝刊


広島県と聞いて、「では民間人校長のなくなったあの小学校どうだったのか」という疑問がわく。
そこでネット上を検索すると、簡単に見つけ出すことができた。

確かにそこには全国標準診断的学力検査の結果が公表されていて、問題の小学校は国語で1.9ポイント、算数で0.8ポイント全国平均より劣ることが見て取れる。市全体の平均も出ているから近隣の小学校との比較も容易である。

この学校では、国語・算数の双方で全国平均・市平均ともに下回った事に関して猛反省が行われたのだろう。
成績の下には、「現状の分析」と「今後の方針」、つまり「反省と決意表明」が、各教科ごと各学年ごとびっしり書き込まれている。

同じことが尾道市内各校で同じように行われている。広島県内の他の市にでは一律にそうした取り組みはなされていないから、尾道市独自のものなのだろう。職員にとって、特に校長・教頭いとっては過酷なやり方である。


しかし、
学校の説明責任
学力向上
自己評価・自己採点
情報公開
開かれた学校
学校選択性

と、最近の学校教育のキーワードを並べていくと、
学業成績の分析と公開はどう考えても避けて通れないものといえるだろう。

教育の改善のためなら、そのデータは学校をよくしようとする保護者や地域が知っておけばよく、広く公表する必要はない。

と識者(およびそれを伝える朝日新聞)は言うが、この情報化時代に保護者・地域だけで納まりのつく情報が存在すると考える方がバカである。

また
学力テストの成績データは、どう分析し、どこまで公開するのが適当なのか。
などということも、これも真面目に話し合い始めたらすぐにマスコミが押しかけてきて、やれ情報の隠蔽だ、学校の閉鎖性だのと騒ぎ立てることを、朝日新聞は知らないのだろうか?



全国標準診断的学力検査のような全国レベルのテストを実施すること、
その結果を公表することは、
すでに止めようのない流れである。

それが流れ始めたときから、付随する弊害はいくらでも予想できた。
しかし、私たち日本人はそれを飲んだのだ。

アメリカがやっているじゃないか、イギリスがやっているじゃないかと、なぜか初等教育に失敗した国が賛美され、この副作用の強い薬を飲まされたのである。

「何を、今さら」
それが私の言いたいことである。








2003.05.31

民間人校長、文科省に注文
 「招くだけではダメ」「現場知って」


[朝日新聞 5月27日]




 「民間人校長を呼ぶことのみが対応策になるようでは困る」「教頭の仕事量が多すぎる」「もっと、ヒト、モノ、カネの裁量権を」――。全国各地の公立校に赴任した民間人校長13人が26日、河村建夫文部科学副大臣と東京都内で懇談し、なかなか変わらない教育委員会のやり方に注文をつけた。

○ 13人が副大臣と懇談会

 懇談は、広島県尾道市の小学校で民間人校長が自殺したことをきっかけに文科省が呼びかけ、開いた。民間人校長は4月現在で、26都道府県・市で56人いる。今回は1年以上の経験を持つ東京都や埼玉県、大阪府などの校長が集まった。

 課題として意見が相次いだのは、「民間人校長に何を求めているのか、教育委員会に聞いても反応がない」「民間人校長を呼ぶ側の教委も具体的な目標を立てる必要がある」などだった。民間人校長を導入すれば教育改革が進むという考えをやめてほしい、という声だ。

 民間人校長により、学校運営が効率的に進むという意見に対しては、「教委がマネジメントの効率化を考えなければいけない」との注文がついた。

 「教頭はあまりにも忙しい。1日に30件近い問い合わせがあり、追いまくられている」(高校)という指摘や、文科省に対して、「教育行政を考える人たちは本当に現場を知っているのか。文科省の人たちも現場を経験するべきだ」とする声もあった。

 自殺した民間人校長の研修は短期間だった。そうした点も踏まえ、研修制度については、教育課程よりも現場を重視した研修を求める声が少なくなかった。

 ある校長は「学校の世界と企業の世界がどう違うのか、説明できる人間が少なく、不十分」と指摘した。懇談後にこの校長は「急激な成果を求める姿勢はあってはならない。長い目で見てもらいたい」と話した。

◆ 「研修や支援の充実を」 広島の自殺受け緊急アンケート

 広島県尾道市での民間人校長の自殺をきっかけに、文部科学省が民間人校長に緊急のアンケートを実施した。回答では、研修や教育委員会による支援態勢の充実を求める声が目立った。

 4月段階で1年以上の実績がある6都府県の17人を対象とした。

 学校に配属になる前の研修期間については5人が「十分でなかった」と回答した。研修の改善点についての自由記述では「職員会議で紛糾する事例や、生徒指導に関する保護者からの抗議事例などについてのケーススタディーが必要」「校長の日常業務の進め方を校長体験者が企業との比較という視点で解説するとよい」などの声があった。

 教委などの支援態勢で、役に立ったもの(複数回答)では、「教頭の複数配置や、職務能力が優れた教頭や教務主任の配置」が10人で最も多く、「教委職員の定期的な学校訪問」の7人が続いた。

 自由記述では「教委には民間人校長の考えや思いをくみ、調整する場を設定してほしい」「民間出身者に人脈はないので慎重な人事配置を」といった要望があった。



民間人校長に何ができるのか、これは最初から謎だった。
「民間人校長に何を求めているのか、教育委員会に聞いても反応がない」「民間人校長を呼ぶ側の教委も具体的な目標を立てる必要がある」などだった。民間人校長を導入すれば教育改革が進むという考えをやめてほしい、という声だ。
 まさにその通りで、目標もないのに召喚された民間人校長こそ気の毒である。

 しかし教育委員会に聞かれても、これも困るだろう。
 教委は教委で、議会や文部科学省に突き上げられて、何の目算もないまま始めざるを得なかったからである。
 では議員や文部科学省に問い合わせれば何かが分かるかというと、これもムダであろう。両者とも「世論(=マスコミ)」という圧力によって「とにかく何かをしなければ」という状況で誘導されてこの政策を打ち出したのである。

ではマスメディアに聞けば何かが分かるか?
・・・これは分かる。
 いま教育現場に必要なのは風通しを良くするシステムだろう。新しい風を取り込んで学校を元気にする。学校の開放を進める学校評議員制や民間人校長の導入もスタートしているが十分とはいえない。[沖縄タイムス 2001年12月28日]
これが答えである。

何か目算があったわけではない。
NTTやJRで成功したことが、学校でも成功するだろうという雰囲気に似た気持ちで提唱したに過ぎないのだ。

 確かに「給食費はもっと引き下げられるはずだ」とか「バザーや資源物回収に頼らなくてもPTA会費は捻出できるはずだ」とかいった分野で民間人校長が提案できることは数多くあるだろう。しかしこと教育に至っては、彼らはずぶの素人なのだ。民間人校長がその面で画期的な提案ができるまでには、10年の経験が必要であろう。その間、
「教頭の複数配置や、職務能力が優れた教頭や教務主任の配置」し、「教委には民間人校長の考えや思いをくみ、調整する場を設定してほしい」といった要望にこたえていけばいい。

教育面ではそうだ。
しかし私の民間人校長に対する期待は別のところにある。
そしてそれは、おおむね期待通りに進行しているといっていい。

私の期待とはすなわち、
外部の人間が学校に入り、現場をしっかり見据えた上で、
「教頭の仕事量が多すぎる」
「もっと、ヒト、モノ、カネの裁量権を」
「教委がマネジメントの効率化を考えなければいけない」
「教育行政を考える人たちは本当に現場を知っているのか。文科省の人たちも現場を経験するべきだ」

と叫んでくれることである。

そして民間人校長と呼ばれるこの人たちが
「学校の世界と企業の世界がどう違うのか、説明できる人間」になってくれること、
それが夢なのである。