キース・アウト
(キースの逸脱)

2003年9月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。













  


2003.09.01

横浜市が2学期制導入へ 市立学校で04年度に

[共同通信社 9月1日]


 横浜市教育委員会は1日までに、2004年度から市立の小中学校や高校、盲・養護学校の計521校で、前期と後期の2学期制を導入することを決めた。
 市教委や各学校長が保護者に説明をし、最終的には各学校長が実施の判断をする。
 横浜市は本年度から小、中学校計40校で試験的に2学期制を実施。市教委は3学期制に比べ、授業時間が2−10%増えることを確認できた。
 2学期制の登校日数は、3学期制と同じだが、始終業式や定期テストの回数が減る分、授業時間が増え、よりきめ細かな生徒指導ができるとしている。
 2学期制の前期は4−10月中旬。体育の日の連休前後の約5日間を休みとし、後期は翌年3月までとする予定
 政令市では、仙台市が02年度からすべての市立小中学校で実施、京都市も03年度から各学校長の裁量で導入している。(共同通信)



私は2学期制というものがさっぱり分からない。
それで授業時数が増えるというのが分からない。


体育の日の連休前後の約5日間を休みとしと言うからとりあえず2日間の授業日数減。
しかし
始終業式や定期テストの回数が減る分と言うからまず始業式・終業式それぞれ1回廃止で2日の授業日数増。
これでチャラになる。

したがって授業日数が同じであるにも関わらず授業時数が増えるカラクリは
定期テストの回数が減る分だけ、ということになるのだが、それは多く見積もっても1回=9教科分、約9時間のはずだ。テストを返却することを考えても、18時間あれば事足りる。

それがなぜ
業時間が2−10%増えることを確認できたにつながるのか?

指導要領に定められた総授業時数は980時間だから、その10%は98時間である。どうやったら18時間が98時間に化けるのか?


さらにまた、
テストを一回減らして授業に当てる18時間に、テストと同様の学習効果を期待することができるのかどうか、それも私には分からない。

そんな密度の濃い授業をし続ける教師集団というのも、想像がつかない。

何もかも謎だらけ。

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私は2学期制に反対なわけではない。
賛成する理由が分からないだけなのだ。

夏休み前に「さあ一学期の締めくくり」。夏休みが終わって「さあ新学期」という自然の摂理を破棄しても、そこに価値があるなら無論行うべきだ。

しかし単に何かをしているといったパフォーマンスのためだけだったら、こんな厄介なことはむやみに広げないでほしいものである。

 






2003.09.05

民間人校長 現場の理解が不可欠だ

[共同通信社 9月4日]



 「教育に新風を」と全国各地で「民間人校長」が次々と誕生している。県内でも、来年四月から小学校に一人の民間人校長が赴任する。

 「厳しい競争を強いられている民間会社の経営感覚を学校教育に」というのが県教育委員会の期待である。

 しかし、前例のない改革だけに課題も山積している。事前研修や教育現場の理解を求める論議、行政の支援態勢など十分な対応が迫られている。

 民間人校長の制度は、二○○○年四月の学校教育法施行規則の改正で実現した。校長のリーダーシップの下で子供の実態や地域の実情に応じた特色ある学校づくりが目的である。

 文部科学省によると、ことし四月現在、全国の公立小中高校の民間人校長は二十四都道府県五十六人に達している。前年度比二・七倍の急増ぶりだ。

 だが、三月には広島県で民間人校長が自殺するなど、教育経験のない校長が現場のかじ取りをする難しさも表面化している。

 他県ではわずか二、三日の研修だけで学校に送り込んだケースもあった。一部には「民間人校長が国の教育方針押し付けに利用されている」との批判もある。「学校に行きたくない」とまで思い詰めた民間人校長も少なくないという。

 県教育委員会は十月から半年間の事前研修を実施する。教育の法規関係やカリキュラム、現場業務などをじっくり学んでもらう方針だ。

 昨年度の校長への登用試験の県内合格率は小中学校で47%、高校で39%と厳しくなっている。こうした状況で民間人校長を採用する。その目的、教育効果について県教育委員会は県民に十分に説明するとともに、教職員の理解・協力を得ることが大切だ。

 「民間の経営感覚や新鮮な発想で教育界を活性化させる」というのも時代の要請であろう。

 教育の主人公はあくまでも子供たちだ。民間人である、なしを問わず、校長や教職員が一致協力できる環境からつくりたい。


最初に申し上げておくが、私は民間人校長に反対ではない。
しかし
「教職員の理解・協力を得ることが大切だ」と言われても、何を理解しどう協力したらよいのかわからない。

文脈からすると、「民間人校長を採用する。その目的、教育効果について」理解し協力するということになるのだが、
もともとマスメディアが(いわゆる)専門家の口を借りて主張してきたことを教育委員会に代弁させようとすることに無理がある

「教育に新風を」
「厳しい競争を強いられている民間会社の経営感覚を学校教育に」
「民間の経営感覚や新鮮な発想で教育界を活性化させる」

というメディアが開発し使い尽くされた言葉はもうウンザリだ。
民間人校長に何を期待するのか、もうそろそろ提示してもいいころではないか。

教頭から上がっていく教員校長とは異なり、半年もの研修を行い丁重にお迎えする「民間人校長」。その意義がいまだに提唱されないというのは極めて異常なことである。







2003.09.09

社説=校庭の芝生化 子どもの元気を支えたい

[信濃毎日新聞 9月9日]


 小中学校の校庭に芝生を張る動きが全国で広がりつつある。子供たちの外遊びを促し、けが防止にも役立つ。周辺に潤いを与える効果も見込まれる。身近なところで可能性を探ってみる価値がある。

 長野県内の小学校では運動会を控え、練習が盛んなころだ。親や住民がともども、校庭の様子を観察する好機に生かしたい。

 今はまだ土の校庭が多い。主要な都市公園や公共施設、さらには住宅地でもきれいにデザインされた芝生の庭が目立つのに比べると、学校だけが取り残された印象もある。

 改善しようという試みが各地で始まっている。文部科学省は一九九五年度から、小中学校の芝生化事業を補助するようになった。これまでに全国で二百四十校余、長野県内では十四校が整備済み(面積三百平方メートル以上)である。

 例えば南安曇郡の三郷小は今年、校庭のほぼ半分に芝生を張った。はだしで動き回る児童が増えている。運動会の光景も変わりそうだ。

 擦り傷などを和らげる安心感は大きい。気持ちにゆとりをもたらす側面も見逃せない。

 学校外に対しても砂ぼこりを減らせる。特に都市部では熱気がこもるヒートアイランド現象を防ぐ一定の役割が期待される。

 むろん、難しさも伴う。子供たちが思い切り遊ぶほど、芝生の傷みが早い。除草剤を使わず雑草を取るには地道な作業が欠かせない。芝が育つまでの間、校庭が長期間使えないようだと学校運営に支障も出る。

 条件を整える上でいくつか考えたい。一つはゴルフ場やサッカースタジアム並みの芝生を望む必要はないことだ。高温多湿の日本の気候や激しい踏み付けにも耐える品種は開発されている。簡便でコストを下げるやり方はある。

 二つ目は地域の協力を得て、維持管理していく大切さである。小中学校が安全で快適であってほしいと願う住民は多い。災害時には避難先にもなる。芝生の校庭も共有財産だという意識を高めたい。

 もう一つ、サッカーやラグビーといったスポーツはもともと芝生の上でのプレーが基本である。子供たちが好きになり、続けられるかどうか、環境面の良しあしも左右する。

 屋外であまり遊ばなくなった今の子供たちが、緑の校庭をきっかけに“風の子”ぶりを取り戻すなら喜ばしい。地域の事情を踏まえ、学校整備のあり方を掘り下げたい。


記者は芝生つきの家に住んだことがないのだろう。
芝生のある家でひと夏に一体何回の芝刈りが行われるのか、考えたことがあるか?
ひと夏に一体何時間、地面にはいつくばって草取りをしているのか、知っているのか?
それがグランドだぞ。
それが夏休み中の仕事なんだぞ。


地域の協力を得て、維持管理していく大切さである。
などおっしゃるが、体育祭の練習やら部活やら、果てはアホな生徒の悪戯やらで年中迷惑をかけている地域の人たちに対しては、お詫びの草取りを申し出ることはできても、草取りに出てくれとはとても言えない。

やってくれそうな人となると保護者しかいないが、月に3回4回といったPTA作業を言い出す勇気など、どこの校長にもない。

後は生徒だけだ。しかし授業時間を何時間もつぶして汗だくになって取り組む草取りなど、誰が好んでやるものか。
子供たちが好きになり、続けられるかどうか、
というのはスポーツにではなく、まず苦さ取りについて考えておかねばならない。

子どもなんて擦り傷を恐れず元気に遊ぶもんだ。
といった言い方はもうできないのだろうか?

願わくばアホな地方議会議員が教育委員会を動かし、芝生を張るための予算など取ってこないように。









2003.09.14

指導力不足教員289人 02年度小中高 文科省調査 
3人が初の免職


[西日本新聞 9月13日]



 都道府県や政令指定都市の教育委員会が、児童や生徒に適切に対応できない「指導力不足教員」と認定した公立小中高校の教員は、二〇〇二年度は二百八十九人にのぼったことが十二日、文部科学省の調査で分かった。このうち三人は「教員としての適性を欠く」として分限免職処分となった。指導力不足を理由とする分限免職は初めて。

 認定は、弁護士らで組織する判定委員会を経た人事管理システムによるもので、〇〇年度から順次導入。都道府県・政令市の計五十九教委のうち二十三教委が実施している。指導力不足教員の認定数は、〇〇年度六十五人(五教委)、〇一年度百四十九人(九教委)、〇二年度二百八十九人(二十三教委)。システムの整備とともに、指導力不足教員の存在が顕在化している。残る三十六教委も本年度中に導入する予定。

 文科省が公表した認定例には「生徒を見ず、黒板に向かって授業をする。生徒全員が教室を抜け出しても、気に留めず黒板に向かって授業を続けた」(高校)「生徒が心配するほど指導内容に誤りが多い。成績処理で間違いを繰り返す」(中学校)「基礎的な知識や技術が不足。算数の計算や漢字など間違いを教える」(小学校)などのケースもあった。

 指導力不足を認定された教員のうち、分限免職三人のほか、依願退職が五十六人。研修を受けたのが二百二十六人(認定外も含む)。降任は一人、休職は十五人だった。

 九州・山口では、佐賀県十三人、長崎県二人、宮崎県五人、福岡市六人、北九州市十二人が指導力不足と認定され、このうち佐賀、宮崎、北九州でそれぞれ一人が依願退職となった。

■学校に不信感も 保護者ら

 指導力不足教員に対する各県や政令市教委の取り組みについては、保護者らの間にも懐疑的な意見が少なくない。

 指導力向上のために昨年度、十六人が研修を受けた福岡県。高校生の息子がいる同県飯塚市の公務員男性(53)は「だれが、どんな基準で問題教師を選んでいるのか不透明で、教育現場の実態と比べても信ぴょう性に乏しい」と、公表されたデータに疑問を投げかける。

 福岡市の元小学校PTA役員(42)も「身内意識の強い学校側と、子どもを守りたい保護者の間には、問題教員の認識に明らかな差がある。研修制度にしても、指導力不足教員に対する保護者らの批判を受けて、教委が帳面消しで取り組んでいるといわれても仕方がない」と指摘する。

 「指導力不足教員」は在籍する学校長の教委への名簿提出があって初めて、判定作業に移るケースが目立つが、その入り口の判断に不信感を募らせる保護者も多い。

 佐賀市の小学生の母親(40)は「問題があると思った一部の先生のことでPTAとして校長に何度も相談、掛け合ったが、今もって何も改善されていない」と憤る。

 こうした声に、福岡市の小学校長は「現実に教科指導はできても、子どもに関心がないなど問題教員は各校に一人はいる」と“告白”。その上で「問題教員を排除すれば、すべてが解決するという話ではない。各学校では全教師のレベルアップを目指して、校内で研究授業を行うなど、独自の取り組みを始めており、保護者の理解を求めていきたい」と話した。

■識者らの声

 十二日公表された文部科学省の調査で「指導力不足教員」の認定数や事例が明らかになったが、教育現場に詳しい識者らからは「教員の指導力不足の実態はさらに深刻」との指摘がある。子どもたちや保護者の期待にこたえる教育力をどう確保するか。研修の充実や、採用制度の見直しを求める声もある。

 文科省の発表では、二〇〇二年度に「指導力不足教員」と認定されたのは二十三教委の二百八十九人。一県あたり平均十二人という計算になる。しかし、指導に悩む教員らを対象にした「授業塾」を主宰する麻生信子・筑紫女学園短大非常勤講師は「こんなもんじゃないはず。実際はもっと多い」と言う。

 麻生さんは福岡、佐賀両県の十カ所で百人に指導案作りなどを教えている。「認定された極端な例だけではなく、専門的知識が不足した教員はもっと多い。教育委員会は教員が勉強できる機会を設けることが必要」と言う。

 採用の実態に疑問を向けるのは、中央教育審議会臨時委員の高倉翔・明海大学学長。文科省によると、〇二年度に採用された約一万六千人の教員のうち、一年間の「条件付き期間」を経て正式採用されなかったのは百二人。理由は病気や自己都合によるものが大半で、「能力不足」での不採用はわずか四人。高倉学長は「仮採用の期間に適性を判断する制度が形がい化している。十分、機能させるべきだ」。

 「指導力不足」の原因を見るべきだとの意見もある。八尾坂修・九州大教授(教育行政)は「認定された中には、精神的な疾患が原因になった教員もいる可能性がある」と指摘。「排除より支援という立場で解決を」と要望する。

■指導力不足の認定例■

 【小学校】

 一、宿題を出しても見ない。自分の価値観と感情のみを優先させて児童に接することが多い。

 一、児童の要求を聞き入れすぎて振り回されている。家庭訪問が必要な時でも保護者に電話しかしない。

 一、個々の児童の実態を十分把握せず、一方的な授業をする。

 一、他人の意見を聞こうとせず、自分の非を認めない。指摘されると逆に攻撃的になる。

 【中学校】

 一、生徒の発達段階や学力の状況を考慮できない。生徒の目を見て話すことができない。

 一、授業中、生徒を見ず、黒板を向いて一方的に授業をする。

 一、保護者の意見に耳を傾けない。校長の指示にも従わない。

 【高校】

 一、チームティーチングでサブティーチャーとして生徒に声掛けができない。同僚とも会話せず、準備室に閉じこもりがち。



およそ300人となれば全小中高教員の0.03%。1万人に3人ということになる。
精神疾患の罹患率などと比べてもかなり少ない数字であるが、それぞれが数十人の児童生徒を教えていることを考えるとこれくらいは我慢しなさいとは言えない。

内容を見ても、
生徒に声掛けができない。同僚とも会話せず、準備室に閉じこもりがち。他人の意見を聞こうとせず、自分の非を認めない。指摘されると逆に攻撃的になる。
となると、これはもう人格自体に問題のあるケースで、
身内意識の強い学校側としても守りきれるものではない。
不適格教員の排除というものはここ数年のもっとも熱い教育的テーマであるが、次の数年で確実に制度化され、実行に移される。

しかし、それがなかなか難しい。
今回認定された289人を一方の極端な例とすると、その反対側には超人的な教師もいて、その間を100万人あまりの「普通の教師」たち埋めているからである。そのスペクトラムのどこに棒引きをするのか。

実際、指導力不足といえば、私たちのほとんどは不登校問題に適切な指導方法を有していない。非行もゼロにできない。昔「落ちこぼれ」と呼ばれた学習不適応の解消もできない。その意味ではほぼ全員が「指導力不足」である。

さらにクラスのほとんどの保護者がさしたる不満を持たなくても
「ウチの子」にとって明らかに指導力不足であることを訴える保護者もいる。
そうした保護者の声にどう対応していくかも重要な問題となろう。

私としては、今回認定されたような明らかな例については無論排斥すべきであるが、それ以上に広げないよう注意していくべきと思う。そうしないと教員が極端なポピュリズムに陥り、あるべき教育の姿が失われるのではないかと恐れるからである。

常に保護者のご機嫌を伺い、大切な時間を膨大な学級通信や教室の飾り付けに費やす。子どもをどう育てるかではなく、どう育ったように見せかけるか、それが中心になったとき、今度こそ本物の不適格教師が生まれてくるのではないか。







2003.09.16

大弦小弦 公立学校が選別される時代

[沖縄タイムス 9月15日]


 マンションのチラシで、立地環境に「名門○○小学校近く」という一文を見かけた。公立校で名門という表現に違和感を覚えたが、父母の評判が高い公立小学校は現にあるという。

 最近マンションを購入して引っ越した知人がいる。決め手は、ある小学校の校区に立地することだった。学習指導要領に縛られる公教育の性格上、授業内容はよそと変わらないはずだが、子の教育環境としては明らかに差異があるという。

 背景には、教育熱心な土地柄に加え、教育に対する父母の関心度の高さがある。教育行政関係者は「父母や地域の高い関心が、教員や学校を後押しする」と話した。外部から向けられる厳しい目が学校を成長させていく―という見方だ。

 だが、通学する公立小中学校は居住地域で決まる。どうしても特定の公立校に行かせたい場合は、引っ越しなどで住所を移すしかない。しかし市町村によっては、居住地に関係なく学校を選べる時代が、近く実現するかもしれない。

 那覇市の審議会は、市教委に対して「学校選択制」導入を提言する。学校選択制は、すでに東京都品川区が打ち出している。そのほか、群馬県太田市が大半の授業を英語で行う「教育特区」に認定されるなど、公教育改革の波は全国的に広がっている。

 私立校との選別にとどまらず、公立小中校間でも選別される時代の到来だ。指導力不足が言われないよう、教員の質の底上げが求められる。



面白い記事だが結論が悪い。

趣旨は、
教育に対する父母や地域の高い関心が、教員や学校を後押しし、外部の厳しい目に晒された教師がよりよい教育を行うということだが、その結論が、指導力不足が言われないよう、教員の質の底上げが求められる。
では、なんとも平凡としか言いようがない。


論理的に言ったって、教育に対する父母や地域の高い関心が、教員や学校を後押しする。
だから父母や地域は高い関心を寄せましょうとなるのが理の当然であるはずなのに、とにかくメディアは国民に何かをさせることを嫌う。
何かをするのは、常に公務員でなければならない。



さて、
公立小中学校というのはめまぐるしく人間の入れ替わるところである。今年、東京都は3年ごとの転任を指示したが、そうでなくても4〜5年もするとメンバーは一新してしまう。

メンバーの入れ替わった学校では当然制度も変わる。
しかしそうした変化にも関わらず、実際に「評判のいい学校」と「悪い学校」があり続けるのは、結局、10年も20年も変化しない要素が学校の良し悪しを決定しているということに他ならない。

それはなにか。

この記事の筋がいいのは、父母や地域の高い関心に目を向けた点である。
それこそが決定的な要素である。父母を始めとする人々の関心の高い学校こそが「良い学校」であり、そうでない場所では良い教育が得られないのである。
まさに

「父母や地域の高い関心が、教員や学校を後押しする」


そうした状況の上に、今度は「学校選択制」が導入される。

もちろん、こちらの方が近いからという理由で学校を変更する親もいるだろうが、この記事で想定されているのはよりよい教育を求めて、あえて遠い学校へも子どもを通わせようという教育への関心の非常に高いグループである。
そうなると、父母や地域の高い関心の高い学校に、教育への関心の高い保護者がどんどん集まってくる。

置き去りにされる学校には、教育に関心の薄い保護者と地域があり、こちらは更に困難を増していく。


私立学校ではあるまいに、教師が自分の所属校の評判を高め人員確保に努力するなどということはありえない。どうせ数年で出て行ってしまう学校だ。教師に努力を求めても意味のある改革にはならないだろう。

学校選択制の先にあるのはこういうことである。








2003.09.22

いじめをやめさせるために
やむを得ぬ対決もある


[信濃毎日新聞 9月22日]


 いじめは中学校を中心に、今もなお広範囲にみられる。いくら学校の先生方が統計をとろうにも、本当のいじめというものは、陰に隠れて、教師の目をかすめて存在するものであり、教師がわかるようないじめは、大したいじめではないと言ってよい。

 私も小さいころは大変ないじめに遭った。小学校三年のころ、海のいかだの上に乗せてくれるというので、しめたと思ってそのいかだに乗ったのだが、ずっと遠い沖に行った時に、私はそのいかだから突き落とされてしまったのである。必死になって泳ごうとするが、いかだはますます進み、彼らは大笑いで笑っている。私は本当のところ死ぬかと思った。しかし、その寸前にようやく助けられた。怒る気持ちもなければ、怒る気力もなかったのである。

 また小学校時代、私が歩いているとわざと肩をぶつけてきたり、頭を殴ったりする、同級生の男子生徒がいた。

 ある日、その彼が相変わらず私の肩を自分の肩でどんと突いた。私が何か言うと、本来はめちゃくちゃにぶん殴られるものであったが、私はその時、さすがに「このままいじめられてばかりいるのは悔しい」という気持ちにもなっていた。そのため「おい、やめろよ」と彼に言ったのである。すると、彼は「生意気なことを言うじゃないか。おい、グラウンドヘ来い」と言って、私はグラウンドヘ連れていかれた。いや、連れていかれたというよりも、その時には、彼と勝負するしかないという気持ちで行ったのである。

 かくてグラウンドにつくなり、私はまず彼に力いっぱいほおを殴られてしまった。そのため私の口の中は切れて、血が地面にしたたり落ちていた。それを見るなり、私は自分を守るために必死に戦いを始めてしまった。本来こんないじめは逃げるべきなのであるが、しかし執拗(しっよう)ないじめに対しては、それを止める手段がないのである。再度言うならば、学校の教師は何も救ってくれなかったというのが実態であった。

 かくて、私は私でいじめを止めるしかなかったのである。そのいじめっ子に向かっていった時も、またやられる可能性は十分あったのである。私はもう限界だ、と考え、彼に殴られた血を見るとともに、彼に向かっていったのであった。そしてものすごい殴り合いの後に、私は彼を倒していた。すると二階からある先生が見ていた。もう授業が始まりそうな時間だったので、そこにいたのである。「おい、弱い者をいじめるものじゃない」と言って、私をしかった。私が「いじめた」というのである。「いじめた」と言われたのは、後にも先にもこれしかない。

 このようないじめの解決は決していいものではない。しかし、男の子の世界ではやむを得ない場合があることは誰でもが知っているだろう。最終的に私と彼とはきわめて仲良しになり、彼の家でサクランボを食べたことを覚えている。   (町沢静夫:精神科医)



これは与太話である。

もちろん
本当のいじめというものは、陰に隠れて、教師の目をかすめて存在するものであり、教師がわかるようないじめは、大したいじめではない
と言っている以上、
教師に責任はないという取りようもあろうが(認知不能なものを指導するというのは無理な話である)、町沢氏にはそんなつもりもなさそうだ。

何しろ何十年もたった今でも
再度言うならば、学校の教師は何も救ってくれなかったというのが実態であった。
と恨み言を言いたくなるいじめが、実は
私が歩いているとわざと肩をぶつけてきたり、頭を殴ったりする
といった程度のことなのだから、何をかいわんやである。

しかも相手は言い返されたらその場でやればいいものをグランドという、「
陰に隠れて」とはとても言い難い場所に呼び出し、逆にやられてしまう。何ともマヌケな話である。

いやそもそも、その前の「海のいかだ」というのもさっぱり想像がつかないし、万が一そんなものがあったにしても、いじめの相手に「乗らないか」と誘われて「
しめた」と思うおバカ加減には言葉がない。

この話は全体がウソである。
教師の無能をあげつらって共感を引き、強さを要求する現代の風潮に「やられたらやり返してもいいという」古典的な言い方で媚びようとする。どうしようもない駄文だ。
にもかかわらず、メディアは重宝にこの人を使う。
その先にある影響というものには全く考えがない。








2003.09.22

「生徒指導に自信」6%、
中国などより極端に少なく


[朝日新聞 9月22日]




生徒指導に「自信がある」と言い切った先生はわずかに6%――。そんな調査結果が21日まで東京都内で開かれた日本教育社会学会で報告された。調査では英国、中国と比較をしたが、日本は、子どもの指導に自信のない先生の多さが際だった。学会では、日本の高校生の勉強離れの実態も報告された。

 先生については、国際基督教大の藤田英典教授らの研究グループが小中学校で調査した。日本では11都県の約1300人、中国は上海と雲南省で約700人、英国では全国の約1400人を対象にした。

 生徒指導や教科指導、教科の知識、学級づくり、部活動指導の5項目について「自信がある」「やや自信がある」など4段階で尋ねた。

 このうち生徒指導では「自信がある」と言い切った先生が日本では6%だったが、英国は47%、中国は73%。「やや自信がある」を加えても日本は55%。英国は92%、中国は98%にのぼった。

 このほかの項目でも、「自信がある」と答えたのは中国が53〜80%、英国が33〜78%に対し、日本は8〜11%で、どの項目も際だって低かった。

 日本では、子どもの暴力問題やいじめを抱える学校の先生、保護者からのクレームを頻繁に経験している先生ほど自信のない傾向が強かった。

 「子どもの変化を前に、何とか指導しようとするが、保護者や地域の目が厳しく自信を失う教師像が見える。教師と親がどう協力関係を結ぶかが問われる」と、学会で報告した福岡教育大の油布佐和子教授は話す。

 一方、高校生を調査したのは、お茶の水女子大の耳塚寛明教授らのグループ。日本、英国、シンガポールの比較をした。日本は北陸の公私立12校、シンガポールは7校でそれぞれ約1300人、英国は南部の5校の約450人。いずれも翌年に大学受験などを控えた学年を対象にした。

 家での学習時間がゼロの生徒は英国が5%、シンガポールが13%に対し、日本は37%。「できるだけいい大学や就職先に入れるよう成績を上げたい」はシンガポール、英国がともに9割に対し、日本は6割。

 日本とシンガポールの学校については、学科や成績ランクで5グループずつに分け、学習意欲の違いを分析した。

 「いい大学に入れるよう成績を上げたい」では、シンガポールはどの集団も8割を超えている。日本は成績上位校は8割だったが、下位校では4割台で格差が大きかった。「日本は受験競争の弊害を否定しようとして、学びの価値まで否定してしまったのではないか。格差の広がりが懸念される」と耳塚教授は話している。


当然の結果である。
大学の教授というものはしばしば私たちの実感を数値に置き換えてくれるから便利だ(その逆であることもあって困るときも多いのだが)。

日本の教師は諸外国に比べて、要求されるものが多い。生徒の拘束時間も長いから、そうなるのも当然だろう。
また、そうした事情の延長として、そもそも「生徒指導」の概念ですら異なる。
校外での非行、昼食指導、服装指導といったものが諸外国でどの程度「教師の仕事」となっているか、その点に就いても言及して欲しいものである。

日本の教員が自信を失うのはもっともで、自信を持たせるには制度そのものと国民の教育に関する考え方を根本的に変えていくしかない。


さて、耳塚教授は、
「日本は受験競争の弊害を否定しようとして、学びの価値まで否定してしまったのではないか。格差の広がりが懸念される」
と言っておられるが、それはどうか?

そもそも英国やシンガポールの学生だって学びの価値を知っているから学習しているわけではないだろう。
教授自身が示しているように、学習と相関のあるのは「学びの価値」ではなく「いい大学に入れるよう成績を上げたい」という、受験を勝ち抜くことの価値の方だからである。
日本はそういうものから脱却しようとして果たした。
それと一緒に学びの姿勢が失われたとて、なぜ問題にしなければならないのか。


もうひとつ言っておく。
格差の広がりについてだが、これについても心配する必要はない。

個性教育はここ数年の学校の目標である。

子どもの個性とは子ども自身が生まれながら単独に持っているものではない。それは家庭と家庭が用意した環境の総合力のことである。
そうである以上、格差の広がりは個性教育の始まる以前から分かっていたことだ。

私たちは、個性教育を受け入れるとき、同時に格差の広がることも覚悟した(慧眼なるメディア諸君がそれを見逃がすはずはない)。

当然来ると引き受けたことが、本当に来ると恐れるのは、馬鹿げたことである。

格差は広がるに決まっている。