キース・アウト
(キースの逸脱)

2003年11月

by   キース・T・沢木

サルは木から落ちてもサルだが、選挙に落ちた議員は議員ではない。
政治的な理想や政治的野心を持つ者は、したがってどのような手段を使っても当選しておかなければならない。
落ちてしまえば、理想も何もあったものではない。

ニュースは商品である。
どんなすばらしい思想や理念も、人々の目に届かなければ何の意味もない。
ましてメディアが大衆に受け入れられない情報を流し続ければ、伝達の手段そのものを失ってしまう。

かくして商店が人々の喜ぶものだけを店先に並べるように、 メディアはさまざまな商品を並べ始めた。
甘いもの・優しいもの・受け入れやすいもの本物そっくりのまがい物のダイヤ
人々の妬みや個人的な怒りを一身に集めてくれる生贄
そこに問題が生まれれば、今度はそれをまた売ればいいだけのことだ。













  


2003.11.07

校長室乱入し校長らに暴行、生徒3人を逮捕…千葉・柏

[読売新聞 11月7日]


 千葉県警柏署は7日、同県松戸市と柏市の市立中学3年男子生徒2人(14、15歳)と2年男子生徒1人(14)を暴行と傷害の現行犯で逮捕、松戸市の市立中学1年男子生徒(13)を補導した。

 調べでは、4人は同日午前11時35分ごろ、柏市内の市立中学校の校長室に乱入し、男性校長(53)の胸ぐらをつかむなどした上、間に入って止めようとした男性教諭(49)の顔を数回殴り、軽いけがを負わせた。この際、室内の水槽や、校長室と職員室との間にあるドアの窓ガラスが割れた。

 4人は遊び仲間で、このうち2人は同中の生徒。調べに対し、同中3年の男子生徒は「交際している少女の親に自分の悪口を言うなど、日ごろから校長の態度に不満があった」と供述しているという。

「校長」も舐められたものである。

しかし、マスコミに言わせれば「子どもは経験から学ぶもの」である。

校長には気の毒だが、子どもたちは「良い経験」をしたのだからそれでいいじゃないか
そんなふうに、自己の言葉に責任を持つマスメディアなら言うだろう。
 





2003.11.08

校長宅に火炎瓶投げる、中学生3人逮捕・1人補導

[読売新聞 11月8日]

 7日午後9時50分ごろ、香川県丸亀市川西町北、市立南中校長香川隆博さん(52)方の門扉付近で炎が上がり、若い男数人が逃げたのを通行人が見つけ、丸亀署に通報した。

 タイル張りの壁に60センチ四方で焦げ跡があり、路上に瓶の破片が散らばっており、同署は緊急配備したところ、約25分後、近くにいた中学男子生徒4人が火炎瓶を投げたことを認めたため、2年生の3人(いずれも14歳)を火炎瓶処罰法違反と建造物損壊の疑いで逮捕し、1年生(12)を補導した。

 調べに対し、4人は「火炎瓶を作ったので、燃え上がるかどうか試したかった」などと供述しているという。


これも校長の受難。

ただし必ずしも悪いこととは言えないだろう。
私はかつてある書籍の中に次のような文章を見つけたことがある。

(酒鬼薔薇聖斗について)私はここに文学や芸術の発生の可能性をみるけれども、彼が不幸だったのは、たとえば 『ただれる脳』という赤い紙粘土にカッターの刃やホチキスの針をいくつも突き刺した作品を図工の授業でつくったとき、教師から気味悪がられ、常軌を逸しているという理由から『つくるな』と言われたことだ。
 一つの純粋なオブジェとして受けとめ、シュールレアリスムの幼い萌芽としてなぜ迎えてやれなかったのかと思う。
 教師は事情聴取で「つくるなと言ったのに、何度も同じものをつくって来た」と話しているが、これはあらゆるものから自由でなければならない表現活動への冒涜である。個性への侵犯である


 そうした発想からすれば、火炎瓶を校長宅に投げ込むなど大したことはない。
「校長宅」という準身内の家に投げ込んだのはむしろ配慮ある行動だったと言ってもいい。

 エジソンは火災で郵便貨車一両を無駄にし、ジェームズ・ワットも蓋を押さえたヤカンを爆発させるという危険を冒した。大人のフランクリンでさえ、雷雨の中で凧をあげるという愚挙に出たが、すべて科学の礎となった。

 火炎瓶を製作し校長宅に投げ込んだこの子たちの行為を、なぜマスコミが同じ文脈で賞賛しないのか、私には分からない。もちろん私は、これを悪いことだと考え、指導の対象だと思っているが。







2003.11.20

女児飛び降りで教諭停職 「しかって苦痛与えた」

[共同通信 11月19日]


 千葉県教育委員会は19日、担任していた小学5年の女児(10)を強くしかり、校舎から飛び降りる結果を招いたとして、千葉県市原市の市立小学校の男性教諭(50)を停職6カ月の懲戒処分にした。教諭は同日付で依願退職した。
 この問題では、女児と母親が市原市に300万円の損害賠償を求める訴訟を起こしている。
 県教委によると、教諭は5月1日と2日の2回、女児の提出物が遅れたとして教室内で立たせたまま大声でしかったり、机をけったりした。女児は休み明けの6日朝、3階のトイレの窓から飛び降り、右足骨折などで3カ月の重傷を負った。
 県教委は「威圧的な態度で精神的な苦痛を与え、重大な結果を引き起こした」としている。
 教諭は以前にも体罰などで注意処分を受けていたという。


この記事に対するコメントは難しい。
ことが忘れ物を繰り返す子どもに、どう対処したらよいのかという問題に関るからだ。

世間は「忘れ物」に対しても教師が何らかの秘策を持っていると考えるかもしれないが、実際のところ決定的な方法は誰も知らない。
「忘れ物一覧表」といった方法が「継続的に子どもを傷つける」といった理由から排除されてからは、叱責くらいしか方法が残っていない。

教室内で立たせたまま大声でしかったり、机をけったりした。

確かに机を蹴る教師が一般的とも思わないが、子ども本人を蹴らなかったという意味では、むしろ抑制が効いていたと言ってもいい。しかしそれにも関わらず、子どもが3階から飛び降りるかもしれないとなると、私たちは何もできなくなる。

もう
教室内で立たせたまま大声でしかったり、机をけったりしてはいけないのだ。

だが待て、これはホントだろうか?
当該の女児はほんとうにこれだけの理由で3階から飛び降りたのだろうか?

教諭は以前にも体罰などで注意処分を受けていたという。
私にはこのあたりにヒントのある特殊な事件だったのではないかと考える。

しかしありとあらゆるストレスから子どもを守りたい人々は、この記事から「決して子どもを叱ってはいけない」という事実を学べと私たちに迫っているのだ。








2003.11.24

生活指導で中2に職場体験 授業離れスーパーで3日間

[共同通信 11月23日]


 愛知県知多郡の中学校が、問題行動のある2年生の女子生徒(13)に、生活指導としてスーパーでの「職場体験」を紹介し、生徒が授業が行われている平日にスーパーで3日間働いていたことが23日、分かった。
 同校は、昨年度も問題行動があった2年生と3年生の男子生徒2人に職場体験を紹介し、2人は約2週間、廃棄物処理施設でゴミの分別作業などをしたという。
 校長は「女子生徒と母親の意向を受けて紹介した。強制はしていないが、適切な判断ではなかった」と話しており、今後は学校内で指導するとしている。
 同校によると、女子生徒は登校しても授業を受けないなどの問題があった。校長が10月末、生徒、母親と学校で相談し、約2週間、近くのスーパーで職場体験をすることが決まった。生徒は今月11日から3日間働いたが、「学校へ行きたい」と希望し、14日以降は登校しているという。


 なんとも遣り切れない記事である

 本人と保護者が希望し、学校が仲介した、しかしそれが適切な判断ではなかったとは。

 日ごろは「体験的な学習」をもてはやすマスコミも、道徳や生徒指導においてはそうでないらしい。
 
 しかしなぜこの指導ではいけないのか。
 学校にまともに来ようしない生徒に実社会を体験させ、そこで触れ合う大人たちの話を聞きながら現在の自分を振り返る。これに勝る教育がどこにあるというのか?

 たしかに記事のどこにも非難めいた言葉はない。しかしこうしたことが記事なる以上、同じ行動に出るということは校長の愚挙になりかねない。

 無念である。
 







2003.11.28

交際女性に通知表渡す 教諭「良い子」と書き込み

[共同通信 11月27日]


 横浜市教育委員会は27日、通知表を私的に使い、交際していた女性に「あなたはとても良い子です」との内容を書いて渡したとして、横浜市旭区の市立小学校に勤務する男性教諭(46)を停職3カ月の懲戒処分にした。
 市教委などによると、教諭は7月下旬、当時交際していた女性の気を引こうと、通知表の用紙に書き込みをし、女性に直接手渡したほか、勤務中に職場のパソコンから約10回、女性に電子メールを送ったという。
 10月下旬、通知表を見つけた女性の家族から、教諭が勤める小学校に連絡があり、発覚した。
 教諭は「教師としてあるまじきことをしてしまった」と話しているという。


 なんともお茶目な46歳がいたものだ。相手の女性が何歳ほどでどういった関係にあったか、知りたくもなる。

 
どうせ紙くずになるしかないあまった通知票、こんな粋な使い方もいいじゃないかといったおおらかさは微塵もない。

 
勤務中に職場のパソコンから約10回、女性に電子メールを送ったというのも、だったら自分の携帯からのメールだったら良かったのかと言いたくなるが、それもやめておこう。勤務時間内に職務以外のことをすれば停職になる時代になったのだ。私用電話などかけることはもちろん、受けることも難しい。

 私はしばしば、授業の流れを断ち切ってまったく関係のない話をしたりくだらないジョークを言ったりしてきた。そうやって生徒の気持ちを掻き立て、自分自身も気持ちを切り替えてきたつもりだった。しかしそれだって今や危うい。
 つまらないことを口にしてマスコミに知れ、
「教師としてあるまじきことをしてしまった」
 そう言って頭を下げる自分自身の姿が目に浮かぶようだ。

 教師諸君! お茶目な言動、厳に慎むべし!

後にこの記事とコメントに対して、
当該の男性教諭の行ったことは報道されたような軽微なものではなくさまざまな問題を含んでいる。発表されたものはその中でもっとも軽いものであり、したがって『お茶目』といった表現も不適切ではないか
といったご指摘をいただいた。
事実がその通りであれば(多分その通りだろう)軽々の誹りは免れない。

しかしこの記事を読んだ教員の感じ方はまったくコメントの通りで、この記事の果たした社会的な役割はまさにそういったものだった。

横浜市教委や共同通信社は教員の意欲を挫くためにこうした発表をし、報道をしたのではないだろう。しかしこの程度の些細なこと(通知表の悪戯と10回の電子メール)でも停職にするぞ、というメッセージは確実に伝わった。教委・通信社の双方(あるいはどちらか一方)の意図はそうしたメッセージを送ることにあったはずだ。

それを忘れないためにも、この記事とコメントはこのまま残しておく。(12/06)


























2003.11.29

<不登校>校長らが女生徒宅に80万円 埼玉の中学校

[毎日新聞 11月28日]


 埼玉県岩槻市立川通中学校で昨年12月、当時2年生だった不登校の女子生徒(14)の母親(41)を菅野俊一校長と担任教諭が訪ね、現金80万円を渡していたことが27日、分かった。母親は不登校の原因が担任にあると主張し、学校側に公の場での謝罪と賠償金などを求めていた。菅野校長は同日夜、臨時保護者会で「指導に不適切な点があった」と謝罪した。現金は母親が翌月、全額を返した。

 校長によると、生徒は小児神経症のため年間20日程度、校内の「相談室」に登校していたが、昨年10月から登校しなくなった。同級生に相談室まで給食を運んでもらっていた生徒に担任の女性教諭が「お客さん気取りでいいの? 教室に取りにきなさい」などと言ったという。

 母親は、菅野校長に看病のため会社を解雇された損害賠償金30万円、担任に通院費など40万円を求める内容証明を送付。その後、校長らが現金を持ってきた。菅野校長は現金は担任が用意し、自分のポケットマネーで補てんしたと説明している。


よほどのことがない限り、普通の親はいきなり損害賠償を求める内容証明を送りつけてきたりはしない。またよほどの金持ちでない限り、人はトラブルを避けるためにいきなり現金80万円を包んで渡したりはしない。そして言うまでもなく、教員は「よほどの金持ち」ではない。

現金が動くまでにはさまざまな経緯があったはずである。その中で保護者は損害賠償を請求するに十分な根拠があると考えた。
また学校側にも、70万円請求されても仕方がないと判断されるだけの理由があったか、あるいはとにかく金で済ませてくれるならそれで結構と考えるだけの事実があったはずである。

そういった一切に触れていないのは、記者の取材の甘さを示すものであろう。

記事を見ると
「お客さん気取りでいいの? 教室に取りにきなさい」
と言ったその一言が不登校の原因であり、その言葉尻を取られて70万円が請求されたことになる。

しかしその程度のこと、大量の会話の流れの中では口にすることもあるはずだろう。
言葉の受け取られ方一つで常に数十万円の損害賠償請求がなされる。そういうことになれば、私たちは怖くてものを語れなくなる。

さてところで、これほど危うい小児神経症の子が、なぜ学校に来ていたのだろう、それが分からない。
私には理解できない。
保護者や医師はたった一言で病む危険性のある子を、なぜ学校に放り出しておいたのだろうか?








2003.11.30

「島根県の教育」答申/学校、家庭、地域が問われる

[山陰中央新報 11月30日]


 「生きる喜び、学ぶ楽しさを通して、一人ひとりの可能性を開花させ、社会の一員として自立して生きていくことができる子どもを学校、家庭、地域が連携してはぐくむ」−二十八日に答申された今後十年間を見通した「島根県教育の在り方」の中で示されている基本理念である。

 「生きる喜び」や「学ぶ楽しさ」を、現代の子どもたちはどれくらい持っているのか。残念なことだが、多くの子どもたちはそれを欠落させているのではないか。

 全国的に見れば、家庭や地域は子どもたちを教育する力を失い、学級崩壊やいじめ、学力低下など学校も危機的な状況にある。少子高齢化、情報化、国際化など社会も激しく変化している。もちろん島根も例外ではない。

 そんな状況の中で「子どもたちの生きる力はどうしたらはぐくめるのか」をまとめたのが島根県総合教育審議会の答申だ。島根の今後十年間の教育にかける強い意気込みが伝わってくる。

 教育の危機的な状況を克服するため、答申では「もはや学校のみで子どもたちにかかわるすべてのことを行うことは不可能」と、学校、家庭、地域の役割と連携を打ち出した。

 基礎基本の定着など確かな学力を身につけさせることと、安心して学べる安全な環境づくりを学校の役割とした。家庭の役割は子どもたちの心身の健康をはぐくむことと、生活習慣や善悪の判断など規範意識の基盤をつくること。地域社会は子どもたちに多様な体験の場を提供するのがその役割だ。

 三者の連携を深めるために、学校から地域社会への積極的な情報公開、学校から家庭への意識的、継続的な問題解決の働きかけなどが挙げられている。

 学校、家庭、地域の三者の連携の重要性はこれまでも指摘されてきた。それが答申の柱として盛り込まれたことで、今後より緊密な連携を図っていくことが求められることになる。

 家庭の変革にはまず子育てへの父親の積極的な参加が必要だ。学校は地域への具体的な要望を明らかにしなければならないし、地域は何ができ何ができないかを学校に伝えることが重要になってくる。学校と地域の中間に立つつなぎ役も大切だ。

 答申で指摘されているこうした連携を実現するためには、大きな意識改革が必要になる。少なくとも、教育のほとんどすべてを学校に丸投げしてきたこれまでの家庭、地域の消極的な在り方では、答申の実現は困難だ。

 学校を加えた三者が答申を前向きに受け止め、積極的に変わらなければならない。それぞれの役割を自覚して連携を強化することで、より良い教育の実現が可能になってくる。教育への積極的な取り組みは、地域社会を変革する力も秘めている。

 答申の基本理念に基づいた二つの基本目標は「心身の健康を支え、生き生きと主体的に生きるための意欲が育つ教育」「社会の中で支え合い、ともに生きるための力が育つ教育」である。

 県教委は答申を基に教育振興ビジョンをまとめ、広報紙などを通じて広く県民にPRする。今後、目標達成のための有効な施策をどう展開するかが課題となる。学校、家庭、地域は目標実現のためにどう変わっていくのか、教育にかける熱意が問われる。
 
一応フムフムと聞いていられる話ではある。
 教育の危機的な状況を克服するため、答申では「もはや学校のみで子どもたちにかかわるすべてのことを行うことは不可能」と、学校、家庭、地域の役割と連携を打ち出した。
なるほどごもっとも。

しかし
三者の連携を深めるために、学校から地域社会への積極的な情報公開、学校から家庭への意識的、継続的な問題解決の働きかけなどが挙げられている。
となると、なんだやっぱり学校がやるんじゃないかといっぺんにしらけた気分になる。

学校は地域への具体的な要望を明らかにしなければならないし、地域は何ができ何ができないかを学校に伝えることが重要になってくる。
と、ここでも主体は学校。

これで
教育のほとんどすべてを学校に丸投げしてきたこれまでの家庭、地域の消極的な在り方では、答申の実現は困難だ。
とは恐れ入る。

そこまで書きながら、
 
学校を加えた三者が答申を前向きに受け止め、積極的に変わらなければならない。
と言われると本当に釈然としない。
加えられたのは 学校だったのだろうか?