キース・アウト
(キースの逸脱)

2003年7月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。













  


2003.07.04

<窃盗事件>小学校で避難訓練中に泥棒、28万円盗難 沖縄

[毎日新聞 7月3日]


 沖縄県名護市宮里の市立大宮小(児童数824人)で、不審者の侵入を想定した避難訓練中に泥棒が校舎に侵入し、現金28万6000円を盗まれる事件が起きた。名護署が窃盗事件として捜査している。

 調べなどによると、訓練は6月24日午前10時50分に開始し、児童全員を運動場に避難させた。30分後、教室に戻った教諭が、児童から集めた教材費などを盗まれたのに気付いた。

 大勢の児童が訓練終了後、水色の作業服を着た30歳前後の男が廊下を歩いているのを目撃したが、来訪者と勘違いしたらしい。訓練中に教頭が校舎を見回っていたが、不審者に気付かなかった。

 同小は大阪・池田小の児童殺傷事件を教訓に避難訓練を実施していた。

 名護市教委は「貴重品の保管に細心の注意をすべきだった」と説明し、市内40の幼稚園と小中学校に、訓練中の見回り徹底を促す文書を出した。


あきれてものが言えない。
犯罪を起こす人たちは実にユニークだ。
もし「水色の作業服」まで偽装だったとすれば、犯人は相当な知恵者だろう。年中工事の入っている学校というところでは、作業服こそもっとも怪しまれない服装だから。

さて、犯人はなぜこの日避難訓練があって学校がカラになることを知っていたのだろうか?
そこでふと思うのが学校のホームページである。
大宮小学校のサイトにそういうページがあるわけではないが、あちこちの学校のサイトを見回ると、様々な情報を得ることができる(もちろんそれが目的だからだ)。そうした情報をどう利用するかは、全て受け取る側の判断に任せられる。

例えば「○月○日は集金日です」とある文を、人はなんと読み取るだろう?
「ああ、忘れていた、知らせてもらってよかった」
そう思う保護者もいる。しかし同じ文から、「この日、学校にはかなりの現金がある」と読み取る人もいるかもしれない。
「○月○日全校朝会」という何の変哲もない文も、池田小事件の犯人のような人間には別の色彩をもって見られることになる。

ホームページばかりではない。
学校によっては行事予定表を公民館において自由に見られるようにしたり、小さな村では役場配布のカレンダーに学校行事の丁寧な記載があったりもする。
広報もあやしい。新聞も地方紙はあやしい。

情報公開ということは一面で学校を丸裸にすることである。
「地域との垣根を外す」というスローガンは、特殊な人間についていえば、侵入の窓口が開くということでもある。








2003.07.09

総授業時間数・生きる力そいでいないか

[琉球新報 7月7日]


 文部科学省の全国調査によると、新学習指導要領が導入された昨年度で年間の総授業時間数が標準時間数を超えた公立校は小学校で80%以上、中学校も50%以上に上った。

 他方、運動会や文化祭など学校行事に充てる時間は小中校ともに減少している。これらのことから、学校行事を削って、授業時間を上乗せしていることがうかがえる。

 新学習指導要領では学校完全週五日制実施に伴い、教科の内容も三割ほどカットされている。ここから、学力低下を懸念する声が多く出され、こうした父母らの不安解消に応えようと学校が授業時数の確保に努力しているのだろう。

 だが、果たしてこのままでいいのか疑問が残る。新学習指導要領の大きな柱は知識を一方的に教え込む教育を転換し、自ら学び、自ら考える「生きる力」を育てることにある。また、学校を週五日にすることによって「ゆとり」を持たせることも柱の一つのはずだ。

 運動会や文化祭などは教科を習う「日常」の授業とは違い、児童・生徒にとって、「非日常」の楽しい行事である。こうした学校における「楽しさ」を削り、授業時間を上乗せすることに充てることに、どれほどの教育効果があるのだろうか。

 しかも、週五日制実施で、本来「ゆとり」を感じるはずの児童・生徒も教師もゆとりどころか、「多忙」さに悩まされている。

 ことし、日教組・教研集会に参加した教師を対象に実施したアンケートによると、子どもにとって「一日当たりの授業時間が増え、ゆとりがなくなった」との答えが「ゆとりを持つようになった」を上回る。

 教師にとっては「平日の仕事時間が長くなるなど以前より負担が重くなった」との答えが「余裕を持って仕事に取り組める」の三・五倍に達している。

 新学習指導要領導入による学力低下の不安を解消するために無理に授業時数を増やすことが、子どもたちや教師の負担感をも増していくことになるとすれば、皮肉なことだ。

 今回の文科省の全国調査結果について「学校の塾化が進んでいる」との指摘もある。文科省は、父母の不安解消のため、当初は頑として認めなかった土曜日の補習を一転して認めた経緯がある。

 平日の授業で標準時間数を上乗せし、土曜の補習まで実施するようなことになると子どもたちが自ら学ぶ意欲はそがれるばかりだ。

 ただ、学校週五日制は今や後戻りできない制度として定着しつつある。こうなると、教師も「多忙」だとばかり嘆いてはおれないし、普段の授業でも知恵を絞って効果の上がる工夫をしないといけない。

単なる無知か悪意による事実の歪曲か理解に苦しむ社説である。

さて、
授業時数というのは「教科・道徳の時数」「総合的な学習の時間」「特別活動の時数「選択教科等に充てる時数」の総和である(小学校の場合だとこれから「選択教科等に充てる時数」を省く)。また運動会などの学校行事やその準備のための時間は「特別活動」の枠の中に入っている。

したがって
授業時数が増えるということは、教科道徳ばかりでなく、運動会や文化祭に充てる時間も増やすことができるということに他ならない
けっしてそれらを減らして教科学習に振り向けたわけではない。

しかしそれにも関わらず、運動会や文化祭に充てる時間が減ったのは別の問題である。
それはマスメディアが求めてやまなかった「ゆとり教育」と「詰め込みの排除」の成果なのだ。


昭和52年版の指導要領では年70時間あった「特別活動の時間」は平成元年版で35〜70時間という含みのある時数になり、平成10年の新指導要領ではついに35時間に半減してしまった。
「学校のスリム化」「地域に子どもを帰そう」「ゆとりの教育」とさまざまな言葉が飛び交った時代である。

その35時間の中で、かつて盛んだった運動会や文化祭、健康診断などの保健行事、入学式や卒業式などの儀式的行事、キャンプや修学旅行といった宿泊行事、交通安全教室や避難訓練といった安全に関する行事、委員会やクラスの係決めといった学級活動、そして各種行事への練習等を入れていかねばならないのである。

運動会や文化祭に充てる時間の減少はここから導き出されている。


しかし実際にやってみると、絶対必要な保健行事や避難訓練を半分にすることはできなかった。春秋二回の遠足を一回にすることはできても修学旅行等の日数を減らすことも難しい、儀式的行事も減らせない。そうなると食い物にされるのは各種行事の練習や準備そして学級会である。

運動会や文化祭に充てる時間が減ったというのはそういう意味である。
運動会や文化祭そのものがなくなったのではなく、そのための練習や準備の時間が大幅に減らされたということなのだ。

その結果、かつてあったような質の高い運動会や文化祭・音楽会といった行事は軒並み簡略化され、極端なレベル低下を招いた。
しかしさらに問題だったのは、そこまでレベルを下げながら、所定の時間内で大掛かりな行事は達成できないという深刻な事態である。

そこでやむなく、担任たちは自分の担当する教科の時間を準備に振り替え、あるいは道徳の授業をつぶすという暴挙に出始める。
標準を越えて授業時数を増やさなければならなかったのは、まさにそうした暴挙から教科道徳の授業を守るためなのだ。

運動会や文化祭などは教科を習う「日常」の授業とは違い、児童・生徒にとって、「非日常」の楽しい行事である。
たしかにその通りだ。
しかしそのための準備や練習も「非日常」の楽しい授業なのだろうか(私にはそうは思えない)。

かつて、運動会の組体操の練習や大曲を仕上げる音楽会の練習などは、まさに詰め込み教育の極致だった。
罵声や怒号の飛び交う中で生徒は団結を高め、目標に向けて全力を尽くした。そこに達成の喜びもあった。
しかしそれも今は、ない。
わずかな時間とわずかな努力から生み出されるわずかな喜びと達成感。

私は賛成しないが、メディアは子どもたちが苦しい運動会の練習や文化祭の準備から解放されたことを喜ぶべきではないか。








2003.07.11

中学生殺害・具体的にどう行動するか

[琉球新報 7月9日]



 北谷町の中学二年生が殺害された事件を受け、遠山敦子文部科学相が八日、不登校の児童・生徒への対応を学校や家庭、地域でしっかりと見直していく必要性を強調した。まさにその通りだが、こうした“決意”はもう何度、耳にしたことだろう。

 いじめや不登校が要因で起きる残忍で陰湿な少年犯罪は後を絶たない。今回も事件を受け、夏休み前に県教育委員会が再発防止と青少年健全育成を目的とした県民大会を開く方向で調整を始めたが、結局はセレモニー的な大会で終わってしまわないか心配だ。

 今回の事件は、事実関係や背景が明らかになるにしたがって、青少年を取り巻く状況が非常に深刻で、どうしようもない事態にまで追い詰められていることを実感する。

 この事態を、関係者一人ひとりが自らに問われている問題として真正面から受け止めないと、県民大会を開いても何ら状況の改善にはつながらない。

 遠山文科相は、今回の事件を「あまりにも安易に人の命が扱われすぎている。子供だからといって許していい問題では絶対にない」と指摘した。その上で、再発防止策について「学校での道徳教育も大事だが、家庭でのしつけなど基本的な教育もしっかりやらないといけない。大人自身が認識し、自らの周辺から始めていくことが大事だ」と述べた。

 さらに不登校生への対応について「学校や教員だけではすべてをカバーできない面がある。地元の教育委員会や地域住民のネットワークなど協力体制を組み、解消していくことが大事だ」と強調している。

 学校側の言い分も分からないではないが、家庭の責任とか、地域も問題だとか言い合っている場合ではない。

 事態は深刻だ。県民大会での決意表明もいいが、具体的にどう行動するかが求められている。もはや見て見ぬふりは許されない。知らなかったでは責任を逃れられない。

 不登校がちな生徒がいたら教師が親身になって話を聞くこと、家に帰らないわが子がいたら親兄弟が懸命に探すこと、いじめられている生徒を見たら友達や地域の人々が積極的に声を掛けること―そんな当たり前のことを、これからはより強く心掛けていこう。

 いじめを受けていたり、不登校が続く少年は、その環境から何とか脱したいと願っているはずだ。そしてそのサインを、間違いなく周囲に発している。

 一人ひとりが、そのサインをしっかりと受け止めたい。スクールカウンセラー頼み、施設頼みではなく、最も身近にいる人々の接触が一番大切なことのように思う。



何たる無礼か
もはや見て見ぬふりは許されない。知らなかったでは責任を逃れられない。

では、
学校が全ての問題に見て見ぬふりをしていたとの証拠を示せ。

知らなかったも許されないなら、学校に生徒を全的に把握するだけに権力を与えよ。


家庭の責任とか、地域も問題だとか言い合っている場合ではない。
なら何をどうすればいいのだ。

 不登校がちな生徒がいたら教師が親身になって話を聞くこと、家に帰らないわが子がいたら親兄弟が懸命に探すこと、いじめられている生徒を見たら友達や地域の人々が積極的に声を掛けること―そんな当たり前のこと程度では解決しないから問題が問題として存在しているのだ。


全ての当事者は己を責めながら事件に対処している。
その蚊帳の外で平気で眺めている当事者はマスコミだけだ