キース・アウト
(キースの逸脱)

2003年6月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。













  


2003.06.04

都立高の先生を生徒が「採点」 来年度から全校で実施へ

[朝日新聞 6月3日]


高校生が、教師を5〜3段階で評価する制度を、東京都教育委員会は来年度から全面導入することを決めた。全都立高(207校1分校)の全教師を対象にする。「説明はわかりやすいか」「板書は整理されている?」。教わっている生徒全員に細かに尋ね、結果は教師に通知して改善に役立ててもらう。都教委によると、すべての公立高校でここまで詳細に評価する制度は初めてだという。

 都教委によると、都立高全体の退学者は01年度の調査で約6700人、中退率は4.4%にのぼる。

 「授業がつまらない、勉強に意義が見いだせない、と学校から離れていく生徒が多いのではないか」。こんな考えから、教師に刺激を与えるため導入を検討。これまでも、個々の学校や教師が実施しているケースはあり、昨年度から都教委は事例の収集を始めた。今年度、自由参加として実施校を募ったところ、174校から応募があり、試行をしている。

 具体的な評価項目例は下表のような案を検討。さらに試行している学校の例も参考にして今後詰める。学期ごとに年3回、通信簿さながら観点別に5〜3段階などで生徒に評価してもらう。「数字を示さないと教師の能力を十分に引き出せない」との考え方から、「力量」を数値化する方針だという。

 「『逆評価』で教師が生徒におもねるようになっては困る」という心配もある。評価はあくまで授業改善の参考資料にとどめ、校長らによる個々の教師の業績評価には結びつけない方針だ。

 中堅教師の一人は「これまでは公立の教師という立場に甘えていた部分もあった。生徒による評価はいい刺激になるかもしれない」と言う。ただ、別のベテラン教師のように「予備校の講師みたいに、選別の目にさらされることになるのか。きちんと評価方法を練らないと、現場は混乱するおそれもある」と心配する意見もある。

 児童・生徒による授業評価は高知県の全公立小中で97年度、高校で98年度以降実施されている例があるが、自由記述で感想を書くのにとどまっている学校も少なくないという。


授業がつまらない、勉強に意義が見いだせない、これが本当に教師の質の問題なのかとか、
174校も応募するのが果たして
自由参加だったのかどうかとか、
『逆評価』で教師が生徒におもねるようになっては困るとか
高校生に果たしてきちんとした評価ができるのだろかとか、
教育は数十年後、「ああ、あの先生のああしたことはこういう意味だったのか」とはじめて分かるもの、短期的な評価は長期的な見通しを持つ教育を排除するとか

いろいろ批判の仕方はあろうが、
私の立場は、
「意味のない面倒くさいことはやめてほしい」
につきる。

これが教師の給与や去就に関わる採点なら、よくも悪しくも学校は変わるだろうし、生徒も真剣に取り組むだろう(横の連絡を密にとって組織票をつくり上げるとかも含めて)。生徒に嫌われると排除されたり給与がカットされるのだから、教師の側にもいろいろな対処の方法が生まれる。

しかし
評価はあくまで授業改善の参考資料にとどめ、校長らによる個々の教師の業績評価には結びつけない方針
となると、
結局は何も変わらない、ということである。
変わるにしても目に見えないような、静かな形でしかない。


具体的な反映のない調査は必ず腐る。

言っても何も変わらないなら、言うこと自体がバカらしい。それは大人も子どもも同じだろう。
かくして「教師の評価」も意味のない年中行事に堕す。
生徒も面倒くさい評価表を適当に書いて終了にする。

時間と労力と、深い考えもないのに数字で表される評価の後味の悪さ、それが毎年繰り返される・・・・


学校は「正義」のためにがんじがらめだ。
採点がやたら難しいのに結果も生かせない絶対評価
悪いことは絶対に書いてはいけない指導要録
内容を減らしたのだから全日本人がクリアできるはずだという指導要領
たった9科目しかない教科の学力にこだわりながら、個性を重視する教育をせよという矛盾

それで生徒が良くなれば私たちも我慢するが、現実はそうではない。


学校は一度始めたことは容易になくならない。特に正義の名において始めたことを取り下げることは難しい。

そんなことがまた一つ増える。









2003.06.11

夏休みと冷房

[山梨中央新報 6月10日]



 うちわ、風鈴、かき氷、すだれ、打ち水、スイカに花火−。じゅ文のように唱えても夏の暑さは退散しない。鳥取市の最高気温の記録は三九・一度。扇風機でも太刀打ちできない。

▼鳥取県教委が県立高校に冷房の設置を計画している。理由は、週五日制の実施で夏休みは短縮傾向にあり、補習授業もあって夏に出校する日が多いからという。家庭にエアコンが普及していることも背景だ。三年計画で二十二校の教室に取り付ける。六月議会で予算が通れば来夏から冷風が吹く。

▼快適な学習環境を、という親心は分かる。夏休みの補習はこれまで進学校では三年生だと三週間、一、二年生でも十日余りだった、と聞けば、午前中だけとはいえ、ご苦労さんとねぎらいたい。夏休み前後の暑さも耐え難いだろう。しかし、何だか釈然としない

▼予算を雇用対策に、というのは短絡的だろうし、みんな我慢してきたという精神論の時代でもないだろう。全公立高校に入れるなら、高校受験を控えた中学校にも、いや、この際、小学校にも、と思ったりもする。心配されている学力低下対策にもなるし、教育県を全国に誇れる

▼でも、暑さで能率が上がらないからの夏休み。冷房で快適になるのなら、夏休みが要るのだろうか? エアコンで頭を冷やして、ふと考えた。かつて、この国はうちわや扇風機で暑さに耐えながら学び、働いて貧しい時代を克服した。より豊かで、より快適な生活を求め、これからは何が目標になるのだろう、と

▼「向日葵(ひまわり)の大声で立つ枯れて尚」(秋元不死男)。猛暑から解放されてもせめて、困難に立ち向かう気概と忍耐力は養ってほしい。(二)



結局何を言いたいのだろう?

冷房を入れるのだから夏休みはいらないということなのか。
高校に入れるなら小中学校にも入れろということなのか。
猛暑との戦いが終わるのだからそちらに振り向けていた気概と忍耐力を別の方向に向けてほしいということなのか?
うちわや扇風機で暑さに耐えながら学ぶ時代が終わって生徒たちが目標を失う、その穴埋めをどうしようという問題なのか?
「より豊かで、より快適な生活を求め、これからは何が目標になるのだろう」は日本語ではないし、そもそも生徒たちは暑さに耐えるという目標を持って学んでいたとは思えないが)。

短絡的と書くならやめればいいものを予算を雇用対策にと書いて不況にあえぐ人々の怒りに火をつけ、精神論の時代でもないだろうと書きながらみんな我慢してきた派に新たな怒りを植えつける。

いずれにしろ、
まだ猛暑とはいえないこの時期に
エアコンで頭を冷やして、ふと考えた
と言えるような人には言われたくないことである。

私は夏休みがなくなることには不賛成ではない。
どうせ職員は学校に来ているのだから、冷房の効いた教室で授業を続けるのも悪くない。

しかしその上で、

冷房のもとで勉強などさせて、刻苦勉励の気風はどうしたとか、
炎天下での体育はいかがなものかとか、

休み時間も外に出ず教室で遊ぶ子どもが増えたとか、

夏の観光シーズンが盆休みという一点に集中し、観光地はどこも閑散としてしまったとか、

楽しかるべき家族旅行の機会が失われたとか、

「あともう少しで夏休み」と一学期の後半をがんばる子どもの気持ちはどうするとか、


そういった諸々のことを言われるのはかなわないのだ。



かつて、この国はうちわや扇風機で暑さに耐えながら学び、働いて貧しい時代を克服した。

・・・扇風機のある貧しい暮らしというのも私は知らない。
扇風機が回っている学校というのも、見たことがない。

その代わり知っているのは、
トロンとして気絶直前の生徒の顔や、やめろと言っても聞かず下敷きをウチワにして授業を受ける子どもたち。
髪を額に貼りつかせ、下着が透けるほどに汗に濡れてランチルームから出てくる生徒や、落ちる汗を避けてノートから体を遠ざけて学習する努力家たちの姿
である。


教室という狭い空間に37度ほどの体温を持った40人近い人間がひしめいている。その状況をエアコンで頭を冷やして、ふと考える余裕のある人が非難する。

実に人間的な状況ではないか(もちろんヒニクだ)。








2003.06.13

保護者、いじめた5人平手打ち/授業中、教室に乗り込む

[琉球新報 6月12日]


 那覇市内の小学校で、いじめに遭った児童の保護者らが教室に押し掛け、いじめた児童を廊下に呼び出し暴力を振るっていたことが11日までに分かった。教室には担任がいたが、暴力を制止しなかった。校長は「安全上、不注意な点があった」と、管理体制の不備を認めた。
 問題は今年2月、3年生のクラスで起こった。いじめに遭っていることを、児童から聞いていた母親はこの日、関係者の男性とともに学校の許可を得ずに教室に入った。
 母親らは、いじめた児童5人を廊下に呼び出し、男性がいじめを注意した上で5人を平手打ちにした。また、いじめられた児童にも「いじめられたらやり返せと言っただろう」などと注意し、殴ったという。児童らにけがはなかったが、1人は目が充血したため、病院で診察を受けた。
 校長によると、担任は「母親が同伴していたので大丈夫だと思った。あっという間の出来事で止められなかった」と釈明しているという。校長は、3月に3年生対象の保護者会で経緯を説明した。
 保護者会に参加したある保護者は「担任の目の前で暴力が起こるとは。学校はあまりにも無防備過ぎる」と不安を口にした。校長は「部外者の出入りにもっと注意すべきだった。今後、再発防止に努めたい」と語った。


保護者が「関係者」とともに学校に入り込んだことが
「あまりにも無防備過ぎる」と非難され、校長が「部外者の出入りにもっと注意すべきだった」と謝罪しなければならないとしたら学校は終わりだ。

母親はこの日、関係者の男性とともに学校の許可を得ずに教室に入った。
とあるが、
そもそも学校の許可を得なければ保護者やその関係者が校内に入れないという発想は、保護者にも学校にもなかった。

こうした事件で学校の保安を問題とする以上、琉球新報は保護者といえども校内への立ち入りは厳しく管理し、職員立会いのもとで児童・生徒と対面する、そんな学校をあるべき姿として捉えているのだろう。

本当にそれでいいのか?








2003.06.19

【2学期制】愛知県豊田市が来年度から市立全小中学校で

[毎日新聞 6月18日]



 愛知県豊田市は17日、2004年度から市立の全小中学校で2学期制を導入する計画を明らかにした。開会中の市議会一般質問で、吉田允昭教育長が答えた。2学期制は、仙台市が02年度に実施して以来多くの自治体に広がっている。

 市教委の説明では、2学期制は10月の第2日曜日前後で区分。従来に比べて始・終業式や期末テストなどが減少するため、その時間を授業時間として確保する。また、前・後期の区分に夏休みなどから休みを2〜3日回すことも検討するが、これまでの長期休みは原則的に変更しないという。

 市教委は、2学期制について(1)1学期の期間が長くなる分、継続的な総合的な学習には最適(2)児童・生徒の個々人の学習などのつまずきを見つけ、学期内の夏休みに指導できる(3)週5日制で不足した授業時間が補完できる――など利点は多いとしている。一方で、保護者からは期末テストや通知表が減ることへの不安、児童生徒への影響としてテスト減などで学習意欲が減るのでは、との慎重な意見も出そうという。

 同市教委などの調べでは、36の中核市のうち、豊田市など18市が04年度以降の実施を目指している。県内では、佐屋町が中学校で実施。犬山市が04年度に小学校10校、中学校4校で導入する計画。



新学習指導要領が発行されてから、美術や音楽といった授業時数の特に少ない教科では3学期制が重荷になってきた。
とにかく時数が少ないので3学期の評価がしにくいのである。
技術家庭科も、その内容が技術と家庭科に二分されているという性質上2学期制が向いている。

しかしそれ以外の意味で、私には二学期制の利点がまったく理解できない・

1学期の期間が長くなる分、継続的な総合的な学習には最適

総合的な学習が分断されるのは1学期・2学期といった呼称のためではない。夏休みがあるから分断されるのだ。学習の継続性を保障したいなら、夏休みそのものをなくしてしまうほうがいい。

児童・生徒の個々人の学習などのつまずきを見つけ、学期内の夏休みに指導できる
夏休みの個人指導が必要なら「一学期内」といった言い方にとらわれず、「夏休みの補習」といった言い方で対処すればいい。これまでもそうしてきたはずだ。

週5日制で不足した授業時間が補完できる
授業時間が不足するなら、単純に日数を増やせばいいだけではないか。
始・終業式、期末テストの補完だったら、わずか3日の増加でまかなえる。そもそも「夏休みに指導します」と言っているのだから、実質的な授業日数は増えるに決まっている。


期末テストや通知表が減ることへの不安、児童生徒への影響としてテスト減などで学習意欲が減るのでは、との慎重な意見も出そう
というのは当然であって、普通の教師だって同じように考えている。
しかし二学期制は行わなければならない。


教育はいまや変革の時を迎えようとしている。
メディアは苛立ち、国民の欲求不満を掻きたてようとする。
効果があろうがなかろうが、はたまた逆効果の場合でさえも、変革は現状維持より遥かにいいと思い込ませようとしている。

総合的な学習がそうだった。
絶対評価もそうだった。
民間人校長の導入も同様である。

意義も目的もはっきりしない、保護者も望んでいない、しかしとにかく変革しないと気がすまない。









2003.06.20

岩手・盛岡中央高が教育の質管理へISO取得

[毎日新聞 6月19日]




 岩手県盛岡市の私立盛岡中央高校(富沢正一校長)が、品質管理の国際標準規格「ISO9001 2000年版」を全国の高校で初めて取得し、17日、同校で認証授与式が行われた。

 ISO9001は品質管理の国際規格で、物やサービスの質を高めるために国際標準化機構(ISO)が認証している。

 同校では2001年7月から、生徒、保護者、卒業生を「顧客」、教育内容を「サービス」と位置付け、生徒が教師を評価する「顧客アンケート」などに取り組んできた。ISO取得により、学校運営の合理性や透明性を高める意図もあるという。

 基本品質目標として(1)国公立大学現役合格率50%以上(2)国公立大学合格者40人以上(3)進路内定率90%以上(4)各種資格合格率70%以上――の4項目を掲げる。富沢校長は「教育効果を上げるためにISOを利用していきたい」と話している。

 高校以外のISO9001取得は全国に専門学校、幼稚園など10校程度あり、環境保全のためのISO14000シリーズは、三重県の私立三重高校が取得している。



これを読んで、保護者が顧客、生徒が商品と感じるのは皮肉に過ぎるだろうか?
教育はもはや次世代を担う人材の育成といった大義を失った。

それは今や、多様でかつ極めて個人的なニーズへの対応である。









2003.06.24

上半身、着衣か脱衣か 女子生徒の健診で議論

[神戸新聞 6月24日]



 服を着たままか、上半身裸か―。女子高生の健康診断をめぐり、医師会と学校、保護者の間で議論が起きている。兵庫県医師会は「健康状態をきちんと把握するには上半身裸が原則」とするが、一方で思春期の生徒に配慮し、服を着たまま診察する高校は増えている。健康管理とプライバシーがぶつかり合う問題だけに、生徒や保護者から「学校ごとに対応が違うのは不自然。ルールを作ってほしい」という声が出始めた。

 阪神間の県立高校。五月の内科検診で突然、胸を触診された女子生徒は大きなショックを受けた。「二分ぐらいしつこく触られた」といい、教室を出た途端、泣き出した。養護教諭は「私も少しおかしいと思ったけど…。何も言えなくてごめんね」と謝ったという。

 報告を受けた学校側は地元医師会と相談。担当の学校医に事情聴いたが、「左右の胸の大きさが違い、腫瘍(しゆよう)の可能性があった」と説明した。これに対し「服を着たまま検診する学校もある。そもそも上半身を裸にする必要があるのか」などの声が上がっている。

 同医師会が担当地域を調べたところ、診察方法は高校によってばらばらだった。医師会は「服を着たままでは責任を果たせない」との原則だが、「生徒に説明せずに触診し、誤解を招いたのは反省点」として、対応を協議。上半身にバスタオルを巻き、医者の前では裸になる▽触診の前に説明をする―などのマニュアルを作ることにした。

 西播磨の高校は数年前、女子生徒に限ってブラウスや体操服を着たままの検診に変更した。聴診器で心臓の音を聞く際に雑音が入りやすいなど問題もあるが、「生徒は学校医を選べない。プライバシーを優先した」と養護教諭。

 一方、東播磨の高校は上半身裸が原則。ほとんどの女子生徒が嫌がるが、「大事な検診なので」と理解を求めているという。

 神戸市内の私立女子高は学校医を女性の医師に依頼、「生徒の抵抗感は減った」という。だが、女性の開業医は少ない上、公立校は地元の医師会の推薦で決めるため、学校側が選べない仕組みになっている。ある養護教諭は「生徒に納得してもらうためには統一したルールが必要」と訴える。

 兵庫県医師会の滝谷泰博副会長は「最近では男子にも裸を嫌がる生徒がおり、時代の変化を感じる。健康状態を正確に把握するにはやはり裸が一番。学校や生徒に理解を求めたい」と話す。

プライバシーの配慮必要  文部科学省保健教育課の話 検診で服を脱ぐ必要があるのかという問い合わせは全国からある。学校医ごとに診察方法がありルール化はできない。だが、衣服を脱ぎたくない生徒の意見を聞くなどプライバシーへの十分な配慮は必要だ。


これはまっとうな大人のする議論ではない。
そう感じる私の人権感覚は相当に狂っているのだろうか?

説明もせずに胸の触診をしたのは、それは医者が悪い。
しかしそれは説明を求めて謝らせれば良いことであって、脱衣の診察は是か非かという問題とは別だろう。

その上で、内科医や婦人会に診察してもらうのに裸になるのは当然だと考えるは、ごく常識的なことであると思う。
水泳の授業で水着を着ることや、柔道を学ぶのに柔道着をきるのと同じくらい当然なことではないか。

しかも明治の大和撫子ならいざ知らず、ほとんど下着が見えてしまいそうな短いスカートをはき、ブラウスの胸のボタンを外して歩く女子高生に、「恥ずかしいからやめてくれ」と言われるのは不愉快である。

個人的なことで他人に知られたくないこと見られたくないことの一切をプライバシーとして保護しなければならないとしたら、とりあえず学校保健は崩壊する。
生徒は養護教諭を選べない。それにも関わらず、養護教諭は個人の体重も身長も知る立場にあるのだ。

いや、そもそも
「学力」という極めて個人的なものをテストによって計られ記録されるというプライバシーの侵害を、メディアはなぜ咎めないのだ?
しかもその「成績」は高校の名も知らぬ教師によって検討されてしまうのだ。

生徒や保護者から「学校ごとに対応が違うのは不自然。ルールを作ってほしい」という声が出始めた。
しかしこれにうっかり乗ると、そぞろ「管理だ」「マニュアルだ」と大騒ぎになる。

メディアは自由が好きだ。
だったらもう、子どもを学校から完全に自由にし、生まれながら社会に放り出す道筋を考えた方がいい。