キース・アウト
(キースの逸脱)

2003年10月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。













  


2003.10.10

学習制限緩和/現場の整備にも展望開け

[神戸新聞 10月9日]



 昨春、不評の中でスタートした「ゆとり教育」が、早くも転機を迎えた。

 
中央教育審議会(鳥居泰彦会長)が、学習指導要領で定めた学習内容の制限、いわゆる「歯止め規定」を緩和する答申を河村健夫文部科学相に提出し、一定基準を超えた「発展的な学習」も容認する方針を打ち出した。

 これを受けて文科省は、来春から、小学校で「習熟度別授業」、小中学校で「補充的な学習」「発展的な学習」を行えるよう指導要領の追加記述をすることになる。

「ゆとり」は「ゆるみ」につながり、学力低下を招くという父母、関係者の不安や強い批判にこたえたものだが、ネコの目のように変わる教育行政の信頼性をあらためて問いたい。

 この方針変更については、指導要領の字句の修正だけで済ませようとする思惑も見えるが、ことは、教育の根幹にかかわることである。これまでの教育行政についての総括も含め、変更経緯を明らかにする必要がある。


「歯止め」については、例えば「小学四年生の理科で習う星座の数は二つか三つとする」「同六年の算数では帯分数計算をしない」など、各学年で、こと細かに規定されている。いわば高度な学習が規制されているわけだ。

 こうした「ゆとり」を掲げた新学習指導要領が示される前後から、学力低下を懸念する声が高まり、実施直後に、当時の遠山敦子文科相が「指導要領は最低基準。それ以上のことを教えてはならないということではない」と軌道修正していた。今回の答申は、その方針を追認したものだ。

 予想された変更とはいうものの、教育現場で困惑と戸惑いが広がるのは当然だ。総合学習など、時間と工夫を要する取り組みも求められている折から、新たな混乱を避けるための手だてが求められる。  

「詰め込み・過熱教育」の反省から「ゆとり路線」が提起されたのだが、現行指導要領が、あまりにも学習内容の削減に走り過ぎて“学びの骨抜き”をした印象を与えてしまった。「ゆとり」と「学力向上」を対立概念としてではなく、並立したものとしてとらえ直す必要があるといわれる。

 そのためには、教育現場での、画一的ではない多様な対応が必要になる。

 現場の教師一人ひとりの創意工夫がいることはいうまでもないが、それにも増して彼らを支援するため、教育現場でのハード、ソフトの整備について新たな展望が示されなければならない。


文部科学省の役人にもメンツがあるから、10年不変が原則だった指導要領をわずか2年で変えることには相当な抵抗があったはずである。
それを変えさせたのは、まさにマスコミの力といえよう。
メディアは勝利宣言をすべきだ。
しかしそれをしないのは、結局、メディアが責任を背負う気がないからである。

批判はするが、責任はとりたくない。
そうした態度は私の教える子どもたちの一部とまったく同じ態度だ。いや、全体としてみれば、中学生の方がまだはるかに節操がある。
その上中学生には社会を動かす力はないのに、こちらのダダッ子の方は恐ろしい力を持っている。困ったことだ。


さて、私は学習内容や学習時間の削減を中心とする「ゆとり教育」には最初から反対だった。
私の周辺には最初から「詰め込み・過熱教育」などというものはなかったし、
私たちの悩みは20年間ずっと「生徒の不勉強」と「学力低下」だったからである。

しかしそんな私から見ても、
例えば「小学四年生の理科で習う星座の数は二つか三つとする」「同六年の算数では帯分数計算をしない」など、各学年で、こと細かに規定されている。いわば高度な学習が規制されているわけだ。
といった話は理解できない。
 普通の子が「星座の数」を五つも六つも知っていること、普通の社会はおろか中学・高校でも全く使わない帯分数の計算ができることにどんな意味があるのか? それが高度な学習というものなのか?

100歩譲って、それが高度だとしても、普通の分数の計算のできない子たちまでもが、そうした「高度な学習」に中途半端なまま追い込まれていく可能性をメディアはどう考えるのだろう?
「ゆとり」と「学力向上」を対立概念としてではなく、並立したものとしてとらえ直す必要があるといわれる。

 そのためには、教育現場での、画一的ではない多様な対応が必要になる。

 現場の教師一人ひとりの創意工夫がいることはいうまでもないが、それにも増して彼らを支援するため、教育現場でのハード、ソフトの整備について新たな展望が示されなければならない。
と、このあたりに答えがありそうだが、ゆとりをもたせた上で学力を向上させたり、40人1学級で画一的ではないなどは夢物語である。
 近代教育だけでも100年以上の歴史があるからには教師一人ひとりの創意工夫にも限度があり、教育現場でのハード、ソフトを整備すればなんとかなるというのも虚妄である。

 
歯止め規定を外したところで高度な学習が行われる可能性もほとんどない。
それが可能なのは小中高一貫教育を行う私立学校だけで、例えば、一度5年生に上げられた学習内容を4年生に戻すには、6年生の内容を5年に下ろし、中学校に送られた内容を小学校に戻すといった総合的な改変は、普通の学校にはできない。


 もう一度話を原点に戻そう。
 そもそも何故ゆとり教育が必要だったのかだ。

 それは理解が遅く勉強の苦手な子ども達を過剰な学習から救おうというものではなく(そんな子は、最初から学習過剰ではなかった)、
超エリートと呼ばれていい子どもたちをくだらない受験勉強から解放し、本来の能力を伸ばすための猶予を与えることだった。

 そして「学校」という、画一性が売り物の組織からできるだけ遠ざけ、優秀な子どもの優秀な家庭の教育に任せようとする、それが個性教育である。
 その意味でゆとり教育=個性教育の意味は薄れていない。

 叩かれるべきは文部科学省でも学校でもない。
 わが子の優秀さに気づかず、そうした子を育てる社会的意義の自覚もなく、行うべき教育を確実に行っていない超エリートの親なのである。







2003.10.24

 久留米の”中高生ホステス”補導事件 
「これって罪?」 少女ら24人反省の色なし


[西日本新聞 10月23日]



 「おやじと会話しただけ。体は売ってない。それって罪じゃないでしょ?」―。福岡県久留米市内のスナック計二十軒で、未明までホステスとして働いていた中高生ら十七―十五歳の少女二十三人と少年一人が、同県警少年課と筑後地区四署の合同捜査本部に補導された。気軽に夜の街で働いた動機は、着飾って福岡市・天神に遊びに行くための「小遣い銭稼ぎ」。アルバイト感覚の少女たちに罪悪感は薄く、「過ちを繰り返さない保証はどこにもない」と捜査員を嘆かせている。 (八女筑後支局・阿比留北斗)

 ■「援交とは違う」

 「ファストフード店でバイトするのと同じ」「私たち、援助交際やってる子たちとは違うよ」

 取り調べを担当した捜査員は、そう繰り返す少女らの姿にあきれかえったという。あどけない表情と開き直ったような答え。捜査員は「非行という認識は全く感じられない」と口をそろえる。

 補導された少女の半数は、久留米市近郊の市や町村に住む高校生。佐賀県から出かけてきていた者も数人いた。

 今年春ごろ、西鉄久留米駅などで店の関係者に勧誘され、働き始めたのがきっかけ。「楽に稼げるよ」と友人を誘うなどして、次第に輪が広がったという。

 ■出勤は週末の夜

 スナックでの勤務は、週末の午後九時ごろから午前三―四時まで。男性客に酒を出したり、会話の相手をしたりする接客業務が主な仕事で、帰りは始発電車やタクシーを利用した。日給は一万円以上になり、少女らはその稼ぎを手に、翌週末に天神へ遊びに行く―。そんな生活パターンが繰り返された。

 中には三カ月で約七十万円を稼いだ少女もいた。多くは洋服や化粧品などの買い物に費やしていたが、「福岡市のホストクラブに行きたい」と、出勤に精を出す少女もいたという。

 捜査本部によると、親たちの反応は「友だちの家に(泊まりに)行っていたとばかり思っていた」というのが大半で、ホステス稼業については全く気付いていなかった。店の経営者らは「子どもなのでバイト代は安くて済み、逆に客の受けはよかった」と話し、少女らを目当てに頻繁に足を運ぶ客も。高校生と知りながら閉店後にホテルに誘う客もいたという。

 ■うわさが端緒に

 大量補導に至る端緒となったのは、ある山村でささやかれていたうわさ話だった。

 「あの子は最近、けばい(派手な)化粧しとる」「朝帰りしよるのを見た」

 歓楽街を抱える久留米市を取り囲むように、黒木、筑後、大川、城島各署がうわさのネットワークを追い、少女たちを働かせていた店をあぶりだしていった。

 「今回、少女たちが売春や覚せい剤に手を染めなかったのは幸いだった」と捜査幹部。一方で「『私、体を汚すことなんて絶対しないもん』と話す高校生もいて、その根拠のない自信が気がかりでならない」と話している。


親たちの反応は「友だちの家に(泊まりに)行っていたとばかり思っていた」というのが大半で、ホステス稼業については全く気付いていなかった。

「あの子は最近、けばい(派手な)化粧しとる」「朝帰りしよるのを見た」


この差は何だろう?

親の道徳観も子の道徳観も狂っている。







2003.10.25

生徒の首へ模造刀、中学教諭が「礼儀教える」と…大阪

[読売新聞 10月24日]



 大阪市住吉区の市立中学校で今年4月、2年生を担任する男性教諭(54)がホームルーム中に、模造の日本刀を持ち出して男子生徒の首に切りつけるしぐさをしていたことが23日、わかった。

 この教諭は「生徒に礼儀作法を徹底するための小道具として使った」と釈明したが、学校側は「模造刀とはいえ、人を切るための武器を使った行為は、子供たちに悪影響を与える」として、この教諭に厳しく注意した。

 学校側の説明によると、教諭は4月1日付で同校に赴任。生徒との初顔合わせとなる同月9日午前8時50分からのホームルームで、お辞儀の仕方を教えようと、男子生徒1人を前に呼び出した。

 教諭は「お辞儀で頭を深々と下げるのは、首をゆだねるぐらいの気持ちを相手に見せるということだ」などと話し、模造の日本刀(全長約1メートル)を持ち出してさやから出し、頭を下げた男子生徒の首に刀を振り下ろす動作を約40人の前で見せた。

 教諭は、模造刀であることは生徒たちに説明していたが、鉄製で真剣のように見えるものだったという。

 2日後に、PTA役員が「担任教諭が教室で日本刀を振り回しているとの話がある」と、学校側に連絡したことから発覚した。

 学校側が事情を聞いたところ、教諭は「日本の心を教えたかったが、行き過ぎがあった」とし、生徒には「礼儀作法を伝えたかっただけだった」などと改めて説明し、謝罪した。

 教諭は武道に興味があり、趣味で模造刀を所持。赴任後、学校に持ち込み、この問題の発覚後は自宅に持ち帰ったという。

 校長は「子供たちは、模造刀を見ただけでも動揺する。教育上の配慮に欠けた行為で、今後、決してこういったことがないようにしたい」と話している。

 学校側から連絡を受けた市教委は「教育現場に持ち込むようなものではなく、指導方法も威圧的」として、校長に教諭を注意するよう指示したが、生徒たちにけがや不登校などの影響がなかったことから、懲戒処分は見送ったという。

「お辞儀で頭を深々と下げるのは、首をゆだねるぐらいの気持ちを相手に見せるということだ」

 
いい先生じゃないか・・・そう思ってはいけないらしい。