キース・アウト
(キースの逸脱)

2003年8月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。













  


2003.08.01

保護者に1680万円請求
―少年ら五人逮捕 長野の松代中


[信濃毎日新聞 8月1日]


 長野市立松代中学校で四月校舎の一部が焼失した放火事件で市教育委員会が校舎の修繕費用1680万円の弁償を、逮捕された少年少女五人の保護者に求めている。同様のケースで市町村教委が保護者に弁償を求めるケースは珍しくないが、少年非行の場合、複雑な親子関係や経済的困窮を抱えていることもあり、児童福祉や教育の関係者からは、事情をよく考慮せずに一律に賠償請求することに「デリケートな問題で、疑問がある」「親子関係が築けていないと、請求しても教育的意味は薄い」などの声が出ている。

 火災は4月29日未明に発隼。長野南署の調べによると、同校第二校舎一、二階の教室の壁や棚、天井など26平方bを焼いた。同署は放火の疑いで、同校の在校生一人、卒業生二人を含む十四歳から十六歳の少年少女5人を逮捕。長野家裁はうち4人を中等少年院送致や児童自立支援施設送致、保護観察処分とした(一人は処分未定)。

 市教委によると修繕費用は壁や床、天井、サッシが1491万円、電気工事代189万円で一般会計から支出した。一方で、5月下旬に少年少女の保護者を同中学に集め、弁償を求める考えを説明。賠償方法や金額の協議に入っている。

 児童や生徒が損壊した学校施設の弁償を定めた法令はなく、各市町村教委の対応に任されているが、長野市教委は通常、保護者に弁償を打診しているという。今回も「検察庁などに事件を問い合わせた結果、この子どもたちが故意に行ったことを確認し、保藷者に弁償を求めることにした」(総務課)としている。

 市は、所有する物品や建造物が災害や事件で破損した場合、補償金を受けられる全国市有物件災害共済会に加入。今回も補償金が支給される見通しだが、共済会の規定では「損害賠償を受けることができる場合、権利の保全や行使について必要な手続きをする」としており、可能な限り賠償を求めるよう促している。市教委は「強制ではないが、支払い能分のある保護者には賠償を求める」との立場で、「親に支払わせることで、子どもに反省を促す狙いもある」(同)とする。

 ただ、非行少年の場合、親との関係が複雑なケースも少なくないが、市教委は今回、家裁や更生施設の関係者と協議はしていない。県内の児童福祉関係者は「『取れるところからは取る』式で親に弁償させるやり方ではなく、一人ひとりの子どもについて家族や学校の状況を勘案した上で、子ども自身にきちんと責任を理解させることが大事ではないか」と話している。

 また、教育評論家の尾木直樹さん(56)は「親と子の関係が良好でないのに、親に賠償を求めても教育的な意味は薄い。家族関係を勘案した上でのペナルティーでない、単なる賠償請求は無責任で甘いとさえ言える」、と話している。


 

 下品な言葉は使いたくないが思わず「マジ?」とつぶやきたくなる。
 正当な賠償権が、なぜ放棄されなければならないのだ?

 公共物に限らず、他人のものを損壊したら賠償しなければならないのは当然ではないか。本人に支払能力のない子ども場合、保護者が代わって支払うのも当たり前のことだ。
その
当たり前のことを教えるのに、なぜためらいが必要なのか。
社会を教えるというのはそういうことだろう。

 民事刑事を問わず、個人の支払能力を越えて賠償金額が決定されることはよくあること。能力がないから諦めましょうではあまりにも市民をバカにしている。
1680万円は市民の血税から支払われたのだ。
それが保険で賄われるのは、また別の話である。

取れるところから、取れる分については取っておかなければならない。
また
そういう形で、事件に完全にケリをつけてやることが、子どもたちの再出発には是非とも必要なのだ。



 鴻池祥肇防災担当相は長崎市の男児誘拐殺人事件について、「嘆き悲しむ(被害者の)家族だけでなく、犯罪者の親も(テレビなどで)映すべきだ。親を市中引き回しの上、打ち首にすればいい」と言ったが(7/11)が、その前に行うべきはこういうことだ。






2003.08.13

「作業複雑で余裕失った」 文科省の教師意識調査

[共同通信 8月13日]



 新学習指導要領の実施に併せ昨年度から小中学校で導入された絶対評価について、教師の70%以上が「作業が複雑で余裕がなくなった」と不満を持っていることが13日、文部科学省の調査で分かった。
 個々の子どもの状況をきめ細かくみることを目標に導入された絶対評価だが、煩雑な作業に追われ、教師が授業の準備や子どもとの会話に十分な時間が割けないといった逆効果も懸念される。
 評価が高校入試の合否判定資料となる中学では、76%の教師が「入試の現状にそぐわない」と感じている。
 学級内の成績順を基準とする相対評価に対し、絶対評価は目標への到達度をみる。文科省が導入したのは「関心・意欲・態度」「知識・理解」など4つの観点から細かく到達度を評価し、積み上げる方式。「評価活動が複雑になり余裕がなくなった」とする教師が小学校で70%、中学では79%に達した。



ここまで大変なことだとは思わなかった、というのが教員の素直な感想だろう。

まず、年度当初に全ての授業に関する指導計画が立てられていなければならない。例えば中学校の場合、最大は1学年国語の140時間でだが、その一時間ごとに
「四つの観点のうちの何について評価するか」(毎時間4つの観点にて評価するわけではない)を決め
「B規準はどのようなものか」(最低どこまでの力をつけるか)
「A規準はどのようなものか」(より高いレベルと判断される基準をどこに置くか)
を明らかにしなければならない。
そして
B規準・A規準のそれぞれをどのような方法で判断するか(テストか、感想文か、作品か・・・・・・)
どのような内容であったらBかAか
を決めておくのである。

本格的に取り組むと、これが
全教科で電話帳1冊分ほどの厚さになる

授業が始まると、その評価基準に従って毎時間AだのBと全ての生徒に関して記録をつけ、B基準に達しない者(これをCとする)についてはBまで引き上げる方策を練る。その結果、(実際にできるかどうかは別として)Cの生徒を居残りさせるなどの方法でBまで引き上げておく(
各時の評価)。

1単元終了したところで、「単元の評価」をまとめる。
例えば1単元12時間扱いだったとすると、4つの観点についてはそれぞれ3回づつ評価してあるはずだから、これを換算表(学校ごと定める)にしたがって集計する。
例えば「知識理解」に関する3回の評価が「B・B・A」の生徒はこの単元は「B」といったふうである(
単元の評価)。
一単元終えたところで最終的に「A」(極めて優れる)状況になっているのだから「A」でいいのではないか、という話にはならない。それでいいなら「知識理解」などは一年の最後にテストをすればいいだけのことになってしまう。

さて、そうやって4つの観点に関する「A」「B」「C」が決まったら、学期ごとの集計に移る。
1学期に5つの単元を扱った場合そこで出てくる(例えば「知識理解」)「A」「B」「B」「A」「A
」という組み合わせは「B」だとか「A」だとかを、これも換算表にしたがって決める。すると各観点の評価が4つ「A」「B」「B」「A」と出てくるので、これも換算表にしたがって「3」だとか「4」とかに決定し、これでやっと通知票に表す数字が決まるのである(
学期の評価)。
年度末にはこれを更に一年間のまとめに集計する(
年間の評価)。

そうした煩雑さもさることながら、絶対評価の最大の問題はそれを受け取る側の利用範囲が極めて限定されるという点にある。

もともと相対評価の時代だってすべての教科が学年成績によって割り振られていたわけではない。
テストで評価しやすい教科はまだしも、体育や美術などは正確に順位をつけることなどできず、そもそもが個人内評価(個人の目標に達していたかどうかを見る)といった様相を帯びていた。
成績が十分上がらなくても、よく努力すれば評価を上げてやることができたのである。

絶対評価ではそれができない。
ダメなものは絶対にダメで、そのおかげで小学生の通知表にも「1(または△あるいは「もう少し頑張ろう」など)」がずらずらと10も20も並ぶことになってしまう。そうした通知表を貰った小学生の意欲を持続させることは容易ではない。
また、よく言われるように高校入試でも「絶対評価」は鬼っ子である。

さて、しかし始まったものはしかたない。
どんなものであれ、世間の絶大な支持を得て始まったものなのだから。







2003.08.14

担任教諭、異例の交代 富山市内の小学校
 一部父母「指導厳しい」

[富山新聞 8月13日]



富山市内の小学校で六月中旬、低学年クラスの担任をしていた男性教諭が担任を降りていたことが十二日までに分かった。同市教委によると、年度中に小学校の担任が交代するのは異例のケース。教諭の指導が厳しいと一部の保護者から批判があったとみられ、校長は市教委に対し「熱心な指導方法が空回りし、学校の運営に支障をきたす可能性があった」と報告しているが、児童や保護者の中には突然の担任交代を疑問視する声もある。

 富山市教委などによると、男性教諭は今年四月から同小でクラスを受け持った。宿題が他のクラスに比べて多いことや、授業中に廊下に出た一部の児童を教室内に立たせた指導に対し、一部の保護者から「厳し過ぎる」と学校に連絡があった。学校側はこの教諭と協議の上、担任の交代を決めた。

 現在、管理職員が担任を代理し、男性教諭は授業だけを担当している。担任の交代による支障も生じるが、同市教委は「予想される困難を押し通しても交代を検討せざるを得ない事情があったのだろう。校長としては苦渋の決断だったと推測する」(学校教育課)としている。

 同市教委によると、男性教諭は十年以上の教員歴があり、熱心に指導する性格だが、体罰などはなかった。

 同じクラスの児童の保護者からは「いい先生だった。突然の降板は非常に残念」との声も挙がっている。別の保護者は「子供は担任交代にショックを受けている。ごく普通の指導法だと思っているので理由が分からない」と話した。

 同小の校長は担任の交代について「内部的なことなので、何も言えない」としている。

 男性教諭は「自分からは何も言うことはない。学校に聞いてほしい」と話している。

一部であろうとなかろう同じである。
現代の学校は自分にとって都合の悪い担任は容易に変えることができるということである。教員にとって心すべきは、「愛される教師になる」ことではなく
「誰からも非難されない教師」になることであろう。












2003.08.14

<夏休み宿題>業者に“外注” 
すべてお任せキャンプ盛況


[毎日新聞 8月13日]



 夏休みも半分を過ぎ、子も親もそろそろ宿題が気になり出す。自由研究なんて特に頭が痛い。そこで、手厚く面倒を見てくれる「宿題ビジネス」が大盛況だ。5泊6日すべてお任せのキャンプも今夏、登場した。忙しい親たちに代わって、宿題も“外注”される時代なのだ。【今井文恵】

●親の要望で

 日本旅行が主催するのは、その名も「夏休み宿題解決キャンプ!」。南アルプスのわき水で有名な山梨県白州町で8月8日から5泊6日し、自然の中で、宿題に取り組む。

 すでに締め切ったが、18人の参加児童は造り酒屋や町役場を見学しながら自由研究の「ネタ」を探す。研修を受けた大学生や大学院生のリーダー3人が相談相手。図鑑や辞書、顕微鏡なども主催者が用意していくという。もちろん、宿題のドリルをしてもいい。

 小中学生向け自然体験ツアーでは実績を積んできた同社だが、6日間の「宿題解決」企画は初めて。事務局の小山重幸さんは「自由研究や感想文に苦労する親御さんからの希望が多く、新設しました。今回も最後の5日目の夜は『追い込み』で大変でしょうね」と話す。キャンプ期間中は親は安心。過去のツアーでは、親だけで別の旅行に出かけたケースもあったという。

●子供預けて…

 参加すれば「作品」が出来上がる工作教室も人気だ。生活雑貨や工具もそろう大型施設・京王アートマン聖蹟桜ケ丘店(東京都多摩市)では、各売り場の一角を使い、夏休み中のほぼ毎日、教室を開いている。紙粘土の貯金箱から民族楽器、ビーズアクセサリーやリモコンロボットまで。参加費は200〜3800円。材料はキットで全部そろっているから子供たちは売り場に行くだけ。

 5年生の息子と「簡易蓄音機」づくりに励んでいた30歳代の母親は「説明書通りに作るのだから、本当の意味での自由研究じゃないですよね。でも種類も多く、子供が飛びつくし……」と話す。約80講座のうち親子参加は2講座のみ。約2時間、子供を預けて買い物を楽しむ親も多いという。

 東急ハンズ渋谷店で夏休みに開いている工作教室は19講座。こちらも「問い合わせは年々増え、今年はこれまでに約950件。昨年の2倍近いです」(広報担当)。

●「ない方がいい」

 子供向けの本を作っている出版社も力が入る。「指紋の採取」や「野菜を使った紙作り」などの実験キットシリーズを01年から発売している学習研究社は「夏は書き入れ時」(担当者)という。「例年、8月の最終週は問い合わせの電話やメールがどっと増え、応対にてんてこまいです」

 教育行政に詳しい東京大の汐見稔幸教授は「自由研究の仕方を普段から学校で指導しないで、夏休みにやれというのがそもそも無理。子供も親も戸惑うばかりで、結局多少出費しても、形だけ整えればいいと『外注』が盛んになるのです」と話す。だから、「情報と経済力を持っている親が勝ち、となる。そんな夏休みの自由研究なら、ない方がいい」という。



そんな夏休みの自由研究なら、ない方がいいとは誰に向かって発せられた言葉だろうか? 教師に対してか、保護者に対してか?

昔の教師の方が親切で普段から指導していたという事実はない。
自由研究は、大昔から子どもにとって頭の痛い問題だった。
昔の子どもたちは乏しい資料を探し、あるいは教師に聞きながら、苦労して作品を仕上げた。しかしその作品は案外平凡で、似たり寄ったりのものでしかなかった。それはそうだろう。同じ学年の生徒が経験だけを頼りに研究を行うとなればそれはしかたない。

しかし今は違う。「自由研究アイデア集」といった書籍やインターネットに支えられ、自由研究の内容は驚くほど多様化した。
言うまでもなく、それは親の財力、情報能力、教育力の反映である。そうした中で、宿題を外注にだそうという不心得者が出るのも致し方ないことである。

だがそうした不心得な保護者が叩かれることはない。
宿題まで儲けの材料にしようという『外注産業』が叩かれるlこともない。とにかく教員のやることは一通り叩いておかないと気のすまない人々がいる。









2003.08.26

不登校の取り組みに変化
ひきこもりの増大背景

[信濃毎日新聞 8月25日]


 この春、文部科学省は不登校の取り組みについて、それまでの「登校刺激を与えない」という立場から、「初期介入が必要である」というふうに大きく変わった。

 このことは、私にとっても驚きであった。というのは、私は十五年も前から「不登校については初期からかかわり、不登校の子どもたちの心を知ることが重要。そして原因が少しでも明確になることが早期解決になる」と主張してきた一人だからである。

 文科省の人たちと会うたびに、あるいは講演を依頼されるごとに、私はこのことを強く主張してきた。というのは、不登校の子どもたちに登校刺激を与えないということで、「学校へ行きなさい」、あるいは「勉強をしなさい」という言葉を一切言ってはならないという要請だったのである。それは担任の先生のみならず親にも伝えられた。十五年前前後は、まさにこの考えが全国に行き渡っていた。

 そのため、不登校の子どもたちは友達を失い、やがて家にいて勉強をしないので学力を失う。このように友達を失い、学力を失った状態で、いざ学校へ行こう、となると、学校では誰も相手にしてくれず、また勉強の内容もわからなくなって、針のむしろになったような感じになり、とても学校に行けるものではない。しかも、登校刺激を与えないといいながら、授業日数や出席日数が足りなくなると、そのことが平気で親たちに伝えられる。この矛盾を私は終始突いてきた。どうせ登校刺激を与えないと言うならば、出席日数や授業日数の通知もすべきではないのではないか、ということである。

 実際、文科省の人たちの考えも少しずつ変わっていったようだ。数年前から、「このような登校刺激を与えないというのは問題ではないでしょうか?」と言うと、「私たちもそのように考えつつあるのですが、教育委員会や校長たちはなかなか臨機応変に考えてはくれないのです」というような返事がみられるようになったからである。

 しかし、深刻なのはこの「登校刺激を与えない」ということによって、ひきこもりが八十万人もいるという結果になったことだ。不登校からひきこもり、そして八十万人のひきこもりを生んだということは、しかも二十代の働く人たちが大多数だとしたら、この不景気の日本にも大きな痛手であるはずだ。またひきこもりの青年たちも、今の日本で働かずに家にいるということは、いわゆるパラサイトシングル、つまり父親や母親から金をもらって生きるだけの、家の中の寄生虫のような存在になってしまうことになり、自尊心は大きく傷ついているのである。

 このひきこもりの増大が、おそらく文科省が考え方を変えた大きな原因だろう。初期の介入によってひきこもりをなくそうというふうになった時に、その背景には労働人口を増やそう、それが景気の回復にも役に立つはずである、という実際的効用から考え方が変わったと思われる。

 本来、不登校の子どもに登校刺激を与えないでおこうということが、いかに冷たい対応であったかを反省してもらいたいと思う。多くの不登校の子どもたちは、実際は登校したいのだ。(町沢静夫)




不愉快である。

「不登校の子に登校刺激を与えてはいけない」ということを最初に言い立てたのは町田氏と同じ精神科医たちである。その言葉に、「子どもには厳しいことを絶対に求めない」マスコミが乗って、この処方箋は完全な正義となった。

当時、不登校へのほとんど唯一の窓口だった現場教師は、これを聞いて唖然とした。

一部は「学校へ来なくいいよ」というメッセージが再登校への近道だというパラドックスが理解できなかった。
別の一部は、再登校に手の届くところまで来ている子を手放すことに強い抵抗を示した。
そしてさらに別の一部は、それまで自分の行ってきたこと――担任の夜討ち朝駆けの家庭訪問・なかよしグループを組織しての訪問・手紙攻勢といったものの一切――を否定されたことへの抵抗を感じた。

しかし心の問題に関しては、毎日顔を合わせ時には数年に渡って観察してきた担任教師より、わずか数分の面接で結論を出す精神科医のほうが尊重される
私たちは大変な不信とストレスを抱えながら、わめきたくなるような気持ちで不登校対応の現場から引き離されたのだ。

それを
「私たちもそのように考えつつあるのですが、教育委員会や校長たちはなかなか臨機応変に考えてはくれないのです」
とは!
文部科学省の役人が本当にそう言ったとしたら、それはよほど経緯の知らぬばか者だ。
文科省の言う通りに指導してきた教育委員会が抵抗するのは理解できるにしても、現場の校長たちが反対するはずがない。もし反対するとしたら、それはその方法が正しい場合だけである。


登校刺激を与えないことが不登校を長引かせるという恐れは現場に常にあった。
長期不登校の結果、
友達を失い、やがて家にいて勉強をしないので学力を失う。このように友達を失い、学力を失った状態で、いざ学校へ行こう、となると、学校では誰も相手にしてくれず、また勉強の内容もわからなくなって、針のむしろになったような感じになり、とても学校に行けるものではない。
ということは、現場では常識であった。
しかしその常識は、心の専門家達によって無謀な鍛錬主義、不登校を長期化させる元凶として扱われた。

私たちはまさに
不登校の子どもに登校刺激を与えないでおこうということが、いかに冷たい対応であったか
といった冷たさを強いられてきたのである。


反省すべきは文部科学省ではない。メディアに乗り、メディア好みの解説で不登校を長期化に導いた一部の精神科医たちこそ、その責任を負うべきはずだ


   *町沢静夫氏はマスコミの世界ではかなり有名な精神科医である。
   テレビへの露出も多い。
この人を一躍有名にしたのは佐賀西鉄バスジャック事件であった。彼は事件発生の数ヶ月前に犯人少年の両親から電話相談を受け、これも電話一本で佐賀県警や肥前療養所に圧力をかけて精神病院への強制入院を実現させた。そのことを言い立てて、「3月時点で自分はこの少年の犯罪の可能性を見抜いていた」と宣伝するかのようにマスコミで療養所非難を精力的に言って回ったのだ。その結果、犯人少年の両親も、公的な謝罪をするこもなく、これもひたすら(仮退院を許した)診療所非難に終始するようになった。そのことは記憶しておくべきだろう。
電話相談一本で子どもを精神病院に入院させることの是非は、素人の私にはわからない。しかし自分がそんなことをされたら適わないことは確かである。

また、町沢氏の著書『あなたの心にひそむ「見捨てられる恐怖」』は、読むに耐えない作品である。
そこに登場する若い女性患者が結局自殺に至ったのは、町沢氏のマズイ(というよりは乱暴で冷酷な)対応のためではないか、そう感じる人は少なくないだろう。

どうしてそのような人が今もメディアで幅をきかせているのか。
そしてなぜ私たちはそのような人の指示に従わなくてはならないのか。